43.市内における江戸期の石灯籠一覧

概して古い石灯籠は曲線が少なく、重厚感が漂う。

 

市内における江戸期の石灯籠一覧(古い順 カッパ作成)

所在地・寺社名

元号

西暦年号

特記事項

八幡飯香岡八幡

承応4年

1655

 

草刈行光寺

寛文5年

1665

 

原田諏訪神社

寛文10年

1670

 

荻作神社

元禄4年

1691

 

八幡飯香岡八幡

元禄5年

1692

 

郡本八幡

宝永2年

1705

断片

金剛地熊野神社

享保17年

1732

 

中高根常住寺

元文元年

1736

 

姉碕神社

元文5年

1740

石工 江戸八丁堀の和泉屋久兵衛

上高根墓地

延享元年

1744

伊藤吏仙墓前

中高根鶴峰八幡

宝暦7年

1757

断片

今富円満院

宝暦9年

1759

 

八幡観音町稲荷

宝暦12年

1762

 

高滝神社

安永4年

1775

石工 江戸浅草の中村佐兵衛

折津八坂神社

天明6年

1786

 

青柳浅間神社

同上

同上

浅間塚上

藪八幡

寛政元年

1789

 

牛久丸山神社

寛政6年

1794

 

権現堂八坂神社

寛政8年

1796

 

村上諏訪神社

文化元年

1804

下の段左

姉崎長遠寺

同上

同上

 

今富八幡

同上

同上

竿石以下が現存「常夜燈」

高滝神社

文化2年

1805

石工 久留里の栄次郎

石塚白鳥神社

同上

同上

奥左

村上諏訪神社

文化3年

1806

上の段左

立野大国主神社

同上

同上

大和田三島神社

同上

同上

 

村上諏訪神社

文化4年

1807

下の段右 石工 八郎衛門

姉碕神社

文化6年

1809

 

高滝神社

同上

同上

石工 大多喜の永松屋銀左衛門

川岸富貴稲荷

文化7年

1810

 

平野大山祇神社

文化8年

1811

 

松崎春日神社

文化9年

1812

石工 川岸の関佐七

大坪諏訪神社

同上

同上

浅間塚内 石工 川岸の関佐七

不入訶具都智神社

同上

同上

石工 川岸の関佐七

川崎富貴稲荷

同上

同上

石工 川岸の関佐七

久保八坂神社

文化10年

1813

 

野毛法和泉寺

文化11年

1814

 

能満日枝神社

文化12年

1815

左 石工 八幡の安藤佐平治

久保八坂神社

文化13年

1816

 

能満日吉神社

文化15年

1818

出津八雲神社

文政元年

1818

 

不入熊野神社

同上

同上

 

上高根熊野神社

文政2年

1819

 

不入斗小鷹神社

同上

同上

 

石塚白鳥神社

同上

同上

手前

五井善養院

文政3年

1820

 

高滝神社

文政4年

1821

石工 姉崎の大嶋久兵衛

立野大国主神社

文政6年

1823

立野大国主神社

文政7年

1824

平蔵熊野神社

同上

同上

石工 牛久の茂七

磯ヶ谷八幡

文政8年

1825

畑木神社

文政9年

1826

 

川岸富貴稲荷

文政10年

1827

 

瀬又八幡

同上

同上

 

磯ヶ谷八幡

同上

同上

大久保浅間神社

文政11年

1828

 

片又木十二社神社

文政12年

1829

 

土宇玉前神社

同上

同上

 

佐是八幡

同上

同上

 

折津芋原熊野神社

同上

同上

 

村上諏訪神社

文政13年

1830

上段右 石工 川岸の根本甚太郎

草刈行光寺

同上

同上

 

国本浅間神社

同上

同上

 

廿五里宇佐八幡

天保7年

1836

 

根田神社

天保8年

1837

 

五井若宮八幡

弘化4年

1847

 

松ヶ島養老神社

嘉永元年

1848

 

青柳若宮八幡

嘉永2年

1849

 

佐是浅間神社

同上

同上

 

深城熊野神社

嘉永3年

1850

石工 林村の藤吉

鶴舞神社

同上

同上

 

海保神社

嘉永5年

1852

 

菅野大山祇神社

嘉永年間

 

 

古市場天神社

安政2年

1855

 

根田神社

安政4年

1857

 

山田橋養福寺

安政6年

1859

二組で四基

白塚稲荷

万延元年

1860

浅間塚上

大蔵神社

文久元年

1861

 

今津朝山鷲神社

文久2年

1862

石工 江戸鎌倉河岸の三吉・岡田五郎

飯高真高寺

文久3年

1863

 

勝間日枝神社

元治元年

1864

 

 

 合計で83件(原則二基一組で一件とするが年号が違う場合は一組でも二件と数えた)。近代以降のものも合わせればお寺、神社双方に複数、奉納されており、石造物の種類別件数では極めて多い部類に属するだろう。しかし鳥居と同様に地震等で倒壊する危険性が高く、安全性を考慮して、また寺社を装飾・荘厳する役割もあって少しでも破損すると新しいものに切り替えられてしまう可能性の高い石造物であり、古いものは残りにくい傾向がみられる。

 

幕末に近づくにつれて曲線が目立ってくる。

42.市内の江戸期における手水鉢一覧

 

 

古いものはやはり重厚感がある。

 

市内江戸期の手水鉢一覧(古い順:カッパの調査に基づく)

所在地・寺社名

元号

西暦年号

特記事項

八幡飯香岡八幡

寛文2年

1662

市内最古、県内でも2番目の古さ

菊間八幡

寛文8年

1668

 

郡本八幡

天和3年

1683

市内では極めて珍しい形態(樽型)

高滝神社拝殿脇

元禄8年

1695

 

佐是八幡

元禄12年

1699

 

中八幡(小)

元禄13年

1700

 

姉崎神社

元禄15年

1702

石工 安藤長左衛門

村上諏訪神社

正徳5年

1715

 

村上白幡神社

同上

同上

 

姉崎長遠寺

享保3年

1718

 

牛久円明院

享保7年

1722

寒念仏講中

不入斗小鷹神社

享保8年

1723

石工 下鷺長兵衛

不入斗薬王寺

享保10年

1725

 

不入斗熊野神社

同上

同上

 

引田蓮蔵院

享保15年

1730

 

西国吉国吉神社

享保16年

1731

 

青柳若宮八幡

享保19年

1734

 

島野三光院

享保20年

1735

 

畑木医王寺

元文6年

1741

 

迎田大俵

寛保元年

1741

 

海土有木八幡

寛保4年

1744

 

郡本八幡

延享元年

1744

石工 江戸八丁堀 和泉屋久兵衛

嶋穴神社

延享2年

1745

 

原田諏訪神社

同上

同上

 

磯ヶ谷八幡

延享3年

1746

 

五井川岸富貴稲荷

宝暦4年

1754

 

五井若宮八幡

宝暦6年

1756

 

石塚白鳥神社

宝暦7年

1757

 

五井大宮神社

宝暦9年

1759

 

片又木十二社神社

同上

同上

石工 木更津の高橋八郎右衛門

牛久丸山神社

安永4年

1780

石工 牛久の山内平七

上原春日神社

安永6年

1782

 

山倉圓楽寺

同上

同上

 

椎津八坂神社

安永年間

 

 

潤井戸白幡神社

寛政元年

1789

 

惣社戸隠神社

同上

同上

 

大坪福楽寺

同上

同上

 

勝間日枝神社

寛政3年

1791

 

喜多神社

同上

同上

 

姉崎神明神社

寛政7年

1795

 

野毛白幡神社

寛政8年

1796

 

出津八雲神社

寛政9年

1797

 

畑木神社

寛政11年

1799

 

犬成神社

享和元年

1801

 

瀬又八幡

同上

同上

 

奈良八幡

享和2年

1802

 

海土有木大宮神社

享和3年

1803

 

佐是大滝不動堂

文化元年

1804

 

山田橋稲荷

文化4年

1807

 

風戸日光寺

文化5年

1808

百番札所巡礼

分目雷公神社

同上

同上

二基

天羽田天照大神宮

文化6年

1809

 

君塚稲荷

文化7年

1810

石工 八幡の瓜本権八

不入訶具都知神社

同上

同上

石工 川岸の関佐七

高倉白山神社

文化8年

1811

 

高滝神社

同上

同上

石工 川岸の関佐七

馬立根元神社

文化9年

1812

石工 川岸の関佐七

松崎春日神社

文化10年

1813

石工 五井の丹波屋六兵衛

姉崎最頂寺

同上

同上

石工 姉崎の大嶋久兵衛

海保神社

文化11年

1814

 

姉崎稲荷神社

同上

同上

石工 姉崎の大嶋久兵衛

寺谷大宮神社

文化13年

1815

 

番場神社

文化14年

1816

 

平野大山祇神社

文政元年

1818

 

岩崎稲荷

文政2年

1819

石工 川岸の関佐七

立野大国主神社

同上

同上

 

古市場天神社

文政3年

1820

 

廿五里宇佐八幡

文政6年

1823

 

今富八幡

文政8年

1825

 

久々津諏訪神社

文政9年

1826

 

下野本泰寺

同上

同上

 

馬立熊野神社

文政10年

1827

 

葉木妙見神社

文政11年

1828

 

大作神社

文政12年

1829

 

廿五里若宮八幡

同上

同上

中山郡平奉納

草刈行光寺

文政13年

1830

 

石塚白鳥神社

同上

同上

石工 久留里の佐助

宿長栄寺

天保3年

1832

 

今富円満寺

天保5年

1835

 

今津朝山飯奈里

天保7年

1836

 

根田神社

天保8年

1837

 

大厩駒形神社

同上

同上

 

有木泰安寺

同上

同上

 

新堀八幡

同上

同上

市内では珍しい浮出彫り

山倉源社

同上

同上

 

権現堂八坂神社

天保9年

1838

 

浅井小向諏訪神社

同上

同上

 

下矢田八坂神社

同上

同上

 

山木白幡神社

天保10年

1834

石工 八幡の安藤佐平治

小折大宮神社

同上

同上

 

田淵熊野神社

天保12年

1836

石工 川岸の根本甚太郎

古都辺神社

同上

同上

 

下野浅間神社

天保14年

1838

 

小田部熊野神社

天保15年

1839

 

廿五里宇佐八幡

同上 

同上

 

下矢田観音堂

天保年間

 

 

五井守永寺

弘化2年

1845

 

荻作神社

同上

同上

 

能満釈蔵院

同上

同上

 

福増白山神社

同上

同上

 

江古田大宮神社

同上

同上

 

白塚稲荷

弘化4年

1847

 

町田熊野神社

嘉永元年

1848

 

不入斗小鷹神社

同上

同上

末社の疱瘡神社

皆吉墓地

同上

同上

石工 牛久の山内平八

押沼神社

嘉永3年

1850

 

西広前廣神社

嘉永6年

1853

 

牛久三島神社

同上

同上

石工 牛久の山内平八

海土有木日枝神社

安政2年

1855

 

宮原大国主神社

同上

同上

 

大戸熊野神社

安政3年

1856

石工 時深五郎

ちはら台川焼不動

安政4年

1857

 

飯沼春日神社

安政6年

1859

 

鶴舞神社

安政7年

1860

 

高田日枝神社

万延元年

1860

 

栢橋皇産霊神社

万延2年

1861

 

青柳浅間神社

万延年間

 

 

今津朝山鷲神社

文久元年

1861

 

深城熊野神社

文久2年

1862

石工 林村の藤吉

養老北崎集会所

同上

同上

 

平田大宮神社

文久3年

1863

 

姉崎稲荷

同上

同上

妙経寺近く

滝口諏訪神社

文久4年

1864

 

月崎熊野神社

同上

同上

 

大蔵神社

元治元年

1864

 

中野白山神社

同上

同上

 

椎津八坂神社

慶応元年

1865

小型

平蔵熊野神社

同上

同上

 

上高根白山神社

慶応2年

1866

 

姉碕神社浅間塚

同上

同上

 

山倉春日神社

慶応3年

1867

石工 八幡の安藤佐平治

※深城熊野神社に小さな手水鉢(文化6年=1809)を見つけたので合計133基

 

盃状穴が見られる。

 

 手水鉢は石灯籠や狛犬、鳥居などと違って安定した造りで地震などの被害を受けにくい。またお寺、神社双方に据えられているため、江戸時代の物が数多く残されている。ただし、石祠と違い、一応「一社一基」の原則があるので一つの寺社に複数ある場合でも手水鉢が10を超える事は無い。

 

 

41. 市内の狛犬一覧

 

市原の名工、川岸の根本甚太郎によるもの。

 

 神社の石造物(宮物と呼ばれていた)には石工の名前が刻まれていることが多く、石造物調査には必須の調査対象です。以後、鳥居、石灯籠、石段塔、手水鉢などもご紹介していく予定です。お楽しみに。

 

・市原市内の江戸期の狛犬一覧(カッパ調査:古い順)

所在地・寺社名

元号

西暦年号

特記事項

大厩駒形神社

元文5年

1740

 

郡本八幡

延享5年

1748

石工 江戸八丁堀和泉屋久兵衛

高滝神社

寛延元年

1748

石工 江戸の弥八

原田諏訪神社

明和3年

1766

石工 江戸八丁堀の権六

金剛地熊野神社

安永2年

1773

 

姉碕神社

文化6年

1809

石工 大嶋久兵衛・辰右衛門

不入斗小鷹神社

文政2年

1819

石工 江戸の萬吉

岩崎稲荷

文政4年

1821

 

嶋穴神社

文政8年

1825

 

畑木神社

文政10年

1827

 

石塚白鳥神社

文政13年

1830

石工 平岡の萱野犬吉

能満釈蔵院

天保2年

1831

郡本八幡から移したらしい

勝間日枝神社

同上

同上

 

川岸富貴稲荷

天保4年

1833

 

根田神社

天保8年

1837

 

深城熊野神社

同上

同上

 

寺谷大宮神社

天保12年

1841

石工 五井(川岸)の根本甚太郎

瀬又八幡

天保15年

1844

 

松崎春日神社

同上

同上

 

惣社戸隠神社

弘化4年

1847

 

青柳若宮八幡

弘化5年

1848

石工 江戸深川の源兵衛

安須日枝神社

嘉永2年

1849

 

高坂玉前神社

嘉永3年

1850

 

山倉春日神社

嘉永5年

1852

 

荻作神社

嘉永7年

1854

石工 八幡の安藤佐平治

犬成神社

同上

同上

石工 八幡の安藤佐平治

今津朝山飯奈里

安政3年

1856

 

廿五里若宮八幡

同上

同上

 

高滝青年館裏不動尊

元治元年

1864

 

海保神社

慶応2年

1866

石工 青柳の佐七

鶴舞神社

慶応3年

1867

 

計31件

※「市原の狛犬」(市教委 平成6年)によると市内の江戸期狛犬は40点+推定9点。

 

 狛犬は神社に限らず、寺院にも置かれています(府中釈蔵院)。まずは獅子像が仏教と共に中国から伝来しました。日本で最古のものは法隆寺玉虫厨子に描かれたもの。狛犬は獅子から派生したようで図像的にはそっくりです。

 平安時代になると獅子と狛犬が御所の置物として左右一対で飾られました。なお狛犬には角がありますが、おそらく伝来の過程で「仁獣」とされた麒麟と習合したのかもしれないといいます。

 江戸時代、狛犬を神社に寄進することが流行し、多くの神社に置かれることになりました。通例、お寺の山門の仁王にならって「阿吽」の一対とされます(古くは東大寺南大門の有名な仁王像の裏側にほぼ同時期、宋の石工達が造った狛犬が置かれている)。県内最古の石造狛犬は長柄飯尾寺の寛文10年(1670)、市内最古は大厩駒形神社の元文5年(1740)。

 

 なお日吉(日枝)神社は狛犬のかわりに神使の猿、稲荷神社は狐、天神社は牛、三峰神社は狼が置かれます。 

 市内で最初に狛犬を彫った石工は姉崎の大嶋久兵衛です。その出来栄えは江戸の石工に負けてたまるかといわんばかり。地方の石工の意地が感じられる秀麗な狛犬です。江戸末期には毛の長い、目の小さな狛犬が流行しましたので、見慣れてきますと一目で判別できるようになるでしょう。

左右を見比べると尾が立っている方(左)が古く、毛並みが長く伸びている方(右)が新しい。

 

右の方が明らかに毛並みが長い。

40. 市原の道標

 

 

・千葉県の道標

 「千葉県の道標」(加来利一 2011年4月改訂)より抜粋して内容をご紹介いたします。

※故金田英二氏の「房総の道標 資料」を参考にしてデータ総数2346基(内、江戸時

 代のもの1136基)から

①.市町村別基数でトップ10は…

 1 位:市原市   計171基(江戸期88基・明治以降83基)

 2 位:香取市   計169基(江戸期72基・明治以降95基)

 3 位:印西市   計164基(江戸期74基・明治以降90基)

 4 位:野田市   計152基(江戸期104基・明治以降48基)

 5 位:千葉市   計137基(江戸期62基・明治以降85基)

 6 位:成田市   計117基(江戸期73基・明治以降44基)

 7 位:八千代市  計105基(江戸期28基・明治以降77基)

 8 位:佐倉市   計91基 (江戸期27基・明治以降64基)

 9 位:木更津市  計81基 (江戸期57基・明治以降24基)

 10 位:白井市  計68基 (江戸期13基・明治以降55基)

 

 市域が広い上に様々な街道が交差し、枝分かれする市原市が1位となった。2位の香取市は香取・鹿島神宮参拝のための街道に加え、内陸部から利根川の水運の拠点である佐原に向かう街道が交差していたためであろう。印西市や野田市は利根川の水運と水戸街道や木下街道など北関東や江戸へ向かう陸上交通路の要衝だったことが主な原因と考えられる。千葉市の場合、明治以降、県都として急速に都市部が拡大していったため、明治以降の道標が比較的多い。6位の成田市は成田山新勝寺への参詣が江戸期に流行したため、多くの街道が整備されたことが大きな原因。

 八千代市、佐倉市、白井市において明治以降の道標が多いのは明治以降の開拓によって新しく道が整備されたからであろう。内房随一の港町木更津は江戸との航路が中心であったせいか、さほど道標が多くない。久留里や高蔵観音に向かう道と房総往還以外に重要な陸路が無かったせいか?

②.最古の道標

・全国では宝治元年(1247)に建てられた大阪府箕面市の勝尾寺町石(チョウイシ、チョウセキ)。県内では延宝6年(1678)の東庄町諏訪神社境内にある供養塔、2位は延宝8年(1680)の木更津市吾妻神社庚申塔。

③.塔種別

 千葉市以北では庚申塔を兼ねるものが最も多く27%を占め、次に道標(17%)、3位に巡拝塔(11%)。

 一方、市原市以南では地蔵と道標が同率(21%)で1位、次に馬頭観音が16を占める。

 

・市原市の江戸期における主な道標

 加来氏の調査では市内で確認された道標は171基にのぼり、県内最多を誇る。県内の総数は2346基で内、江戸時代のものが1136基確認されている。市内では171基中88基が江戸時代のものである。江戸期のものは庚申塔や地蔵、馬頭観音を兼ねることが多い。また「若者中」で道標が造られる事も多い。これは近代になってからも見られる傾向(青年団…)である。

 市北部で方角を示すために用いられる地名や寺社名で目立つのは地名の場合、浜野、八幡、五井、姉崎(以上は房州往還の継ぎ立て場)や牛久、高滝、大多喜、茂原、久留里、木更津、寺社名では国分寺、笠森観音、高蔵観音、千葉寺などである。

 町田茂(「市原の道標」平成24年度歴史散歩資料)氏によれば国内最古は三重県伊勢市の寛永3年(1626)。基本的に江戸初期は民衆の行動範囲が狭く、道標が建立されていない。元禄以降、物見遊山を兼ねた巡礼が流行し、道標も急増する。県内最古は東庄町の諏訪神社にある延宝6年(1678)。「此方ちやうしみち」とあり、坂東三十三番観音霊場の二十七番札所飯沼観音への道案内と考えられる。市内最古は西国吉の正徳6年(1716)。六十六部供養塔を兼ねたもので「東 かさ毛り道 三里 国吉村 壱里半 川有」「西 たかくら道 三里 川有」と記される。

 町田氏によると県内の道標は今のところ2575基確認されており、市町村別では市原市の173基が最多。道案内の中身は方角や地名、寺社名(市内では坂東三十三番観音霊場の内、二十九番千葉寺、三十番高蔵寺、三十一番笠森寺を示す道標が多い)だけでなく、西国吉の道標のように「川有」や「渡船場」など、行く手に川があることを予告するものもある(橋の無い川が多いため、旅人は川を渡るための準備が必要だった)。また「作場道」(この先は田畑)や「山道」(この先は山の中)といったように「行き止まり」を示す道標もある。

 道標は単に道案内を目的とするものと、供養塔などを兼ねたものとに大別される。前者の場合(全体の3割を占めている)、多くは四角柱の四面に方角と地名など行き先の案内が記されている。大正末から昭和初期にかけて地元の青年団がこのタイプの道標を各地で設けている。後者の場合(全体の6割以上を占めている)には庚申塔、馬頭観音、地蔵を兼ねるものが多い。市内では特に馬頭観音の道標が目立っている。

 珍しいものとしては子どもの戒名を記した引田の六地蔵の道標(明和7年=1770)がある。それには「江戸みち ちばでらみち」以外に「~童子」という複数の子どもの戒名が刻まれている。幼くして亡くなり、中々成仏しがたい子どもたちに道案内の功徳を積ませて成仏させようとの計らいによるものであろう。なおこの道標には二両一分を要したことも記されている。

 

市内の道標に出てくる地名一覧(カッパ確認の65基)

 

 江戸が上位なのは当然として、政治や経済の面で重要度の高かった牛久、姉崎、久留里、八幡といった地名の存在感が江戸時代の市原に住む人々や市原を通る旅人にとっていかに大きかったかが分かる。また千葉寺、笠森観音、高蔵観音、清水寺、鹿野山神野寺といった坂東三十三箇所の観音霊場や国分寺は寺院参詣者、巡礼者の多い時代、道標として欠かせぬ名であったろう。同様に武士は建市神社、能満は釈蔵院や日枝神社、笠上は笠上観音、加茂は高滝神社(江戸期は加茂大明神と呼ばれていた)、小湊や清澄は誕生寺と清澄寺への案内が大きな役割であったに違いない。

 内房の枢要な港町であった浜野、木更津もそれなりの存在感を持っていたようである。もちろん「久留里」は久留里街道が走る市原において頻出の地名となるのは当然であるが、内陸部の大多喜、茂原、加茂、真里谷、久留里、長南などは方角が分かりにくく道に迷いやすい山間部においていずれも方向を示す重要な目安だったはず。

 一の宮、清水などは外房に出るための目安にもなったであろう。概して市南部の道標は地名が方角ごとに複数挙げられていて北部のものと比べ道案内としての記述がより丁寧な印象を受ける。見通しの悪い山間部ではこうした道標が道行く人をさぞ安心させたことだろう。

 カッパの実地調査はまだ65基にとどまるが、意外なことに江戸時代後半には市原郡内最大の人口を擁していた五井の登場回数がやや少ない印象を受ける。確かに海上や河川交通なら五井の占める地位は高いが、陸上交通となると五井は数ある継場の一つに過ぎず、巡礼者にとっても通過点の一つに過ぎなかった(そもそも船に乗る人にとって陸上の道標は意味をなさない)のだろう。街道を歩く旅人にとって五井は多くの場合、到達目標とはなりえず、方角を示す数あるポイントの一つでしかなかったようである。

※なお松浦清氏はやはり「行き先別」で道標の数を整理している(「南総郷土文化研

 究誌 第16号」南総郷土史文化研究会 平成20年所収「市原市の道標を調べる」よ

 り)。彼のデータを江戸時代の道標に限定して多い順に整理すると以下のようにな

 る。

笠森(27) 江戸(22) 牛久(22) 高蔵と久留里(18) 木更津(16)

八幡と姉崎(13) 加茂(11) 千葉と国分寺(10) 清澄(8) 大多喜と長南(7) 鹿野山(6) 一の宮(5) 茂原と五井(5) 武士(3)・・・

 松浦氏が把握している道標の総数は鎗田をかなり上回っており、より信頼性が高いデータである。ただし五井の出現頻度が鎗田は「6」としているのに対して松浦氏は「5」としていることなどから鎗田のデータがひどく市の北部に偏っているのに対して松浦氏のデータは市の全域に及んではいるもののやや南部に比重を置く偏りが見られるようである。

 とはいえ全体的な傾向に関しては松浦氏の指摘と鎗田の捉えたものとはほとんど差が無いとみなしてよいだろう。

 

39. 市原の石造物に登場する石工達 

 

市原の石造物に登場する石工達とその作品一覧

※「市原の狛犬」(市原市教育委員会:平成6年)のデータをもとにカッパが手を加えた。

時 期

市 内

市外あるいは不明

寛文年間

 

茂左衛門(?)

 菊間八幡神社手水鉢(寛文8年1668)

元禄年間

今津の八郎兵衛

 海保遍照院大日如来(元禄7年1694)

 

 

浅草の惣兵衛

 松ヶ島墓地宝篋印塔(元禄10年1697)

安藤長左衛門(江戸か木更津あたり?)

 姉崎神社手水鉢(元禄15年1702)

宝永年間

 

安藤長左衛門

享保元文年間

姉崎(今津)の八郎兵衛

 海保遍照院角柱宝塔型宝篋印塔(享保

  16年:1731)

 馬立龍源寺宝篋印塔(享保18年

  1733)

八幡中町の…郎兵衛

 今富正光院庚申塔(享保20年1735)

 

八幡の十郎兵衛

 山木三差路近く馬頭観音(元文2年:

  1737)

下鷺(下崎?)長兵衛・・・おそらく不入斗

 近辺

 不入斗行屋跡庚申塔(享保3年1718)

 片又木法蓮寺庚申塔(享保7年1722)

 不入斗小鷹神社手水鉢(享保8年

  1723)

勘右衛門

 佐是光福寺六地蔵道標(享保20年 

  1735)

勘兵衛(市内か市外か不明)

 国本金蔵院宝塔(享保年間?)

浅竹三四郎

 菊間八幡石段塔(享保17年:1732)

寛保・延享

寛延年間

 

仁兵衛・勘右衛門(市内か市外か不明)

 牛久円明院宝篋印塔(寛保3年1743)

長南の三十(以下の文字が判読不能)

 山田佛蔵寺題目塔(寛延3年:1750)

江戸八丁堀の和泉屋久兵衛

 姉崎神社石灯籠(元文5年:1740)?

 大厩延命寺宝篋印塔(延享2年1745)

 大厩駒形神社鳥居(延享3年=1746)

 郡本八幡の狛犬(延享5年:1748)

 五井龍善院宝篋印塔(寛延2年1749)

 宮原明照院宝篋印塔(寛延3年1750)

江戸の弥八

 高滝神社狛犬(寛延元年:1748)

宝暦年間

  

木更津の高橋八郎右衛門

 下川原東泉寺宝篋印塔(寛延3年

  1750

 椎津山谷地蔵(宝暦6年:1756)

 西国吉医光寺宝篋印塔(宝暦14年:

  1764)

 方又木十二社神社手水鉢(宝暦9年:

  1759)

 明和年間 

姉崎の八郎、清吉

 引田六地蔵道標(明和7年:1770)

八幡の瓜本権八(二代目?) 

 海保山王庚申塔道標(明和元年1764)

 八幡円頓寺日泰供養塔(明和4年:

  1767)

 惣社国分寺宝篋印塔(明和5年1768)

江戸八丁堀松屋町の権六

 原田諏訪神社狛犬(明和3年:1766)

 八幡円頓寺日泰供養塔(明和4年:

  1767)

※土宇玉前神社の手水鉢(年代不明)に

 は世話人として八丁堀松屋町の車屋権

 七の名がある。権六と関係がある人物

 かもしれない。また八丁堀権七の名は

 君津の石造物(1789)にも刻まれてい

 る。

安永天明年間

牛久の山内平七

 牛久丸山神社手水鉢(安永9年1780)

姉崎の廣瀬紋治(?)

 君塚明光院宝篋印塔(安永4年1775)

 ※君津に姉崎の廣瀬紋次郎の石造物

  (1784)が残されている。

勘七

 馬立龍源寺近く庚申塔(天明2年 

  1782)

八幡南町の三郎兵衛

 郡本多聞寺札所塔(天明6年=1786)

 郡本正光院札所塔(天明6年=1786)

五井の重左衛門

 養老長泉寺馬頭観音(天明7年:

  1787)

江戸浅草蔵前の中村佐兵衛

 高滝神社石灯籠(安永4年:1775)

寛政享和年間

姉崎の古川辰五郎

 深城無量寿寺石段塔」(寛政4年:

  1792)

姉崎(?)の廣瀬左内利英

 姉崎白塚境橋馬頭観音道標(寛政8

  年:1796)

八幡の佐平治(初代)

 郡本八幡神社大宮大権現祠(寛政12

  年:1800)

八幡の瓜本権八(三代目?)

 根田神社鳥居(寛政9年:1797)?

 ※八幡の権八とだけあるので断定はで

  きない。

 君塚稲荷神社手水鉢(文化7年1810)

千葉町小嶋(?)八郎右衛門

 村上観音寺宝筐印塔(寛政9年1797)

江戸本材木町の上総屋治助

 村上諏訪神社鳥居(寛政6年:1794)

 村上諏訪神社中段の石段塔(文化5年:

  1808)

文化文政年間

 

姉崎の大嶋久兵衛

 ※市内で最初に狛犬を彫る

 安須日枝神社鳥居(文化5年:1808)

 姉崎神社狛犬(阿)(文化6年:

  1809)

 姉崎神社鳥居(下)(文化8年:

  1811)

 椎津八坂神社鳥居(文化9年:1812)

 海保森厳寺結界石(文化10年1813)

 姉崎最頂寺手水鉢(文化10年1813)

 姉崎稲荷神社手水鉢(文化11年:

  1814)

 椎津八坂神社狛犬(文政2年:1819)

 椎津瑞安寺観音札所塔(文政3年:

  1820)

 高滝神社石灯籠(文政4年:1821)

 白塚交差点庚申塔(文政7年:

  1824)?

 椎津八坂神社浅間神祠(文政9年:

  1826)

辰右衛門

 不入斗熊野神社石段(文化5年1808)

 姉崎神社狛犬(吽)(文化6年1809)

 姉崎神社鳥居(下)(文化8年1811)

三之助?

 姉崎神社石段塔(文化3年:1806)

五井の丹波屋六兵衛

 松崎春日神社手水鉢(文化10年:

  1813)

 村上諏訪神社石段(文化12年1815)

五井の丹波屋藤吉

 高田日枝神社鳥居(文化9年:1812)

川岸の関佐七

 不入訶具都智神社手水鉢(文化7年:

  1810)

 高滝神社手水鉢(文化7年:1810)

 飯沼龍昌寺石段塔(文化7年:1810)

 大坪諏訪神社富士塚常夜灯(文化9

  年:1812)

 馬立根本神社手水鉢(文化9年:

  1812)

 松崎春日神社石灯籠(文化9年:

  1812)

 川岸富貴稲荷常夜灯(文化9年1812)

 平野大山祇神社鳥居(文化11年:

  1814)

 島野三光院庚申塔(文化14年1817)

 岩崎稲荷出羽三山鳥居(文政元年:

  1818)

 岩崎稲荷手水鉢(文政2年:1819)

 相川石神神社手水鉢(年代不明)

牛久の茂七(1824)

 平蔵熊野神社石灯籠(文政7年:

  1824)

牛久中町の茂兵衛・下町の兵七

 牛久円明院馬頭観音(文政5年1822)

八幡の安藤佐平治(二代1818~1839)

 能満日枝神社石灯籠(文化15年:

  1818)

 八幡円頓寺題目塔(文化13年1816)

 能満釈蔵院観正塔(文政5年:1822)

 山木白幡神社手水鉢(天保10年:

  1839)

江戸の井筒屋藤兵衛

 奈良の大仏(文化元年=1804)

久留里の栄次郎

 高滝神社石灯籠(文化2年:1805)

千葉町の八郎右衛門

 村上諏訪神社石灯籠(文化4年1807)

大多喜の永松屋銀左エ門

 高滝神社石灯籠(文化6年:1809)

大多喜町の平蔵

 国本金蔵院光明真言塔(文化11年:

  1814)

久留里の治助

 石塚白鳥神社手水鉢小(文政13年:

  1830)

  同 石灯籠(拝殿向かって左 文政

  12年)

 ※治助は1847,1851に君津で石燈籠と

  狛犬を残している

平岡(現袖ケ浦市)の萱野犬吉

 石塚白鳥神社狛犬(文政13年:1830)

江戸の萬吉

 不入斗小鷹神社狛犬(文政8年1825)

天保年間

姉崎の亀次郎

 豊成八幡石段(天保3年:1835)

大坪の滝瀬義恭

 安須日枝神社石段(天保12年1841)

川岸の根本甚太郎

 岩崎墓地六地蔵(文政7年:1824)

 村上諏訪神社参道下石段(文政11年=

  1828)

 村上諏訪神社石灯籠(文政13年:

  1830)

 川岸富貴稲荷狛犬(天保4年=1833)

 田淵熊野神社手水鉢(天保12年:

  1841)

 寺谷大宮神社狛犬(天保12年

  1841)

 岩崎墓地富士講先達の碑(弘化4年:

  1847)

五井若宮八幡石燈籠(弘化4年:1847)

 松ヶ島養老神社鳥居(嘉永元年:

  1848)

 五井波渕枡型六地蔵(嘉永2年:

  1849)

 池和田大宮神社狛犬(推定で弘化年

  間)

 

弘化年間

青柳の佐七(1849)

 

江戸深川の源兵衛

 青柳若宮八幡狛犬(弘化5年:1848)

嘉永年間 

八幡の安藤佐平治(三代目)

 門前路傍297号沿い廻国塔(弘化4年:

  1847)

 奈良本泉寺題目塔(弘化5年:1848)

 番場神社石段塔(嘉永2年:1849)

 海士有木大宮神社石段塔(嘉永2年:

  1849)

 飯香岡八幡石橋(嘉永3年:1850)

 八幡稱念寺祐天名号塔(嘉永4年:

  1851)

 犬成神社狛犬(嘉永7年:1854)

 同 石灯籠(年代不明)

 八幡無量寺名号塔(嘉永7年:1854)

 荻作神社狛犬(嘉永7年:1854)

牛久の山内平七

 皆吉墓地手水鉢(嘉永元年:1848)

 牛久三島神社手水鉢(嘉永4年:

  1851)

青柳の佐吉

 安須日枝神社狛犬(嘉永2年:1849)

 海保神社石段(嘉永4年:1851)

 同 狛犬2対(慶応2年:1866)

林村(現袖ケ浦市)の御園藤吉(1823~

 1897)牡丹と獅子の意匠を得意とした

 らしい。

 深城熊野神社石灯籠(嘉永5年1852)

 同 手水鉢(文久2年:1862)

 寺谷玉泉寺大般若経碑(元治元年:

  1864)

安政年間

時深七五郎

 大戸熊野神社手水鉢(安政3年1856)

勘兵衛(浜松か?)

 鶴舞神社手水鉢(安政7年:1860)

文久年間

 

江戸金杉の和田幾治郎

 今津朝山鷲神社手水鉢(文久元年:

  1861)

江戸鎌倉川岸の三吉・由五郎

 今津朝山鷲神社石灯籠(文久2年:

  1862)

慶応年間

弥七(1866)

八幡の佐平治(四代目か?)

 山倉春日神社手水鉢(慶応3年1867)

 

明治

青柳の伊藤米治郎

 皆吉白山神社石段塔(明治12年:

  1879)

 磯ヶ谷八幡摂社石段塔(年代不明)

 

※村田町神明神社には江戸行徳の治兵衛の石造物が残されている(手水鉢・石灯籠:いずれも嘉永5年:

 1852)。なお山田佛蔵寺には年代不明の日蓮供養塔に山田村の石工政文の名が記されている。

 

 木更津の石工高橋八郎右衛門は袖ケ浦市内にも8基「(永地長泉寺:年代不明、高谷光福寺:延享2年=1745、横田善福寺:寛延4年=1751等)、君津にも2基の「開花高層型」宝篋印塔を残している。このタイプの宝篋印塔の作り手として高橋の名は近隣に鳴り響いていたのだろう。

 同じ頃、江戸八丁堀和泉屋久兵衛も宝篋印塔の作り手として有名だったようで市内に三基残されている。内二基は隅飾りの無い角柱宝塔型だがいずれも屋根瓦の文様を笠石に施しており、きわめて装飾的な塔である。残り一基(大厩延命寺)は高橋と同様の「開花高層型」である。高橋は宝筐印塔を含め4基の石造物を市原に、9基の石造物(内8基は宝筐印塔)を袖ケ浦に残しており、18世紀の西上総を代表する名工と言える。

※和泉屋を冠する有名な石工は他に二人、知られている。江戸では和泉屋次郎右衛

 門、和泉国に和泉屋長兵衛がいた。古来、泉州は石の産地であるとともに「泉州石

 工」と呼ばれる優秀な石工を輩出した土地でもあった。泉州石工の作品は各地に残

 されており、彼らの一部は石造物の大消費都市江戸にも進出していた。久兵衛もそ

 うした「泉州石工」の一人に違いない。当時「和泉屋」は石工の屋号として全国的

 に通りが良いため、和泉出身の石工が名乗ることが多かったのだろう。大多喜の夷

 隅神社の石灯籠(安永3年=1774)には大坂の和泉屋佐七という石工の名が見え

 る。

 

 なお石工は石の粉を吸い込むことによる塵肺などの肺病を患うことが多かったため、長生きすることが難しかったという。代々石工を家業とする場合には家を存続するために長男には別の仕事につかせて石工を継がせず、次男以下に継がせるなどといった風習もあったらしい。五井の丹波屋六兵衛と丹波屋藤吉も有名な「丹波の石工」に由来する名と思われるが、二人とも肺病で若死にしたのであろうか?名を刻んだ石造物は今のところそれぞれ一、二点しかない。

 石工の多くは石の搬入、石造品の搬出に都合のよい港近くや河岸に工房を持っていた。江戸では八丁堀、深川、浅草、行徳などに多くの石工が存在していたようだ。江戸の石工は自分の工房で石造物を完成させるだけでなく、鳥居などの大きな石造物の場合には現地に赴いて製作に当たることもあった。地方の村々の注文に応えるべく押送り船や五大力船に乗って江戸の石工達は幾度も房総の地に足を運んだことだろう。高橋八郎右衛門のいた木更津南片町は五大力船の発着する港町であった。

 

 他方、姉崎の大嶋久兵衛は袖ケ浦の下泉竜善院に宝篋印塔(文化8年:1811)と石灯籠(文政2年:1815)など4基を残している。市原では川岸の関佐七や根本甚太郎、八幡の安藤佐兵治(佐平治とも。明治以降、安藤石材店。江戸時代後半に三代続けて佐兵治を名乗っている。5代目の常太郎は初代碩年を名乗り、以後、子孫は碩年を名乗った)と並んで広域に作品を残している点で大嶋もまた市原の名工といえよう。石材の搬入に便利なため、久兵衛や佐七ら市原の石工の多くは八幡から姉崎にかけての湾岸部に工房を構えていたのである。

 内陸部では久留里や大多喜の石工がかなり利用されていたようで、何れも城下町として優秀な職人が存在していたはずである。彼らには周辺の村々の注文だけでなく藩からの注文もあったに違いあるまい。

 また表からはっきりと分かるように18世紀後半から地元市原の石工の作品数が目立って増えてきている。近世、市原の経済的発展に呼応して、地元石工が急速に台頭してくるとともに、石造物の「地産地消」が海浜部を中心に進展してきたことをあらためてこの表から確認できる。

 なお市原の江戸期の石造物は多くが安山岩製である。これは江戸城築造の際、真鶴産を中心とした小松石を主に石垣の材料として利用したことに由来するであろう。つまり江戸初期には伊豆・相模と江戸とをつなぐ石材の流通ルートが確立しており、江戸城完成後もそのルートが存続していたと思われる。そして築城の際に各地から集められた穴太衆や泉州石工などの一部が江戸に残留し、大名屋敷などで働き続けたに違いない。

 彼らは17世紀後半、商工業の発達によって町人が武家と同様、墓石を設けるようになるとさらに活躍の場を拡大する。そして農民たちも18世紀には全国的に墓石を設けるようになり、石造物の需要は爆発的に増大した。江戸では石工達が大勢集まってついに「江戸御府内石工十三組」と呼ばれる特権的な同業者組合を結成するまでになる。

 かつては農閑期に限られていたと思われる石工の仕事も江戸時代にはオールシーズンで稼げる専業の職業となっていった。こうして18世紀後半以降、江戸の石工組合は江戸での石造物一切を請け負う特権を獲得するかたわら、房総だけでなく関東各地に出張し、数多くの石造物を地方にも残していったのである。他方で江戸の石工が組合を設けて仕事の独占を図ろうとした背景に地方の石工の台頭が考えられる。江戸の石工に負けないほどの腕を持つ地方の石工達がこの頃続々と登場し、おそらく江戸の石工を脅かし始めていたのである。

 市原では明和年間に活躍した八幡の瓜本権八が国分寺に残した壮麗な宝篋印塔(明和5年=1768)に地方石工の成長の一端を見ることができる。江戸の石工となんら遜色の無いその出来栄えに村々は地元の石工を見直し始めたに違いない。

 18世紀末以降、市原の村人はそれまでもっぱら江戸に発注してきた「宮物」(神社の石造物のこと)を徐々に地元の石工に委ねるようになっていった。

 寛政9年(1797)に奉納された根田神社の鳥居には誇らしく八幡の石工瓜本権八の名が記されている。彼はおそらく国分寺の宝篋印塔を造った権八の跡取り。権八らが代々積み上げてきた地元石工の名声の上に、19世紀、地方石工の時代が訪れる。関佐七、大嶋久兵衛、安藤佐平治、根本甚太郎らの華々しい活躍は何の前触れもなしに始まったものではなかったはずである。

※八幡の瓜本家の墓石は称念寺山門の右手前にある。初代瓜本権八と推定できる墓石

 は宝暦11年(1761、二代目瓜本権八と推定できる墓石は明和7年(1770)の没年

 が記されており、それぞれ「石屋」の文字が確認できる。ただし初代が関わったと

 思われる石造物は今のところ確認できていない。

 

 「袖ケ浦市史研究第5号」(袖ケ浦市史編さん委員会 H.9)所収「袖ケ浦の近世石工」(萱野章宏)では石工の名が刻まれることの多い石造物は寺社に「奉納」されたものが多いという傾向が指摘されている。また狛犬や宝筐印塔など、石工の技術力、表現力が試される石造物にも石工の名がよく登場するという。

 木更津の高橋八郎右衛門などは落款印を用いており、自らの腕を誇示する、宣伝する意図もあっただろう。なお袖ケ浦で石工銘が確認された57点の石造物の多くは木更津の石工であるという。19世紀になると袖ケ浦の村々にいた石工の名が目立ってくるらしい。地元石工の台頭の時期はほぼ市原と同じであろう。そして地元石工の石造物はその多くが数か村ほどの狭い範囲内に供給されていたこともほぼ共通する。ただし袖ケ浦では江戸の石工が登場するのは2件だけであり、市原の18件とは大差がある。木更津石工の存在が袖ケ浦地域では圧倒的だった事がうかがえる。

38 .廻国塔概説(後編)

 

 

市内の廻国塔年代順一覧表(カッパ作成)

所 在 地

年 代

成就塔or供養塔・その他

君塚明光院

宝永5年(1708)

地蔵・供養塔・十九夜塔

五井中瀬墓地

同上

自然石

五井守永寺

宝永6年(1709)

地蔵 成就塔

浅井小向墓地塚上

正徳元年(1711)

板碑型・供養塔

西国吉路傍

正徳6年(1716)

道標・櫛型:道標としては市内最古

西国吉医光寺

享保2年(1717)

 

姉崎最頂寺

享保3年(1718)

成就塔

山口薬師堂

享保9年(1724)

地蔵・中供養塔

朝生原渓谷橋近く

享保11年(1726)

地蔵

菊間徳永町勝家

享保13年(1728)

成就塔・笠付き角柱塔

西国吉永徳寺第二墓地

同上

板碑型

山小川長泉寺霊園

享保14年(1729)

供養塔

上高根称礼寺

同上

宝筐印塔

佐是光福寺参道入り口

同上

山状角柱塔・成就塔

青柳光明寺

享保15年(1730)

宝篋印塔 慶安2年の別材あり

不入斗薬王寺

享保16年(1731)

 

高滝墓地

同上

山状角柱塔・名号塔・中供養

今津朝山共同墓地

享保18年(1733)

成就塔

山口薬師堂

同上

地蔵

月崎耕昌寺

享保19年(1734)

 

高坂薬王寺

同上

宝筐印塔

海保神社

元文元年(1736)

大日如来(三山供養塔)

宮原「殿様道」

元文2年(1737)

櫛型・成就塔

大厩延命寺

元文3年(1738)

笠付き角柱塔

海士有木日枝神社裏墓地

元文5年(1740)

供養塔

土宇東林寺

寛保2年(1742)

 

八幡無量寺

延享元年(1744)

地蔵

村上白幡神社脇墓地

同上

舟型光背・地蔵・成就塔

柏原持宝院

延享3年(1746)

宝筐印塔

 

延享年間

山型光背

大厩延命寺

寛延2年(1749)

宝篋印塔・成就塔

勝間三山塚

同上

板碑型

湯原観音堂

寛延4年(1751)

供養塔

浅井小向諏訪神社

宝暦2年(1752)

上部欠損:三山塚内

小折三山塚墓地

同上

櫛型・供養塔・大坂出生

米沢農業協同館

宝暦3年(1753)

宝篋印塔・成就塔・石工八平・満延

不入斗大高谷津路傍

宝暦4年(1754)

地蔵供養塔

町田墓地内

同上

櫛型

山倉墓地

宝暦5年(1755)

中供養?大坂農人町二丁目木村九兵衛

山田橋養福寺

同上

櫛型文字塔

西野徳蔵寺早川家墓域

同上

供養塔・江戸日本橋室町出国

妙香第二公民館墓地

同上

櫛型・中供養・美作

牛久圓明院墓地

宝暦6年(1756)

櫛型・成就塔・三界萬霊塔

山倉墓地

宝暦8年(1758)

馬頭観音・念仏講・大坂南久太郎町住

皆吉橘禅寺

同上

櫛型・中供養塔?天羽郡百首村願主

皆吉団地裏墓地(白石家)

同上

櫛型・供養塔

久保飯塚自治会館奥墓地

宝暦9年(1759)

櫛型・成就塔か中供養塔

宮原明照院

宝暦10年(1760)

大日如来・中供養・武蔵国埼玉郡

今富路傍

宝暦11年(1761)

馬頭観音・成就塔・近時男=優婆塞

今津朝山共同墓地塚下

宝暦13年(1763)

 

山倉297号沿い路傍

同上

成就塔

皆吉団地裏墓地(白石家)

同上

成就塔・皆吉郷山田久保村

皆吉団地裏墓地(白石家)

同上

中供養塔・下総国金江津村

不入斗西光院墓地(矢田部)

同上

櫛型・墓塔

島野墓地三山塚

明和元年(1764)

大日如来

馬立佛眼寺 二基

明和2年(1765)

成就塔

菊間墓地無縁塔内

同上

六部は但馬国で供養塔

不入斗泉台

明和3年(1766)

櫛型

能満緑苑通り三山塚2

明和4年(1767)

山船型・板碑型

不入斗行屋跡

明和5年(1768)

地蔵供養塔

国分寺宝筐印塔

同上

石工瓜本権八

今津朝山共同墓地三山塚

明和6年(1769)

 

今津朝山共同墓地塚下

同上

 

海保磊々堂近く

明和7年(1770)

供養塔

北青柳墓地

同上

供養塔

栢橋墓地

同上

成就塔・櫛型・久世出雲守御家中

迎田三山塚

明和8年(1771)

剥落激しく詳細不明

大厩三山塚上

明和9年(1772)

三山供養塔・供養塔

西国吉永徳寺第一墓地

安永2年(1773)

櫛型

山倉297号沿い路傍

安永3年(1774)

 

相川普門院

同上

櫛型

栢橋墓地脇

安永4年(1775)

道標・供養塔

郡本八幡神社三山塚

同上

山伏角柱・供養塔

西国吉さくら公園三山塚

安永5年(1776)

櫛型・成就塔・妙実尼

磯ヶ谷三山塚

安永6年(1777)

山伏角柱・供養塔

飯給真高寺

安永7年(1778)

三山供養塔・成就塔

市原光善寺

同上

成就塔

藤井霊園

同上

山状角柱

皆吉橘禅寺

同上

櫛型・丹波国天田郡本庄村

海保霊園無縁塔内

安永7年(1778)

櫛型・供養塔

上高根小勝山団地墓地

同上

櫛型・中供養塔か?

高坂路傍

安永9年(1780)

供養塔

万田野自治会館

同上

成就塔

惣社国分寺

同上

櫛型文字塔

五所共同墓地

同上

成就塔

安須霊園三山塚

同上

三山供養塔

松ヶ島墓地三山塚

天明2年(1782)

成就塔 松ヶ島の孫七

西広西廣院

同上

成就塔 櫛型

柏原持宝院

同上

供養塔

久保飯塚自治会館奥墓地

天明5年(1785)

櫛型・供養塔

山田正覚院

天明8年(1788)

三山供養塔

海保中谷公民館

寛政2年(1790)

光明真言読誦塔

柿木台入口路傍

寛政5年(1793)

供養塔・武州安達郡

権現堂満蔵院

同上

成就塔

五井守永寺

同上

二日市場水神社

寛政6年(1794)

馬頭観音・?

五井下谷墓地

同上

櫛型・供養塔

椎津霊光寺

寛政8年(1796)

中供養塔(伊予国の人)

奉免宮の下行屋

享和3年(1803)

供養塔

山倉圓楽寺裏山

享和4年(1804)

中供養(奥州伊達郡の人)

市原光善寺

文化3年(1806)

供養塔

安須霊園

文化6年(1809)

道標・供養塔

門前路傍(297号沿い)

文化6年(1809)

六地蔵石幢

能満共同墓地

文化7年(1810)

山状角柱・成就塔

久保八坂神社

文化10年(1813)

駒型・成就塔

新井青年館

文政3年(1820)

成就塔

岩野見自性院

文政4年(1821)?

兼道標

原田交差点近く貝淵家墓地

文政7年(1824)

香箱型・千人施行供養

惣社国分寺

文政8年(1825)

成就塔

千種明王院

同上

西広西廣院

文政11年(1828)

岩見国六部の供養塔

上高根円明院

文政13年(1830)

供養塔:摂津出身

月崎永昌寺大日堂墓地内

天保4年(1833)

供養塔・六部は播磨国明石俗名久八

畑木医王寺

天保9年(1838)

中供養塔・六部は豊後国出身

五所共同墓地

天保12年(1841)

成就塔・豊後国快傳・志の

門前路傍(297号沿い)

弘化4年(1847)

中供養・石工八幡佐平次

五井出津神光寺墓地

弘化5年(1848)

櫛型・成就塔・行者濱田市太郎

武士法泉寺近く

安政6年(1859)

中供養?石質が悪く破損大

海士有木長谷寺

年代不明

基礎部分のみ

山倉墓地

年代不明

供養塔・世話人三橋傳左衛門

宮原明照院

年代不明

成就塔・徳本比丘尼・櫛型

 

 

37.廻国塔概説(前編)

 

 大乗妙典「法華経」六十六部を書写して全国六十六か所の霊場(東北の霊場では出羽三山が選ばれる事が多かったため、廻国塔の幾つかは三山塚上に建てられている)に一部ずつ奉納する目的で諸国を行脚した行者を「六十六部」とか「六部」、あるいは「廻国衆」と呼んだ。彼らは釈迦入滅後から弥勒菩薩が下生するまでの無仏時代に当たる56億7千万年の間、法華経を悪魔や外道から守るために全国を遊行したのである。鼠色の木綿の着物を着て厨子を背負い、鉦をたたき、鈴を鳴らして戸別に銭を乞い歩く。鎌倉時代から始まったと思われる六十六部の廻国は巡礼の一つで写経という善行と廻国という苦行によって「天下泰平、五穀成就、日月晴明、二世安楽」等を願うものだった。

 江戸時代には形式化し、写経はせずに納経札や金銭を納めるだけとなったらしい。巡礼者は納経帳を持って歩き、行く先々の寺社で受取を書いてもらう形式が広く普及していたようである。とはいえ、遊行は数年がかり、場合によっては10年を超える苦行には違いなかった。廻国を成就した行者らは誇らしげに郷里に「廻国成就塔」を建て、出立と帰着の年月日を刻んだ。しかし行半ばにして病にかかり、あるいは不慮の死を遂げた行者も多かった。この場合には現地の心ある施主が供養のために「六十六部供養塔」を建てた。これらを総称して「廻国塔」という。一応次回に投稿する一覧表では六十六か所の巡礼を成し遂げて建てられた碑を「成就塔」とし、「六部」が志半ばで倒れ、その菩提を弔うべく碑が建てられた場合、「供養塔」としてやや簡略な表現で区別しておいたが、銘文だけでは区別できないものも多い。

※小嶋博巳氏(「廻国供養塔から六十六部を考える」…「日本の石仏」2016春 

 No.157に掲載)によれば廻国塔のタイプは他にも巡礼の途中で供養塔を建てた

 「中供養」塔、廻国者への作善の供養塔(千人の廻国者に対して宿を貸した…お米

 を施した…草履を施した等)、廻国者の作善の供養塔(橋をかけた…お堂を建立し

 た等)などがあるという。

 船橋市内では二十一基確認され、最古は1709年のもの。市原ではカッパが今のところ113確認している。確認されている中で市原市内最古は1708年のもの。加来氏の袖ケ浦での調査では袖ケ浦最古の廻国塔は寛文5年(1665)であり、今後、市原でも17世紀に遡れる廻国塔が発見される可能性は十分あるだろう。宝篋印塔の形式のものが三基、表中に紹介されているが、これらは三界万霊塔や他の巡拝塔などを兼ねている。また三山塚上に建つケースが幾つかあり、当時、廻国の目標として市原出身の六部が出羽三山を選ぶことが多かったことも推測できる。

 多くの場合廻国塔は目立たない文字塔であり、墓石と見分けがつきにくい。このため無縁墓地内に墓石と混在しているケースが幾つかあった。ほぼ偶然に目に入ったため、ここに掲載されたものも少なくない。すべてを見つけ出すことはおそらく困難を極めるであろう。実際、加来氏の市内の石造物調査では廻国塔はわずか6基しか確認されておらず、カッパの調査との食い違いは大きい。とはいえ加来氏の調査結果を良く見るとかなりの数の廻国塔が経典塔として分類されてしまっている。これらの中には六部らが廻国の途中で法華経を埋納した記念に建てた経典塔としての廻国塔も確かにあるのかもしれない(中供養塔)。

 石塔の側面が確認できず、あるいは磨滅、剥落などの理由によって「成就塔」か「供養塔」のどちらかが判別できない場合も多く、表中では「?」としておいた。今のところ廻国塔に関しては市内で悉皆調査が行われた形跡はない。「悉皆」は無理としても是非、おおよその概況を今後も掴んでいく必要があろう。

 小嶋氏(既出)の調査によると全国的には数万の廻国塔が存在すると推定されている。今のところ小嶋氏がデータベース化できたのが九千基ほどであるがそのデータから以下の事が考えられるという。

 1.東国に多い。特に千葉県の1045基、長野県の932基は突出して多い。但し旧国別

  の件数でみると武蔵の958基、信濃の932基となる。千葉県は安房が286基、上総

  が138基、下総が740基。上総の把握された件数が少な目に思える。

  ※の記載を参照してください。

 2.18世紀初頭から東国中心に爆発的に出現。1600年代の100年間の総数がわずか

  54件に過ぎないにもかかわらず、1700~1709年の十年間で264件、次の1710年

  代には720件も出現している。この頃から納経帳が出現しており、「六部殺し」

  の話も宝永頃に出現しているという。1770年代が造塔のピークでおよそ800基。

  1800年代以降は東国が漸減していくため、西国とほぼ同数の基数となっている。

  明治以降は明治4年の太政官布告によって六十六部の活動が大きく制約されたため

  激減。

 3.法華経信仰だけにとどまらない、多様な信仰が習合。西国では阿弥陀信仰との習

  合が強く見られ、六部は念仏聖とほぼ同等の扱い。

 4.7000基以上が文字塔。内、1600基余りは仏像塔でその六割は地蔵塔。したがっ

  て地蔵信仰も習合。

 5.職業的な廻国者の組織が江戸後期に成立。必ずしも「渡世の六部」は偽六部では

  なく、廻国者を助力し、廻国塔の勧進に協力する全国的なネットワークが存在

  し、それらは公共的な事業の資金を調達するという役割をも担っていた。彼らは

  「天蓋」とも呼ばれ、京都の仁和寺、江戸の寛永寺を本山として活動していたよ

  うである。

 

 西海賢二氏は「江戸の漂泊聖たち」(吉川弘文館 2007)の中で江戸時代、厳しい宗教統制の下で生活できなくなった多くの聖(ひじり)達(寺院に属さず、俗世において諸国を遊行しながら法を説く民間僧、私度僧。これに対し寺に居住する僧は官僧)が幕藩体制下に虐げられた民衆の中に入ってそこで生死を共にするようになったことを指摘している。寺請制度が確立する中で特権の上に安住する官僧に対して、民衆の内懐深く入り込み、彼らの救済に励む聖達はより身近な宗教者として民衆から頼りにされる事も多かったに違いない。

 他方で聖達の中には生きるためにのみ聖の仲間に入った「偽聖」(「宿借聖」などと揶揄された)もいたようだ。確かに「六部」のなかにも「渡世の六部」はいた。六部が宿を借り、喜捨を受ける度に配った刷札には「天下安全、日月清明…」とあり、廻国納経の功徳にあずかれる旨が記してあった。しかしそれを真に受けず、疑り深い村人も多かったに違いない。

 かつて「六部に宿貸すな。娘とられて恥かくな」といわれたように、他所者の侵入を極端に恐れた当時の閉鎖的な村社会にとって六部と物乞い、盗賊のいずれかを見分けるよりも、ひとまとめにして警戒する方が容易であり、かつ安全確実でもあった。六部を「人柱」にしたという言い伝えや、急に裕福になった家に対して「六部を殺して奪った金品で金持ちになったに違いない」と悪口が言われるなどといった、いわゆる「六部殺し」の伝承は各地に残っていた。

 村人から宿を借りることができずに野宿したり、寺社の軒先で雨露をしのぐ六部も多かったに違いない。にもかかわらず、数年間の時を費やす、命がけの修行に大勢の人々が加わっていったのである。供養塔の多さを思う時、すなわち数多くの「六部」が病を得て中途で行き倒れた旅の過酷さを思う時、「偽聖」、「渡世の六部」とても気安く郷里を捨てて旅に出られるものではなかったろう。いずれにせよ、それは命がけの「渡世」であったのだ。

 過酷なのは六部だけではなかっただろう。修験者(山伏)や陰陽師、木食僧、願人坊主(すたすた坊主、乞食坊主とも)もまた加持祈祷、占い、芸能などを生活の糧とする一方で、施しを得るべくそれなりの修行を積む必要があったに違いない。中には封建的な土地への呪縛から解放されるべく、聖の道に入った者もいたであろうが、結果的には安住の地を失って彼らの多くが不安定な漂泊の日々を余儀なくされたはずである。おそらく時には同じ無宿者としてアウトローの世界と接することもあっただろう。市内に数多く残る供養塔はそうした漂泊者としての六部が数多の遍歴の果てに辿りついた、苦難多き生涯の証とも受け取れる。

 碑をよく見ると東北、大阪や静岡といった遠方の者がいる。家族に看取られることなく異土の地で孤独の内に果てる心境はいかばかりのものであったろうか?草深い田舎道や無縁墓地の一画に今もひっそりと建つ廻国塔にぜひ思いを馳せたいものである。

※なお2020年に出された「市原市の六十六部廻国供養塔」(いちはら六十六部供養塔

 調査の会)によると151基を市内で確認している。カッパの確認したものと重なら

 ないものが4基あった。おそらく市内には合わせて200基近くはあると思われる。

※「房総古代道研究6」(2023)において上記の調査の追補としてカッパが指摘した

 4基など合わせて8基が山本勝彦調査会長によって発表されている。この結果、市原

 市内で確認された廻国塔の総数は159基となっている。

36.イチオシの石造物入門書

 

 「墓石が語る江戸時代~大名・庶民の墓事情~」(歴史文化ライブラリー464 関根達人 吉川弘文館 2018)より、要旨を抜粋してご紹介いたします。

 「墓石」というと嫌悪感すら抱く人もいらっしゃるでしょうが、読んでみるとまさに「目からうろこ」の傑作で、石造物愛好者にとってはバイブルと言っても過言ではありません。

 

 石造物研究は美術史から出発していて、歴史が新しく、美術的評価が低い近世石造物はこれまでほとんど学術的な研究対象にならなかった。歴史を解明するための資料としても古文書に比べて文字数が少なく、情報量が乏しいとされ、低い価値しか与えられてこなかった。

 しかし石造物には以下のような古文書と違う特色が見られる。

文字数が少ない分、慎重に選ばれた語句には重要なメッセージが込められている。

不特定多数の目に触れられる目的を持ち、後世に永く残すべく、造られている

大きさ、形態、材質等、文字以外の多様な属性を持つ。

紀年名のあるものが多い。

原位置性が高く、設置場所そのものにも意味がある。

地域性が反映され、地域間の比較が出来る。

多くは野外にあるため、調査が簡単。特別な機材を要せず、古文書よりも判読しや

 すいものが多い。

 

 以上の特性があるので近世を解明するための資料として最も身近で豊富に存在しており、積極的に活用すべきである。

・墓石の歴史

 墓石は平安末期に登場し、12世紀末に中尊寺などで高僧の供養塔として五輪塔が出現する。鎌倉時代には五輪塔に加えて宝筐印塔が登場。宋から伊行末らが渡来し、近畿地方で花崗岩を用いた大型の石塔が造られるようになる。13世紀後半、忍性が鎌倉を拠点に活動するようになると、伊の流れを引く大蔵派が関東に下向し、関東の各地に石塔を残した。また禅宗の伝来により、位牌が日本にも伝わり、これに石造物も影響されて板碑の造立が始まった。板碑は追善供養や逆修供養を目的とする供養塔が多い。

 かつて貴族達は死穢を恐れて墓地に近づく自体を避けていたが、武士の時代になると墓地は一族結束のシンボルとして神聖な礼拝の対象となっていく。墓地を管理し、先祖の菩提を弔うために菩提寺が建立されるようにもなる。命懸けで戦場を駆け巡る武士達にとって元々、死や墓地への忌避感は少なかった。むしろ「一所懸命の地」を象徴する墓地と菩提寺は彼らにとっては神聖な場所と化していった。武家社会の成立、発展はこうして全国に武家一門の墓地と菩提寺を造り出し、各種の供養塔を流布させていった。

 戦国時代になると近畿北陸を中心に小型の五輪塔や石仏が大量に出現してくる。産業の発達により、裕福となった一部の民衆もまた武士を真似て供養塔を祀るようになったのである。重要の急増に応えるために石工は民衆向けの安価な既製品としての供養塔を生産、販売するようになる。従って民衆の小型供養塔にはほとんど戒名や没年等は刻まれていない。もしかすると既製品として六歳市などで売られていた石塔をまず購入した後、墨で記されていたのかも知れない。

・現代墓事情

 2010年、和型の墓石が全体の50%を割り、家族墓も減少。これらの墓は時間が経てばそのほとんどが無縁墓になるだろう。今もおそらく4割近くが既に無縁墓と化している。1999年の法改正で無縁墓は1年後には撤去処分の対象とされることになった。墓石は廃棄物として粉砕処理される必要があるが、それなりの経費がかかるため、淡路島のように山林に墓石が不法投棄されるケースも出現。最近では墓石を設けず、納骨堂を選ぶ遺族が増えてきている。また墓仕舞いや樹木葬、散骨などにするケースも増えてきている。

・墓石調査の基本

 七つ道具:「墓マイラー」の事を昔は掃苔家といい、江戸時代から登場。石造物調査

の七つ道具として現在、重宝されているのは「調査票、ナイロン製ブラシ、巻き尺、カメラ、筆記具、高照度の懐中電灯(300ルーメン以上)、片栗粉」。

 ※片栗粉を用いた判読法はカッパもオススメ。どうしても判読できなかった石造物の年代がこれでい

  くつか判明している。環境にもやさしく、きわめてお手軽な方法。

 

  文字資料としての注目ポイントはまず「戒名」で上から順に「院号、法号、道号、尊称・性称(位号:居士、信士等)」。本来は寺院の過去帳と照らし合わせる必要があるが、2005年の個人情報保護法によって研究者ですら過去帳の閲覧は厳しくな

っている。

 戒名の上に「頭書」(南無阿弥陀仏、妙法、為・・・など)、戒名の下に「下置字」(~位、~霊位、菩提、不退位など)が記されることも多い。

 19世紀には人々の半数以上(6割以上)が墓石を持つようになったと推計される。

 院殿号は上級武士層に限定され、院殿と大居士がセットとなる。日蓮宗は院号を多

用し、浄土真宗は院号をほとんど使用せず。

 位号は男の場合、大居士(女は清大姉)、居士、大禅定門、禅定門、信士。18世紀

以降、禅定門(女は禅定尼)はほとんど使用されない。浄土真宗は位号を用いず、男は釈、女は釈尼が付く。幕末に近づくにつれて院号が増える傾向に。

 なお民衆が墓石に苗字を刻むことはほぼ黙認されていた。

・形態による分類

  塔系墓石:五輪塔、宝筐印塔、無縫塔

  碑系墓石:板碑形(関西式、関東式=尖頂式舟形墓標※)、舟形、位牌形(一石

   位牌型と別石位牌型)、櫛形、駒形など  

   ※関東では寛文から宝永年間まで主流となる形式

  方柱墓石:笠塔婆、丘状頭角柱(香箱型角柱※)尖頭角柱(山伏型角柱)

   ※東日本では19世紀、丘状頭角柱や尖頭角柱が多く、西日本では櫛形が多い

・子供の墓石:江戸中期以降、出現。有像舟形や台付丸彫形が多い。子供の位号は18

 世紀まで真言宗豊山派で童子、童女。19世紀になると3~4才は孩子、孩女、1~2才

 は嬰子、嬰女。水子の墓石は日蓮宗にほぼ限定(←鬼子母神)。

・俗名を記す墓石が出現するのは18世紀末で、供養だけでなく故人の顕彰という目的

 が付与されるように。と同時に享年を刻むことが一般化。墓誌を記すのは9世紀以

 降、途絶えていたが、儒教の影響で江戸時代に復活。辞世を記したものも江戸中期

 以降、登場する。武家、僧侶、医師などの知識人に多い。

大名の墓:国元、江戸、高野山の三箇所に設けられる。高野山奥之院は泉州石工や

 摂州石工の高い技術力を全国に示す墓石の展示場としての役割を果たしていた。

 「和泉屋」は石材店の屋号として全国的に普及

・石材の運搬:伊豆石や小松石などは江戸霊岸島に集積地があった。18世紀半ばまで

 は関東の墓石の半数以上を伊豆、相模産の石材が占めていた。

・江戸期墓石普及の理由

 直系家族からなる世帯の形成←小農の自立

 儒教思想の普及⇒祖先崇拝、先祖供養の普及

 寺檀制度確立

 読み書き普及

 海上輸送の整備

 石工の地方移住

 

 

35.小林一茶と房総

 

 以下、「一茶漂泊~房総の山河」(井上脩之介 崙書房 1982)の要旨を抜粋してご紹介いたします。

 

 小林一茶は1763年、信濃国水内郡柏原村(長野県上水内郡信濃町柏原)の農家小林弥五兵衛の長男として生まれる。名を弥太郎といった。柏原は越後との国境に近い奥信濃の山村で一茶は故郷のことをこう記している。

 「…霜月の始より白いものがちらちらすれば悪いものが降る、寒いものが降ると口々にののしり…」

 小林家は田畑合わせて6石5升の持ち高で中の上の農家だった。しかし生母が3歳の時に病没し、8歳の時に継母が来た。そして弟の仙六が生まれると一茶と継母との折り合いが急速に悪くなっていった。さらにそうした一茶をかばうように支えてきた祖母が14歳の時に亡くなり、継母との対立は抜き差しならないほどに悪化してしまった。

 心配した父親はとうとう両者を切り離すことにし、安永6年(1777)、15歳になった一茶を江戸に奉公に出した。その後、俳人として頭角を現すまでの十数年間、一茶の足取りは不明である。おそらく奉公先を転々と変える苦しい生活が続いていたと思われるが、次第に俳諧の道に足を踏み入れることになっていったようだ。

 俳諧は芭蕉の友人であった山口素堂を祖とする其日庵(葛飾派)の流れをくむ師(二六庵竹阿、今日庵元夢)の手ほどきを受けた。

 寛政3年(1791)、一茶29歳の時に江戸を発って馬橋、小金原、我孫子等を回る。以後、最後の房総への旅となる文化14年(1817)までのおよそ30年近く、一茶は頻繁に房総を訪れ、房総各地の俳人との交流を続けている。

 房総における総宿泊日数は判明しているものに限っても1054日間に及ぶ。この間、延5年以上信濃に帰郷していることを考えると、何と関東滞在期間のおよそ三分の一は房総の地で過ごしていたことになる。

 彼が主に交流した房総の俳人は馬橋の大川立砂、斗園、流山の秋元双樹、木更津の僧大椿、富津の僧徳阿、織本花嬌雪中庵大島寥太の門人で、一茶が交友した唯一の女性俳人)、金谷の僧砂明(花嬌の弟)。もちろん、一茶の房総滞在はもっぱら生活のための「田舎渡らい」ではあった。

 ※雪中庵系の俳人飯島吐月(1727~1780) 

  青柳至彦氏によると吐月は野毛村の生まれ。飯島家は代々、名主を務める名家で

  文人墨客が訪れる事も多かった。20歳頃には俳句の道に没頭し始め、寛延3年

  (1750)に雪中庵大島寥太の門下に入る。以降、吐月と号し、寥太筆頭の弟子と

  なる。

   寥太は9歳年下の吐月に大きな期待を寄せるとともに飯島家の財力にも期すると

  ころ大きく、自身の後継者の一人に据えていたようである。

   吐月ら市原の有力な門人達(他に寿躰・其躰…武士の人、吏仙…高根村の人で

  ここにも寥太は幾度か身を寄せている)が雪中庵の後援を惜しまずに行ったこと

  が雪中庵の名を全国に広めることになったようである。江戸時代の後期、彼らは

  「田舎宗匠」などと呼ばれ、地方における俳諧の普及に大きな役割を果たした。

  残念ながら吐月は安永9年(1780)突然、病に倒れ、9月4日、不帰の客となる。

  行年54歳。辞世の句「残すべき はもなき秋や 蝉のから」。寥太も「我やけふ

  片手もげたる きりぎりす」の句を残した。

市原市野毛法泉寺

 

 

 文化6年の1月26日、一茶は日記に「廿六日大南風 舟橋さどや勘兵衛中休五井こくや佐次郎泊」と書いた。五井の「こくや」は大千石、小千石、こみやなどが考えられるがどれも違うようである。

 

 「七番日記」の文化11年(1814)9月30日の欄にこうある。一茶は富津の大乗寺(徳阿が住職)から浜野本行寺に行き、花嬌がかつて記した「掘り抜きの泉」を見ている。花嬌は既に文化7年(1810)、没しており、その哀惜の念からわざわざ本行寺を訪れたものと思われる。

 一茶はその後、本行寺から姉崎の妙経寺へ向かっている。かれはそこで忠僕市兵衛の墓に詣でた。かつて俳人榎本其角が「起きて 聞けこのほととぎす 市兵衛記」という句を残したことにちなんで「起きて聞け 寝てきくまいぞ 市兵衛記」と詠んだというが季語もなく、稚拙な出来栄えのこの句を一茶が詠んだかどうかは怪しい。

 

 山本鉱太郎氏(「房総の街道繁盛記」崙書房 1999)によると…

 富津の大乗寺には女流俳人織本花嬌(富津の豪商で名主織本嘉右衛門の妻。富津西川の名主の家に生まれ、隣村の名主織本家に嫁いだ。名を「その」という)の墓がある。一茶は花嬌の生前に6回、死後に6回も富津を訪れている。

 1810年、花嬌没する。その百日忌の追悼に「朝顔の花もきのふのきのふ哉」の句がある。三回忌には「亡き母や海見る度に見る度に」の句を残している。一茶は3歳で母を亡くしており、女弟子やパトロンとしてだけでなく、あたかも母親のように彼女を慕っていたのだろう。

 「金谷村史」によると一茶は織本家に14回来遊している。江戸から海路、木更津に上陸する場合と陸路、来遊する場合があった。なお一茶は夏目成美(江戸の札差で一茶のパトロン)の紹介で房総に来遊していたため、市原の雪中庵系の俳人とは交流を持たずに素通りしている。しかし織本花嬌は雪中庵門下であるにも関わらず、一茶は足しげく通っているのである。

 

 寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿四国九州を歴遊する。

 享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。

 文化5年(1808年)末には、遺産の半分を貰うことに成功している。取り分は田4~6反、畑3反歩、山林3ヵ所、他に家屋敷半分、世帯道具一式。この財産規模は柏原では中の上ぐらいの持ち高だという。一茶は、実際に文化5年以降は柏原村の本百姓として登録され、6年からは弥太郎名義で年貢も納めている。

 「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」という句を残して文化9年(1812年)11月半ばに、江戸を経ち永住すべき郷里柏原村に向かった。 文化10年(1813年)には、弟との間に取り交わした熟談書付の事にある家屋敷分譲の実行と文化4年(1807年)以前の収入と利息を払えという中味で、最後の激しい遺産争いをした。

 文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。

 残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語症を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。

 文政10年6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。

 『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と一茶自身が記している。

 

・「村田川渡船場跡」の看板

 平成10年設置。明治20年頃まで船による渡しがあった。水戸黄門1674年、実際には用意された舟橋を渡ったようである。また養老川(「二井川」あるいは「飯沼川」ともいった)は歩いて渡ったとのこと。

 小林一茶、十返舎一九もこの渡しを利用。1456年、一族の内紛で馬加康胤が上総に落ち伸びる途中、この近くで捕まって首をはねられ、村田川の川岸にさらされたという。八幡無量寺には康胤の墓と伝える五輪塔が残されている。戊辰戦争時には旧幕府方が川に行く手を阻まれ、ここで官軍と激戦を演じた。川筋に並行して細長く延々と続く公園がかつての村田川の川筋。昔は上総と下総との国境であり、かつては「境川」と呼ばれていた。現在の市原市と千葉市との境でもある。

 一茶の場合、江戸から海路、木更津に上陸する場合と陸路、来遊する場合があった。三回忌の句は海路、富津を訪れた時の印象が基になっているのだろう。

 なお文化12年(1815)、小林一茶が富津の織本家を訪れた帰りに八幡の旅籠で一泊しようとしたが一人旅の者は泊められないと断られて曽我野まで歩くことになってしまった由、記されている。無宿人、渡世人の横行などで治安の悪化が目立ってきた時代の趨勢が伺える。無宿者らを取り締まる関東取り締まり出役が設置されたのはちょうど10年前の文化2年(1805)のことであった。

 文政10年頃(1827)には十返舎一九が八幡を通り、「八幡、八幡宮御みやあり。このところより郡本、山田の方へゆく道あり。豆原(麻綿原か?)へも行く街道なり」と記している。

 

 

34.女達の祀る神仏

 

・子安講とは?

 「子安講と十九度参り」田中喜作 市原地方史研究第17号(H.4)より抜粋して要旨をご紹介いたします。

 

 県内では男子の日待ち講(庚申講など特定の日に集まって飲食を伴う宗教的儀礼が行われていた)に対して若い主婦層が主体となる月待ち講の一つである子安講が存在してきた。正月の20日、2月19日に行われることが多く、婦人ばかりが集まって夜食を共にし、十九夜念仏を唱えて子授け、安産や子供の健やかな成長などを祈願した。かつては毎月19日に行われていたようである。十九夜は「寝待ち月」などともいい、月の出は夜9時頃になる。夜食を食べてから遅い月の出を待って夜半まで祈願が行われたのだろう。

 子安様として祀られるのは主に地蔵や如意輪観音、木花咲耶姫(子安神社や浅間神社の祭り神)、月読命(月を信仰の対象としており、仏教ではもっぱら月を如意輪観音として、神道では月読命として祀っていた)で、他に子安荒神、子安稲荷、子安弘法など地域によっては様々な信仰対象が存在した。十九夜講とか「女オビシャ」ともいう。子安講の盛んな群馬県邑楽郡では各地に十九夜堂や十九夜塔が建てられている。地方によっては安産のシンボルとされた犬が死ぬと難産になると云われ、犬の遺骸は手厚く供養された。

 嫁は十九夜講、姑は二十三夜講(勢至菩薩)、老婆は二十六夜講(愛染明王)といったように世代別で講が違う場合もあった。

 

念仏講中世以降、集落でのお葬式のために組織。音頭取りが数珠をたぐったり、鉦や太鼓で調子をとりながら念仏を唱えた。やがて世代別、性別に様々な講が組織されてくる。女性の講として子安講が組織され、旧暦19日(寝待ち月)、23日(二十三夜月)、26日などに当番の家へ集まり、念仏を唱えて飲食し、夜中に昇る下弦の月を拝んで解散。下総では死産があるとY字の「犬卒塔婆」を立てて供養するという独特の風習があった。船橋市内では十九夜塔が88基、二十三夜塔が29基、二十六夜塔が10基、子安塔が78基で計205基確認されている。

 …「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編著 崙書房 2010)より

 

・女達の祀る神仏

 

 女性達の篤い信仰を集めた月待塔や子安塔などにはいかにも女性好みのふくよかで優しい面立ちや端正な造形に魅力を感じる事が多い。ここではそうした女性達が祀った、穏やかな、温かみのある、愛らしい石造の神仏をまとめてみた。

 多くは我が子の無事出産と無事成長を祈った子安地蔵、子安観音、子安神、それに女たちの月待ち講による如意輪観音や勢至菩薩(市内では十九夜講…如意輪観音が主尊…と二十三夜講…勢至菩薩が主尊…の二つが圧倒的に多い。なお市内では二十三夜待ちは男講であるとの指摘もある=髙澤恒子氏)の石塔である。

 

 

 たいていは子安講として月待ちも行われたので「子安…」塔と「…夜」塔はともに同じ女人講が造塔の主体であり、そのメンバー構成に基本的な差はなかろう。ただ下の阿弥陀如来(山倉墓地内三山塚上、日記念仏講により奉納)は多くの場合、女人講である日記念仏講に加えて「…念仏講」という文字が反対側にある。一文字が破損で判読できないため、必ずしも女性のみの講とは限らないが、阿弥陀如来の顔は極めてふくよかで端正な面立ちであり、像容に女性の好みが強く反映したものと考え、ここに紹介した。

 

 

 

 また上の観音様の仏塔は女性の墓石であるが、おそらく若くして亡くなったのだろう。その口元の可憐さは傑出しているように思えたのでこれも敢えて掲載した。

 

 髙澤氏が紹介している市原市三和地区の新生(あらおい)に伝わる十九夜念仏は以下の通り。

 

  帰命頂礼(きみょうちょうらい)観世音 十九夜十九夜多けれど  

  酉の三月十九日 十九夜御念仏始まりて 往生しらずの札をとる 

  十九夜御堂へ納めおく 死して冥土へ参るとき 八幡万人の血の池を 

  わずかな池へと見て通る

  帰命頂礼観世音 七観音のその中に 如入観音(=如意輪観音)慈悲深き

  世界の女人の身代わりに 血の池地獄にお立ちあり

  血の池逃れる御念仏は 十九夜念仏申すべし 十九夜念仏申すには

  月水(がっすい)を清めて こりをとる明けまで御無用 とりぎりに 

  女人不浄のあさましさ 今朝まで澄みしが早にごる 汝が下の色水を

  すすぎてこぼす尊さや 天も地神も水神も 許させたまえ観世音

  即身成仏南無阿弥陀仏

 

 念仏の内容からも分かる通り、十九夜は月待ち信仰に血盆経信仰が習合して成立したようです。血盆経は中国で10世紀頃儒教の影響を受けて成立したものと考えられ、日本では中世以降、各地に流布するようになりました。女人が経血や産の血によって地神を穢した罪科により、死後、血の池地獄に落ち、苦しみを受けるが、南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで如意輪観音の慈悲により救済されるという教えです。

 元々は男中心であった念仏講から女性達が分離独立し、女だけの十九夜講が生まれてきたのでしょう。もっぱら現当二世(この世とあの世)の安楽を祈願してきた十九夜講はやがて安産子育て、子授けを祈願する子安講に変質しながら女人講として受け継がれていったものと思われます。

 

 これらの神仏は他の石造物と違って小堂に納められている事が多く、鍵がかかっていたりして撮影を諦めた箇所がいくつかある。それはそれで残念だが、他方でこれらの神仏が近年に至るまで地域の女性たちの手で大切に祀られてきたことも察せられよう。特に子安観音や子安地蔵、子安神は多くの場合、小堂に祀られている。出産に伴う苦痛と死の恐怖に耐えるため、また安産を祈るためにかつて女性たちが幾度も幾度も必死に手を合わせ、祈りをささげてきた神仏達。

 おそらく出産を控えた女性たちの不安を和らげるためであろう。神仏達の表情は一様に穏やかで慈愛に満ちた温顔である。子を授かった者の幸せに満ち足りたような、満面の笑みを浮かべた御像もある。

 

 

 

 

 

 お地蔵様がお堂に祀られていることも度々あるが、おそらくそうしたお地蔵様の多くにも、子を早く亡くした女たちの強い想いが反映しているのかもしれない。子どもの墓石はほとんどがお地蔵様である。そうしたお地蔵様は必死に我が子の無事な出産と成長を願い、不幸にして亡くなった子の冥福を祈る女たちの切実な信仰の証といえるかもしれない。とすれば路傍のお地蔵様までもここに加えたいところだが、お地蔵様は数があまりにも多いため今回は子安地蔵に限定しておいた。上の墓石としてのお地蔵様は見るからに愛らしいので一例だけ紹介しておくにとどめよう。

 

 

 戦時中は靖国の母、妻として勇ましく出征していく我が子、我が夫を気丈にも見送る立場の女性たちであったが、その胸中に充てんされていた思いは当然、我が子、我が夫の無事帰還であったろう。小田部の熊野神社には「皇軍武運長久祈願」(昭和15年=皇紀2600年)の碑となぜか並ぶように子安神が祀られている。片又木の十二社神社でも「日支事変出征記念」の碑(やはり昭和15年=皇紀2600年)と向かい合うように子安地蔵が祀られている。その前で愛する者の帰還を密かに、そして切に祈る銃後の女たちの本心が見えてくるようである。

 

栢橋御霊神社の石段

 

 栢橋(かやはし)の御霊神社も集落を見下ろす高台に立地している。社殿に辿りつくためにはかなり急な石段を10数mは登らなければならない。上はその途中で祀られている手水鉢。上の部分がやけに波打って見えるだろう。これは「盃状穴(はいじょうけつ)」といい、御利益があると信じられた石造物を丸くくぼませるように削り取り、それを家に持ち帰るとご利益にあずかれると信じられていた証。市の南部には特に多く見られる。

 では一体、誰がどのような願いを持って急な石段を登り、手水鉢を削ってきたのだろうか…

 

 多くの地域では村を見下ろす丘の上にその村の鎮守が祀られてきた。そうした村々を訪れて鳥居の奥の急な石段を登るとき、幾度か胸騒ぎのような、言いようのない不安な感覚を覚えたことがある。参道を覆うように暗く生い茂る木立ちにふと何かの気配を感ずる事もあった。

 無事出産をはたし、苦労を重ねながらも無事成長してきた我が子の出征を、その歳月を思い返しつつ作り笑顔で見送らなければならなかった女たちの無念さが、鎮守の森の奥に今も漂い続けているように感ずることがあるのだ。

 あるいは腰の曲がった老婆が闇の中、その急な石段を、息を切らせて登り降りし、息子の為に、孫の為にお百度参りする…そうした思いつめたような女たちの顔が時折、木陰に見え隠れし、突然、耳元でその激しい息遣いまで聞こえてくる…そんな気配に囚われ、石段の途中で足を止め、思わず辺りを見回してみる。

 何事もなく、ただ鳥たちの囀る声が遠く近く、きこえてくるだけ。

 唐突に風が吹き、鎮守の木々がざわめく時、森の中に想いのかなわなかった女たちの悲痛な叫びが幾度もこだましているように感ずる時がある。

 女達が祀る神仏からその優しげな面立ちの裏に、幾度もむなしく男達を見送り続けてきた、悲哀に満ちた女たちの歴史が少しだけ垣間見えるような気がする時がある。

 

 子安地蔵や子安観音、子安神の御顔はそうした苦難の時を幾つも越えて今も柔和そのものである。とりわけ廿五里東泉院の子安地蔵と大坪諏訪神社の子安観音はおおらかな微笑みをたたえていておおいに癒される。そして喜多神社の子安神の慈愛に満ち満ちた表情…こうした神仏を前にして必死で拝んできた女たちの歳月とそれぞれの想いをしばし空想してみるのも良いだろう。

 

参考資料:江戸時代の暦と時刻

 「日本人のしきたり」(飯倉晴武編著 青春出版 2003)より

・暦

太陰太陽暦:月の満ち欠けはおよそ29.5日の周期。そこで大の月を30日、小の月を29日として原則一年=354とする。ただし大の月と小の月は数列的な法則性をもって設置されておらず、三カ月連続で大の月であったり、小の月であったりする。また大の月が年に6回のときもあれば7回の年もある。これでとりあえず月の満ち欠けを基本とする月の設定はできるが太陽年(一年=365日)とのズレは年に11日に達するため、季節のズレは19年間に7回の閏月(30日)を設けて補正した。この時は一年13カ月となる。ただしどの月が閏月となるかの数列的な法則性はここでも見られない。また閏月は小の月(29日)が多いが、大の月(30日)もたまにある。このように旧暦はきわめて変則的な暦であるため、正確な暦を必要とするものは毎年、その年の暦を購入する必要があった。旧暦の日月を新暦に換算するには新旧暦対照表を見なければまず無理である。明治6年(1873)から太陽暦へ移行。

 現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に対して中国から伝来した太陰暦は月の満ち欠けを基本。新月から始まって15日を満月の日。ただし月の満ち欠けの周期は約29なので太陽の公転による季節の変化とはズレが生じてしまう。そこで旧暦では太陽の一回帰年を24等分した二十四節季等を加えたため、太陽暦の要素もあることから正式には太陽太陰暦といえる明治5年(1872)に太陽暦に改められたが、年中行事は暦日が約一カ月早められたために季節とのズレが生まれ、旧暦で715日に行われていたお盆が815日にずらされたりして調整された行事もあるが、季節からずれたまま行われている行事もあり、統一を欠くようになってしまった。

  二十四節季は春分や秋分、夏至と冬至、立春、立秋、大寒などで中国の戦国時代に考案されたが、元来中国の季節感に基いており、気候の違う日本にはなじまないものもあった。そこで土用や八十八夜、入梅、二百十日など雑節をとりいれて日本の気候風土に合うようにしたのが日本の旧暦

 

・時刻

1時間=60分の定時法に対して不定時法といい、季節に無関係に昼夜をそれぞれ6等分した時間を一刻と称した。季節によって、また昼と夜によって一刻の長さは違ってくる(最大で40分以上の差)。時刻の呼び名は二通りある。十二支呼称では真夜中を子の刻、真昼を午の刻(正午)とする。午の刻以前は「午前」、以後は「午後」とされる。一刻は平均二時間となるが、これをさらに四等分して「丑三つ刻」(春分や秋分の日ならば午前2時から午前2時半までにあたる)などと呼んだ。この場合には「一つ」「二つ」「三つ」「四つ」の順に呼ぶ。

 数呼称は子の刻を「暁九つ」と呼び、一つずつ減らして「暁八つ」「暁七つ」「明け六つ」、「朝五つ」「四つ」。「昼九つ」「昼八つ」(…「おやつ」)「昼七つ」「暮れ六つ」、「夜五つ」「夜四つ」となる。江戸時代はこの数呼称を「時」、十二支呼称を「刻」と呼んでいた。実際、落語の「時蕎麦」では「ところで今、何時(なんどき)だい?」と客がそば屋に尋ねる場面があるが、そば屋は「亥の刻」とは答えずに「へい、四つ時でございます」と数呼称で答えている。

 

・主な月齢及びその呼称と月の出時刻

新月

6:00

十六夜(いざよい)月

18:30

二日月

7:30

立待月(17日)

19:00

三日月

8:30

居待月(18日)

20:00

七日月

11:30

寝待月:臥待月(19日)

21:00

上弦の月(8日)

12:30

更待月:宵闇月(20日)

22:00

九日月

13:30

下弦の月(22日)

22:30

十日余りの月(11日)

14:30

二十三夜月

23:00

十三夜月(小望月)

16:30

 

 

望月(十五夜)

18:00