34.女達の祀る神仏

 

・子安講とは?

 「子安講と十九度参り」田中喜作 市原地方史研究第17号(H.4)より抜粋して要旨をご紹介いたします。

 

 県内では男子の日待ち講(庚申講など特定の日に集まって飲食を伴う宗教的儀礼が行われていた)に対して若い主婦層が主体となる月待ち講の一つである子安講が存在してきた。正月の20日、2月19日に行われることが多く、婦人ばかりが集まって夜食を共にし、十九夜念仏を唱えて子授け、安産や子供の健やかな成長などを祈願した。かつては毎月19日に行われていたようである。十九夜は「寝待ち月」などともいい、月の出は夜9時頃になる。夜食を食べてから遅い月の出を待って夜半まで祈願が行われたのだろう。

 子安様として祀られるのは主に地蔵や如意輪観音、木花咲耶姫(子安神社や浅間神社の祭り神)、月読命(月を信仰の対象としており、仏教ではもっぱら月を如意輪観音として、神道では月読命として祀っていた)で、他に子安荒神、子安稲荷、子安弘法など地域によっては様々な信仰対象が存在した。十九夜講とか「女オビシャ」ともいう。子安講の盛んな群馬県邑楽郡では各地に十九夜堂や十九夜塔が建てられている。地方によっては安産のシンボルとされた犬が死ぬと難産になると云われ、犬の遺骸は手厚く供養された。

 嫁は十九夜講、姑は二十三夜講(勢至菩薩)、老婆は二十六夜講(愛染明王)といったように世代別で講が違う場合もあった。

 

念仏講中世以降、集落でのお葬式のために組織。音頭取りが数珠をたぐったり、鉦や太鼓で調子をとりながら念仏を唱えた。やがて世代別、性別に様々な講が組織されてくる。女性の講として子安講が組織され、旧暦19日(寝待ち月)、23日(二十三夜月)、26日などに当番の家へ集まり、念仏を唱えて飲食し、夜中に昇る下弦の月を拝んで解散。下総では死産があるとY字の「犬卒塔婆」を立てて供養するという独特の風習があった。船橋市内では十九夜塔が88基、二十三夜塔が29基、二十六夜塔が10基、子安塔が78基で計205基確認されている。

 …「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編著 崙書房 2010)より

 

・女達の祀る神仏

 

 女性達の篤い信仰を集めた月待塔や子安塔などにはいかにも女性好みのふくよかで優しい面立ちや端正な造形に魅力を感じる事が多い。ここではそうした女性達が祀った、穏やかな、温かみのある、愛らしい石造の神仏をまとめてみた。

 多くは我が子の無事出産と無事成長を祈った子安地蔵、子安観音、子安神、それに女たちの月待ち講による如意輪観音や勢至菩薩(市内では十九夜講…如意輪観音が主尊…と二十三夜講…勢至菩薩が主尊…の二つが圧倒的に多い。なお市内では二十三夜待ちは男講であるとの指摘もある=髙澤恒子氏)の石塔である。

 

 

 たいていは子安講として月待ちも行われたので「子安…」塔と「…夜」塔はともに同じ女人講が造塔の主体であり、そのメンバー構成に基本的な差はなかろう。ただ下の阿弥陀如来(山倉墓地内三山塚上、日記念仏講により奉納)は多くの場合、女人講である日記念仏講に加えて「…念仏講」という文字が反対側にある。一文字が破損で判読できないため、必ずしも女性のみの講とは限らないが、阿弥陀如来の顔は極めてふくよかで端正な面立ちであり、像容に女性の好みが強く反映したものと考え、ここに紹介した。

 

 

 

 また上の観音様の仏塔は女性の墓石であるが、おそらく若くして亡くなったのだろう。その口元の可憐さは傑出しているように思えたのでこれも敢えて掲載した。

 

 髙澤氏が紹介している市原市三和地区の新生(あらおい)に伝わる十九夜念仏は以下の通り。

 

  帰命頂礼(きみょうちょうらい)観世音 十九夜十九夜多けれど  

  酉の三月十九日 十九夜御念仏始まりて 往生しらずの札をとる 

  十九夜御堂へ納めおく 死して冥土へ参るとき 八幡万人の血の池を 

  わずかな池へと見て通る

  帰命頂礼観世音 七観音のその中に 如入観音(=如意輪観音)慈悲深き

  世界の女人の身代わりに 血の池地獄にお立ちあり

  血の池逃れる御念仏は 十九夜念仏申すべし 十九夜念仏申すには

  月水(がっすい)を清めて こりをとる明けまで御無用 とりぎりに 

  女人不浄のあさましさ 今朝まで澄みしが早にごる 汝が下の色水を

  すすぎてこぼす尊さや 天も地神も水神も 許させたまえ観世音

  即身成仏南無阿弥陀仏

 

 念仏の内容からも分かる通り、十九夜は月待ち信仰に血盆経信仰が習合して成立したようです。血盆経は中国で10世紀頃儒教の影響を受けて成立したものと考えられ、日本では中世以降、各地に流布するようになりました。女人が経血や産の血によって地神を穢した罪科により、死後、血の池地獄に落ち、苦しみを受けるが、南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで如意輪観音の慈悲により救済されるという教えです。

 元々は男中心であった念仏講から女性達が分離独立し、女だけの十九夜講が生まれてきたのでしょう。もっぱら現当二世(この世とあの世)の安楽を祈願してきた十九夜講はやがて安産子育て、子授けを祈願する子安講に変質しながら女人講として受け継がれていったものと思われます。

 

 これらの神仏は他の石造物と違って小堂に納められている事が多く、鍵がかかっていたりして撮影を諦めた箇所がいくつかある。それはそれで残念だが、他方でこれらの神仏が近年に至るまで地域の女性たちの手で大切に祀られてきたことも察せられよう。特に子安観音や子安地蔵、子安神は多くの場合、小堂に祀られている。出産に伴う苦痛と死の恐怖に耐えるため、また安産を祈るためにかつて女性たちが幾度も幾度も必死に手を合わせ、祈りをささげてきた神仏達。

 おそらく出産を控えた女性たちの不安を和らげるためであろう。神仏達の表情は一様に穏やかで慈愛に満ちた温顔である。子を授かった者の幸せに満ち足りたような、満面の笑みを浮かべた御像もある。

 

 

 

 

 

 お地蔵様がお堂に祀られていることも度々あるが、おそらくそうしたお地蔵様の多くにも、子を早く亡くした女たちの強い想いが反映しているのかもしれない。子どもの墓石はほとんどがお地蔵様である。そうしたお地蔵様は必死に我が子の無事な出産と成長を願い、不幸にして亡くなった子の冥福を祈る女たちの切実な信仰の証といえるかもしれない。とすれば路傍のお地蔵様までもここに加えたいところだが、お地蔵様は数があまりにも多いため今回は子安地蔵に限定しておいた。上の墓石としてのお地蔵様は見るからに愛らしいので一例だけ紹介しておくにとどめよう。

 

 

 戦時中は靖国の母、妻として勇ましく出征していく我が子、我が夫を気丈にも見送る立場の女性たちであったが、その胸中に充てんされていた思いは当然、我が子、我が夫の無事帰還であったろう。小田部の熊野神社には「皇軍武運長久祈願」(昭和15年=皇紀2600年)の碑となぜか並ぶように子安神が祀られている。片又木の十二社神社でも「日支事変出征記念」の碑(やはり昭和15年=皇紀2600年)と向かい合うように子安地蔵が祀られている。その前で愛する者の帰還を密かに、そして切に祈る銃後の女たちの本心が見えてくるようである。

 

栢橋御霊神社の石段

 

 栢橋(かやはし)の御霊神社も集落を見下ろす高台に立地している。社殿に辿りつくためにはかなり急な石段を10数mは登らなければならない。上はその途中で祀られている手水鉢。上の部分がやけに波打って見えるだろう。これは「盃状穴(はいじょうけつ)」といい、御利益があると信じられた石造物を丸くくぼませるように削り取り、それを家に持ち帰るとご利益にあずかれると信じられていた証。市の南部には特に多く見られる。

 では一体、誰がどのような願いを持って急な石段を登り、手水鉢を削ってきたのだろうか…

 

 多くの地域では村を見下ろす丘の上にその村の鎮守が祀られてきた。そうした村々を訪れて鳥居の奥の急な石段を登るとき、幾度か胸騒ぎのような、言いようのない不安な感覚を覚えたことがある。参道を覆うように暗く生い茂る木立ちにふと何かの気配を感ずる事もあった。

 無事出産をはたし、苦労を重ねながらも無事成長してきた我が子の出征を、その歳月を思い返しつつ作り笑顔で見送らなければならなかった女たちの無念さが、鎮守の森の奥に今も漂い続けているように感ずることがあるのだ。

 あるいは腰の曲がった老婆が闇の中、その急な石段を、息を切らせて登り降りし、息子の為に、孫の為にお百度参りする…そうした思いつめたような女たちの顔が時折、木陰に見え隠れし、突然、耳元でその激しい息遣いまで聞こえてくる…そんな気配に囚われ、石段の途中で足を止め、思わず辺りを見回してみる。

 何事もなく、ただ鳥たちの囀る声が遠く近く、きこえてくるだけ。

 唐突に風が吹き、鎮守の木々がざわめく時、森の中に想いのかなわなかった女たちの悲痛な叫びが幾度もこだましているように感ずる時がある。

 女達が祀る神仏からその優しげな面立ちの裏に、幾度もむなしく男達を見送り続けてきた、悲哀に満ちた女たちの歴史が少しだけ垣間見えるような気がする時がある。

 

 子安地蔵や子安観音、子安神の御顔はそうした苦難の時を幾つも越えて今も柔和そのものである。とりわけ廿五里東泉院の子安地蔵と大坪諏訪神社の子安観音はおおらかな微笑みをたたえていておおいに癒される。そして喜多神社の子安神の慈愛に満ち満ちた表情…こうした神仏を前にして必死で拝んできた女たちの歳月とそれぞれの想いをしばし空想してみるのも良いだろう。

 

参考資料:江戸時代の暦と時刻

 「日本人のしきたり」(飯倉晴武編著 青春出版 2003)より

・暦

太陰太陽暦:月の満ち欠けはおよそ29.5日の周期。そこで大の月を30日、小の月を29日として原則一年=354とする。ただし大の月と小の月は数列的な法則性をもって設置されておらず、三カ月連続で大の月であったり、小の月であったりする。また大の月が年に6回のときもあれば7回の年もある。これでとりあえず月の満ち欠けを基本とする月の設定はできるが太陽年(一年=365日)とのズレは年に11日に達するため、季節のズレは19年間に7回の閏月(30日)を設けて補正した。この時は一年13カ月となる。ただしどの月が閏月となるかの数列的な法則性はここでも見られない。また閏月は小の月(29日)が多いが、大の月(30日)もたまにある。このように旧暦はきわめて変則的な暦であるため、正確な暦を必要とするものは毎年、その年の暦を購入する必要があった。旧暦の日月を新暦に換算するには新旧暦対照表を見なければまず無理である。明治6年(1873)から太陽暦へ移行。

 現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に対して中国から伝来した太陰暦は月の満ち欠けを基本。新月から始まって15日を満月の日。ただし月の満ち欠けの周期は約29なので太陽の公転による季節の変化とはズレが生じてしまう。そこで旧暦では太陽の一回帰年を24等分した二十四節季等を加えたため、太陽暦の要素もあることから正式には太陽太陰暦といえる明治5年(1872)に太陽暦に改められたが、年中行事は暦日が約一カ月早められたために季節とのズレが生まれ、旧暦で715日に行われていたお盆が815日にずらされたりして調整された行事もあるが、季節からずれたまま行われている行事もあり、統一を欠くようになってしまった。

  二十四節季は春分や秋分、夏至と冬至、立春、立秋、大寒などで中国の戦国時代に考案されたが、元来中国の季節感に基いており、気候の違う日本にはなじまないものもあった。そこで土用や八十八夜、入梅、二百十日など雑節をとりいれて日本の気候風土に合うようにしたのが日本の旧暦

 

・時刻

1時間=60分の定時法に対して不定時法といい、季節に無関係に昼夜をそれぞれ6等分した時間を一刻と称した。季節によって、また昼と夜によって一刻の長さは違ってくる(最大で40分以上の差)。時刻の呼び名は二通りある。十二支呼称では真夜中を子の刻、真昼を午の刻(正午)とする。午の刻以前は「午前」、以後は「午後」とされる。一刻は平均二時間となるが、これをさらに四等分して「丑三つ刻」(春分や秋分の日ならば午前2時から午前2時半までにあたる)などと呼んだ。この場合には「一つ」「二つ」「三つ」「四つ」の順に呼ぶ。

 数呼称は子の刻を「暁九つ」と呼び、一つずつ減らして「暁八つ」「暁七つ」「明け六つ」、「朝五つ」「四つ」。「昼九つ」「昼八つ」(…「おやつ」)「昼七つ」「暮れ六つ」、「夜五つ」「夜四つ」となる。江戸時代はこの数呼称を「時」、十二支呼称を「刻」と呼んでいた。実際、落語の「時蕎麦」では「ところで今、何時(なんどき)だい?」と客がそば屋に尋ねる場面があるが、そば屋は「亥の刻」とは答えずに「へい、四つ時でございます」と数呼称で答えている。

 

・主な月齢及びその呼称と月の出時刻

新月

6:00

十六夜(いざよい)月

18:30

二日月

7:30

立待月(17日)

19:00

三日月

8:30

居待月(18日)

20:00

七日月

11:30

寝待月:臥待月(19日)

21:00

上弦の月(8日)

12:30

更待月:宵闇月(20日)

22:00

九日月

13:30

下弦の月(22日)

22:30

十日余りの月(11日)

14:30

二十三夜月

23:00

十三夜月(小望月)

16:30

 

 

望月(十五夜)

18:00