53.市内で最もミステリアスな神社

 

 

 

 

 市内の祠の中でひときわ異彩を放つのが山倉源社の祠群ではないか。祠は小さいものが多く形態はありふれたものだが、「源重俊」「源俊政」などと謎の神名を記す以外、年号も記されない祠が立ち並ぶ。この「源~」という名の複数の人物はネットでいくら検索しても出てこない。ここには他に石製の占星盤(天台宗系か)と思しき八角形の石造物(下の写真)もあり、実に謎の多い社である。

 

 

 なお「源重俊」等の神号については次のような推測もできよう。実は千葉市にあった生実藩(おゆみ)の藩主森川氏は宇多源氏六角氏の一族堀部氏の庶流にあたるという。従ってその初代藩主重俊は正式には「源重俊」と名乗ることになる。

 ならば神号の「源重俊」は森川重俊の可能性があろう。生実ならば山倉から三里も隔たってはいない。

 老中まで出世したにも関わらず、二代将軍秀忠に殉死した重俊の名声は市原でも高かったはずであり、彼が山倉の地でやがて神として祀られたとしてもそれほど違和感は無い。他の祠に出てくる「源俊政」も森川一族の一員なのかもしれない。

 参考までに生実藩主名を順に挙げておく。重俊―重政―重信―俊胤―俊常―俊令―俊孝―俊知―俊民―俊位―俊徳―俊方。確かに「俊政」の名は見られないが、四代目以降「俊」で始まっており、この神社が生実藩との何らかの関係を持っていた可能性は無きにしもあらず、であろう。

 果たして森川氏と山倉村やこの神社との関係は如何に?

 

  天保10年(1839)の三所大権現(出羽三山の神々)碑に記された廣幡八幡は千葉県柏市にある古社だが、なぜここに記されているのか…謎。三所大権現(出羽三山の神々)碑をまつってあるので、ここが八日講の開かれた場所であることは間違いないのだが…他に垂水大明神、剱宮、方違大明神、宇佐神、鎮火(これも火防の神のことで秋葉の神と重なる)など、様々な神をそれぞれ祠にして祀ってある。それらの多くが市内では類例のない神号ばかり。

 そもそもなぜこのような各種の神をこの地に集合的に祀る必要があったのか…天台宗に通じていない身としてはもはや完全にお手上げである。

 

 

 

 占星盤といい、意味ありげでありながら意味不明の石祠群といい、これほどまでにミステリーに満ちた神社はカッパ自身、見たことが無い。

 どなたか、これらの謎解きに挑戦される方、どこかにいらっしゃらないだろうか。

 とりあえず探訪されたい方は以下の地図を参考にしてください。

 

 上の地図に出てくる「千葉こどもの国キッズダム」が一番の目安。小湊鉄道の海士有木駅から徒歩で30分弱だと思います。

 下の地図の中央、やや下方にある「八幡宮」が別名「源社」です。境内は狭く、駐車スペースはありません。自動車で行かれる場合は坂を上った先の春日神社手前にスペースがあるかもしれません。道が狭いので、十分に気を付けて探訪してください。

 

 

 

52.市内における江戸時代の石祠概観(後編)

 

 庚申塔自体が村はずれに祀られることが多い(疫病神の侵入を防ぐため)。左の写真にように藪の中の場合もあって、祠の場合、低くて小さいため、極めて見つけにくい石造物の代表格である。

 

・市内の石祠概観 

 これまでの踏査の結果を踏まえると年代が特定できるものに限定したとしても市内にはおそらく江戸期の石祠が400基前後は現存しているものと推測する。年代が特定できないもの(元号等の記されていないものや破損、摩耗して判読困難なもの)のうち、外見から江戸時代のものと推定されるものを加えればその倍近くは現存しているであろう。

 今のところ市内の石祠に対する組織的な悉皆調査は行われていないようであるが、個人の屋敷内や山林の中にもポツンと祀られることがよくあるこの石造物の全貌を掴むことは極めて難しいに違いない。まして個人的な努力では市内の石祠を調べつくすことはおよそ不可能であると思われる。以下はカッパが把握できたわずかな石祠をもとに雑駁な印象を述べたものに過ぎないことをまずはご了承願いたい。

 年代のはっきりしているものの内、17世紀の石祠はやはり数が極めて限られている。しかも三猿を刻んだ庚申祠がそのほとんどを占めているようだ。私が把握できている限りではあるが、庚申祠以外の祠が出現するのは基本的に18世紀以降である。

 

 17世紀を中心とする古い祠の場合、外観の特色としては屋根の部分に重厚感があり、母屋にあたる箇所も奥行きがかなりあることも手伝ってか全体的にドッシリとして落ち着いた印象を与える。

 18世紀後半に入ると直線的な輪郭が目立つようになり、次第に軽快、スリムでシャープな印象を持つものが出てくる。また18世紀中頃から奥行きが失われていく分、高さが増してくるような傾向も一部に見受けられる。

 

 

   ただ19世紀、化政期を過ぎる頃からは屋根部分も含めて様々な意匠が登場するなど多様化が進む一方で倒壊を恐れてか、気持ち祠全体の高さは失われてくるようである。また幕末に向けて少しばかり切妻屋根が目立ってくる印象も受ける。

 

 左の祠は「清正公大神祇」とあり、加藤清正を神格化したもので性病に効験ありとされ、日蓮宗系の石造物として市内唯一のもの。ただし、近年、見かけられなくなった。屋根部分が欠損しているので廃棄されてしまったようである。

 

 

 17世紀の祠は庚申信仰によるものが多いため、講のメンバーが集まり大勢で祀ったと考えられる。従って何れも造りが凝っていて多彩であり、それぞれにそれなりの風格がある。18世紀に入っても道祖神や天神を祀る祠、あるいは国分寺台にある根田神社の境外社のように村人全体の為に祀られる祠の場合にはやはり造りが立派な物が見られる。その一方で18世紀以降、稲荷社や疱瘡神など個人的祈願に強く関わる祠が数多く出現したためか、小さくてやや画一的なデザインの祠が目立ってくる。それらの祠のなかには当初、個人の屋敷神として祀られていてやがて神社に遷されたものも少なからずあるだろう。

 なお数の多い子安神系の祠は子安講で造られたものとは限られず、個人的な安産祈願で祀られたものも一部あると思われ、一括りにはできないように思える。

 民衆の成長が見られた江戸時代後半は他の石造物に比べて安価で持ち運びが容易な事もあって各地で石祠が大量に祀られるようになったと思われる。祀られた神々も前半と比べて明らかに多彩である。中には馬頭観音を祀る祠もある。神仏習合が進んだ江戸時代、たとえば出羽三山や富士信仰の流行によって塚上に「…菩薩」「…大権現」という神号をもつ祠が数多く造られている。

 また交通の発達がもたらした負の側面、伝染病の猛威を偲ばせる「牛頭天王」や「疱瘡神」「麻疹神」「大杉大明神」「妙正大明神」の祠も後半には多くなってくる。ただし道祖神の祠は早くから疫病除けの願いが込められて村はずれに祀られてきたせいなのだろう。江戸時代を通じてほぼコンスタントに祀られてきたことが年表から推測できる。

 

 

50.市内の題目塔及び日蓮・日什・日泰供養塔

 

 

市内の題目塔及び日蓮・日什・日泰供養塔一覧

 

所在地

年代

人物

その他

1

八幡妙長寺日蓮像

寛文4年=1664

日蓮

 

2

久々津本照寺題目塔

享保3年=1718

 

 

3

瀬又正連寺題目塔

享保6年=1721

 

 

4

有木泰安寺題目塔

享保13年=1728

 

門右

5

有木泰安寺供養塔

同上

日什

読誦塔

6

神崎真浄寺題目塔

享保14年=1729

 

法界(三界)万霊

7

滝口本妙寺題目塔

同上

 

 

8

永吉永久寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

9

根田根立寺題目塔

享保16年=1731

日蓮

日蓮450遠忌

10

有木泰安寺供養塔

同上

日蓮

450遠忌

11

姉崎妙経寺供養塔

同上

日蓮

450遠忌

12

東国吉妙照寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

13

潤井戸泰行寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

14

中野光徳寺題目塔

同上

日蓮

 

15

新堀法光寺題目塔

享保17年=1732

 

 

16

天羽田安誠寺日蓮像

享保20年=1735

日蓮

 

17

姉崎妙経寺題目塔

同上

 

門左・自我偈読誦塔

18

福増本念寺題目塔

元文元年=1736

 

 

19

滝口本妙寺供養塔

元文2年=1737

日蓮・日什

 

20

姉崎妙経寺供養塔

元文6年=1741

日什

250回忌

21

八幡円頓寺供養塔

同上

日什

 

22

天羽田安誠寺題目塔

延享2年=1745

 

 

23

山木妙栄寺題目塔

延享3年=1746

 

 

24

山田佛蔵寺題目塔

寛延3年=1750

 

 

25

原田本傳寺題目塔

宝暦3年=1753

 

 

26

喜多寿福寺供養塔

宝暦4年=1754

日蓮・日什

 

27

下野本泰寺題目塔

宝暦6年=1756

 

2基

28

姉崎妙経寺題目塔

同上

 

墓地・法界万霊

29

草刈行光寺題目塔

宝暦8年=1758

 

 

30

有木泰安寺題目塔

宝暦11年=1761

 

門左

31

下野本泰寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

32

下野本泰寺題目塔

同上

日什

供養塔

33

加茂長栄寺題目塔

宝暦13年=1763

 

 

34

犬成安立寺供養塔

明和3年=1766

日蓮

 

35

島野善龍寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

36

八幡円頓寺供養塔

明和4年=1767

日泰

八幡の権八

37

永吉永久寺題目塔

明和9年=1772

日蓮

供養塔

38

久々津本照寺供養塔

安永2年=1773

日什・日泰

法界万霊

39

潤井戸青年館題目塔

安永7年=1778

 

 

40

中野光徳寺五輪塔

安永8年=1779

日蓮

日蓮500遠忌

41

櫃挾東泉寺題目塔

同上

 

写経塔

42

野毛法泉寺宗祖開山塔

安永9年=1780

日蓮・日什

 

43

八幡妙長寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

44

瀬又正蓮寺題目塔

安永10年=1781

 

 

45

古市場妙長寺題目塔

同上

日蓮

500遠忌

46

下矢田法円寺題目塔

同上

 

 

47

番場墓地題目塔

同上

日蓮

左・500遠忌

48

山木妙栄寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

49

皆吉妙蔵寺題目塔

同上

 

 

50

永吉永久寺題目塔

天明元年=1781

 

門左

51

潤井戸光福寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

52

古都辺行福寺供養塔

同上

日蓮・日什

500遠忌

53

天羽田安誠寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

54

姉崎長遠寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

55

八幡胴埋塚題目塔

天明2年=1782

 

法界万霊

56

畑木墓地題目塔

天明6年=1786

 

 

57

姉崎圓能寺供養塔

天明8年=1788

日蓮・日什

 

58

姉崎真如堂供養塔

寛政4年=1792

日蓮

 

59

島野善龍寺題目塔

寛政6年=1794

酒巻氏

写経塔・供養塔

60

野毛法泉寺題目塔

寛政9年=1797

 

写経塔

61

喜多寿福寺題目塔

寛政11年=1799

 

 

62

加茂長栄寺題目塔

享和2年=1802

 

法界万霊

63

東国吉妙照寺題目塔

享和3年=1803

 

 

64

金剛地本宮寺題目塔

文化元年=1804

 

法界万霊

65

姉崎真如堂題目塔

文化5年=1808

 

 

66

松崎圓成寺題目塔

文化8年=1811

 

 

67

海士有木墓地題目塔

同上

 

日枝神社側

68

八幡妙長寺題目塔

文化12年=1815

 

 

69

八幡円頓寺題目塔

文化13年=1816

 

安藤佐平治

70

潤井戸泰行寺題目塔

文化年間

 

年号判読困難

71

中野光徳寺題目塔

文政2年=1819

 

 

72

有木泰安寺題目塔

同上

 

経典塔

73

東国吉妙照寺供養塔

文政5年=1822

日什・日泰

 

74

下野本泰寺題目塔

文政10年=1827

 

 

75

本郷西光寺題目塔

同上

 

 

76

山木妙栄寺題目塔

文政11年=1828

日蓮

経典・供養塔

77

永吉永久寺題目塔

文政12年=1829

 

門右

78

潤井戸光福寺題目塔

文政13年=1830

日蓮

供養塔

79

古市場妙長寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

80

番場墓地題目塔

同上

 

81

中野光徳寺題目塔

同上

日蓮550遠忌

供養塔

82

根田根立寺題目塔

天保2年=1831

 

 

83

根田根立寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

84

瀬又正連寺題目塔

同上

日蓮

奥・550遠忌

85

中野光徳寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

86

久々津本照寺供養塔

天保3年=1832

日蓮

 

87

下野本泰寺題目塔

天保5年=1834

日蓮

供養塔

88

久々津本照寺供養塔

天保12年=1841

日什

 

89

奈良本泉寺題目塔

弘化5年=1848

日什

安藤佐平治

90

大作法行寺供養塔

安政2年=1855

日蓮・日什

 

 ※他に年代等が判読困難なものとして題目塔では姉崎圓能寺、椎津行傳寺のものが挙げられる。また

  山田佛蔵寺の日蓮供養塔、山木妙栄寺の日蓮像、新堀法光寺の日蓮供養塔も年代不明。

 

 宗教法人名簿によると寺院数で40か寺、市内2位の数を誇る日蓮宗の寺院には他の宗派に祀られているような石造物が極めて少なく、石造物のレパートリーが相当限られていることで知られる。特に千葉市と隣接する市域は「七里法華」地帯に属するため、八幡や菊間といった一部の地域を除くと日蓮宗寺院が圧倒的に多く、多様な石造物には恵まれているとは言いがたいゾーンである。このため筆者としてはかねて苦手意識を感じてきた領域であるが、ようやくにして日蓮宗系石造物のデータがそれなりにたまってきた。そろそろ整理して考察を加えるべき時期に来たようである。

 日蓮宗寺院独特の石造物として特筆すべきものは題目塔と日蓮等の供養塔の二種であろう。それらの市内における石造物をひとまず年代順に整理したのが上記の一覧表である。

 日蓮宗寺院は開祖日蓮(1222~1282)の450回忌(1731年)、500回忌(1781年)、550回忌(1831年)を祈念した供養塔(顕本法華宗・妙満寺派の場合には日什や日泰の供養塔も)を年忌法要の前後に建てている。そのことが一覧表からも確認できる。特に市内の日蓮宗寺院の中で大きな影響力を持っていた中野光徳寺はそれぞれの御遠忌に題目塔や供養塔を必ず建立している。なお姉崎妙経寺の日什250回忌の供養塔一基を例外とすると日什や日泰の供養塔に関してはさほど「・・・回忌」というタイミングは考慮されていないようである。開祖日蓮の突出した立場がここからも窺える。

 日什(1314~1392)は南北朝期、様々な門流に分裂してしまった教団の状況を憂えて法華経及び日蓮の著作のみを奉ずる立場をとり、京都に妙満寺を創建した。この日什門流から妙満寺派や顕本法華宗が生じ、市内には姉崎の妙経寺など有力な顕本法華宗寺院が存在している。日什の供養塔が祀られている寺院は基本的には顕本法華宗に属すると考えて良い。

 日泰(1432~1506)は妙満寺派に属し、武蔵国品川を拠点にして江戸湾沿岸部への布教に努めていた。伝説ではある日、土気城主酒井定隆が安房の里見氏を訪れるために品川から乗船したところ沖合で暴風雨に見舞われ、乗り合わせた日泰の祈祷で無事、浜野に到達できたことで日泰に深く帰依するようになったという。

 日泰は文明元年(1469)、浜野に本行寺を創建、文明5年には品川に本光寺を再興するなど、江戸湾の海上交通を利用して当時盛んに布教活動を行っていたようである。酒井定隆を弟子にした日泰はさらに教線の拡大をはかるため、酒井に働きかけて「改宗令」を出させたようだ。そうしたこともあってか長享2年(1488)、千葉から土気、東金にかけて支配を拡大した酒井定隆は領内一円に日蓮宗を強制する「改宗令」を出したという。これに反対する寺院は破却されるか、移転を余儀なくされた(菊間の千光院等)とも言われる。

 以後、約100年間、酒井氏五代に渡って日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)が領内に浸透し、現在でも山武の南部から市原北部と千葉までのおよそ七里四方は日蓮宗寺院280か寺を数える(上総七里法華)。特に茂原、東金、大網に密度が濃い。「改宗令」の真偽はともかく、日蓮宗寺院がこれだけ密集して存在するのは全国的にも珍しいという。市原市でも八幡円頓寺は日泰が老後を過ごした寺であり、顕本法華宗の勢力は七里法華にかかる市の北部を中心に円頓寺をはじめとして姉崎妙経寺など市内の各地にも及んでいる。

 日泰が創建した浜野の本行寺は江戸時代になって御禁制の不受不施派に共鳴する住職が続いたため、本行寺の影響が強かった七里法華の地域の僧侶や信者が幾度か幕府に厳しく弾圧されていた。

 不受不施派は豊臣秀吉が1595年に方広寺供養のために諸宗派の僧を呼び集めた際、日蓮宗の中から日蓮宗を信仰しない者の施しを受けることや施しをすることを潔しとせず、一切の招きにも応じない反骨の姿勢を貫く立場をとる者(日奥)が出たことをきっかけに成立したもの。江戸時代になってその反権力的な姿勢が幕府からにらまれたためキリシタン同様、弾圧の対象とされた。 

 ※同様の動きは備前、備中でも見られたようだ。

 たとえば寛永12年(1635)、日浄と四人の信者が野田(千葉市緑区誉田町)で斬首され、万治元年(1660)には本行寺の日逞が伊豆大島に流罪となっている。日逞は流罪後も島から手紙を信者に送るなどして布教を続けた。処刑を恐れた信者の一部はそれでも信仰を守ろうとして表向きは他宗の寺院に属しながらも、「納戸題目」「内證題目」などと称し、隠れ部屋などで密かにお経を唱え続けたという。

 さて一覧表を見たときに気づくのは日蓮宗系石造物が18世紀以降になってから目立ってくることである。17世紀のものは八幡妙長寺の日蓮像のみ。しかもこれは墓地内から再発見されたものという。幕府による不受不施派への過酷な弾圧は日蓮宗寺院全体をも萎縮させていたのだろうか?七里法華地帯を有する市原地区への幕府の、17世紀における警戒感は相当強かったに違いない。記念すべき日蓮の400遠忌は1681年にあたる。しかし筆者は400遠忌の供養塔を市内では一基も確認できていない。17世紀後半、既に市内各地で石造物が盛んに祀られてきた時代なのに・・・である。

 筆者が確認した限りでは市内2位の数を誇る日蓮宗寺院の17世紀における石造物は墓石を除くと草刈行光寺の石灯籠(寛文5年=1665)なども合わせてわずか5基に過ぎない。しかも内2基は筆子塚である。17世紀の市内石造物(筆子塚以外の墓石を除く)の総数は筆者が確認したものだけでも157基にのぼる。この数にはたとえ神道系の石造物が含まれているとしても日蓮宗系の石造物はあまりにも少なすぎ・・・の印象が否めない。

 但し日蓮宗寺院のトレードマークとも言える題目塔が年代不明の物を含めると日蓮宗の総寺院数をはるかに上回る63基を数えるのはさすがといえばさすがであろう。なお題目塔は日蓮独特の強烈な書体、いわゆる「ヒゲ文字」で正面に大きく「南無妙法蓮華経」と記された石塔であるが、塔の側面にも様々な内容が記されている。多くは法華経の一節を繰り返し写経したり、自我偈を何万回も読誦したりした記念や、日蓮等の供養塔を兼ねて造塔されているのである。この点では真言宗寺院に見られる宝筐印塔と同じで、滅多に造ることができなかった大きくて高価な石塔には様々な願いが込められていたのだろう。また造塔の際、時には村を越えて大勢の協力で造られたことも窺える。造塔を通じて門徒の結束力を高めようとの狙いが宗門側にあったことは疑えまい。

 なお表中の「その他」の欄は題目塔に余り関心の無かった時に側面を見ないままで済ましていた事が多くあったため、十分な調査結果とはなっていない。間違いや見落としが相当あると思われる。是非、ご教示、ご指摘願いたい。

 

49.市内の宝篋印塔について(後編)

 

 永徳寺と同様、個人の供養のために建てられたと思われる同時期の宝篋印塔が近くに二基あるので紹介しておこう(南蔵寺と玉泉寺)。二つとも2メートルに満たない高さでひっそりと建っている。逆に医光寺などのものと同様、隅飾りがあるが3メートルほどに高層化し、角柱宝塔型と同じ性格を持つと推量される塔で年代不明のものが二基(東泉寺と無量寿寺)ある。見比べてみると一目瞭然だろう。先の墓塔よりも後者がシンボルタワーとしてより高層化し、その存在をアピールしているのが分かる。最後に形態上よく似た宝塔が大和田光厳寺(年代不明)にある。さらには浄土宗の八幡稱念寺と姉崎最頂寺には供養塔として宝篋印角柱宝塔が用いられている。これらも参考までに。

 

 

 ご覧のように光厳寺のものは形態からみても陀羅尼経を納めた文言(宝篋印陀羅尼経を書写して塔に納め、一香一草を供えて供養すれば罪禍を消滅し、死後は必ず極楽へ往生できるという功徳が説かれている)からも角柱宝塔型の宝篋印塔と考えてよいだろう。四仏種字の部分が欠損、紛失してしまったものと推察している。だとすれば寸胴な印象から享保期のものであろうか。

 最頂寺のものは「三界万霊塔」と住職などの供養塔を兼ねている。八幡稱念寺も基本的には墓石、供養塔として建てられている。形態上は宝篋印角柱宝塔であるがいずれも笠石の下に来るはずの四仏種字が見られない点にも市内の真言宗寺院とは異なった造塔目的が伺われよう。およそ市内では真言宗寺院が独占していたこのタイプの塔を浄土宗寺院が敢えて採用したいきさつが知りたい。きわめて興味深い事例である。

 なお隣接する袖ケ浦市には真言宗寺院が多く、江戸時代の宝篋印塔も数多く存在する。しかし市原市内のような角柱宝塔型の宝篋印塔は少ないようで加来氏のデータを調べると三黒西福寺の三界万霊塔(文化13年=1816)や久保田薬蔵寺のもの(享保4年=1719)などしか見当たらない。ただ隅飾りのあるタイプで若干高層化しているものは他に幾つか見られる。シンボルタワー的な利用が目立つ市原の影響の一部がもっぱら従来の宝篋印塔の高層化という形で袖ケ浦に波及していったのかもしれない。

 

・角柱宝塔型宝篋印塔に関する私的推論

 市内で角柱宝塔型の宝篋印塔が初めて出現するのは、現在確認されている限りでは1722年(享保7年)のことである。菊間千光院にあるこの塔は高さ1.9メートルほどで、基壇の正面に若宮光明講の文字があり、光明講が中心となって造立されたようである。

 能満の釈蔵院と菊間の千光院は18世紀後半になって新四国八十八か所の札所を市原郡内に導入する上で中心的な役割を果たしたと思われるが、そうした試みの大きなきっかけとなったのが空海の950回忌(1784年)であった。それはやがて来るべき千回忌(1834年)にむけての準備を兼ね、市原郡内真言宗寺院総力を挙げての大掛かりな企画となるはずであったと考えられる。

 実際、これに先立つ900回忌(1734年)の際にも千光院は無縫塔を建てて法要を行い、900回忌を祈念している。千回忌に向けての助走は既に千光院を先頭に始まっていたと推量できる。開祖空海の千回忌という、千年に一度の重要な節目に向けて徐々に宗門を盛り上げ、中心となってこれに備えるべく様々な企画を次々に立ち上げてい

たのはやはり能満釈蔵院と菊間千光院のようである。特に七里法華地帯に隣接する菊間千光院では法華宗の動向に常時、脅威を感じ続けていたに違いあるまい。

 現在の数値ではあるが市内の寺院数は約200。内、真言宗が90を占めて市内最大勢力となっている。2位は日蓮宗で40。3位は曹洞宗で37となる。残りは天台宗が24。この四つの宗派が市内では主流派といえよう。維新期に廃仏毀釈で多くの寺院が破却されて消えていったというが、だとしても江戸時代においてその構成比には大差なかろう。

 真言宗が市原ではダントツの一位とはいえ、七里法華地帯が通る千葉市では一位と二位が逆転する。千葉に隣接する八幡、菊間の真言宗寺院は当時も法華宗の隆盛ぶりに常時、脅かされていたはずである。

 開祖日蓮の450回忌は1731年であり、空海の900回忌のわずか3年前。そのとき郡内の日蓮宗寺院では次々と日蓮の供養塔を建てて盛大な法要を行っていた(特に姉崎妙経寺の日蓮供養塔は高さ4メートル近くの威容を誇る。この年は他に有木泰安寺、東国吉妙照寺、潤井戸泰行寺が日蓮供養塔、根田根立寺が題目塔を建てている)。

 元来、法華宗寺院は門前に題目塔という法華宗独自のシンボルタワーともいうべき塔を既に持っていた。そこにさらに日蓮の巨大な供養塔が建っていく…この法華宗の動きに真言宗寺院として対抗しないわけにはいくまい。三位の曹洞宗もまた多くの場合「禁葷酒入山門」などと刻まれた結界石が門前に立ち、禅宗寺院のシンボルとしての役割を分かりやすく果たしている。これにたいして我が寺院にそうした意味での分かりやすいシンボルはあるのか…

 もしかして焦りすら覚えた千光院の住職がまず江戸周辺で享保年間に流行し始めた角柱宝塔型の宝篋印塔を郡内でいち早く導入し、真言宗門徒のシンボルタワーとしてこれを郡内真言宗寺院に広めたのではあるまいか。それは空海900回忌(1734年)を目前に控えた1722年。千光院は率先してこの塔を建て、周辺の真言宗寺院にも造塔を勧めて結縁の機会を設けた上でさらなる宗門の結束を図ろうとしたのでは…と個人的には考える。

 真言宗で郡内最有力の能満釈蔵院がこのタイプの塔を建てたのはやや遅れて1758年である。たしかに有力な寺院らしく非常に手の込んだ美麗な塔ではあるが、造塔のタイミングとしては空海900回忌に間に合っていない。もしかしたら菊間千光院の「独断専行」気味の企画に対して釈蔵院側に多少のためらいがあったのかもしれない。何はともあれ釈蔵院が遅れてしまった事情は不明であるが、30基以上が遅くとも空海千年忌までには市内各地の真言宗寺院で造塔されたようである(中には角柱宝塔型ではないものもあるが、6基ともシンボルタワーにふさわしく高層化している点で造塔の趣旨は同じものと見なせるのではあるまいか)。塔の分布を見ると郡の枠を多少とも超えつつ、徐々に釈蔵院や千光院の影響力が周辺各地に及んでいったと思われる。

 またそれにやや遅れて郡内には1782年以降、新四国八十八か所の札所塔も建てられていき、両塔あいまって宗門隆盛が祈念されていったと考えられる。実際、宝篋印塔だけでは真言宗の独自色を打ち出す点で物足りなさがあったのだろう。塔は高層化した上、値段が高価なことも手伝って門外に晒しておくことができなかったようだ。塔のほとんどは境内に建てられている。このため、遠くからでも目立つべきシンボルタワーとしてはかえって役不足にも見える。

 一方、「南無大師遍照金剛」などと刻まれた新四国八十八か所の札所塔の方が、ズバリ、真言宗らしさが出ていて、門前に建てるのにも都合が良い。安価で塔が低くても門近くにあって目立つ点では宝篋印塔よりもシンボルタワーにふさわしいのが札所塔であった。このため宝篋印塔の欠点を補うかのように札所塔は郡内の多くの寺院に建立されていったのではあるまいか(現在51基確認)。

 なお新四国八十八か所の導入に先立つ1781年は日蓮の500回忌にあたり、瀬又正蓮寺、古市場妙長寺、下矢田法円寺、永吉永久寺で題目塔、山木妙栄寺等で日蓮供養塔が建てられている(その50を参照のこと)。ここでもライバルの動きが郡内の真言宗寺院を刺激して新しい企画をもたらしているようなのだ。さらに天明の大飢饉のインパクトが加わり、荒廃した人心の救済を図る手段としても新四国八十八か所の「お遍路」が推奨されたのだろう。

 ただし空海千回忌は東国においては折悪しく天保の大飢饉の惨状(被害のピークは1733~34)の中で迎えることとなった。900回忌、950回忌と徐々に盛り上げてきた釈蔵院と千光院を先頭とする真言宗活性化の試みは、どうやら大飢饉の窮乏に襲われて千回忌という肝心要の段階では尻すぼみの状況に追い込まれてしまったようだ。

 実際、折角、シンボルタワーを建ててさらに新四国八十八か所の札所巡りを始めたにも関わらず、北総に比べると市原郡内の「お遍路」はその後もイマイチ盛り上がりに欠けていたという。また日蓮宗側も日蓮550回忌を迎えた1831年は根田根立寺で題目塔と日蓮供養塔が建てられているのみであり、ややさびしい印象は免れない。真言宗、日蓮宗ともに大飢饉の影響で高価な石塔を建てられるだけの余裕を失っていたように思える。

 失速の原因は天保の大飢饉だけとは限らないのかもしれない。19世紀に入ると富士講が各地に作られ、富士信仰は市原において一大ブームを巻き起こしていた。出羽三山への信仰も力強く継続していた。密教を一つの源流とする山岳信仰が江戸後期の旅行ブームに乗って民衆の心を強くとらえ始めていたのだ。皮肉にも身内の信仰から生まれた修験道を基盤の一つとするとする山岳信仰は人々の目を霊山の存在しない平坦な市原からはるか遠くの険しい山岳地帯へと向けさせていった…

 さらに伊勢参りの流行も加わって遠方への物見遊山自体が庶民にも身近な存在となり、泊まりがけの遠出が人々の憧れの的となっていた。とすればそれほど遠出とは言えず、山岳地帯でもない平地ばかりの市原郡内の「お遍路」はもはや郡内の民衆にとって、宗教的にも行楽的にもその魅力を失ってきていたのだろう。造塔に対する飢饉による影響が天明の時にはほとんど見られなかったことも加味すれば、山岳信仰の隆盛こそが19世紀前半における真言宗寺院の宗勢拡大策失速の真因ではあるまいか?

 

 以上、憶測に憶測を重ねた駄文でありますので、あまり真に受けないで下さい。

 でも、ここまで読まれた方、ありがとうございました。

 そしてお疲れさまでした。

 これにめげず、今後とももよろしくお願いいたします。

 

48.市内の宝篋印塔について(前編)

 

 

 

角柱宝塔型の宝篋印塔 

 隅飾りに際立った特色を持つ宝篋印塔は宋から伝来してきた仏塔で、元来はインドのアショカ王舎利塔(スツゥーパ)から仏舎利(釈迦の遺骨)を取り出し、新たに造った8万4千基の小塔(阿育王塔)に分納し、世界中に分置して仏教の流布を図ったという故事に起源を持つという。したがって特定の形態を持つ舎利塔の一種となる。

 他方でやがて宝篋印陀羅尼経を奉納した塔の功徳を説くお経が現れ、宝篋印陀羅尼経を奉納することを念頭に造られてきた塔も新たに出現してきた。こちらは納経塔の一種なので、塔がどのような形態をとるかは明記されていない。

 ※宝篋印陀羅尼経の一文:八幡満徳寺の宝篋印塔銘文 「経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声

   或聞其名 或当其影 罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽」  

   「経にいわく いわんや衆人ありて あるいは塔形を見、あるいは鐸声を聞き、

    あるいはその名をして後に極楽に生ずと」

 

純粋に形態だけで考えればこれは別石位牌型石塔、ないしは笠付角柱宝塔とされるだろう。

 

 ここでは前者の、特定の形態を持つ舎利塔、すなわち、もっぱら供養塔として造塔されてきた方の宝篋印塔を扱う。

 

 江戸初期の宝篋印塔は中世のものに比べて相輪部が長大化し、「ツクシ」のような外観を呈する。江戸時代前半を中心にもっぱら個人の墓石や各種の供養塔に利用された宝篋印塔で塔全体はスリムであるが相輪部が太く、結果的に全体の太さがあまり変わらず、凹凸感に欠ける、やや太めの「つくし=土筆」のような形態をとるもの。中世の宝篋印塔と比べると風格が劣るように見受けられるが、江戸時代はもっぱら僧侶や武士ら特権階級の墓石として普及したようである。便宜上、このタイプを仮に「ツクシ型」と命名しておこう。

 

 

 18世紀に入ると凹凸感に関しては中世のころのような形態に戻るが、隅飾りの部分の反りが強くなり、花が開いたような形になる。これも便宜上、「開花型」と名付けておく。

 

 

 一方、享保期からは隅飾りの無い、屋根状の笠石を持つ塔(角柱宝塔型)が出現しした。安藤登氏によると菊間千光院の享保7年(1722)のものが市内最古のようである。

 

 

 さらに江戸時代中頃から見られるようになる高層化した造りは「高層型」とし、両方の特色を兼ね備えた複合タイプの塔を「ツクシ高層型」あるいは「開花高層型」、「角柱宝塔高層型」としておく。もっとも「高層型」に関しては造立当初からの特色なのか、後代に高層化されたものなのかは特定できない点、留意しておく必要がありりそうだ。また「高層型」か否かはあくまで相対的な観点であり、一応の境目を高さ2メートル以上なのか以下なのか、あるいは基壇部の重なり具合に置いたが、非高層型との境界はかなり曖昧である点、ご容赦願う。

 

 角柱宝塔型の宝篋印塔は安藤登氏の指摘によると市原の真言宗寺院に多い石塔と言われる。市内最古は菊間千光院の享保7年(1722)。次いで八幡満徳寺の享保11年(1726)、上高根稱禮院の享保14年(1729)、青柳光明寺の享保15年(1730)、島野三光院と海保遍照院の享保16年(1731)、今富正光院の享保17年(1732)、今津朝山能蔵院の享保18年(1733)といった具合に市北部の真言宗寺院に相次いで造られており、このタイミングが注目される。

 初期の享保年間のものは多くが2メートル程度の高さにとどまり、寸胴なスタイルでややスマートさに欠ける印象を受ける。しかし1740年代に入るとたちまち3メートル近い高さのものが出現する(蓮蔵院:1743年)。加えて塔身も細長く、かなりスマートに見えるようになる。また18世紀後半になると釈蔵院や満光院に見られるように、基礎部分を重ねていくことで全体の高さをかさ上げしていく傾向も顕著に見られるようになる(=高層化)。

 

 

市北部の角柱宝塔型を中心とする宝篋印塔年代順リスト表

 

寺院名

年代

特徴等

1

菊間千光院

享保7年=1722

享保年間のものは寸胴で背が低い、という特徴が強く見られる。門前に各種石塔と並んで建てられている。造立当初の位置とは違うかもしれない。角柱宝塔型の宝篋印塔としては市内最古。

2

八幡満徳寺

享保11年=1726

山状に集積された古い墓石の中央に建てられている。

3

上高根稱禮寺

享保14年=1729

初期のものにしては高層化しており、装飾性もある。当初からこのような姿だったのか不明。墓所とは分離。

4

島野三光院

享保16年=1731

低層ではあるが、かなり大きめで装飾性あり。ただし歴代住職の墓石の端に置かれ、シンボルタワーとしての位置にはふさわしくない立地。

5

海保遍照院

同年

やはり歴代住職の墓域に近く、目立たない場に建つ。やや高層化

6

★中高根常住寺

享保17年=1732

笠石に隅飾りあり。墓所とは分離。高層化

7

今富正光院

同年

古墳上に置かれている。高さ2mほど

8

今津朝山能蔵院

享保18年=1733

初期の特色が見られる。墓所とは分離し、入口近くに建てられている。やや高層化

9

馬立龍源寺

同年

本寺は曹洞宗だが近くの廃寺から預かったものらしい。墓所の隅に置かれている。低層。石工は姉崎の八郎兵衛

10

八幡稱念寺

同年

本寺は浄土宗だが角柱宝塔型の宝篋印塔を墓石、供養塔として建てている。姉崎最頂寺と同様、市内ではレアケースである。

11

不入斗薬王寺

享保19年=1734

光明真言塔などと並び、墓所とは分離。低層。

12

高坂薬王寺

同年

フォルムは不入斗のものとよく似ており特に相輪部はそっくりだが高層化。

13

海保霊園無縁塔内

寛保2年=1742

青柳飯福寺にあったもの。ただし他の塔との寄せ集めであり、詳細不明。

14

引田蓮蔵院

寛保3年=1743

高層化している。以下、ほとんどの塔が同様に高層化。ただしこの塔は本堂横の墓所隅に建てられている。大勢の結衆によらず、地主の館野家によって造立。

15

牛久円明院

同上

近年の地震で一度、倒壊。墓所とは明確に分離して存在。高層化・装飾化が進む。 石工仁兵衛・勘右衛門

16

★大厩延命寺

延享2年=1745

笠石に隅飾り。高層化し墓所の一画。三界万霊塔、納経塔、湯殿山供養塔などを兼ねる。

 石工:和泉屋久兵衛(江戸八丁堀)

17

中高根秀明院

同年

墓所とは分離。やや高層化。

18

柏原持宝院

延享3年=1746?

墓所とは分離。低層で大勢の交名あり。

19

五井龍善院

寛延2年=1749

墓所とは分離。装飾的。石工:和泉屋久兵衛

20

宮原明照院

寛延3年=1750

笠石に屋根瓦風の彫り。墓所に隣接。

 石工:和泉屋久兵衛

21

姉崎最頂寺

同年

「三界万霊塔」として墓所にあり、浄土宗の寺院である。四仏の種字が無く、宝篋印塔としての性格を欠いているが、形態的にはほぼ角柱宝塔型宝篋印塔に属している。

22

★米沢農業協同館

宝暦3年=1753

廻国塔であることを大きく前面に出している点で個性的な塔といえよう。

23

椎津霊光寺

宝暦4年=1754

光明真言塔などと並んでいる。墓所とは分離して存在。徳川宗武が娘の寿福を願って建立。

24

糸久圓乗院

宝暦6年=1756

墓所内にあり、住職の供養塔。この時期のものでは珍しく高層化せず。

25

菊間福寿院

宝暦7年=1757

山門の傍らにあって墓所とは分離。

26

能満釈蔵院

宝暦8年=1758

様々な飾りが彫り込まれ、高層化とともに装飾化もかなり進んだ贅沢な石塔。墓所とは分離。

27

荻作満光院

宝暦8年=1758

やや表面が摩耗し、読みづらい。墓所の隅に建つ。

28

★西国吉医光寺

宝暦14年=1764

笠石に隅飾りあり。高層化し墓所と分離。 石工は木更津の高橋八郎右衛門

29

町田不動尊

明和4年=1767

墓所とは分離。

30

惣社国分寺

明和5年=1768

かつて七重塔跡に建てられていた。墓所とは分離。 石工八幡の瓜本権八。

31

分目慈眼寺

安永3年=1774

釈蔵院の末寺。墓所とは分離。

32

君塚明光院

安永4年=1775

相輪部が欠損。墓所とは分離。開演と栄寛の名が見える。3m以上の高さ。

 石工は姉崎の広瀬紋治

33

★今津朝山延命院

安永8年=1779

隅飾りが小さく残る。墓所の隅に立地。形態的にはかなりユニーク。

34

馬立佛眼寺

天明元年=1781

墓所とは分離。

出羽三山、善光寺巡拝塔

35

勝間龍性院

寛政2年=1790

例外的に個人の墓石として造立。

36

村上観音寺

寛政9年=1797

市内最大級の石塔。墓所とは分離。

37

青柳正福寺

文政13年=1830

読誦塔。墓所に隣接するが分離。

38

★深城無量寿寺

年代判読困難

高層化し墓所とは分離。隅飾りあり。

18世紀後半か?石工はおそらく木更津の高橋八郎右衛門

39

★廿五里東泉寺

年代判読困難

高層化し墓所とは分離。隅飾りあり。

 石工 木更津の高橋八郎右衛門

40

青柳光明寺

享保15年(1730)

墓所とは分離。ただし元の場所から移動?相輪部が外れている。廻国塔を兼ねる。

41

大和田光厳寺

年代判読困難

墓所とは分離。18世紀中頃か?四仏種字の部分が欠損?

42

上原光徳寺

年代判読困難

墓所の一画にある。このタイプとしては最小サイズ。高さ1メートルほど。

43

西野徳蔵寺

年代判読困難

墓所の一画にある。市内真言宗の寺院としては珍しく早川家の墓石として建てられている。高さ2メートルほど。

 ※★印は形態的には隅飾りがあり、普通の宝篋印塔に分類されるもの。ただし高層化し、特定個人の

  供養墓としての役割よりも集団的な信仰の対象としての役割が強く出ていて、隅飾りのない角柱宝

  塔形式のものと同じ造塔目的を有するものと考えられたため、この一覧表に掲載した。なおここに

  掲載された寺院のほとんどは真言宗であるが、八幡稱念寺及び姉崎最頂寺は浄土宗で馬立龍源寺は

  曹洞宗である。稱念寺や最頂寺になぜ角柱宝塔形式の宝篋印塔があるのかは不明であるが、龍源寺

  のものは近くで廃寺となった寺院から預かったらしい。角柱宝塔形式に限るとカッパは現在、市内

  で36基を確認。

 

 表中に★のついたもの(今津朝山延命院、中高根常住寺や大厩延命寺、西国吉医光寺)は隅飾りがあり、基本的にはこの時期における普通の宝篋印塔といってよい形態。ただ大厩延命寺の場合、「三界万霊塔」や寒念仏、廻国供養など集団的な目的に基いて建てられている。同様に常住寺や医光寺のものは高層化し、かつ墓所から分離していて、ただの個人の墓石、供養塔ではないようである。そうした点で他の角柱宝塔型のものと同じ目的をもって建てられたと考え、一緒に取り上げてみた。

 宮原明照院や五井龍善院のものは笠を瓦屋根状に彫り込み、龍善院にはさらに石灯籠にあるような連子模様がある点でかなり装飾的な造形になっている。いずれも石工は江戸八丁堀の和泉屋久兵衛である。彼の工房はとても評判が良かったのだろう。大厩延命寺の塔も造っており、18世紀中頃、市原郡内から頻繁に石造物の注文を受けていたようである。府中釈蔵院のものは明照院や龍善院の装飾的な側面を持ちつつ、高さと優美さとで突出している。当初の背が低く、寸胴で飾り気のないものから、やがて高層化し、装飾性を増してスリム化する傾向が出てきたのであろう。

 実は東京周辺にも江戸中期以降に造られた、同形式の塔が数多く残されているようだ。どうやらこれは江戸中期以降、関東中心に流行した形態らしい。そしてそのフォルムの斬新さに魅了された市内真言宗の有力な僧侶(能満釈蔵院か菊間千光院の住職?)が早速、真言宗寺院のシンボルタワーとしてこれを普及させようと周辺の真言宗寺院に喧伝して回ったのではあるまいか(もちろん、市原以外の地では特定の宗派、目的に拘束されずに広く造塔されたのだろう)。

 実際、競合的立場だった日蓮宗には古くから独特の書体で目立ってきた「ひげ文字」の題目塔が、さも日蓮宗寺院であることを誇らしげに示すかのように門前に建てられてきた。そして市原では寺院数で日蓮宗に肉薄していた曹洞宗もまた「禁葷酒入山門」などと刻まれた結界石が門前にあって、確実に宗派のシンボルタワーとして機能してきた。しかし日蓮宗における題目塔、曹洞宗における結界石に相当するシンボルとしての石塔が当時の真言宗寺院には無かった…新四国八十八か所の札所塔が真言宗寺院のシンボルタワーの一つとして門前に建つのは約半世紀後のことである。

 日蓮宗寺院と真言宗寺院との何らかの競合が菊間で起きていた…仮にそうだとしたらシンボルタワー造塔の動きの背景の一つとして考えられるのが寺請制度の確立である。寺請制度の進展によって寺院は檀家への統制を強める必要が生じてきた。そして檀那寺としてのシンボルを寺の中央に建てて宗派内の結束を強めたいという思惑が強く働いたのではないか。特に七里法華地帯が隣接し、他宗派に対していささか批判的で団結力の強い日蓮宗の宗勢が迫る菊間あたりでは、同宗への対抗心と危機感は真言宗の僧侶の間にかなり強まっていたのではあるまいか。

 従来の五輪塔や宝篋印塔では特定個人の供養塔や墓石のイメージが強過ぎてしまい、檀家全体のシンボルという集団的機能はあまり期待できない。さらにいえば従来の宝篋印塔は格式ばった、特権身分の墓石としてのイメージが強く、民衆を惹きつけるものではなかったように思える。五輪塔もシンボルタワーとしての一定の高さを保てる形態にはふさわしくない。

 どうしても新しいフォルムを取り込み、多宗派との差異を強くアピールすることで民衆の間に同じ真言宗門徒として、同じ寺院に属する檀徒としての一体感を醸成したかったのではあるまいか。だからこそこの塔は多くの場合、墓域と分離した目立つ場所に高く屹立しているのではないか。また時折、光明講や念仏講などの組織で造立され、かつ三界万霊塔や読誦塔のような檀家集団全体に功徳が及ぶ集団性の強い役割を帯びていたのではあるまいか。

 ただし角柱宝塔型で個人の墓石と思われる例外的な塔が勝間龍性院と西野徳蔵寺にある。個人の墓石としての宝篋印塔と集団的な性格を帯びた宝篋印塔との形態上の区別はほとんどできない。ならばほぼ同じ時期の両塔を見比べてみよう。永徳寺は曹洞宗、医光寺は真言宗であるが同じ西国吉にあって数百メートルほどしか隔たっていない。造立年も3年の差しかなく、比べるのに適していると思われる。永徳寺のものはあくまで個人の供養塔として造られた。高さも2m弱である。医光寺のものは高さ3m余りあってシンボルタワーとしての風格がある。ただし笠石の周辺は酷似していよう。隅飾りが水平方向に開いていくこの時代の傾向が両塔とも顕著に伺える。実際、見た目には高さの違いくらいしか目立たない。

 

 

 このポイントから、両塔の違いは見た目の形態よりも造塔の目的にあると私は個人的に仮説を立ててみた。個人の供養塔とは違い、真言宗寺院共通のシンボルタワーとして高く屹立する方向に進化した塔…この点こそが安藤登氏の指摘した宝篋印角柱宝塔の本質的要素と捉えてみたらいかがか。とすれば高層化した隅飾りのある宝篋印塔も角柱宝塔型と同じ目的を持って造塔されたのかもしれない。

 

47.お地蔵様について

 

 

・市内のお地蔵様について

 ここでは墓石はほとんど取り上げなかった。また数え方としては独立型でも六体すべて年代が同じ六地蔵の場合は一体とみなして数えてある。今のところ元号が確認できたもののうち17世紀に造られたお地蔵様は計22体である。17世紀のものの多くは丸彫りか地蔵塔で比較的長身であることが多い。また一石六地蔵も目立つ。この時期のものは基本的に丁寧な造りで、傑作が多いといえよう。

 

 

 18世紀は地蔵の最盛期で83体を確認している。18世紀の前半はおそらく江戸の石工によるものが多いようで、洗練されてはいるが顔が小顔で卵型の画一的な作風が目立つ。18世紀中頃は次第に丸顔が目立ち、首が太く肉厚の印象を受ける。おそらく丸彫りの場合、地震などで倒れた際に頭部が欠け落ちるケースが目立ってきたからであろう。

 

 

 19世紀に入ると江戸期に属するものは14体となり、修験道系の石造物や祠が急増する傍ら、地蔵の作例はかなりの減少傾向が見られる。また一石六地蔵や石塔型で道標を兼ねるものが目立ってくる。単独の丸彫りは小型化し、特に北部ではほとんど姿を消していく。しかし今津朝山の田中地蔵尊や米原大通寺、山口放光寺(これらのお堂内は小さな地蔵が数多く奉納されている。どうやら願が叶うとお礼に小さなお地蔵を奉納したようである。田中地蔵尊は石造、大通寺は塑像か陶製のもの、放光寺は木造の地蔵が多い)、徳氏の「イボとり地蔵」などに見られるように特定の疾患に対する地蔵信仰は相変わらず根強かったようだ。

 

 

 「石のカルテ」(川村純一 崙書房 1993)によると今津朝山の「田中のイボ地蔵」は奉納された地蔵の中には宝暦年間のものもあり、地元では古くから有名な地蔵様であった。ここでは地蔵に供えた小石を借りてきてイボを擦るとやがてイボがとれるとされ、とれれば石を倍にして地蔵に返す習わしだった。全国的には田中地蔵尊のようにイボを何らかのものを用いて擦り落とす方法がよく見られたが、蛸の吸引力にあやかって「蛸薬師」や「蛸地蔵」を祀り、蛸を禁食して蛸を描いた絵馬を奉納する風習も広く見られた。

 

 地蔵の作例は極めて多く、墓石を除いたとしても市内で二、三百例はあると思われる。しかし残念ながら頭部の欠損だけでなく、磨滅によって文字部分が判読できないことも目立つ。市内で元号が確認できているのはカッパの調査では今のところ151体に過ぎない。

 お地蔵様は寺院の境内だけでなく、墓地や村外れなど、人目の付きやすい屋外でその多くは風雨に晒されてきた。それだけ村人にとって身近な存在であり、また身近であらねばならなかったのだろう。どんなに風化し、磨滅が進んでも野ざらしのまま、よだれかけをかけられ、さらには頭巾などをかぶせられて村はずれの道端などにそっと佇んでいるのである。

 

・房総の六地蔵

 町田茂氏によれば六地蔵は県内で1806基、市内で114基確認されている。現在で

も建立が続く、民衆になじみ深い仏である。地蔵はそもそも釈迦入滅後から弥勒が下生するまでの56億7千万年もの無仏時代、救世主として六道に遣わされ、民衆を教化する役目を負っている。

 石材が地元で確保できない房総においては水運に恵まれた県北や西上総(特に君津周辺)で石仏が多く見られ、六地蔵も同様である。江戸時代前半は伊豆方面から江戸に運ばれてきた石材(安山岩)を江戸の石工が細工した完成品が五大力船に載せられてもたらされる事が多かった。

 また石材を江戸から購入し、石工を江戸から呼び寄せて現地で完成させることもあったらしい。

 後半になると江戸湾に面した港に石工が集まってきて、地元での加工が可能になってきた。県北は江戸湾に加えて利根川、江戸川の水運が発達し、西上総も養老川、小櫃川、小糸川の水運で内陸部までの搬入が可能となった。なお外房は運搬に難があり、石仏が少ない傾向がある。また七里法華地帯は極端に石仏が少なく、房総の中央部を挟んで文化的に有る程度の断絶が見られるという。たとえば南北では石仏の様式が多少異なり、六地蔵に関しては北総では丸彫りや舟型光背の個体型が多いのに対して南総は石幢型(西上総)や石板型の一石六地蔵(安房)が目立つらしい。

 

 

 県内最古は君津市法木作の塞神社に祀られている応永9年(1402)で石幢型。市内最古は不入斗薬王寺のやはり石幢型で寛永21年(1644)。六地蔵は六観音や阿弥陀如来などと組み合わされることも多い。輪廻車(後生車、念仏車とも)との組み合わせも県内では22基、確認されている。なお西上総では道標を兼ねたものが多く、27基あるらしい。

 

市内の主な地蔵年代順リスト(古い順)

年代

所在地

特色・タイプ

寛永15年(1638)

椎津瑞安寺

延命地蔵

寛永21年(1644)

不入斗薬王寺

一石六地蔵(石幢)

明暦2年(1656)

八幡稱念寺

丸彫り長身大

万治3年(1660)

菊間福寿院

丸彫り長身大

寛文2年(1662)?

中高根常住寺

一石六地蔵・小

寛文4年(1664)

市原光善寺

地蔵塔中

寛文5年(1665)

妙香龍本寺

丸彫り中

同年

椎津瑞安寺

丸彫り大

寛文10年(1670)

西野徳蔵寺

地蔵塔墓石中

延宝元年(1673)

大坪龍興寺

地蔵塔中

延宝4年(1676)

五井守永寺

一石六地蔵大

延宝7年(1679)

武士法泉寺近く

地蔵塔(舟型)

延宝6年(1678)

新巻正福寺

地蔵塔(舟型)

延宝8年(1680)

椎津瑞安寺

地蔵塔墓石

天和年間

浅井小向墓地

地蔵塔・舟型光背

貞享2年(1685)

飯給真高寺

一石六地蔵

貞享3年(1686)

五所満蔵寺

地蔵塔大

貞享5年(1688)

山田橋養福寺

地蔵塔小

元禄6年(1693)

八幡稱念寺

一石六地蔵

同年

郡本多聞寺墓地

地蔵塔小

元禄7年(1694)

武士建市神社

愛宕大権現(勝軍地蔵)

同年

海士有木日枝神社近く

地蔵塔中

元禄12年(1699)

五井龍善院

一石六地蔵

同年

養老長泉寺

一石六地蔵

元禄13年(1700)

不入斗西光院

丸彫り中

元禄15年(1702)

姉崎最頂寺

北向地蔵塔

同年

皆吉白山神社脇

日記念仏講

元禄16年(1703)

西国吉渕龍寺

一石六地蔵

宝永元年(1704)

五井下谷墓地

丸彫り大

宝永5年(1708)

海保遍照院

丸彫り中

同年

君塚明光院

地蔵・廻国塔

宝永7年(1710)

宿長栄寺

地蔵塔

正徳4年(1714)

山小川長泉寺

半跏踏下

同年

不入斗薬王寺

地蔵塔

正徳5年(1715)

古敷谷西蓮寺

丸彫り中

同年

吉沢鳳来寺観音堂

地蔵塔

同年

朝生原宝林寺

独立型六地蔵大

正徳6年(1716)

畑木医王寺

丸彫り中

享保2年(1717)

石神路傍(中)

丸彫り中

享保3年(1718)

新生祐巌寺

地蔵塔

同年

小谷田墓地

丸彫り中

享保4年(1719)

久保墓地

丸彫り中

同年

椎津瑞安寺

丸彫り中

享保5年(1720)

小田部宝泉寺

丸彫り小

同年

藤井霊園

丸彫り中

同年

原田交差点近く(左端)

丸彫り小

同年

寺谷玉泉寺

丸彫り小

同年

上高根馬場台墓地

丸彫り中

享保6年(1721)

安須正壽院

丸彫り中

同年

松﨑神照寺

一石六地蔵

同年

馬立沢辺墓地

基礎部分

同年

堀越路傍

一石六地蔵大

享保7年(1722)

向原共同墓地

丸彫り

同年

不入斗薬王寺

地蔵塔小

享保8年(1723)

不入斗路傍

丸彫り中

同年

新巻正福寺

丸彫り中

同年

葉木共同墓地

独立型六地蔵

同年

石塚墓地

丸彫り中

享保9年(1724)

養老南原集会所

丸彫り大

同年

皆吉公民館

丸彫り中

同年

山口薬師堂

舟型光背・廻国塔

享保11年(1726)

高坂路傍

丸彫り大

同年

朝生原渓谷橋付近

丸彫り大・廻国塔

享保12年(1727?)

戸面夕木熊野神社

六地蔵石幢

享保13年(1728)

椎津新田路傍

丸彫り中

同年

浅井小向墓地

丸彫り中

同年

武士法泉寺近く

地蔵塔(舟型・寒念仏)

享保18年(1733)

山口薬師堂

櫛型・廻国塔

同年

今津朝山一丁目公民館傍

基礎

享保19年(1734)

西野徳蔵寺

丸彫り小

享保20年(1735)

上高根薬師堂

丸彫り中

同年

佐是光福寺

一石六地蔵(道標)

元文元年(1736)

高坂路傍(林中)

丸彫り中

元文2年(1737)

大厩十二天神社脇

地蔵塔

同年

姉崎最頂寺

丸彫り半跏踏下

同年

上高根行屋

地蔵塔

元文3年(1738)

廿五里宇佐八幡

道標

同年

海保中谷公民館

地蔵塔(舟型)

同年

妙香第二公民館

地蔵(座像)

元文4年(1739)

若宮墓地

地蔵塔墓石小

寛保元年(1741)

村上白幡神社脇墓地

丸彫り大

延享元年(1744)

八幡無量寺

廻国塔・地蔵塔

同年

郡本正光院

地蔵塔大

延享2年(1745)

二日市場大光院

丸彫り中

同年

馬立沢辺墓地

地蔵塔

同年

海保大入神社近く墓地

丸彫り小

延享3年(1746)

八幡満徳寺

一石六地蔵

同年

皆吉台裏墓地

一石六地蔵

宝暦3年(1753)

皆吉橘禅寺

丸彫り六地蔵

宝暦4年(1754)

皆吉墓地

丸彫り中

同年

不入斗大高谷路傍

廻国塔

宝暦6年(1756)

君塚明光院

道標

宝暦7年(1757)

姉崎正坊山

丸彫り中

同年

中高根墓地

丸彫り小

宝暦8年(1758)

山田橋養福寺

地蔵塔小

同年

島野墓地

頭部欠損

宝暦9年(1759)

中高根寺之下路傍

丸彫り小

宝暦11年(1761)

西広西廣院

地蔵塔小

明和3年(1766)

椎津金剛寺

丸彫り中

同年

郡本多聞寺墓地

丸彫り中

明和4年(1767)

松ヶ島涼風庵

一石六地蔵・道標

同年

今富路傍

道標

明和5年(1768)

牛久会館

丸彫

明和6年(1769)

上高根宝生寺

丸彫り中

明和7年(1770)

引田路傍

一石六地蔵・道標

明和8年(1771)

椎津山谷路傍(左)

丸彫り中

安永2年(1773)

古敷谷湯原観音堂

道標

安永5年(1776)

海士有木日枝神社近く

地蔵塔小

安永8年(1779)

門前路傍

地蔵塔小

安永10年(1781)

岩長善寺

一石六地蔵

天明7年(1787)

本郷地蔵堂

丸彫り中

寛政元年(1789)

田淵会館

丸彫り大

寛政4年(1792)

皆吉観音寺

丸彫り中

同年

西国吉八坂神社脇墓地

丸彫り中

寛政9年(1797)

海保森巌寺

地蔵塔小

同年

深城久留里街道沿い

丸彫り中、頭部欠損

享和3年(1803)

上高根馬場台墓地

丸彫り小

文化2年(1805)

椎津山谷路傍(右端)

道標

文化4年(1807)

外部田薬師

一石六地蔵

同年

柿木台入口路傍

丸彫り中

同年

椎津瑞安寺

丸彫り中、寒念仏、道標

文化6年(1809)

門前路傍297号沿い

一石六地蔵石幢・廻国塔

文化7年(1810)

海保庚申堂

地蔵塔

文化11年(1814)

玉前阿弥陀堂墓地

地蔵塔

同年

万田野自治会館

丸彫

文政7年(1824)

岩崎大御堂墓地

一石六地蔵

文政10年(1827)

廿五里東泉寺

一石六地蔵

文政13年(1830)

万田野自治会館

丸彫・頭部欠損

天保4年(1833)

大戸公民館(右)

丸彫り中

天保6年(1835)

大戸公民館(左)

丸彫り中

天保10年(1839)

田淵耕昌寺

一石六地蔵

天保11年(1840)

石神路傍(左)

丸彫り小

天保12年(1841)

中高根常住寺

一石六地蔵

同年

吉沢墓地

六地蔵・舟型

嘉永2年(1844)

五井波淵枡型

六地蔵石幢

安政6年(1859)

松ヶ島墓地(永井家)

一石六地蔵

46.馬頭観音について

 

 

   馬頭観音はヒンドゥー教のビシュヌ神に由来。馬が草を食む如く余念なく、馬が疾走する如く迅速に衆生の救済を図る。観音菩薩でありながら忿怒形をとるのは人間の根深い煩悩を容赦なく打ち砕くため。生前に悪行をしたため畜生に生まれ変わって畜生道に苦しむ者を救済するという仏。江戸期、馬の守護仏として信仰を集めた。「市原の馬頭観音」(市原市石造物同好会 1995)によると市内には415基確認されている。根田共同墓地にある延宝元年(1673)のものが最古。

 船橋市内でも415基確認されている。中世まで単独で祀られるケースはほとんど無かったが、近世になって馬が参勤交代などで人や物資の輸送に民衆レベルでも必要とされるようになり、身近な存在になっていった。馬の守り神として、またとりわけ馬の供養のために頻繁に造立されるようになったようである。

 特に市原は房州往還、久留里道、伊南房州往還、大多喜道と人馬が行きかう街道が多く、馬を飼って農間稼ぎに年貢や薪炭の輸送をする農家が多かったため、馬頭観音が数多く祀られている。さらには村上の道標のように馬頭観音と道標をかねたものがあわせて20基も確認されている。

 

 

 下表に掲載された馬頭観音は江戸時代に限定してピックアップしたものである。総数で400を越える馬頭観音の内、近代以降のものは100基近く存在すると思われる。現状のデータ数はまだ江戸期馬頭観音の総数300基程度の内、おそらく二分の一程でわずかな数のデータに過ぎない。ただそれでもおよその傾向は表から読み取れよう。

 まず江戸期前半(延享・寛延期以前)の作例が極めて少ない点で、庚申塔とは対照的である。またこの表からは読み取れないが、基本的に江戸前期のものはサイズが余り大きくない点でも庚申塔と好対照。18世紀中頃から少しずつ大きくて立派な物が祀られるようになるが、他方でかなり小さなものも造られ続けている(たとえば久留里街道の道標を兼ねた馬頭観音の場合には村上や今富のもののような手の込んだ大きめサイズのものが出現してくるが、一般の農民が飼い馬の供養塔として建てたと思われるものはむしろ小さなものが多い)。また小さな塔の場合には19世紀以降、急速に文字塔が増えてくる。おそらくサイズが小さくてかつ文字塔であれば相当安価であり、一般農民でも購入できたのだろう。裏を返せば多くの一般農民が駄賃稼ぎのために19世紀以降、馬を飼い始めたことが推察できる。なお文字塔で大きなサイズのものは道標を兼ねることがある。

 ところで頭上に天衣を翻した様子を表現した一群の馬頭観音像がある。豊成不動院(年代不明)、海保中谷路傍(年代不明)、柏原持宝院(安永6年=1777)、立野公民館(馬乗り型:安永6年=1777)、廿五里墓地(安永9年=1780)、島野三光院(天明2年=1782)、不入斗西光院近く(馬乗り型:享和3年=1803)、袖ケ浦代宿(馬乗り型:文化5年=1808)の8基。所在地はいずれも養老川左岸、姉崎周辺であり、同じ工房の作品と推定されよう。

 

 

 また変わり種の馬頭観音として「馬乗り馬頭観音」が知られている。「房総の馬乗り馬頭観音」(町田茂 たけしま出版 2004)によると市内で計22基確認されている。町田茂氏によると房総特有の「馬乗り馬頭観音」は市原・袖ケ浦周辺と東総地区に集中的に存在するという。

 

 

 長野や新潟、群馬などにも散在するが数は少ない。総数300近くある内、県内は242基、市内では22基確認されている。最古の馬乗り馬頭観音は今のところ、群馬県吾妻町の元禄14年(1701)のもの。県内では市原市国吉の元禄17年(1704)、菊間の宝永2年(1705)が最古級。なお「馬乗り」の形態は庚申塔の青面金剛が邪鬼を踏みつけているポーズを基本モデルに、馬の守護神としても信仰を集めた馬頭観音が「馬に乗っている」…という発想が自然発生的に各地で生じた結果であろうと町田氏は考えている。

 

市内の江戸期に属する主な馬頭観音(馬乗り・文字塔含む年代順一覧表)

 

所在地

年代

特色

1

五井下谷墓地

延宝4年=1676

舟型・破損

2

吉沢妙見神社

元禄13年=1700

舟型・破損

3

東国吉片野宅近く

元禄17年=1704

馬乗り

4

葉木共同墓地

正徳3年=1713

舟型

5

松ヶ島涼風庵

享保4年=1719

舟型

6

五井下谷墓地

享保7年=1722

舟型・破損大

7

市原光善寺

享保8年=1723

舟型・破損

8

若宮道祖神

享保10年=1725

舟型

9

藤井霊園

享保12年=1727

舟型

10

飯沼龍昌寺

享保19年=1734

 

11

西広西廣院無縁塔内

延享3年=1746

舟型

12

畑木医王寺

同年

駒型・文字

13

君塚明光院

延享4年=1747

舟型・良好

14

藤井霊園

延享5年=1748

舟型

15

勝間辰巳自動車学校近く

寛延元年=1748

山舟型

16

出津神光寺

宝暦3年=1753

 

17

国本81号線路傍

宝暦4年=1754

舟型・良好

18

松ヶ島涼風庵

宝暦5年=1755

山舟型

19

郡本大堰近く

宝暦7年=1757

舟型・良好

20

山倉墓地

宝暦8年=1758

山舟

21

岩野見墓地

宝暦10年=1760

駒型・道標

22

今富路傍

宝暦11年=1761

廻国塔・櫛型

23

田淵信野観音堂

宝暦12年=1762

舟型

24

山木三差路近く

宝暦13年=1763

 

25

能満公民館北路傍

宝暦14年=1764

舟型

26

嶋穴神社近く路傍

明和2年=1765

笠付角柱・道標

27

大桶日枝神社下

同年

舟型

28

新巻正福寺

同年

舟型

29

村上路傍

明和3年=1766

駒型・道標

30

西野共同墓地内

明和5年=1768

山舟

31

惣社国分寺

明和6年=1769

山舟

32

大坪龍興寺裏

明和7年=1770

舟型

33

白塚共同墓地

安永4年=1775

馬乗り

34

椎津新田

安永5年=1776

馬乗り

35

町田路傍

安永6年=1777

駒型・道標

36

門前路傍

同年

山舟・道標

37

柏原持宝院

同年

笠付角柱

38

立野公民館

同年

馬乗り

39

小田部宝泉寺近く

安永8年=1779

舟型

40

廿五里墓地

安永9年=1780

笠付角柱

41

畑木三山塚

同年

馬乗り

42

山田橋養福寺

安永10年=1781

駒型

43

新生祐厳寺

同年

笠付角柱

44

惣社国分寺

天明2年=1782

舟型・道標

45

安須霊園近く

同年

笠付角柱

46

島野三光院

同年

山舟・道標

47

今富路傍

同年

駒型・道標

48

古都辺青年館近く

天明5年=1785

櫛型?

49

本郷西光寺北西

天明6年=1786

駒型

50

養老長泉寺

天明7年=1787

舟型

51

田淵耕昌寺

寛政元年=1789

馬乗り

52

松ヶ島涼風庵

寛政2年=1790

舟型

53

今津朝山延命寺

寛政4年=1792

馬乗り

54

中高根寺之下路傍

同年

文字・櫛型

55

山木白幡小学校近く

同年

山舟・坐像

56

玉前墓地近く

寛政5年=1793

山舟型

57

風戸日光寺

同年

馬乗り

58

土宇路傍

同年

馬乗り・道標

59

磯ヶ谷八幡

同年

舟型

60

市原東第一公園

寛政7年=1795

舟型

61

荻作バス停近く

寛政8年=1796

山舟型

62

姉崎入口

同年

文字・道標

63

海上小学校近く

寛政9年=1797

舟型

64

神崎T字路近く

同年

山舟型

65

万田野路傍

同年

舟型

66

古都辺青年館近く

同年

祠型

67

八幡観音町旧道路傍

同年

山舟・凝灰岩

68

薮大泉寺

寛政10年=1798

舟型

69

五所西野谷

同年

舟型・良好

70

磯ヶ谷八幡

寛政11年=1799

舟型

71

柿木台平塚

同年

舟型・道標

72

能満日吉神社

寛政12年=1800

駒型

73

海士有木日枝神社裏

寛政年間

駒型・道標

74

月出東漸寺近く

享和2年=1802

舟型

75

栢橋墓地

同年

舟型

76

片又木法蓮寺

同年

山舟

77

不入斗西光院近く

享和3年=1803

馬乗り

78

小田部宝泉寺近く

同年

舟型

79

海士有木297号沿い

同年

文字・題目等

80

万田野自治会館

同年

舟型

81

海保路傍

文化2年=1805

馬乗り

82

小谷田墓地

文化3年=1806

山舟型

83

潤井戸青年館前

同年

山舟型

84

豊成不動院

同年

舟型

85

浅井小向浅井橋近く

文化4年=1807

山舟型

86

牛久会館

同年

舟型

87

堀越橋近く

同年

丸彫り

88

島野宝前院

文化6年=1809

舟型

89

久々津公民館前

文化9年=1812

文字・駒型

90

金剛地天照皇大神宮近く

文化11年=1814

文字・駒型

91

高坂路傍

文化12年=1815

文字・櫛型

92

新井墓地

同年

舟型

93

椎津新田路傍

文化14年=1817

文字

94

五井中瀬墓地

同年

 

95

大桶日枝神社下

文化15年=1818

山舟型

96

松崎花ノ台旧道路傍

文化年間

道標・山型

97

山口音信山古道入り口

文化年間

駒型

98

豊成路傍

文政2年=1819

馬乗り

99

大桶日枝神社下

同年

山舟型

100

片又木法蓮寺

文政4年=1821

文字・駒型

101

牛久円明院

文政5年=1822

文字・香箱型

102

奈良の大仏近く

文政6年=1823

文字・祠型

103

外部田薬師

文政7年=1824

舟型

104

桜台山谷

同年

舟型

105

薮大泉寺

文政8年=1825

文字・櫛型

106

柳原共同墓地内

同年

文字・角柱

107

大戸山中の旧道沿い

同年

文字・香箱・道標

108

久保飯塚自治会館奥墓地

同年

道標・角柱

109

潤井戸青年館近く

文政9年=1826

祠型

110

権現堂満蔵院

文政10年=1827

櫛型

111

池和田光明寺近く

文政12年=1828

文字・山伏角柱

112

佐是光福寺

文政13年=1830

舟型

113

神崎墓地

同年

舟型

114

山倉圓楽寺

天保3年=1832

舟型

115

海士有木泰安寺山門脇

天保4年=1833

文字・駒型

116

石神路傍

天保6年=1835

馬乗り

117

西国吉大東牧場近く

同年

舟型

118

五所消防器具置き場前

同年

文字・山伏角柱

119

瀬又正蓮寺近く路傍

天保7年=1836

文字

120

糸久圓乗院

天保8年=1837

山舟型・良好

121

白幡小学校近く

同年

山舟

122

不入斗薬王寺

天保9年=1838

馬乗り

123

根田根立寺

天保11年=1840

文字・櫛型

124

安久谷バス停近く

天保12年=1841

文字・山伏

125

田淵田奴久蕎麦屋近く

同年

文字・山伏角柱

126

養老北崎集会所

同年

舟型

127

万田野路傍

天保13年=1842

文字・道標

128

朝生原黒川渓谷橋近く

同年

文字・櫛型

129

奈良の大仏近く

天保14年=1843

文字・櫛型

130

野毛法泉寺

天保15年=1844

文字・角柱

131

馬立沢辺二瀬橋近く

同年

文字・道標

132

岩長善寺

嘉永元年=1848

文字・櫛型

133

畑木三山塚

嘉永2年=1849

文字・駒型

134

新井墓地

嘉永3年=1850

文字・櫛型

135

吉沢学園近く

嘉永5年=1852

文字・駒型

136

八幡猿田彦神社

嘉永6年=1853

文字・駒形

137

藤井霊園

同年

文字

138

松崎花ノ台旧道路傍

同年

文字・山伏

139

同上

同年

同上

140

浅井小向浅井橋近く

安政2年=1855

文字・山伏

141

惣社国分寺

安政3年=1856

文字・櫛型

142

栢橋山中

安政5年=1858

文字・駒型

143

柿木台路傍

安政7年=1860

文字・道標

144

馬立297号線路傍

万延元年=1860

文字・道標

145

国本81号線路傍

同年

文字・櫛型

146

西野共同墓地内

同年

文字・櫛型

147

荻作三山塚近く

文久2年=1862

文字・駒型

148

磯ヶ谷ペット霊園

文久3年=1863

文字・角柱

149

立野三山塚近く

同年

文字・山伏

150

江子田桜ケ丘高校近く

同年

文字・舟型

151

大和田路傍

元治元年=1864

文字・山伏・道標

152

久々津公民館前

元治2年=1865

文字・駒型

153

天羽田桜台近く

慶応2年=1866

馬乗り

154

上高根共同墓地

同年

馬乗り

その45.市内の石段塔

 

 

 古い石段の一番下、あるいは一番上の両脇に高さ30~50㎝ほどの小さな石柱が建てられていることがあります。そこには石段の造られた年号や石工名等が刻まれていることがあり、資料として極めて貴重であるため、見逃せない石造物の一つです。カッパが確認できているのは総数28基、市内最古の石段塔は今のところ中高根の常住寺のもので享保12年(1727)です。

 

 重要だとはいえ、目立たない角柱塔でかなり小さいのでついつい見逃しがち。カッパも今まで呆れるほど何度も繰り返し見逃してしまいました。どうしても石段の上が気になってしまうものですが、石段を上る際は急がず、慌てず、何か文字が刻まれていないか、じっくりと用心深く確認したいものです。

 村上の上下諏訪神社の石段には何と下の段から順に根本甚太郎、上総屋治助、丹波屋六兵衛と3人の石工の名が刻まれております。しかも石段塔自体が市内では最も立派な造りで、特に五井の丹波屋六兵衛がかかわった上の方の石段は市内でトップレベルの丁寧さを誇り、かつ頑丈な造りです。

 

 

 

 

 

 

44.市内の江戸期の鳥居

金剛地熊野神社鳥居:享保12年(1727) ここは彼岸花で有名な神社

 

市内の江戸期の鳥居一覧(古い順) 25基

所在地・神社名

元号

西暦年号

特記事項

青柳若宮八幡

正徳5年

1715

柱のみ残存

金剛地熊野神社

享保12年

1727

 

大厩駒形神社

延享3年

1746

石工 八丁堀和泉屋久兵衛

高滝神社

宝暦9年

1759

石材は大坂から搬入、代金60両

五井若宮八幡

同上

同上

末社の水神社鳥居

青柳若宮八幡

安永10年

1781

柱のみ残存

原田諏訪神社

寛政元年

1789

 

村上諏訪神社

寛政6年

1794

石工 江戸本材木町上総屋治助

根田神社

寛政9年

1797

石工 八幡の権八

安須日枝神社

文化5年

1808

 

姉碕神社

文化8年

1811

石工 大嶋久兵衛・辰右衛門

椎津八坂神社

文化9年

1812

石工 大嶋久兵衛

高田日枝神社

同上

同上

石工 五井の丹波屋藤兵衛

平野大山祇神社

文化11年

1814

石工 五井(川岸)の関佐七

古市場天神社

文化12年

1815

 

岩崎稲荷(供養塚)

文政元年

1818

石工 五井(川岸)の関佐七

宮原大国主神社

文政13年

1830

 

五井若宮八幡

天保3年

1832

伊勢講奉納

池和田大宮神社

同上

同上

 

今津朝山飯奈里神社

天保11年

1840

 

松ヶ島養老神社

嘉永元年

1848

石工 五井(川岸)の根本甚太郎

町田熊野神社

同上

1848

 

五井大宮神社

嘉永6年

1853

 

風戸熊野神社

嘉永7年

1854

 

五井川岸富貴稲荷

安政5年

1858

 

 

 鳥居は石灯籠や狛犬以上に倒壊しやすい構造であり、古いものは残りずらい。 

 鳥居はまた神社の「顔」的存在であり、多くの場合、腕のある江戸の石工に依頼される。したがって表中に登場する地元の石工はかなりの名工と呼ばれた人物である。特に大嶋久兵衛と関佐七の二人は市原における双璧をなす石工。しかし他の石造物に比べると地元石工の登場回数は19世紀に入ってもさほど多くはない。

 実際、神社の「顔」的存在なのでお金に糸目はつけられまい。大阪などから船で運ばれてくる房総ではかなり贅沢な御影石を石材として用いた鳥居も散見する。市原の石造物のほとんどは小松石、すなわち安山岩であるが、鳥居だけは例外的に花崗岩の可能があるのだ。きわめて固い花崗岩の扱いにあまり慣れていない地元の石工には厳しい仕事だったようで、カッパは花崗岩製の鳥居に地元石工の名を見たことがない。

 


古い鳥居は柱が太く、どっしりとした重厚感がある。