33.富士信仰に関わる石造物(後編)
・富士講の成立
基礎は藤原角行(長谷川左近)が作ったとされる。角行は富士山西麓の穴に住み、八海で水行するなどの苦行を続けたという。1620年、江戸で奇病が流行った際に江戸に赴いて「おふせぎ」という呪符を授け、多くの病人を救ったことで富士山への信仰が高まったとされる。基本的な教義は万物の根源を富士の仙元大日如来に求め、これを信仰すれば天下泰平、無病息災がかなえられるという、修験道の呪術的発想に基くものであった。
さらに商人だった食行身禄は仙元大菩薩を豊作の神、万物の祖神とし、これを信仰して各々の生業に励めば幸福が得られると説いた。1733年、江戸で初の打ちこわしが起こると「食は元なり」との観点から食行と名乗った身禄は幕府の米買い占めを批判し、四民平等の世の到来と世直しのために「生き仏」(弥勒)となることを決意、富士山7合目半の烏帽子岩の穴に籠り、31日の断食行の後、7月に即身仏となったという。これを契機に江戸を中心に富士講が発展。幕府の禁令にも関わらず庚申の年には女性も二合目までの登山を許すなどの工夫によって民衆の支持を急速に獲得していった。
富士講は先達、講元、世話人の三役によって運営された。先達は富士登山7回以上の行者で俗人であるが信仰の指導者でもあった。講元は先達の右腕として会計を主に担当し、世話人は複数いて講員への連絡や講金の徴収などにあたった。
講はほぼ5年を一期として運営され、講員の五分の一ずつが毎年登山したという。山麓の富士宮市、静岡市、富士吉田市、笛吹市、富士河口湖町などの浅間神社には神職である御師の宿坊があり、各講はおのおの決まった宿坊を毎年利用した。御師は一方で布教を兼ねて地方の富士講とのつながりを維持するため、毎年村々を巡回した。
新規の宗教を認めない幕府は1775年以来、度々富士講禁止の御触れを出している。1795年、1802年、1814年、1842年、1849年と立て続けに禁令を出したが富士講の数は増える一方で、幕末、江戸では100近い講があったという。
船橋市内でも18の講が確認されている。1849年の寺社奉行から出された触れ書きには「富士信仰の先達と称して勝手な講釈をいたし、俗人の身分で行衣を着て病人に護符を出したり加持祈祷で人集めをしたり、愚かなことであるから見聞した者は届け出ること。今般、奉行所において富士浅間講の御師や講中の主だった者を取り調べたところ、その祖と尊信する食行身禄と申す者は神道でも仏教でもなく、ただ異様なことを唱えているだけである。今後、このような行為は禁止する」とある。
船橋市内では56基の富士講供養塔が確認されており、江戸期と推定される塔は25基。どうやら禁令は内房の村々ではほとんど無視されていたようである。
市原市内では立野(前掲論文)によると供養塔に限らなければ石造物40基余りが江戸期に属する。※参考文献:「船橋の歴史散歩」宮原武夫編著 崙書房 2011
・「参明藤開山」碑について
月行が1688年(元禄元年)、83度目の富士山登拝の際、富士山の神から「大神宮から仙元大菩薩へ世界が渡されて身禄の世となった」こと及び「参」の字を与えるというお告げがあったという。月行は以来、「明藤開山」とされていた富士山の名号を「参明藤開山」とした。「参」は大谷(「角行系富士信仰」磐田書院 2011)によると「世界の秘密がこの一文字に託されている」という。
まず月行は「ちゝ」と「はゝ」という二人の神が泥の海から世界と生物とその食料としての穀物を生みだしたとする。彼によるとこの世界創世から六千年して世界は「大神宮」なるものに預けられた。それから釈迦如来というものが現れて修行し、富士山の山頂に「一字の大事」を伏せたという。この一字が「参」という字である。従って「参明藤開山」という名号は月行にとって彼が身禄の世のお告げを受けたことを意味する重大なメッセージが込められた名号なのだと考えられるらしい。
月行の弟子食行はさらに「この身禄の世は仙元大菩薩という神が天皇や将軍に知恵を授けることで運営されている」と説いたという。しかし一方で生類憐みの令や享保の改革などの現実の政治に食行はひどく嫌気がさしてもいた。そこで彼は富士山で死ぬことで神の使いとなってこの世を正そうとしたと大谷は推理している(前掲書p.59~60)。食行身禄に住む場所を提供していた駒込の小泉文六郎(武士身分で「仙行一我」という名で富士講の先達になったという)の弟子に日行八我(?~1786)がいる。彼は江戸、房総、川崎、横浜といった海沿いにある富士講の開祖となっている。八我の師小泉及び食行の死を看取った田辺十郎右衛門が富士講の基礎を作ったと大谷は指摘している(前掲書p.74~75)。
青柳浅間神社に日行八我の供養塔があることから、彼がこの地を中心に活動していた時期があったことが伺われる。以後、「~行~我」という名が青柳周辺の富士塚上の石造物に頻繁に登場する点からも、日行八我の影響力の大きさが伺えよう。彼を祖とする講がおそらく「一山講」である。一山講の講印は千種から姉崎にかけて数多く見られる。しかしやがて寛政年間、江戸から来た山包(やまつつみ)元祖禅行によって五井を中心に山包講が成立すると、先行していた一山講にとってかわり、物資流通の要五井を押さえた山包講が市原の最大勢力となっていったのではないかと推測される。
今津朝山春日神社富士塚