63.市原の戊辰戦争⑤
 

・戊辰戦争の始まり

 まずは日本最初の軍歌として知られる「宮さん 宮さん」の歌詞をご紹介いたしましょう。作詞の品川弥二郎は長州藩士です。戊辰戦争では官軍がこの曲を笛、太鼓で伴奏しながらこの近く、房州街道沿いを南下して参りました。

 

「宮さん 宮さん(トコトンヤレ節)」

作詞 品川弥二郎 作曲 大村益次郎?

   宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   一天萬乗の帝王(みかど)に 手向いする奴を 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   覗い(ねらい)外さずどんどん撃ち出す薩長土 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   伏見、鳥羽、淀 橋本、葛葉の戰は 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   音に聞えし関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと問うたれば 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   城も気慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   国を迫うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   薩長土の先手に 手向いする故に 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

   命惜まず魁(さきがけ)するのも 皆お主のため故じゃ 

     トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 「宮さん 宮さん」の歌詞には他のバージョンもありますが、これは明治25年の「小学唱歌」にも載せられた、比較的原型に近いものと思われます。戊辰戦争と言いますとこの楽曲が直ちに思い浮かぶのは私だけではないでしょう。

 さてあらかじめ戊辰戦争直前の情勢についてここで簡単なおさらいをしておきます。1867年10月、前土佐藩主山内容堂の建白に応じて大政奉還が行われ、15代将軍徳川慶喜はついに政権を朝廷に返上しました。形式的には江戸幕府が自ら滅亡したことになります。とは言え、幕府の各組織は温存されたままですので軍事的に見れば決して滅亡したとは言えません。むしろ慶喜らはこれまでの将軍を中心とした幕府独裁体制を自らの手で改造しつつ主体的に日本の近代化を進めることで薩長ら徹底倒幕派との内乱を回避し、欧米の不当な介入を阻止する事を最優先したと考えられます。将来的には天皇の号令のもとに議会を招集し、率先して欧米の議会政治を取り込んでいく中で自分たちの権力の温存を図ろうともしたのでしょう。

 しかし大政奉還後、11月になっても多くの大名らは天皇の呼びかけに応じず、京都で議会を開ける状況にはありませんでした。政権運営から遠く離れてきた朝廷自体にこうした政局の行き詰まりを打開する力は全くありません。他方で西南雄藩と呼ばれた薩摩や長州は幕府の軍事的滅亡を執拗に策しており、慶喜らの延命策につながる大政奉還には猛反発していました。権力の温存を図ろうとする慶喜らとそれを絶対に阻止しようとする徹底倒幕派との亀裂は深く、多くの諸侯はその対立の狭間にあって立場を決めかね、実質的には「洞ヶ峠」を決め込んでいたのでした。

 政局が膠着状態に陥る中で大政奉還のきっかけをこしらえた坂本龍馬らの暗殺は大政奉還後の事態の行き詰まりを一層あからさまにしてしまいます。政治的空白の長期化で天皇や朝廷の無力さをさらけ出してしまうことは天皇の権威を利用しようとする薩摩・長州にとっても打撃となります。また議会政治の早期開始を期待していた越前、土佐、尾張といった有力な諸侯も事態の打開に向けて動き出します。こうして内に大きな対立を孕みながらも12月、いわゆる王政復古の大号令が出されます。総裁、議定、参与という三職からなるにわか作りの臨時政府が立ち上げられ、幕府亡き後の最初の政権が発足したのです。

 この段階でも多くの諸大名は強大な軍事力を維持していた将軍家に遠慮して藩内にとどまっていたため、臨時政府の構成には大きな偏りが生じました。肝心の慶喜は大坂城に退去していて京都には招集されず、慶喜不在のままで政権が発足していたことになります。三職の最初の会議(=小御所会議)は大号令が出された夜に開かれますが、当然政局の運営に欠かせぬはずの慶喜を抜きにしたこの会議に越前や土佐から激しい批判が噴出しました。

 結局、深夜まで紛糾したこの会議を一気に結論に導いたのは西郷隆盛の「短刀一つあればけりが付くではないか」との一言であったらしく、これで会議の主導権を握った薩長は「辞官納地」(すべての官職を辞職させ、すべての領地を返納させる)という厳しい処分を慶喜に下すことに成功します。もちろん、徹底倒幕派の目論見はこうした新政府の慶喜への一方的な処罰という挑発に乗って旧幕府勢力が何らかの行動を起こしてくれることでした。

 もとより倒幕派の意図を察していた慶喜は殺気立つ大坂城内の家来達をなだめつつ、挑発に乗せられぬよう軽挙妄動を厳に戒めています。しかし西郷隆盛らは既に先手を打っていたようです。慶喜が留守にしていた江戸では薩摩藩邸が雇った無頼の徒が放火略奪を繰り返し、慶喜の辞官納地に煮えくりかえっていた江戸町奉行所の面々を執拗に挑発していたのです。ついにこらえきれなくなった町奉行所は薩摩藩邸を襲撃してしまいます。

 明治天皇が臨席し、有栖川宮熾仁親王を総裁とする小御所会議の決定に異を唱えることはすなわち朝廷に逆らうことであり、「朝敵」の汚名を着せられることを意味していました。江戸からの知らせを受けた慶喜は覚悟を固め、大坂城や京都守護職の会津藩、京都所司代の桑名藩の勢力を率いて京都に進撃します。1868年1月、京都の鳥羽・伏見の戦いはこうして始まり、ついに戊辰戦争の火蓋が切って落されたのです。

 

 冷静に戦いの経緯を振り返りますと旧幕府方が薩長の非を鳴らし、敢えて朝敵の汚名を着せられながらも戦いに挑んだ、まさにやむにやまれぬ心情は理解できなくもないのです。ですから改めて「宮さん 宮さん」の歌詞を読み直しますと天皇の権威を借りて一方的に旧幕府側を悪者に仕立て上げ、戦いを優位に進めようとする薩長の「悪企み」が透けて見えてくるようにも思えます。

 実は作詞した品川弥二郎は松下村塾出身者で高杉や桂(木戸孝允)らと行動を共にすることが多かったのですが、後に内務大臣(第二次松方正義内閣)として大規模な選挙干渉を指揮し(1892年)、自由民権運動に属する立候補者の弾圧を行って全国で死者25人、負傷者数百人に達する多数の死傷者を発生させたことで有名となります。

 当時の千葉県は自由民権運動が極めて盛んでこの時の死傷者は死者2人、負傷者40人を数え、死傷者数で見ますと何と全国4位でした。

 ちなみに市原では「市原倶楽部」という自由民権派の政治結社が1889年に結成され、地方名望家の多くがそこに名を連ねております(下コピー)。元来が天領や旗本、譜代大名の領地が多く、佐幕派が圧倒的に優勢で幕府を滅ぼした新政府に対する反発が強かった房総市原。この地で薩長藩閥政府を批判する自由民権運動が盛り上がるのは当然であったかもしれません。

 

「東海新報」(明治22年10月30日)コピー:但し創立委員の一部のみ掲載

 

※そもそも千葉県は自由民権運動が盛んな地域でした。「房総の自由民権」(佐久間耕治 崙書房 

 1992)によりますと房総を訪れた民権家の主な弁士は以下の通りです。

 1880年、末広重恭(鉄腸:1849~96)、館山から鴨川にかけて田口卯吉らとともに演説会の弁士の

   一員で遊説→朝野新聞に「房州紀行」として連載

 1882年、1883年、小野梓(1852~86)遊説

 1883年、植木枝盛、房州各地で11回もの演説

   この年は松方デフレによる不況に加えて夏はコレラが流行。なお植木は既に1881年、東金で演説

   しています。翌1882年には大網、土気にも来ています。

 1884年、7月、星亨遊説

  10月、加波山事件の主犯富松(とまつ)正安、房州長狭の民権家らに匿われる

  11月、市原郡姉ヶ崎で富松、逮捕(→死刑:房州の自由党系民権派に対する官憲の弾圧)

 1893年、島田三郎と田中正造、遊説

 1894年、河野広中、遊説

 

 千葉県の自由党員は1884年の時点で118名と全国6番目の多さ、国会開設請願署名数は32015人で高知県の48392人に次ぐ全国2番目の多さ。民権派の結社数では57社で全国7番目であり、自由民権運動はかなり盛んでした。だからこそ民権派の自由党も立憲改進党も大物弁士を房州に送り込んでいたのです。

 

・江戸城無血開城

 戊辰戦争に戻りましょう。鳥羽・伏見の戦いはスペンサー銃などの最新兵器を擁した薩長土を主力とする政府軍が数の上での劣勢をはねのけて慶喜軍を敗走させます。慶喜は大坂から海路、江戸へ逃げ戻りました。確かに「城も気概も捨てて」慶喜は一足先に江戸へ逃れた・・・と歌で揶揄されても仕方はありません。

 しかし江戸を本拠とする旧幕府側の強硬派にとって慶喜の帰還は切望されていた事でもあったはず。東征を進める官軍を迎え撃とうとする機運は薩長への恨みを募らせていた江戸の幕臣達の間で盛り上がっていたことでしょう。

 江戸城に戻った慶喜は一体、何を考えていたのか気になるところです。これまでしばらくの間幕政から遠ざけていた勝海舟を急遽呼び戻し、実質的に老中格として処遇した事を考えますとやはり初戦の躓き(鳥羽伏見での惨敗)と「朝敵」の汚名は相当、応えていたと思われます。

 坂本龍馬を通じて西郷とも面識のあった勝の登用は慶喜が官軍との和平交渉を視野に入れた、平和的な解決を真剣に模索していたことの表れかもしれません。もちろん本拠地の江戸で官軍を迎え撃てば確かに官軍を一時的に追い返すくらいの力はまだ慶喜方には残されていたでしょう。東国諸藩の多くが佐幕派で占められており、勝手知ったる江戸でならば西国での敗戦から立ち直ることは決して不可能ではなかったに違いありません。

 当時官軍は海軍力に劣り、江戸湾は幕府海軍総裁であった榎本武揚率いる艦隊が睨みをきかせていました。実際、官軍の作戦の中心にいた村田蔵六(=大村益次郎)は江戸に入る頃、旧幕府側が一致団結して反撃に出れば官軍の敗戦もあり得るという一抹の不安を抱いていたと言います。

 官軍側も敵の本拠地に乗り込む恐怖感をそれなりに抱えていたのです。さらに江戸城には皇女和宮がいるのでこれまでのような一気呵成の攻撃をするわけにはいきません。少なくともしばらくの間だけでも官軍とは互角に戦えるほどの潜在的な力を慶喜側は秘めていた・・・という見方は成り立つでしょうか。

 1868年3月、東征軍は品川に到達します。3月15日(旧暦)を江戸城総攻撃の日と決し、慶喜側に圧力をかけました。とは言え西郷と勝とは敵味方に分かれながらも欧米の介入という最悪の事態を避けるために江戸を戦場とした内戦の長期化を阻止する方向で両者の考えは一致していたと思われます。

 品川での歴史的会談は慶喜の隠居を条件に江戸城無血開城と決します。勝としては徳川家の存続さえ許されれば十分面目が立つとの判断だったのでしょう。徳川家だけではありません。勝が気にかけていたのは榎本武揚、西周、加藤弘之、大鳥圭介、江原鋳三郎といった若き俊英たちの将来でした。幕臣の中にも日本の近代化を牽引できるだけの進んだ考え方、知識を持っていた人々が大勢いたのです。既に坂本龍馬らを失っていた勝としてはこれ以上、日本の将来を担える優秀な若い人材を失いたくなかったのでしょう。彼らを生かす上でも内戦の拡大、長期化は避けるべきでした。

 後年、勝は当時のことを回想して「あの戦は負けてやった戦だ」と言っていたようです。この発言をただの負け惜しみと見る向きもあるようですが、本当のところどうでしょう。多少の勝算があったとしても慶喜側がこの時点で降参しておく方が徳川家にとっても、また日本全体にとっても結果的には得策だったのではないでしょうか。

 他方で勝は官軍の弱点を見抜いていたのでしょう。江戸城内に貯えられてきた資金と軍備は勝らの手によってあらかじめ旧幕臣達が脱走する際に少しずつ分け与えられていたようです。官軍が入城したとき江戸城内には既に見るべきものはほとんど無かったといいます。こうして勝は江戸城をあけ渡しながらも兵力と装備の多くを関東各地に分散させ、官軍との敵対を表明していた東北諸藩をバックに軍事的威圧感をちらつかせて官軍から最大限の妥協(徳川将軍家の大大名家としての存続…)を引きだそうとしていたとみられます。

 4月の江戸城あけ渡しに反発した旧幕臣達はいくつかのグループに分かれて各地に潜伏し、反攻の機会を伺っていました。福田八郎右衛門ら撒兵隊(さっぺいたい)の幹部を中心とするグループは木更津の真里谷に陣取って徳川義軍府と称し、江戸奪還を狙います。

 大鳥圭介らは土方歳三と組んで遊撃隊として北関東各地に出没し、官軍に抵抗します。榎本武揚は海軍を率いて江戸湾上に不気味な沈黙を続けていました。旗本達の一部はやがて彰義隊と称して上野に集結していきます。もしもこれに連動していくつかの藩が動いてくれれば江戸城開城後であってもなお官軍は「飛んで火に入る夏の虫」同然だったかもしれません。

 江戸城無血開城が決定した後も、事態は決して双方にとって楽観できない不穏な空気が漂い続けていたようです。他方で勝海舟にとって頭痛の種となっていたのは福田ら旧幕府方強硬派の、無計画な暴発でした。勝は家臣の松波らを密かに動かし、血気盛んな近藤勇、大鳥圭介や福田らの不穏な動きを何とか鎮めて暴発を抑え込もうとします。

 

 

※ここまでの主な参考文献

「房総の幕末海防始末」(山形紘 崙書房 2003)

「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編 崙書房 2011)

「遺聞 市川・船橋戦争-若き日の江原素六-」(内田宜人 崙書房 1999) 

「新撰組五兵衛新田始末」(増田光明 崙書房 2006)

「レンズが撮らえた幕末の日本」(岩下哲典・塚越俊志 山川出版 2011)

「世界を見た幕臣たち」(榎本秋 洋泉社 2017)

62.市原の戊辰戦争④

 

 

・幕末の市原

 幕藩体制は鎖国体制の行き詰まりに加えて領主層の財政難と「米価安の諸色高」という物価問題によっても深刻な危機にさらされていました。支配層は財政難を年貢増徴等の増税などで乗り切ろうとしたため、農民らとの軋轢を強めていったのです。市原でも各地で百姓一揆が起きています。特に天明の大飢饉の前後には養老川(江戸時代、関東では有数の暴れ川であった)の洪水が繰り返され、町田、廿五里から下流の村々は困窮を極めたに違いありません。

   市原を含む江戸周辺では大藩を設置せず、一万石程度の小藩や旗本領を多く配置していました。また一つの村が複数の領主に支配される、いわゆる「相給の地」も多かったのです。このため錯綜する支配体制の隙をついて博徒が横行しました。木更津船を利用して江戸周辺から房総に逃げ込む犯罪者も後を絶たなかったようです(※「与話情浮名横櫛」)。1805年、博徒専門に取り締まる「関東取締出役」が設置され、さらに1827年、その下請け組織として40~50の村々が「寄場組合」としてまとめられます。村役人らは治安回復の為、博徒に関する情報提供を義務付けられたのです。

※「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」:1853年、三世瀬川如皐脚本で中村座初上演。

   八代目市川団十郎が「切られ与三郎」を演じて有名に。長唄の師匠(東金出身)の実話をもとに如皐

   が脚色し、歌舞伎の世話物の代表作として知られるようになった。特に源氏店(げんやだな)妾宅の

   場面で与三郎とお富が再会する場面が有名。

 

   関東の治安悪化は一人旅を難しくしました。文化12年(1815年)、富津の織本花嬌の墓参から帰路に就いた俳人小林一茶が八幡宿で宿泊を断れられ、やむなく村田川を越えて蘇我を目指したのもそうした事情が潜んでいたようです。

 錯綜した支配体制で生じた五井戦争では村人の多くは領主権力に頼ることができず(そもそも領主層は戦火を避けるべく各地に疎開していました)、村役人を中心に自衛するほかなかったと思われます。市原郡内における海岸部の村々では飛び交う種々の噂話に翻弄されながらも、両軍の「横暴」におびえていました。知人、親類等を頼りに内陸部の村に身を寄せた人もいたに違いありません。しかし村役人層は立場上、相当の覚悟をして村内に踏み止まらざるを得ませんでした。一般の村人も留守中の略奪放火などを警戒したため、戦闘が遠ざかり次第、ビクビクしながらも早目に帰宅した者が多かったようです。そのあげくに潜伏していた義軍兵士と遭遇して逃亡に手を貸すことになったり、屋敷内で切腹している義軍兵士を発見したり、官軍に生首を担がされたり…そうした各種の興味深い体験談、目撃談が戦場となった沿岸部の村々にいくつも残されていました。

   五井戦争の直前、官軍が船橋宿に放火して数百軒が焼失した件は瞬く間に市原郡内に伝わっています。実際に市原郡内でも村上の観音寺、海保の露崎家等が放火されるなどして焼け落ちています。今富の根本家(現千葉家)は岡山藩兵の略奪に晒されました。とりわけ名主層は放火を繰り返す津藩兵の無慈悲な振る舞いにおびえていたに違いありません。もちろん事実無根のデマも飛び交ったでしょう。

   しかも他方では徳川義軍府から人馬の提供と軍用金をねだられ、次いで官軍からも人馬の提供を迫られ、村役人たちにとってしばらくは身の縮む思いが続いたはずです。島野の旧家落合家所蔵の「名主日誌」からは当時の名主たちの心労がどれだけのものであったか、往時の人々の苦心のほどを偲ぶことができます。

 

「義軍官軍むかしむかし名主日記」(落合忠一編 五井町文化財研究会 1959)より

 以下、島野旧名主落合家所蔵の名主日記よりカッパが抜粋。ちなみに島野村は大岡忠相以降(享保9年から)、大岡家の領地であった。大岡家は他に市原郡内では不入斗、深城、永藤、迎田など六か村を領地としていた。また旗本酒井家も島野村の一部を知行していた。酒井家は他に二日市場、川在、岩崎、奉免、山口、菊間等八か村を支配している。ただしこの時、二人の領主は戦を避けて疎開しており、現地にはいなかった。大岡は遠く三河、酒井は奉免に居を移している。

 この日誌からは戦場となった当時の緊迫した状況が生々しく伝わってくる。官軍への恐怖感(頻繁に放火の件が記載)も随所に伺える。また義軍や官軍への様々な協力(人足や軍用金の提供、渡船の取り計らい等)で当時の村役人達が東奔西走を余儀なくされ、気の休まる暇もなかったことが想像できる。

 なお読みやすくするため、カッパが多少の改変、解説を加えてある。

 

・閏4月4日:曇天、大風

  歩兵方、御通行につき、かれこれ混雑いたし候。この前は下総、市川、八幡、中

 山あたりにて早朝より官軍と義軍隊と戦争いたし候由。同日、八つ頃より、官軍よ

 り船橋宿へ放火いたし、大風にて義軍隊敗北の由、承知。夕刻、五井の方より軍勢

 引き取り候につき、宰領さしだし申し候。この夜も御通行につき、人足引き連れ、

 出張。組合村(出津渡船場を管理する六カ村:島野、玉崎新田、出津、松ヶ島、青

 柳、飯沼)一同、罷り出る。御通行これなきにつき、夜四ツ半(11時)帰宅いたし

 候。

・閏4月5日:曇天

  市左エ門(島野村組頭…現三橋氏)、五井村へ罷り出候ところ、義軍さむらい方

 へ召され、渡船場の儀、念入り大切にいたすべきよう、おおせ聞かされ、承知の由

 にて帰宅。この日、お断り御通行につき、たてつぎ(?)人足引き連れ、川端(渡

 船場)に出張(でばり)。組合村一同出張。夕刻、義士方、出津村たむろいたし、

 兵糧頼まれ候につき、私、藤左エ門(島野村割元名主、菊間氏)、市左エ門にてい

 たす。出津村へ持参いたし候ところ、受取陣は白塚村へ。市左エ門差し添え、人足

 持たせ、罷り出候。この夜、与宗左エ門(島野村酒井家知行分の名主…現鴇田

 家)、藤左エ門、私三人名宛てにて義軍府兵糧方より召し状につき、三人同道罷り

 出候ところ、三人共別々に召され、軍用金調達申しつけらるる。私百両差し出し候

 様申すにつき、与宗左エ門、藤左エ門参拾両ずつ。私は五拾両差し出し日延べ願い

 いたし候。この夜、明け方、姉崎より帰村いたし候。

・閏4月6日:天気

 …七ツ時、官軍間者弐人、首打ち取られ候由(…中瀬の件か?)、承り候。この

 夜、私、市左エ門、人足引き連れ、川端へ出張。官軍間者五人、五井村焼き払いの

 ため、火かけ候由(…これはうわさ話に過ぎなかったようだ)。見出し縄かけ川端

 へ。五井村人足四拾人ほどにて引き連れ、義軍さむらい方受け取り、姉ヶ崎へ差し

 送り申し候。義軍さむらい方、八幡まで出張りいたし候由承る(…彼らによって八

 幡で菊地ら官軍の2人が斬られた)。

・閏4月7日:曇天

  五所、五井の境にて戦争、始まり。五井村入口にて戦。出津川端にて戦。官軍

 方、五井、川岸、吹上、中瀬渡る。村上観音寺、焼失。柳原川端、町田河原、今

 富。宮原村名主源兵エ焼失。海保、畑木の内永津(なかづ)、今津、青柳、松ヶ

 島、出津、戦場にあいなり。義軍方討ち死に、出津にて拾九人、松ヶ島にて拾弐

 人、青柳四人、今津四人、畑木半四郎屋敷辺りに六人、同人焼失。姉崎椎津にて拾

 五六人、村上にて弐人。この最寄りにて死人六拾人。砲戦にて騒がしく、この辺り

 男女老若所々散乱。午後より官軍方御通行につき、川端へ出張。差略方いたし候。

 八ツ頃(2時)村方へ備前様(岡山藩)御人数七百人御本陣おおせつけられ、混雑の

 由。またお休みあいなされ候由。

 ※閏4月10日付けの姉崎名主兵左衛門の鶴牧藩への報告では死体59人。その内訳は出津村17人、松ヶ

  島村11人、青柳村5人、今津朝山村4人、畑木村6人、海保村1、姉崎村15人、椎津村2人となってい

  る。様々な情報が飛び交っていたのだろう。人数に多少の違いが見られる。

・閏4月8日:天気

  松ヶ島善左エ門宅にて組合村一同、午後より忠右エ門(島野村酒井家知行分の組

 頭)まいられ、渡船場へ橋かけ候てはいかがの旨申し来たり候につき、両人にて松

 ヶ島善左エ門へ罷り出談判。なおまた出津村長左エ門(出津村名主)へ談合いたし

 候ところ、例にあいなり候てはよろしからず候につき、見合わせのつもりにて帰

 宅。七ツ頃(4時)文助殿(島野村酒井家知行分の名主、現酒巻家)まいられ、姉崎

 より人足触れ参り、もし不参の村これあり候はばその村焼き払い申すべくとの御沙

 汰につき、同人同道川端へ罷り出、組合村一同へ談判いたし候ところ、村々一同人

 馬遅滞なく差しだし候つもり。文助殿かえらる。夜五ツ半(9時)頃、真里谷真如

 寺焼失。火の手見え申し候。この夜、川端詰め番いたし候。

 ※出津の渡船場は近郷六か村(出津、飯沼、島野、青柳、松ヶ島、玉崎新田)で組合を設けて共同管

  理していた。島野村が「親村」。料金(1人3文、馬一匹5文→1866年に1人12文に値上げ)は年

  番村の収入とされた。参勤交代等で大勢が渡るときには六か村共同で川船を集め、船橋をかけて渡

  したという。船や人馬の徴発による負担は組合で村髙に応じて負担(島野400石、青柳300石、出

  津200石、玉崎新田200石、松ヶ島100石、飯沼100石の割合)することになっていた。なお100石

  につき1年の年番が課されるため、島野村は4年間、渡船業務にあたらなければならなかった。

   幕末、江戸湾防備のために幕府役人や諸大名の通行が増え、川越役の負担が重くなったため、六

  か村は姉ヶ崎への助郷役を免除してもらえるようになった。渡船は長さ2丈5尺で2人の水主(か

  こ)が乗り込み、御用の際には荷揚げ人足12人が両岸の川端に詰めることになっていた。水主は困

  窮者救済のため、希望者からくじ引きなどで数人選び、「舟渡川越人」と呼ばれた。彼らは年に3両

  ほどを年番村に納めるかわりに渡し賃を自分の収入にできた。ただし余分の運賃を請求する不正が

  横行したようで、1842年、運賃は川端に棒杭を立てて示すことになった。今富にも同じような渡船

  場が設けられている。他にも渡し場があった(中瀬、町田…)が多くは徒渡(かちわたし)で、満

  水時のみ舟を利用していた。

 

 さて物資流通と人々の移動が活発になってきた江戸後期、海の道や陸の道を通じて新しい時代の息吹が次々と市原にもたらされました。山田橋の野城家(現若菜家)に見られるように平田派国学の伝播もそうした動きの一つです。平田篤胤(あつたね)の後継者平田鉄胤(かねたね)が房総を訪れたのは文政11年(1828)と天保元年(1830)の二回であり、市原でも野城良右衛門をはじめとした名主、神官らを中心に鉄胤らの門人になるものが出ています。

 また明治初年、姉崎の妙経寺にいたこともある日蓮宗の僧、天羽南翁(市原郡国吉村出身)は天保年間に京都妙満寺に送られて国学を学び、千葉郡村田村泉福寺の住職となって幕末、尊王攘夷派の志士を匿ったといいます(→村田町神明神社の南翁頌徳碑)。彼は明治になってからしばらくして還俗し、村田の泉福寺に私塾を開いて八幡の川上南洞らに大きな影響を与えました。

 人や物の移動が活発化したことでいわゆる招かざる災厄も市原にやってきます。疱瘡(天然痘のことで痘瘡とも)や麻疹といった恐ろしい伝染病が市原に入り込み、流行を繰り返したことが「疱瘡神」等の祠によって分かるのです。島崎藤村の「夜明け前」に記されている文久2年(1862)の麻疹の全国的流行に関しては今津朝山の鷲神社にある同年の麻疹神の祠によって市原にも感染者が出ていたことが確認できます。また五井大宮神社の末社「アンバ様」(大杉神社)は水運と疫病流行の両方に関わる信仰遺産といえます。

 江戸湾の海上輸送は五大力船(「ごでぇーりきせん」)が中心でした。外洋にも耐えられる海専門の大型船「弁才船(べざいせん)」と異なり、川船と海船との折衷型で喫水が浅く、基本的には矢倉(甲板上の船室)を設けない構造。板張りの「竿走り」が舷側にあり、操作性に富んでいました。100石から300石積みくらいで長さ10~20m、帆船のため順風であれば八幡から江戸まで3時間程度で移動できましたが、逆風の場合、櫓をこいで二日間かかることもあったといいます。川にも乗り込めるため「川船」扱いで渡船と同様、幕府川船役所の管理下に置かれました。1861年の中古船の販売記録では一艘90両の値がついています。役所から与えられた船の所有権は「船株」として貸借されました。なお年貢米の輸送運賃は100俵につき3俵が相場であったといいます。

 10~14mと五大力船よりもやや小型のスピード重視の舟が押送船(「おしょくりせん」。帆をかけずに櫓だけで船を「押し送る」ことから命名されたようです)で生簀が設けられ、鮮魚や貝類が江戸などに運ばれました。江戸魚問屋の通船手形を所持しなければならず、このことで江戸魚問屋は江戸湾内の鮮魚流通ルートをほぼ掌握することができたようです。

 陸路を見てみましょう。市原を通る街道は脇往還(脇街道)であり、脇往還では五街道に準じて五街道の「宿場」に相当する「継場」(継立場)が設定され、名主層を中心に交通業務にあたっていました。海浜部は房総往還(道標では上総道、木更津道、房州道などとも呼ばれ、江戸へ向かっては江戸道と刻まれている。船橋と館山を結ぶ)が通り、八幡、五井、姉崎が「継場」でした。それぞれ周辺の村々(五郷組合を軸に「高割」で人馬の負担を分担)を巻き込んで参勤交代等の「大交通」に備えました。姉崎を中心とする村々は「姉崎二十五郷」と総称され、五つの五郷組合で組織されていました。なお今富は久留里街道(五井ないしは木更津~真里谷~久留里…嶺岡)の継場でした。街道は他に伊南通往還(浜野ないしは八幡~茂原・一宮)があり、潤井戸が継場として交通業務にあたっていました。

 18世紀の中ごろには姉崎村での伝馬役は通常37人、37匹の人馬を姉崎五郷で負担し、それ以上の人馬が必要になると嶋野、海保、新生各五郷にも高割で負担を分担してもらうことに定着したようです。ただし嶋野組は800石分を川越役高としてこの分の人馬役が免除されていました。今富村でも25人、25疋の人馬を五郷で負担し、これを越える負担は姉崎と同様とすることになったようです。江戸中期以降、海防関係で公用通行が増加するのに伴い、周辺農村への人馬の負担が増大すると、これに反発する村々が継場村の指示に従わないケースも生じてきました。中には継場としての利益に注目して継場への人馬負担は拒否しておきながら、独自に物資の輸送を手掛ける村も出現しました。

 なお五井にも二十五郷が設けられていたようですが次第に解体していき、五郷組合のみが存続していったと考えられます。五井村の定助郷村は君塚、岩之見(→岩野見)、岩崎新田、平田、村上でした。幕末、公用の通行量が増大すると加助郷村の西広、磯ヶ谷、海士有木、松崎、武士、相川、福増、新堀、山倉、山田、大坪)、さらには大助郷村の牛久周辺(妙香、奉免、池和田、田尾、山口、上原、牛久、馬立、国吉、内田、外部田、久保、大作等)にも人馬の負担を求めることになりました。

 

 幕藩体制の動揺は18世紀後半からいたるところで見られるようになりましたが、江戸湾に臨む房総の地ではとりわけ外国船来航への対応が急がれるようになってきます。

 伊能忠敬らによる正確な日本地図の作成は海防上、必要不可欠であったはずです。1801年には房総測量が行われ、6月21日から22日にかけて一行は市原郡内を測量して歩きました。途中、北五井村の中島甚五左衛門宅に宿泊しています。寛政の改革を主導した松平定信は江戸湾の防備体制を固める必要性に気付き、1793年の失脚後も引き続き江戸湾防備体制の確立のために奔走していました。幾度か定信は房総を訪れ、海岸部を巡見しがてら五井の中島家や進藤家に宿泊し、姉碕神社や嶋穴神社に代参のための家臣を送っています。1851年、佐久間象山が今津の始関半左衛門の招きにより姉崎浦でカノン砲の試射を行ったのも当然、江戸湾防備体制の一環でした。安藤信正と共に公武合体策を推進した関宿藩主久世広周らが度々、家臣に鶴峯八幡へ参詣させているのもまた、徳川政権安泰を祈願する心の内に黒船来航への底知れぬ恐怖感があったからだと思われます。

 

 

 日本武尊を祀る五井大宮神社の鳥居はそうした世情騒然とする中で、1853年、ペリー来航の年に造られました。川岸富貴稲荷神社の鳥居は日米修好通商条約が結ばれた1858年です。これらの造営のタイミングはただの偶然とは思えません。相次ぐ黒船来航は国家存亡の危機を招いていました。特に黒船を実際に遠望することのできた海浜部では未曾有の危機感の中で多くの村々が神仏の御加護を得んとして寺社への参詣や石造物の奉納を繰り返していたに違いありません。

 そもそも19世紀は市原において神道、仏教、修験道系の多種多様な信仰が活性化し、多くの信仰遺産が生み出された時代でもあります。仏教界では市内で寺院数が最も多い真言宗においてとりわけ重大な年を迎えます。1834年(天保5年)は空海千年遠忌にあたっていました。この記念すべき年をひかえた18世紀後半から関東各地で「新四国八十八か所」の札所が設けられています。四国でのお遍路は西国中心に流行していましたが、東国では四国への旅自体がそもそも困難でした。そこで近在の真言宗寺院を八十八か所の札所に指定してお遍路体験を身近なものとし、真言宗の一層の普及、発展を期そうとしたのです。市原でも能満の府中釈蔵院を一番札所、菊間の千光院を八十八番札所として1782年(天明2年)以降、郡内の真言宗寺院の多くが「~番札所」の札所塔を寺の入り口付近に建てることになりました。

 また山岳信仰の系統が大きな盛り上がりを見せ始めます。富士塚(浅間塚)や三山塚(出羽三山)が各地に築かれ、石尊大権現(相模大山)や白山・秩父三峰・御嶽などの祠が大量に祀られているのです。多くの人々が先を争うように有名な霊山に登り、身を清め、様々な霊力を身につけようとし、各種の講を作ってその日に備えました。とりわけ市原における富士塚と三山塚の多さは注目すべきでしょう。   

 海辺の集落(八幡、五所、金杉新田、岩崎新田、玉崎新田、松ヶ島村、青柳村、今津朝山村、姉崎村、椎津村の十か村)では富士信仰に加えて金毘羅や厳島神社(=弁天)への信仰が篤く、江戸時代最大の流行神である稲荷も各地で祀られています。もちろんこれに伊勢参りや熊野神社、天神(この時期、寺子屋の普及によって筆子塚とともに学問の神としての天神の祠が目立ってきます)への信仰も加わるのです。実際、どの神社にお参りしても摂社、末社、石祠までつぶさに調べれば江戸末期の人々がどれだけバラエティーに富んだ信仰を持っていたかが容易に分かります。

 

 こうして人々は信仰と経済を軸に海路、陸路を通じて各地を頻繁に移動するようになりました。その流れに乗って野城廣助(1863年、鉄胤門下生らが足利歴代将軍の木像を鴨川に晒し首にした事件に関わる)ら尊皇の志士達なども藩の垣根を越えて東奔西走し、次第に同志としての全国的な交流を深めていきました。

 参勤交代制を軸に強力な大名統制を行い、身分制度の下で民衆を分断し、武器の多くを取り上げてお上に対する抵抗力を奪う。さらに民衆を狭い土地に縛り付けて動きを極端に制限しながら米中心の生産体制を押しつける。そのことで確立した石高制を軸に安定した支配体制を築き上げてきた近世の封建的割拠体制、すなわち幕藩体制はここにきてようやく崩壊の歩みを速めてきたのです。

 

その5.④ゆとり教育と免許更新制

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。 

 

 もう一つ私の手元には学校教育の行く末を暗示することになる本がある。「動き始めた教育改革」(主婦の友社1997)という題名でかの寺脇研氏(1952~)が書いた本である。寺脇氏は文部省の官僚時代(1990年代の後半から10年間ほど)にゆとり教育の広報を担った、生涯教育とゆとり教育推進者の一人であった。この本では実に広く浅く教育についての所見を誰にも分かりやすく述べていて、法学部出身であったにも関わらず、文部省入省後、瞬く間に学校教育について世間に堂々と語れるほどの知識を彼はいつの間にか獲得していたようである。

 ただし少しでも欧米の教育事情に通じている人ならば彼の見識の底の浅さをたちまち見抜けるだろう。彼が推奨する生涯教育、リカレント教育などはとっくの昔から言われてきたものであり、彼の提唱するものに目新しさなぞは一切、見られない。むしろ彼がいかに学校現場を知らないか、いかに学校教育に関して限られた経験しか持っていないか、いかに輸入物に過ぎない机上の空論を自慢げに吹聴しているのか、はバレバレである。

 この本の137ページには「小・中学校は義務教育の本筋に帰れ」と題して中学校や高校が上級学校進学に向けての塾のようになっていると上から目線で一方的に学校現場を批判している。しかし歴史的経緯からすれば教職員の反対を押し切って全国共通テストを強行し、学校間の学力競争を煽ってきたのは一体どこのどなただったのだろう。教育行政に携わる者がまさか学校の果たしてきた「選別・配分・社会化」といった社会的機能を知らないわけではあるまい。学歴社会、学校歴社会が成立した責任は学校にのみあるのではなく、社会全体の問題であることは自明の理である。それにも関わらず、学校教師の取り組みばかりに原因をなすりつけ、保護者に擦り寄るようにして一方的に学校改革、教師改革を迫るこの言い草には呆れてものが言えなくなる。

 受験の過熱は企業の人材選抜のあり方に問題の根本があるのであり、学校だけが受験戦争を煽ったわけでもない。ところが「教師は自分が大卒だから生徒達も大学に進学することがベストだと勘違いしている」などと当時の教師批判の風潮に便乗して過熱していた受験をあたかも全面的に学校や教師の責任であるかのような言い方で責任転嫁している。教育行政の上層部に位置する人物が学校教育や学歴社会成立の経緯を知ること無く、学校現場への共感的理解の欠片すら持ち合わせていないのだから、この本を読了した教師には徒労感と絶望しか残るまい。

 従って教師としてはさすが東大出の秀才・・・と感心している場合ではなかった。特に彼が提唱していた「ゆとり教育」が学校現場にもたらした悪影響は21世紀に入ると他の改革(特色ある学校づくり、教師改革・・・)と相俟って、ごく僅かな期間で破滅的といって良いほどの破壊力を学校現場に及ぼしていくことになったのである。

 では「ゆとり教育」が孕んでいた本質的問題はどこにあったのだろうか。かつてよく言われていたような、「ゆとり教育が日本の児童生徒の学力低下を招いてしまった」などということでは決してない、と私は考えている。確かにそうした側面もあるにはあったのだろうが、もっと重大な問題があると私は考える。それはゆとり教育導入のために実施された様々な新しい試み(総合的学習の時間、職場体験、生活科などの導入・・・)が学校現場の混乱と疲弊を招き、改革の美名の下、教師達から最も大切な時間的、体力的、精神的ゆとりを奪い取ってしまったということ。結果的に学校が辛うじて保ってきたはずの現実対応力を劇的に低下させてしまったことの方がはるかに責任重大であったと感じている。

 確かに学習内容の削減は多少、児童生徒の負担軽減に繋がったかもしれないが、教師の負担は決して減じていない。むしろ土曜日が休日になった(2002年から完全実施)ことでやがて「定額働かせ放題」と揶揄されることとなった教師の部活指導は一層、過熱し過酷な負担となっていった。授業時数が減った分、部活指導の時間が増えただけ・・・「教師のゆとりを奪うゆとり教育」では完全に本末転倒であろう。

 部活動の過熱化は次第に授業よりも部活動を優先する傾向を一部の教師や生徒、さらには保護者の間にまで生み出してしまったのではないのか。高校入試の部活推薦枠に見られる不公正さが一層、学校教育の矛盾を拡大していったのもこの頃ではなかったか。むしろ土曜日の半日を授業で費やすかつての日程の方がまだ有意義であり、教師の負担も小さかったのではないのか。

 加えて総合的学習の時間(→総合的探究の時間)を週に一回行うことで多くの教師は1単位分の新科目を背負うことになってしまった。特にインターンシップ(職場体験)は児童生徒を預かる事業所への迷惑をかけることにも繋がり、担当教師の精神的な疲弊を強めてしまった。彼が自画自賛する生活科の導入もいたずらに小学校の混乱を招いたに過ぎないのでは・・・

 この頃から私の読書する時間が劇的に削られていったのは間違いない。複数の科目負担が当たり前になり、進路指導や生徒指導、部活指導、授業準備に追われることが常態化してしまったのである。従って授業準備に直接繋がらない学習に時間を割くことがほぼ出来なくなった。先にも触れたが大学卒業後も必死に取り組んできた学校教育に関する読書を私はこの20年近く、ほとんどしていない。教師であるにもかかわらず学校教育について学習する機会を根こそぎ奪われていくという、教師としては悲しいまでに致命的な現象が学校現場では皮肉にも「ゆとり教育」という「教育改革」の掛け声の下、一気に進んでいたのだ。

 この現象は私だけではあるまい。たとえば直近の10年間で学校教育に関する言説によって学校現場に大きな影響を及ぼすことの出来た現役教師がもしもいるのならばその名前を是非挙げてほしい。せいぜい「百ます計算」のメソッドで知られる隂山英男(1958~:岡山県の小学校教師を経て立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長)氏くらいのものではなかったか。しかし隂山氏はたちまち管理職へご栄転し、大学へと活動の舞台を変えてしまった。しかも隂山メソッドに関しては教育技術法則化運動と同様に基本的には技術論であり、内容論は等閑視されてしまっていて高校社会科教師の関心を惹くものではなかった。教育内容が厳しめに限定されている義務教育では役立つだろうが、高校、それも教師の判断による授業内容の選定が鍵を握る社会科ではほとんど参考にできるものはないと私は考えている。従ってブログでの発信を除いてしまうと、不勉強ながら私はフルタイムで働く現職教師の有力な発信者を一人も思い浮かべることができないのだ。

 安価で雇える非正規教員の急激な増加もまた学校全体の力を奪ってきている。各種講師に加えて退職後の教師を再任用で65歳まで雇用することで給与の額をほぼ半減させながら教師不足の解消を図ろうとする安易極まりない手抜きの人事政策の弊害は極めて大きい。いわゆる「老害」の問題だけではなく、短期間で学校を異動する教員を増やした事で失われがちとなった現場での活力をどう取り戻し、共通理解をどう確立するのか、その方途がまったく見えてこない。ただでさえ高齢化していた正規教員の数をこの安易な人事政策によって結果的に削減してしまった事は学校現場に取り返しの付かない程の混乱と疲弊を招きつつあるはずだ。

 加えて学校現場での予算措置や人員の補充をサボりつつ、障害のある児童生徒を普通学校の授業に参加させる「インクルーシブ」教育を強行する文科省の強引な姿勢が現場の疲弊を一層、募らせるだけなのは火を見るよりも明かである。予算と人事を抜きにしてきれい事を現場に押しつけるだけ・・・こんな杜撰な教育行政では「やり甲斐搾取」と批判されても何ら不思議ではないだろう。

 ※参考記事

  〇「子どもたちのためなら常識にとらわれない」狛江第三小学校が挑むインクルーシブへの道 学校

   に行きたいけど行けない子どもたち3 

   現代ビジネス 太田 美由紀 によるストーリー  2023.7.8

   この取り組みで笑っていられるのは教育長や管理職、そして管理職を目指す一部の教師に過ぎな

   い、と疑ってしまうのは私だけであろうか。おそらくこの取り組みのために下々が作成しなけれ

   ばならなかった文書の量は膨大であり、教育委員会への報告書の類だけで誰か一人は過労死する

   レベルの量になっているだろう。私が預かった障がい者の記録は副担が記したものだけでわずか

   半年の間に段ボール箱の半分にも達していた。

    当然、インクルーシブ教育導入のためにこの学校で実施された数々の研修は多くの教師たちの

   時間と労力を奪うことで辛うじて成り立っていたはず。この記事ではそうした闇の部分は語られ

   ず、笑顔の管理職と特別支援学級の先生が登場するだけ。どう見てもこの記事、上滑り気味でし

   かもきれいごと過ぎる。表面的なきれいごとほど質の悪いものはない。

    本来、障がい者や不登校児童を受け入れる普通学級の担任こそが一番の苦労を背負わされる主

   役であるはず。しかし肝心の教師たちは縁の下に隠れていて当然、本音は言えず、素の姿を見せ

   ることがほとんどない。この小学校がリーダーシップのある優れた校長の尽力によって実際に教

   師の事務仕事などが激減し、本当にすべての教師たちがゆとりをもって笑顔でいられる学校なら

   ばインクルーシブ教育の導入があったとしても別段、文句は出ないかもしれない。だが私が抱く

   学校のイメ ージではそんなことはありえない。

    もしかすると校長は配下の教師たちの疲弊ぶりをよそに、自分がより良い再就職先にありつく

   上での手柄作り、点数稼ぎのために話し合いの場を設けることなくほぼ独断でインクルーシブ教

   育の研究指定校に名乗りを上げたかもしれない。少なくとも私が経験した千葉県では凡そそんな

   具合であった。表面的な取材できれいごとばかり並べ、教師の仕事を増やすだけの報道は学校に

   とって百害あって一利無しであると思うが、いかがか。

 〇中学校で“雨漏り”“ボロボロの壁” 市役所のトイレが 使用不可 130㎏のコンクリート片が落下す

  る事故も深刻な老朽化問題【埼玉県久喜市】

  FNNプライムオンライン によるストーリー 2023.7.6

  児童生徒の安心安全が最優先されるべき学校がこのザマである。子ども家庭庁の設置と異次元の少

  子化対策とは何であったのか…威勢の良い花火を立て続けに打ち上げてきた政府の本当の思惑は国

  民の目を宙に逸らさせ、足元を見えなくすることだったのかも。

 〇教員不足「悪化した」教育委員会の4割超…一部地域で「専門的指導が十分行えない懸念」

  読売新聞 によるストーリー 2023.6.20

 〇【後編】「子供より早く、ドンドン先生が消えていく…」現役教師が絶句。文科省の「どうしてそ

  っちへ?」的、無策すぎる迷走 FORZA STYLE 2023.6.12

 〇みんなが休んだら回らない…深刻な教員不足、代替見つからず現場疲弊

  毎日新聞 によるストーリー 2023.7.30

 ◎仕事が続けられない!子育て中教員の悲痛な叫び 「給特法改正」より配置や仕組みを変えてほしい

  東洋経済オンライン 石田 勝紀 によるストーリー 2023.6.27

  部活動にはあまり触れられていないが、その他の問題に関してはほぼ網羅されているであろう。学

  校教師の疲弊ぶりを整理して理解する上でとても役立つ記事。

 ○子供も親も知らない「卒業式にいない先生」の正体~担任、部活顧問も担う「非正規教員」の実態~

  佐藤明彦 : 教育ジャーナリスト  2022/06/15 5:20 東洋経済オンライン

 ○「文科省が公表しない「教師の非正規率」増の衝撃、20%を超える勢いで上昇

  2022. 6/16(木) 5:01 東洋経済オンライン

 ○学校だよりで募集をかける「教師不足」の深刻度~教師不足で過労の「ドミノ倒し」が起こる 

  佐藤明彦 : 教育ジャーナリスト  2022/06/18 6: 東洋経済オンライン

 ○約2割の小中学校で教員不足の可能性、「社会人採用」は切り札にならない訳 学級担任決まらない、一

  部の授業できない例も 2022/06/23 妹尾昌俊 東洋経済オンライン

 ○先生はスーパーマンじゃない。――なぜ、学校はすごく忙しくなったのか?

  妹尾昌俊 YAHOO!JAPANニュース 2022.7/30(土) 16:56

 〇 “スーパーマン教員”はいない 複雑化した小中学校の仕事をこなせるか? 学校の過酷な環境 

  AERA dot. 2023.6.26

 ・公立小中学校教員の疲弊 深刻化 信濃毎日新聞デジタル 2022/08/18 21:03

 ○インクルーシブ教育推進と反論 文科省、支援学級通知で

  共同通信社 2022/11/04 19:28

 ○日本とデンマーク「似て非なる」インクルーシブ教育、共に学ぶことの真の価値「分離された特別支援

  教育」は何が問題か 執筆:こたえのない学校 代表理事 藤原さと

  東洋経済education × ICT編集部 2022/11/07

 ○学校施設のバリアフリー化…トイレ70.4%、エレベーター29.0%

  リシード 2022.12.28

  十分な施設も無い、人員も圧倒的に不足する中でインクルーシブ教育という美名のために普通科の

  教師が車椅子や生徒を抱えて階段を上り下りし、さらには通学途中、突然歩行できなくなった生徒

  のために幾度も駅まで出迎えに行き、生徒を背負って帰ってくる…そんな担任がいた。

   時と場合によっては命の危険があるため、常時マンツーマンの対応が不可欠な生徒を抱えた担任

  は副担任と共にクラスの他の生徒達をほぼ放置して修学旅行、遠足、球技大会などをこなす。当

  然、自分の授業が無い時には週6~8時限程度、一人の生徒につきっきりで同伴しつつ、週16~18

  時限の授業もこなしている。それでも割り当てられた自習監督や分掌の仕事は引き受けざるを得な

  い。

   授業中、泣き叫んでリスカを試み、教室を血まみれにした挙げ句に窓から飛び降りようとする生

  徒を必死で制止し、授業を中断。結局、自殺予防のためにその都度、担任が現場に呼ばれ、最後は

  責任を持って担任が家まで送ることになる。

   以上は特別支援学校での出来事ではなく、とある定時制普通科高校で私自身が目撃した事、ある

  いは自ら体験した事である。文科省や教育委員会はきれい事を並べる前に、設備や人員の配置を見

  直すなど、障がい者の受け入れを可能とする条件整備にまずは着手すべきであった。バリアフリー

  やインクルーシブ教育が進まないのは学校現場、とりわけ教師の無理解や怠惰によるもの、とされ

  てしまうのであればそれは現場で悪戦苦闘する教師にとってあまりにも酷すぎる仕打ちである。

 ◎都内公立小の教員不足が拡大、夏休み明け130人欠員…ハローワークに求人出す区教委も

  読売新聞オンライン 2022/11/22 05:00

 ◎教員を確保できない「未配置」問題が深刻化 担任不在で「自習状態」「2人体制」も

  gooニュース 2022/11/24 08:00 ※AERA 2022年11月28日号より抜粋

  小学校教師の不足が夏休み明けに深刻化するのは、産休、育休や結婚による退職が目立つ女性教師

  の比較的多い小学校特有の現象であろう。しかし求人をハローワークに依存する区教委まで出てき

  た事に愕然とする。特に千葉県の小学校における惨状ぶりには目を覆うばかりである。比較的、男

  女の格差が小さいと言われ、かつては高学歴女子の有力就職先であった学校ですら、最早若い女性

  からは魅力の無い職場となってきた・・・この事の重大さを政治家や官僚は十分、認識できている

  とは思えない。中学校の部活動を地域に移行する措置は小学校の労働条件の改善にはまったく繋が

  っていないのに、それがあたかも義務教育全体の負担軽減に繋がっているとの勘違いと油断が教育

  行政に広がっていたとしたら、その識見の低さに唖然とするほかあるまい。なお自民党は遅ればせ

  ながら教育現場の人材確保へ特命委員会を立ち上げ、教員の処遇改善を検討するとのこと

 (2022/11/16)だが、これまでの政策への反省が微塵も見られず、少子化対策と同様、そもそもが

  すべて完全に手遅れなのである。したがってどう見ても「泥縄式」の取り組みに終わる可能性が高

  いだろう。

 ◎教員「未配置」問題なぜ起きた? 専門家「正規教員の採用数を抑えた政策的要因」 

  AERAdot.深澤友紀 2022.11.26

 ○「心の病」休職の教員、約2割が退職に 多忙で産業医面談拒否も

  毎日新聞 2022.12.26

 〇内田樹「間違った教育行政には『それは違う』と立ち上がる勇気が必要」

  AERA dot. 2023.4.12

 〇「定額働かせ放題」教員のブラックな現状。就活生からも「学校は“沈みかけた船”」と見放されて

  深刻ななり手不足…学校教育の危機に、どうする文科省!? 集英社オンライン 2023.6.6

 〇精神疾患により離職した教員 公立の幼小中高校で過去最多の「995人」 文科省調査

  TBS NEWS DIG_Microsoft によるストーリー 2023.7.28

  2022年度における教員の精神疾患による離職者数、および転職による離職者数が過去最高を記録し

  たという事実の重みをおそらく政府や官僚はきちんと受け止めることが出来ないだろう。結局は教

  員の不足を補うためにペーパーティーチャーの雇用促進や教員免許の無い人材の登用、教員採用試

  験の日程調整等による青田買いといった逆効果を招きかねない弥縫策を続けるしか能は無いのだ。

  すなわちこうした教職の安売り、大バーゲンセールは教職の価値をさらに暴落させ、若者の教職離

  れを一層、加速させかねないだろう。

 

 おそらく現役の学校教師としてほぼ最後の発信者は「現場から見た教育改革」(ちくま親書002)や「学校解体新書~世紀末ノ教育現場カラノ報告」TBSブリタニカ 1999)の著者永山彦三郎(1960~:栃木県の小中学校教師を歴任)氏ではないかと思うが、いかがだろう。その永山氏もちょうど私が学校関係の読書を完全に諦めた頃と重なる2002年の著書が最後になっている。

 なおベストセラーにもなった「残念な教員~学校教育の失敗学~」(光文社親書 2015)で知られる林純次(1975~)氏はジャーナリストから教師に転身した変わり種の人物であるが、当時の勤務校が中高一貫校であり、普通の学校教師が直面している過酷な状況にはあまり通じていないと私は考えた。彼が言うところの「残念な教員」がなぜ生み出されるのか、教師はなぜ学ばなくなったのか・・・それは教師の資質や学校の風土だけに由来するのか、この本に対する疑問点は数多い。そもそも技術論ばかりを言いつのり、学校のブラック化への視点が基本的に欠けている点で私はこの本をあまり評価していなかった。教師個々人の問題を超えた構造的領域への目配りが足りないように思えたのだ。

※参考記事

 ○ヒーローが現れるのを待つな――スーパー校長ばかりに期待してはいけない

  YAHOO!JAPAN ニュース 妹尾昌俊 2022.7.31. 10:06

 

 ただし林氏は2022年に出版された「学校では学力が伸びない本当の理由」(光文社親書)で学校のブラック化を指摘し、教育行政の欠陥に対して多角的な観点から的確な批判を加えている。今、読むならばこちらの本だろう。

 とは言え、近年、推薦入試やAO入試が増えてきた事に対して「・・・暗記は退屈で辛く、苦手とする学生は多い。受験を回避する、あるいは楽な方式の受験方法を選択するということは、この辛さから逃避していると言っても過言ではない。これを俯瞰すると、知識の保持という部分を抜きにして、「意見を言う」「権利を主張する」という状況が蔓延しつつあると受け止めることもできる。傲慢と言わざるを得まい。というのも、意見や主張は「評価」の段階でやっと行えることだからだ。きちんと情報を吸収し、理解した上で、それらを用いたり分析したりする。・・・そうでなくては、世の中に根拠のない言説が溢れかえる。だからこそ、学びの基礎である、「暗記」を求める受験制度は維持しなくてはならない。」(P.168より引用)という主張には社会科教師として強い違和感を覚えてしまう。

 もちろん社会科でも暗記すべき事や理解すべき事は盛り沢山ある。しかし林氏が主張するように「きちんと情報を吸収し、理解した上」でなければ意見を言ってはならない・・・という主張に関しては大いに疑問である。社会科の主題に関わる判断の基礎となり得る情報はフェイク情報を含めて山ほどあり、理解すべき事も数多い。しかも時代の急速な移り変わりの中で身につけるべき知識や技術が次々と変化し、折角身につけた情報もたちまち陳腐化しかねない現状があろう。それなりに自信が持てるような意見を言えるに至るまでの情報収集自体が今やそもそも際限の無い作業となりつつあるのだ。流動性を急速に高めている情報化社会においてはもはや誰であっても社会全体に対して確固たる自分の意見を言える日は未来永劫、訪れないのかもしれない。

 しかし、だからといって私達や生徒達に意見がない、自分の意見が言えない、意見を言ってはならない、というわけではあるまい。むしろ自分達の限られた知識や経験の中でも自分なりの意見を持ち、上手に自己主張出来るようにする工夫が現在の授業には求められていると考える。当然、その意見は判断基準となる情報量が限定されているゆえにあくまでも意見形成の途中経過報告のようなものに過ぎないという自覚、謙虚さはしっかりと持っておくべきだろう。そしてその自覚さえ持っていれば、自分の意見や特定の考えに執着することの愚かさに気付くことは出来るだろうし、その気付きの経験をすること自体が重要な教育目的にもなるだろう。

 まず大切なのは情報過多とも言えるような現今の状況においても私たちがあるタイミングまでに一定の決断を迫られている、という現実社会への理解である。進路決定一つとってもこの情報化社会の中では情報量があまりにも膨大すぎてすべての必要資料に目を通すことは最早不可能となっている。しかし一定の時期が来れば私たちは知識不足による不安を抱えたままでもどれかを選び、決断しなければならない。むしろこのジレンマに私たちはどう上手に対処すべきなのかが問われているのだ。言い換えれば不十分な知識と限られた時間の中で少しでも的確な判断ができ、それなりに納得感のある選択ができる現実的で実践的な力の養成こそが今の学校教育、とりわけ社会科教育では必要とされてきているのではあるまいか・・・とすれば不十分な知識でも的確な判断に少しでも近づけられる方法論こそが大切となる。たとえば討論や意見表明の機会を増やすことで多様な意見、自分とは異なる意見の背景を知り、自分の意見と他人の意見とを悪戦苦闘しながら妥当と思われる方向へと自分と皆の意見を擦り合わせていく経験の積み重ねは今後、一層重視されるだろう。

 最初は青臭い意見や議論でも良いから生徒達にどんどん意見を出して貰い、どの意見が一番、納得できそうか、情報収集を重ねてみんなで詰めていく丁寧な議論の進め方こそが必要となると思うがいかがだろう。時間をかけて他者から多様な意見を引き出す中で自分が納得できる意見に辿り着く努力を重ねることは精神衛生上、最も大切とされるメタ認知力を高めることにも繋がるはずである。少なくとも無味乾燥した暗記学習の連続で生徒達を忙殺し、生徒達の自己表現欲求をも圧殺するだけの授業には終始したくない。ひたすら受け身にさせて各自の意見を封じ込め、教師からの一方通行に終始しがちな旧式の一斉講義形式中心の授業を温存させてしまうことだけは絶対に避けるべきだと私は考えている。

※参考記事

 ○【フランスの高校生が学ぶ】自信を持つためのシンプルな方法 

  DIAMOND online シャルル・ペパン,児島修 2022/08/10 06:00

 

 話を元に戻そう。今、ネット上で学校教育について盛んに発言しているのは学者や評論家、芸能人や元教師達ばかりである。なかには妹尾昌俊氏のように教師の経歴がないにも関わらず、学校現場の実情をしっかりと踏まえた有益な発言を活発に行ってくれている方もいらっしゃる。今は妹尾氏のような方の発信に学校現場は全面的に頼らざるを得ないのが実情であろう。

 最早、著作やマスコミを通じて学校について活発に発言している教師経験者は民間出身の校長だった藤原和博氏や元麹町中学校長の工藤勇一氏、元中学校教師の「尾木ママ」こと尾木直樹氏、「夜回り先生」こと元定時制高校教師の水谷修氏、元小学校教師の岡崎勝氏ら、ごく僅かな数に限られる。少なくともフルタイムの現職教師のまま学校現場の生の声を発信し続けている人は前述の林氏以外、ほとんど見当たらなくなったと感じる。

 すなわち2020年代に入り、長らく「教育改革」という名で推し進められてきた学校のブラック化は教師から学習時間を奪い、世間に向けて教師の生の声を発信するだけのエネルギーを多くの教師から奪い去ってしまった。学校教育に関して現役教師が現場の実態を踏まえて盛んにアピールしてきた時代はとうの昔に終わりを告げてしまったのだ。そして教師から生の発信が途絶えつつあるという現状は、学校の実態、内実が世間からすればほぼ完全な「ブラックボックス」と化しつつあることを意味するだろう。世間の死角の中に閉じ込められた教師達は世間から温かい理解の手を差し伸べられることもなくなり、学校不信、教師不信の声ばかりが響き渡る中で孤立の度合いを強めている。最早、「先生、死ぬかも」とSNSを通じ、辛うじて小さな悲鳴をあげることしか出来ない・・・人知れず、そんな瀬戸際まで今の教師達は追い詰められていたのではあるまいか・・・違うだろうか。

 もう一つ、学校教師をさらに疲弊させたのは教師改革の動きであったと考える。衆議院文部科学委員長などを歴任している「ヤンキー先生」こと義家弘介(1971~)氏は、「S・I」の事例として取り上げられた北星学園余市高校出身で同校の教師を務めていたことで有名である。彼はその後、教職を辞し、やがて安倍政権のもとで教育再生会議の中心的役割を果たしている。教師在任中、熱血指導で知られた彼は熱血体育会系路線を忠実に継承する立場だと思われるが、彼が学校改革の中心にいたことが学校現場のブラック化に拍車をかける結果を招いたことは最早疑いようもないだろう。つまりすべての教師に熱血指導を求めかねないような人物が教育政策を動かしたことで、過労死しかねないレベルまで教師達は追い込まれてしまったのではあるまいか。

 義家氏らによって現場の教師達が受けた被害の最たるものはかの悪名高い教員免許の更新制度(2009年から導入)であろう。例の「ゆとり教育」後の学力低下が指摘されたとき、主たる責任を負うべきは「ゆとり教育」を画策した政治家や文科省であったにも関わらず、すべての責任は「トカゲの尻尾切り」の如く、末端の教師に押しつけられた。児童生徒の学力低下はもっぱら教師達の指導力の低下が原因だと見なされたわけである。義家氏はちょうどこの時、「不適格教員の排除」を主目的に教員免許の更新制度を計画(2007年)していた張本人である。

 この制度では免許状更新講習の時間が30時間以上と定められていた。30時間もの講習は多くの場合、あくまでも教師が自らの休日を返上して受講したものである。講習の内容や質には凄まじい格差があり、不平等であったのに、講習を受けなかった者の免許は一律無効とされた。それほど脅迫的なものであるのなら、せめて講習の質ぐらいはきちんと国家によって保証されていてしかるべきであり、教師が休日返上してでも、かつ有料であっても受けたくなるほどに良質の講習でなければなるまい。

 文科省は2009年に更新制度がスタートする際、講習の目的を姑息にも「不適格教員の排除」から「教員の能力の向上」へと切り替えた。しかし2021年4月~5月に文科省が現職教員約2100人を対象にアンケートを行った結果、更新講習の内容について「教育現場で役立っている」は3割に対し、「役立っていない」は4割近くに上っている。理由として、5割以上が「現実と乖離があり、実践的ではない」を挙げたように、講習の質は総じて低かったと言えるだろう。

 しかしこれは必ずしも研修を行う講師の質の問題ではあるまい。そもそも幼稚園教諭から高校教師まで学校種別が異なる大集団相手に一斉講義形式の古臭い授業方法を用いて、しかも授業のベテラン相手に大喜びされるほどの授業が出来る、そんな大学講師がこの世にいるとは思えない。講習の最後に実施される試験の結果次第で教員免許の無効化をちらつかせるなど、いたずらに高圧的な姿勢のくせに講習の制度設計があまりにも杜撰であり、幼稚すぎるし、研修の発想そのものが根本的に間違っているのだ。

 しかも講習を受ける時間は多くの場合、勤務時間外(土日)であり、当然、残業手当や休日手当、出張旅費はもとより支給されない。さらに受講費用のうち3万円が教師の自己負担とされるなど、ほとんど一方的に教師の休日と金銭が収奪されてしまうという、史上稀に見る犯罪的制度であった。ただでさえ過労死レベルの負担にあえいでいる教師にとってこの制度は教育への意欲、やり甲斐まで根こそぎ奪いかねない、まさに噴飯物の悪政と断じても言い過ぎではない。

「教員免許更新制を問う」(今津孝次郎 岩波ブックレット 2009)及び以下の記

 事参照

 ◎主体性のある子どもを育てたいと言いながら、教員と自治体の主体性は無視する

  文科省と国会 妹尾昌俊教育研究家、学校・行政向けアドバイザー 

  YAHOO!ニュース JAPAN 2022 4/30(土) 18:29

 ◎迷走する教員政策:研修履歴の管理で事態はよくなるのか?妹尾昌俊教育研究

  家、学校・行政向けアドバイザー 

  YAHOO!ニュース JAPAN 2022 4/7(木) 11:42

 ○教員免許更新制の廃止で教員の負担は軽減されるのか? 質は担保されるのか?

  TOKYO MX+ 2022/06/01 06:50

 

 確かに問題教師への対応は必要であるが、この制度はなぜかほぼ教師全員を対象としたものであり、学力低下問題の責任などを一方的に教師全員に押しつけたものであった。その挙げ句に教師全員をあたかも問題教師か罪人であるかのようにして一律罰するかのような、嫌がらせじみた幼稚な研修強要制度であった。我々教師からすればこうした愚かな制度を導入した不適格官僚や不適格議員への研修や処分の方が真っ先に優先して行なわれるべきだと思うが、いかがだろう。

 ブラック化した学校の中ではたとえそれが内容的に素晴らしい研修だったとしてもまともな教師ほど研修を受けようとは思わないだろう。自分が研修に出ている間、同僚や生徒達に及ぼす負担、迷惑を考えれば研修を受けないで済ませようとするのがよほど正常な判断である。ところが政府も文科省も、学校での問題はすべて教師の責任であるとの前提で教師への研修を以前からむやみやたらと増やしてきた。役立ちそうもない研修の多さも間違いなく学校のブラック化を加速させていた一因である。したがってくどいほど繰り返される無意味な研修は教師の指導力を向上させるどころか、むしろストレスを高め、教師間の分断と対立を招き、かえって教師の不祥事と精神疾患を多発させてしまっているのではないだろうか。

 教員免許更新制度は現在、ようやく廃止されるに至ったが、何とその代わりに性懲りも無く新たな研修の導入が検討されているそうだ。自己研修の機会を奪われる一方で執拗に悪者扱いをされる・・・教師の意欲はさらに低下することは明かである。研修を受けるべきは一体、どこのどなたなのだろう。

※参考記事

・生徒が悩みを抱えていても「厄介なことに首を突っ込まないでくれ」 現場から悲痛

 な声があがる“教員不足のリアル” 吉川 ばんび 

 2022/08/22 06:10 文春オンライン

・不登校対談・短期連載① 前川喜平×おおたとしまさ「不登校者数・過去最多」

 の“元凶”は何か おおたとしまさ 2022.11.1

・過去最高の24万人! 激増する不登校児画一的に人材を育てる昭和教育に未だ目を

 つぶる学校の怠慢「ギフテッドの3割は不登校傾向」

 集英社オンライン 2023.6.14

・公立校、1年以内に辞める教諭じわり増加 目立つ精神疾患での退職

 朝日新聞社 によるストーリー 2023.6.20

 

 こんなことすら分からないお役人達ならば罰として学校現場での長期研修を強制的に受けさせるべきではないか。たとえば文科省の役人には年間最低でも30時間、公立の中学校か高校の教育困難校などに赴任させ、一介の教師に身をやつして自分たちの教育行政の成果を教育現場で直接ご自分の目でご確認、ご検証していただこうではないか。さらに学校が直面している問題についての研修を学校教師達から繰り返し受けることを義務化してみてはいかがだろう。教育に携わるお役人としてこの程度の研修は毎年受けておくのが筋だろう。そもそもつまみ食いのように先進的な取り組みを行っている恵まれた僅かな学校現場ばかりを視察するだけで、課題山積の教育困難校には一度も顔を出したことのない人間が上から目線の物知り顔で学校現場に一方的に指図するのはどう見ても失礼な話である。私が提案する官僚達の研修制度が実現すればきっと多くの教師達は舌なめずりし、手ぐすね引いて彼らの来校を待ち受けてくれるだろう。少なくとも教師がこれまで受けさせられてきたお粗末な官製研修よりも教師による実地研修の方がはるかに高品質で実践的であり、間違いなく過酷ではあろうが、すぐにでも役立つに違いないのだ。

※参考記事

 ・「頑張れど埋められない格差」不登校児から“文部科学省職員”へ転身した元教員

  の魂の叫び 

  週刊女性PRIME [シュージョプライム] によるストーリー 2023.7.15

  文科省にこうした経歴を持つ人材がもっと増えてくることを願っている。とはい

  え、現状は既に末期的症状であろう。実際には何をしてももう手遅れなのでは…

 

  ⑤に続く

61.市原の戊辰戦争③

 

 


 赤い矢印は官軍がの進撃方向、黄色い印は畑木での戦いに関わる遺跡(五井戦争の後日談としていずれ配信予定)、青の印は右が姉崎神社、左が妙経寺の場所、緑の印は鶴巻藩の陣屋があった地点。

 

 姉崎は義軍にとって重要な拠点とされ、姉崎神社には砲台も築かれて兵力も相当数集まっていた。しかし養老川での敗戦を聞くと大砲を一発撃っただけでほとんど戦わずして木更津、真里谷方面に逃げてしまった。残った義軍の精鋭30名(幕府陸軍出身)ほどは妙経寺に立てこもって抗戦し、6人が陥落直前に脱出したが、途中、官軍と遭遇して二人が戦死し、二人が降伏した。残り二人は近くの農家の納屋に逃げ込んだが、結局深手を負った兵は死に、一人は自害して果てた。

 妙経寺境内には16人の死体が残されていた。なお戦闘は午前中に大勢が決し、午後3時に終結。翌日には義軍の拠点、真里谷も陥落し、房総における組織的な抗戦は瞬く間に鳴りを潜めることになった。この日の戦いの犠牲者総数は義軍だけで60人を超えたという(住民は4人、官軍も4人。ただし判明した者のみ)。

 

 

 姉崎の鶴牧藩(動員可能な兵力はわずか100人の小藩)では佐幕か勤皇かで藩論が揺れたが、最終的には官軍側につく事で決定していた。しかしなかには徳川の恩義に報いるためにも藩論を無視してあくまで官軍と戦おうとする血気盛んな藩士がいた。7日、5人の藩士が必死に引き止める同僚を切り捨てて陣屋から飛び出したが、すでに義軍は壊滅状態で合流できず、かといって陣屋に戻ることもできず、切腹して果てるという悲劇も起きた。翌日、陣屋に四斗樽に入れられた彼ら5人の生首が官軍から届けられたという(その内の一人はまだ17歳の青年であった。その後、彼らは椎津の瑞安寺に葬られた。

 鶴牧藩はこの戦いに両軍から協力を求められたが、立場上一切の協力を固辞して6人の犠牲者を出しつつも陣屋の門を堅く閉ざし続けたのである。

 ※鶴牧藩:文政10年(1827)、水野氏が安房北条藩から1万5千石をもって椎津に陣屋(現在姉崎小

  学校)を移し、成立。陣屋ではあったが水野が城主格であったため鶴牧城と公称。藩祖および二代

  目は若年寄を務めるなど幕閣で活躍。

 

 

 一方、時代の移り変わりとはいえ旧幕府方の末路は哀れであった。かつて京都で恐れられた新撰組は房総の義軍が集結する直前には崩壊し、隊長であった近藤勇は流山で捕まって4月、官軍に処刑されていた(近藤は武士身分とは認められず、切腹も許されずに斬殺された)。

 

 

 しかしたとえ官軍に刃向かったとしても大名で命を落とした者は誰一人としていなかった。木更津(じょう)西(ざい)藩主林(ただ)(たか)はわずか1万石の身でありながら、21歳という若さもあってか佐幕一途であった。

 1868年閏4月3日、家老以下、家臣59人もろとも脱藩して旧幕臣からなる遊撃隊(大鳥圭介ら)に加わり、箱根、小田原まで打って出て官軍と戦い、さらには東北で

も転戦したが、形勢の決した9月、ついに官軍に降伏した。

 彼とともに脱藩した59名の家来は20名に減っていた。請西藩の領地は没収されたが、忠崇は親類に「永預け」となり、やがて赦されて華族にも列せられ、1894年にはとうとう官吏になっている。

 1941年、彼は94歳の長寿を全うしてその数奇な生涯を閉じた(参照:「脱藩大名の戊辰戦争」中村彰彦 中公新書 2000)。

 

 

 

 五井戦争の犠牲者はもっぱら下級武士であった。彼らの本意をもはや知る由も無いが、はたして死んだ者のうちどれだけの人が心底、佐幕の意志を持って戦ったのだろう。殿様やご主人様に逆らえず嫌々ながらお供をし続けた挙句の戦死だとしたら…

 身分制社会のむごさを思わずにはいられない。

 

 

60.市原の戊辰戦争②

 

 

 7日未明、曇り空の下、官軍(薩長中心に約200名)が号砲を合図に五所、金杉、白金から房総往還を一斉に南下した。五所から左に分かれた隊は十数軒の集落(「ふさのぞよめき」では君塚とされている)に入った。村人の多くはすでに避難していたが、風邪で寝込んでいた18歳と15歳の青年が「出て来い」の呼びかけに応じず、くるまった布団に数発の銃弾を打ち込まれ殺害されてしまった(怯えていたのに加えて薩摩言葉が聞き取れず、撃たれてしまったらしい)。

 

 五井は継立て場(宿場町に相当)だったので道が町の入り口(波淵)と出口付近(龍善院近く)でS字状にクランクしている。北五井の名主中島甚吾左衛門宅は今の五井駅北側、千光寺近くにあった。若宮八幡はそこから東北東へ100mほど進んだ場所(「⛩」記号)にある。

 

 本隊は房総往還を進み、左分隊は君塚を経て五井若宮八幡の裏手で合流した。波淵に集結した官軍は三隊に分かれて豪農中島甚五左衛門宅に置かれた義軍の本陣(現在の五井支所付近)に迫った。一隊は街道を突き進み、右に分かれた隊は本仲を通り、左は若宮八幡から岩野見道、蓙目(ござめ)道の出途(でど)を横切って進んだ。このとき、街道を進んでいた隊を生垣から覗いていた勘助(「カンカラカン」というあだ名のひょうきんでそそっかしい人物だったという)という農民が捕まり、間諜(スパイ)と疑われて処刑されてしまった。

 攻撃隊は甚五左衛門の家に踏み込んだが義軍は完全に撤収した後であった。その後斥候の知らせで前原、権現堂方面に義軍(村上分隊の敗走兵)が出現したと聞き、120名が平田、島野方面と町田、柳原に差し向けられた。人気のない五井をくまなく索敵しながら官軍は三隊に分かれて南下した。

 上宿の宿屋(日光屋)に逃げ込んだ義軍兵一人が抵抗する間もなく斬られた。下宿の龍善院の境内では逃げ遅れた三人の義軍兵が捕まったが、ここまではさほどの抵抗もなく、攻撃隊が大宮神社、新田の南端まで到達したのが8時半頃のこと。五所を発って一時間少々の快進撃であった。

 ※義軍の右翼分隊20人は7時から始まった五井での砲声を聞くと村上から岩野見を経由して五井の北

  東側から官軍の背後をつく作戦に出たが官軍左翼と衝突し、君塚で二人が組み伏せられて首をはね

  られてしまった。たちまち劣勢になった義軍は村上方面に引き返したが、そこでも官軍に遭遇し、

  村上の北に広がる麦畑で二人、戦死し、残りは川を渡って逃げたという。

 

 義軍第三大隊の総指揮官増田直八郎(旧幕府陸軍伝習所出身でフランス流兵学を身に付けた秀才であったという)は未明のうちから官軍の布陣を察知し、少しずつ五井の兵員を養老川対岸に渡らせて、出津の旧家桐谷八郎衛門宅に指揮所を移した。

 午前七時、開戦を知らせる号砲が本陣の真上を通過して200mほど西の蓮田(現在のスーパーせんどう付近)に着弾した(後年、新田の中島氏が水田中からそれらしきものを偶然発見し、五井小学校に寄贈したという)のを知った増田は全軍に対して出津の渡船場から川を渡って出津、飯沼などに散開し、官軍を迎え撃つよう命令した。

 多くの兵は渡河し、官軍に利用されぬよう、渡ったところで舟を打ち壊した。ところが新しく加わった義軍の一部を中心に30人ばかりが五井側根山の渡船場(旧南総病

院付近)に取り残されてしまった。

 

 根山は右の地図で赤い「」マークがついている付近。現在、病院は無く、住宅地になっている。かつての房総往還の渡船場に近い場所。左の迅速測図で川を横切るように細い点線が引かれているのが両岸の渡船場を結ぶ川船が行き来した航路で養老橋のやや下流にあった。


 舟が無くなり渡河できなくなった彼らは下流の吹上方面に逃げるものや、首までつかって川を渡ろうとするものもいた(川幅は約120m)。が、多くは根山の松林に集結して抗戦することになった。官軍は大宮神社から水田の中の街道脇の用水路に身を隠し、銃撃しながらじりじりと根山に迫った。別の一隊は宮下から東に向かい、中瀬の渡しで右折して回り込み、根山を南から攻撃した。

 根山の東には麦畑が広がっていた。本隊は200mにわたって散開し、麦畑を匍匐前進しながら徐々に包囲網を狭めた。交戦30分にして根山は官軍の手に落ちた。義軍の戦死者は17人、官軍は1人にとどまった。義軍本隊は友軍への誤射を避けるために十分な加勢はできぬまま、対岸から成り行きを見守るしかなかった。

 根山の友軍が全滅したのを機に、義軍は川を挟んで銃撃したが官軍の火力がはるかに上回っていた(官軍の多くが使っていた1860年製のスペンサー銃は7連発式で旧式の単発銃とは比較にならない性能を備えていた)のに加え、玉前方面からも官軍の部隊(五所から金杉塩田の東側に沿って南下。玉前に舟で渡河し、出津方面に進撃)が攻撃してきたため、義軍は総崩れとなった(9時半頃)。

 別働隊30人は満潮に乗じて漁船三艘を借り出し、海から養老川に漕ぎいれた。陸路を進んだ隊は塩田を回ったところで義軍30人と遭遇。彼らが戦わずして川を渡って岩崎、玉前方面に逃げるとこれを追い、吹上で舟に乗った別働隊と合流。

 なおこの激戦中、麦畑に避難していた隠居(根山の街道脇に夫婦で茶屋を営んでいた)が様子を見ようと頭を上げた途端に流れ弾にあたって即死している。結局、五井戦争における住民の死者は4人にのぼった。劣勢のなか指揮官の増田は全軍に本部のある姉崎までの撤退を命じたが、指揮系統の乱れもあってもはや組織的な抵抗は覚束なくなっていた。

 ※出津の戦跡:旧養老橋を渡り右折して川下へ100mほど進んだ河川敷の柳の木の根もとにかつて戦

  死者を葬った小さな墓石があった。現在は河川改修工事で往時の面影はなくなってしまったが、堤

  防上の道路わきに2006年4月、戦跡を記した石柱が建てられている。また松ヶ島の養老神社近くの

  出津共同墓地には徳川義軍の墓が二基(浅野蔵之・三澤惣左衛門)ある。出津の浜口某が7日、一家

  を挙げて玉前の縁者宅に避難し、夕方帰宅すると家の前で二人が白鉢巻をしてうつぶせに倒れてい

  た。家の中では一人が仏壇を前に畳を裏返して作法通りの切腹をしていた。その墓は浜口某が村人

  とともにねんごろに彼らを埋葬し、冥福を祈ったものという。

 

 左の写真には10数年前まで根山にあった南総病院が写っている。右が出津の戦跡碑。 

 

 

 義軍の撤退によって大宮神社方面から進んできた一隊は続々と川を渡り、追撃していった。出津の渡し場の榎の根元には4,5人の義軍兵が息絶えていたという。官軍は出津川端の農家を一軒一軒探索しながら姉崎に向かった。松ヶ島の南、判ヶ台(高さ5m余り、幅200m、長さ300mほどの松の木に覆われた砂丘で天神山とも)に陣取った20人ほどの義軍が松の根元に銃を構えて反撃を試みたがたちまち11人が戦死し、他は青柳方面に逃げた。また海岸では6人の義軍兵が舟に乗って逃げようとしていたが、降伏勧告に応じず、銃撃されて3人が海に転げ落ちた。

 なお青柳では負傷して麦畑に隠れていた義軍兵が二人見つかり、処刑されている。後に村では死んだ義軍兵を共同墓地に葬り、彼らの標識木板に刻まれた名前を残している。今津朝山でも義軍三人が戦死する、小さな交戦があったが難なく官軍の手に落ちた。今津では瀬兵衛宅の納戸の仏壇の陰に隠れた一人の義軍兵が追ってきた官軍に仏壇の前面から槍で刺し貫かれ、殺されたという話が穴のあいた仏壇とともに残されている。

 

涼風庵は判ヶ台にあるので、おそらく青野氏はここで戦死したと思われる。

 

北青柳墓地内義軍墓

 

 「市原を駆け抜けた戊辰戦争~戦いの跡をたずねて~」(佐野彪 2017 千代田印刷)によると青柳で戦死した義軍兵士で、内二人は麦畑で斬られ、残り二人は船で逃げようとして撃たれ、戦死したという。死者の所持金27両2分のうち、組合村維持費に16両余り充てたらしい(「組合村一同相助かり申し候」名主日記より)

 

59.市原の戊辰戦争①

 

 

・主な参考資料

  いちはら歴史自慢漫遊(市原市文化財研究会企画)のしおりより第4回 

  (2002.9.29)、及び第9回(2003.11.9)分

 「しんきん・たより107号」(木更津信用金庫発行、2001.7.3)

 「五井戦争を駆け抜けた五人の青年」酒枝次郎 朝日新聞出版サービス 1997

 「義軍官軍むかしむかし」落合忠一編 五井町文化財研究会 1959

 「ふさのぞよめき」(市原市史資料近世編4所収)

 

 以下、特に「五井戦争を駆け抜けた五人の青年」の記述(多少フィクションを織りまぜながらも官軍斥候隊長の目を通してみた五井戦争の様子が詳細かつリアルに描き出されていて最も興味深い作品)を中心に五井戦争を中心とした市原での戊辰戦争の概要を眺めてみたい。

 

 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は市原各地にもたちまち波乱を呼び起こした。3月以降、江戸城開城に不満を持つ旧幕府軍(房総に集結した勢力は徳川義軍府を名乗り、略して義軍と呼ばれた。静岡、愛知、福島等から馳せ参じた者が多く、木更津の真里谷に本陣を置いていた)は房総の地でも官軍を迎え撃つ態勢を整えた。しかし市川・船橋方面であっけなく敗退(閏4月3日)し、(うるう)4月4日(旧暦で閏年に二度ある月がある。五井戦争が行われたのは新暦で5月28日にあたる)には検見川、6日には朝のうちに八幡宿まで官軍の進出を許した。

 

  八幡の円頓寺は右の地図では「八幡宿駅」と記された文字の左(西)側の「卍」。すぐ近く、左下の卍は長遠寺。官軍が進撃に使った房総往還と現在の旧道(JR内房線と平行に走る黄色線)とは八幡ではほぼ重なっている。

 

 なお6日の夕刻、官軍の前哨兵2人(薩摩の菊地ら)が八幡宿で義軍の遊撃隊15人ほどに遭遇して捕まり、斬殺されている。

 

 また同じ頃、五井でも官軍の密偵と案内人(五所村の権次という漁師で魚の行商にも出ていた。威勢の良い若者で「向う鉢巻の権次」というあだ名で通っていた)が義軍に捕まり、中瀬の渡船場近く(現在、中瀬橋の五井駅寄りの付近)で首を刎ねられている。

 ※後にそこの豪農斉賀氏が松の根元に葬むり、「官軍塚」、「官軍松」の呼称をしばらく残していた

  が、河川改修もあって今は跡形も残っていない。中瀬墓地に彼らの墓石があるという。

 中瀬の渡船場は右の地図では「中瀬橋」と記された箇所にあった。いわゆる「官軍松」は五井寄り(右岸)の川べりに生えていたらしい。

 ※補足資料「ふるさとの小さな歴史のはなし」(佐野彪 平成24年)

  八幡で殺された斥候役の二人の官軍は東京杉並の大円寺に葬られているという。

  「戊辰薩摩戦死者墓」:大正4年

   4月6日総州八幡にて死す

    菊地竹庵40歳   …京都東漸寺の住職と言われる 種子島出身

    助市25歳     …薩摩藩士赤松守衛の家来

  と記された墓石があるらしい。

   なお中瀬橋近くの墓地には義軍側に処刑された官軍の密偵の墓と思われる墓碑が建っている。こ

  れは市内唯一の官軍墓とされている。施主が斎賀氏なので、場所的にも官軍の密偵たちの墓石か?

   「三士の墓:施主斎賀氏」

 6日夜、官軍の前線本部は八幡宿の円頓寺に置かれた。総勢540人ほどの軍勢は房総往還沿いに五井に向かう約300人の一隊と左翼の君塚から岩野見・根田・村上に向かう120人と右翼の金杉、川岸方面に向かう約120人の部隊に分かれた。一方、義軍側は五井村から姉崎にかけて迎撃態勢を取ろうとしていた。この日、姉崎妙経寺では勝海舟の命を受けて義軍の降伏と恭順を説きにきた松波権之丞(田安家家来で生麦事件の事後処理のためパリで奔走)が増田の手で斬られてさらし首にされており、義軍の徹底抗戦の意志が鮮明にされてもいた。

 ※義軍の勢力配置:義軍第一大隊500人は市川(本部は中山法華経寺)、第二大隊300人は船橋(本

  部は大神宮)、第三大隊300人は五井・姉崎(本部は姉崎妙経寺)、第四・第五大隊1000人は真里

  谷に陣取っていたが、閏4月3日の戦闘で第一及び第二大隊は敗退し、多くが四散していた。なお五

  井戦争直前になると第三大隊は敗走兵や新参者を加えて約500人に達していたという。

 

補足資料:松波権之丞(1836~1868)について

 ※写真はいずれもウィキペディアより

 

 「松濤」、「松浪」の表記もある。江戸生まれで実父は不明だが、加賀前田の支藩大聖寺藩の家老という説がある。どうやら庶子であったため、生まれてすぐに寺へ預けられていたようである。やがて御家人株を買って幕臣となり、外国奉行配下となった。1861年には外国奉行水野忠徳に随行して小笠原諸島に渡航(咸臨丸に乗船)している。1863年、小笠原諸島から帰ると翌1864年2月6日(旧暦では文久3年12月29日)、横浜鎖港談判のために遣仏使節の一員としてフランス艦に乗り込み、出港。途中、エジプトに立ち寄り、スフィンクスの前で有名な記念写真(写真家はベアト)をとっている。

 「文久」とあるが、実際は元治元年の1月から7月にかけての事となる。幕府は1863年5月10日の攘夷決行の流れの中で朝廷からすべての開港場を閉鎖するよう、迫られていた。結局、横浜のみを鎖港することに決した幕府はその交渉のために使節団を送ることになり、正使池田筑後守長発(ながおき)を中心に総勢34名の派遣を決めた。使節一行はフランス陸軍少尉の殺害事件(井土ヶ谷事件)の賠償問題解決のためフランスに直行。フランスの強硬姿勢に恐れをなした使節は横浜鎖港交渉の打ち切りと帰国を決定した。帰国後、使節団のメンバーの中には維新後、外交官として活躍した田辺太一や東京大学医学部部長となった三宅復一(またいち)、三井物産社長となった益田孝らがいる。

 松波は1864年8月19日に帰国。1867年11月、海軍伝習所通弁掛となり、勝海舟配下に置かれた。勝の命令で幕府内の恭順工作にあたり、五兵衛新田にいた大久保大和(=近藤勇)に面会している。しかし、1868年閏4月6日、撒兵隊第三大隊の本陣とされた姉崎妙経寺境内で増田らに斬殺されたとされる。首は木更津で晒されたという。享年34歳、お墓は東京都文京区西教寺(浄土真宗)にある。勝海舟はその三日後、松波家に12両、組下の者に36両の手当てを渡したという。

 

58.明治中期の統計からみた市原郡

 

・「上総国町村誌(上巻)」(小沢治郎左衛門 明治22年=1889:名著出版による復刻本:昭和53年=1978)

 ※以下は上記の本のデータに基づきカッパが文章と表をまとめたもの。

 

 この本が出版された明治22年(1889)は大規模な町村合併が進められた年でもあった。市原では172村がわずか1町20村に統合されている。たとえば五所金杉、山木、八幡とが合併し、八幡町とされて市原郡内で最初の町となった。元菊間藩士萩原昇吉が八幡初代の町長になっている。この結果、八幡町は戸数681軒、人口3436人に膨れ上がった。なお鶴牧(→姉崎)、鶴舞、五井はその2年後の明治24年にそれぞれ町となっている。

 このとき統廃合の対象にされ、後に消えてしまう村が相当数にのぼっていた。もしかしたならそのことを期しての町村誌編纂だったかもしれない。残されたデータのなかで戸数や人口以外で特に興味を引くのが村ごとの牛馬の頭数や荷車、人力車、荷舟や漁船の数である。当時の村々の交通事情や生業のあり様がこれらのデータから垣間見えるだろう。

 鉄道が開通したのは房総の場合、東京に近い割には遅かった。蘇我~姉ヶ崎間は明治45年(1912)のことである。したがって市原の交通事情は明治維新後しばらく江戸時代の面影を色濃く残していたと考えられる。南部、山間部ともなると海浜部に比べ、さらに10年以上遅れて鉄道が開通していた。

 小湊鉄道開通は五井~里見間(25.7㎞)が大正14年(1925)、里見~月崎間(4.1㎞)が大正15年(1926)、月崎~中野間(9.3㎞)が昭和3年(1928)のことである。かつて中村ていさんが「潤井戸街道今昔」(「十年の歩み」市原市文化財研究会 昭和48年 p.23~25)で記したように市の内陸部は交通面ではほぼ大正時代まで近代化の恩恵を受けることがなかった。目新しい交通手段といえば人力車や乗合馬車(一頭だての幌馬車で10人乗り、大正末年で潤井戸から浜野まで50銭したという。昭和の初め頃、乗合自動車に取って代わられた。しかし昭和8年にはバスが開通し、乗合自動車も消えてしまったという)、人力鉄道などに限られていたことになる。

 市原の多くの地域における交通事情は明治となってからも60年近く「御一新」といわれたほどの劇的変化を被らずにきたといえる。実際、昭和初期までは手漕ぎの船や帆掛け舟が海や川を往きかい、陸上では馬や牛が相変わらず運送の重要な手段であり続けていた。この資料はそうした房総の地域格差の大きい近代化のあり方を雄弁に物語っているのである。

 なお牛馬や荷車、人力車、荷舟(五大力船や押し送り船)・漁船、川船の数がいちいち記録されているのはそれぞれに税金が賦課されていたからかもしれない。牛は海浜部ではほとんどみられないが、山間部に行くにつれて多くなる傾向が見られる。おそらくアップダウンの厳しい山間部の地域では昔から馬よりも力のある牛が重宝され、農耕や運送用に数多く使役されていたのだろう。

 以下、参考までにデータを表にまとめてみた。データは小沢氏の資料に基づくが、明治22年(1889)当時の村のなかにはその後の統廃合によって現在の字地名の領域とは異なるものがあるだろう。また現在の市域からはずれる地域が含まれている(板倉や椎津の一部等)かもしれない。したがってこのデータをそっくりそのまま市原のデータとして当てはめることはできない。あくまで概算のデータであり、明治時代中頃の市原の概要をつかむための一参考資料に過ぎない点はご勘弁願いたい。

 

 

 川船の数が思ったほど多くない。おそらく明治以降、東京を中心に燃料として石炭の需要が高まる一方、房総の薪炭はかつてほど必要とされなくなったことが一因であろう。江戸時代までは薪炭を満載して山間部から養老川を下ってきた川船が数多くあったはずである。しかし明治以降、薪炭の需要の低下が川船の活躍の場を徐々に奪いつつあったのではないか。

 廃仏毀釈運動のほとぼりが冷めた明治中期以降になっても少なからぬ数の寺院が次々と廃絶していったことが分かる(63か寺)。この表に記載されている寺院は現在、存在しておらず、特に内陸部の天台宗寺院は相当数が姿を消してしまっている。その原因として南部農村地帯は「山仕事」の減少に伴い、比較的早くから過疎化が進行していたこと、寺請制度の撤廃などによって公議による保護を失った寺院の一部が成立基盤を失い、次第に衰退していったこと等が考えられよう。

 なお「市原のあゆみ」(昭和48年)によると大正元年の調査では市原郡内の牛は1896頭、馬が2781頭、豚が558頭、鶏は93587羽。市原郡内の車両に関しては下表のデータが存在する。いずれも市原郡内のデータであり、当然市域の広い上記のデータよりも少ない数字になる。ただし牛の頭数が「上総国町村誌」ではあまりにも少なすぎる。馬は軍馬の調達という国家的な目的に沿って厳密に把握されたのかもしれないが、牛への関心は馬に比べて低かったようである。

 

市原郡内の車両数の変遷(1906~1913)

 

明治39年

大正2年

概要

乗用馬車

6

3

明治43年が9で最大

荷積み馬車

127

大正元年が237で最大

人力車

199

113

激減

荷積み車

2441

2433

変化に乏しい

自転車

47

384

激増はしているが希少

 

 

57.養老川の水運

 

 養老川のか左岸、ちょうどライトグリーンの辺りが出津村の船着き場、筏の陸揚げを行う河岸であった。「出津」と地名が記された箇所には昔から浜田材木店があって、上流から来た材木の陸揚げが行われていた。今も屋敷には立派な土蔵が残されている。

 

・「養老川と養老川漁業協同組合」(平成24年 養老川漁業協同組合)より

 清澄山系に源を発し、北西に流れ下る養老川は途中、古敷谷川、平蔵川、内田川と合流して東京湾に注ぐ。総延長およそ73㎞。昭和初期まで物資輸送の大動脈として内陸部と沿岸部を結んでいた。物資流通の主役は川船。一艘に米80俵、木炭400俵、薪1200束を積んだ。親船と呼ばれた大型船は150俵もの米を積めたらしい。馬は米2俵、馬車でも米15俵が限界であり、船の積載能力は突出して大きかった。大正初期で180艘の川船があったという。

 川船の標準サイズは長さ6間(10.8m)、幅8尺3寸(2.51m)で、底の浅い木造船。船頭夫婦が一組で運搬に従事し、船の中程に杉皮葺きの屋根をしつらえ、両側に茅で編んだ「ドバ」を垂らして休憩した。

 筏も大きなものでは長さ17間(32m)、幅10尺(3m)。男二人で操って五井まで二日がかりで下った。

 

 「五井漁業史」(昭和63年=1988)によると出津は当初、出洲と呼ばれて五井村の枝郷であった。文政6年(1823)の宗門人別改帳では家数25軒、人口147人、馬4疋。川船による運送業が盛んで村の成人男性のほとんどが船頭であったため「船頭村」といわれた。

 昭和61年(1986)当時、82歳であった高沢幹愛氏の思い出話が同書に残されている。彼は13歳から船頭稼業に従事してきたが鉄道開業(おそらく小湊鉄道。とすれば昭和に入る頃)によって川船の仕事が急速に途絶えていったという。船頭は異様ないでたちで股引をはかず、膝から下は蓙を巻いて怪我の防止を図ったらしい。養老川の川船問屋が三軒あったが最大の問屋は高滝の問屋で出津の船頭は高滝まで船を三日がかりで綱で引き上げていき、そこから薪炭などを船に積んで運び、五井の河岸で五大力船に積み替えていた。彼は年を感じさせない朗々としたハリのある声で「養老川舟歌」をこう謳って見せたという。

 

              養老川舟歌

 

    イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン

    イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン

 

    養老川こそ宝の川よ 船頭働けよ 養老川 船頭起きろやえ

    はや夜が明けた 起きなや 出船がよう 遅くなる

    三五反の帆を巻き上げて 川上めがけて走り行く

    船は早かろ 帆なりもよかろ

    乗り子の 船頭さんのよ 程の良さ

    走りゃ間もなく高滝村(そん)よ

    着けば荷主がよ待っている

    船は○○○○○でも 炭薪きゃ積まぬ

    積んだ荷物は米と酒 荷役終えれば はや船下る

    下り下ってよ 五井の河岸 北風(ならい)吹かせて 江戸船呼んで

    荷物積んだり積ませたり

 

    イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン

 

 青柳至彦氏(「いちはら 歴史散歩」)によると大正の頃までは養老橋付近の街道には桜の大木が並び、シーズンになると花見客で賑わっていたという。しかし大正6年の洪水(10月1日の未明に到来した台風と大潮が重なり、発生した水害。「大正の大津波」と呼ばれた)高潮の際、水流を弱めるために桜の枝を伐採し、堤防にとりつけた後、樹勢が急速に衰え、次々と枯死してしまったという。

 川船が活躍するのは11月以降。農閑期に入るとともに水田等の水を引かずにすむようになった分、川の水量が増し、川船が上流にまで上れるようになること、また「ならい」と呼ばれる北西の風が吹くようになり、帆を張れば漕がずに上流まで遡れることが冬のメリット。しかし冬の水の冷たさは船頭の命取りにもなった。

 

 

56.小湊鉄道について(後編)

 

 

・遠山あき「小湊鉄道のあけぼの(流紋)」より抜粋

 ※ただし以下の写真はカッパが撮影したものを主に利用。

 この作品は昭和62年(1987)12月から昭和63年9月まで千葉日報に掲載された新聞小説を一部修正し、加筆推敲してまとめたもので、平成25年(2013年)7月に市制移行50周年の記念刊行物として出版された。既に90代の半ばに達していた人とは思えぬ筆力に脱帽せざるを得ない。そもそも千葉日報に連載された当時、遠山あきさんは70歳前後。しかしまったく年齢を感じさせないその瑞々しく官能的な描写に今更ながら感嘆するばかりである。

 残念ながら遠山さんは平成27年(2015)に98歳でお亡くなりになっている。

 

 この本のあとがきにはこうある。

市原の地は、あたかも背骨のようにその中央を貫いて養老川が流れている。川を外しては、ふるさと市原は語れない。そうしてその川に沿って付かず離れず小湊鉄道は走っている。市原に住む人々の生活を昔から支えていた川の役割は小湊鉄道に取って替わった。地域発展を担う役割が移動したのである。その大きな変化の裏側にあった人間の苦悩は計り知れないものがあったに違いない。

文化の変遷と発展はあたかも川の流れのように止どめることは出来ない。これから先もあらゆる変化が待ち受けていると思う。…

 

 遠山さんが市原の歴史地理的特色をきちんとふまえつつ、心の底から常に地元に密着し続けようとしてきた、郷土愛に満ちあふれる稀有の作家であったことを痛感させられる一文である。

 

 さて冒頭の書き出しはこうだ。始まりから何やら不吉な予感が漂う。

 

  河口から沖へかけて、空が異様な赤さに染まっていた。海は凪いでいたが肌にま

  つわる風がなまぬるい。

  「面白くねえ空模様だ…」

  平七は呟いて空を見上げた。

 

市原市歴史資料館に展示されている五大力船の模型

 

 時は戊辰戦争が35年前とされているので1903年あたりか。第一章に相当する「流紋」(p1~68)に登場するのは養老川の河口にある船宿紀州家の主人藤兵衛とその雑用係の平七、冨美(6歳で父の豊作を失い、母親も間もなく病死したため、8歳で紀州屋に引き取られていた)。材木商の増富屋(月に4・5回、深川に材木を卸す)と増富に木材を上流からおろしてくる筏(いかだ)師の仙平、その弟子の源次(父親の孫吉は15歳の時に死んでおり、その時から仙平によって仕事を仕込まれてきた)、五井の医者宅間、大通寺住職日寛ら。

 話は平七の予感通りに「はやて」が河岸を襲い、土砂降りの中で筏や船の係留、薪炭の運び出しに追われる船頭や増富屋の慌ただしい動きの描写から始まる。12月の寒い中でびしょぬれになった源次が高熱に襲われ、宅間の指導のもと平七や冨美らの必死の看病で源次は回復していく。この一件を機に源次と冨美の間にほのかな恋愛感情が芽生えてくる。両者を平七と宅間、日寛らが懸命にとりもって二人の縁組を実現しようとするが、彼らは冨美に言えない秘密の過去を共有していた。それは冨美の父親に関わるもののようだが・・・

 話の舞台は養老川の河口付近。「柳の渡し」は間違いなく出津の渡船場であるが、船宿の紀州屋はもっと河口に近いので玉前か岩崎になろうが、河岸としては対岸の川岸が発展しており、木材や薪炭の搬入搬出でにぎわう舞台としてはふさわしい。

 

 江戸時代、房総往還の渡船場が置かれていたのは今の養老橋付近で五井戦争の主戦場となった場所。出津の船着き場と筏の木材引き揚げ場も渡船場の近くにあった。上の地図では中央の下方、川が90度近く上(北)方向に蛇行する地点に24号線の橋(養老橋)が架かっている付近。

 下図は養老橋付近を拡大したもので、右端にJR五井駅から分岐する小湊鉄道の路線が下(南)に伸びているのが確認できる。写真は養老橋から南西方向に向いて撮影したもので、地図では出津河川敷工事と記されており、今後、かつての出津の船着き場の面影は消えていくことが予想される。

 なお、この箇所での川の急激な蛇行がこの地域に養老川の洪水被害を繰り返しもたらしていた。地図では河川敷工事と記され箇所からその下の「出津」という地名が記された箇所がとりわけ数多く決壊し、18世紀後半には4この辺りからあふれ出た川の水は北西に向かって流れだし、そのまま40年近くの間、メガドンキの裏手付近(上の地図では青柳北という地名が記された辺り)で海に注いでいた。

 

 

 話の中では「五井」「佐是」「牛久」「川間」「本郷」など実際の地名が頻繁に使われる一方で日寛のいる大通寺は確かに実在するが、養老川から遠く離れた米原にある。話の内容からみてこれは作者が創作した架空の寺であろう。小説なので虚実入り混じるのは当然であり、したがって紀州屋の所在地をこれ以上アレコレと詮索するのは野暮というものである。

 

 次の「上総義軍」(p69~136)では親同然の平七でも冨美には言えない、冨美の父親に関する謎が解き明かされていく。慶応4年(1868)閏4月7日の薄暮のことである。柳の渡場(=出津の渡船場)付近で一人の義軍兵士が足に深手を負って川船のトマ小屋に隠れていた。船は仙平の船であった。見つけた仙平らは増富屋にいた平七に相談し、密かに宅間を呼んで応急処置をしてもらう。翌朝、仙平らは官軍の目を盗んで義軍兵士を川船に乗せ、上流の村に連れていく。担ぎ込まれたのは日寛のいる大通寺。薬草と「仙水」の効能も手伝って足の傷はたちまち回復していくが、若者は精神的にはかえって落ち込んでいくばかりであった。

 助けられた義軍兵士の名は福島出身の真木由之助で19歳の若武者であった。戦の中で深手を負って自分を担ぎ、逃げ遅れて柳の渡船場で官軍に殺されてしまった自分の兄達に対する自責の念から由之助はふさぎ込んでいくばかりだった。

 しかし日寛は村の娘と心中事件を起こして出奔した自分の若き日の出来事を告げ、由之助を精神的にも立ち直らせていった。ほぼ由之助と同年令の筏師孫吉も日寛の意を受けて由之助を自分の弟分とし、豊作という名を与えて新しい人生を歩ませようとした。やがて立ち直った由之助すなわち豊作は読み書き算盤が出来ることで増富屋に目を付けられ、五井に向かうため山村を後にする。

 「時は過ぎて」(p137~200)では増富屋で働く豊作と増富屋の隠居の世話をしている娘サトエとの関係を軸に、豊作を陰で支えようとする平七、宅間、孫吉らの動きが絡んで展開していく。増富屋の当主万右衛門は遣り手ではあるが人情味に欠けた計算高い男であった。彼は隠居の世話をするサトエにも色目を使う一方で隠居の提灯の置き忘れが原因で生じた木材倉庫の火事を豊作の責任としてしまう。

 無実の罪により高崎監獄で3年の服役を強いられた豊作であるが、兄達を死なせてしまった自責の念が消えていなかった分、刑務所での生活は何とか耐えられていた。彼は出所後、増富屋に戻る一方で平七や宅間の奔走により、隠居の世話をしていたサトエと結ばれることになる。

 「結ばれる糸」(p201~250)では豊作の子に孫吉が「冨美」という名を与え、冨美は順調に育っていくが、6歳の時に父親の豊作が海で遭難し、帰らぬ人となる。やがてサトエも病死し、冨美は藤兵衛に引き取られて紀州屋の手伝いをするようになる。平七もまた増富を辞めて紀州屋で風呂焚きなどの雑用を務め、冨美をなにくれとなく陰から支え続けた。

 「新しい糸」(p251~290)は成長した源次と冨美が結ばれて源次夫婦の山村(泉水村…おそらく作者遠山あき氏が居を構えた田淵近辺をイメージした場所))での生活がメインとなる。山仕事の過酷さ、冬場に川船を上流まで引き揚げてゆく辛さのなかで夫婦の絆は固く結ばれていく。

市原市郷土資料館の展示模型

 

 源次の母は金遣いが荒く、遊び呆けて冨美を困らすが、両親を早く亡くして他人の家で育てられてきた冨美にとってはそれも大した苦にはならなかった。その母が酔っぱらった挙句に急死した日、冨美は男の子を設けた。男の子には由之助という名が平七から与えられる。由之助は順調に育っていき、9歳の時、源次と一緒に川を下って五井の平七らのもとを訪れる。その時目にした蒸気機関車に由之助は心を奪われる。

 「流れの果て」(p291~)小湊鉄道に勤めることを夢見るようになった由之助とこれに反対する父親源次との葛藤が始まるが、増富に木材を卸している山大の若旦那信吾は鉄道敷設に全力を傾け、体を壊す。由之助はこの信吾のバックアップを受けて英語を覚え、着々と機関士への道を歩み始めた。そうした中で発生した大正12年の関東大震災は山間部の人々に鉄道への期待を高まらせた。

 震災直後、木材価格が高騰して東京中心に木材不足となったにも関わらず、市原の山間部、すなわち木材供給基地は鉄道が無いため、黙って指を加えるだけになっていた。10月以降にならなければ水田の灌漑が終わらず、川の水量が足りないため、川船の運航ができない。また山村といえども細々と稲作は行われおり、農閑期に入らなければ筏師も仕事ができなかったのである。

 鉄道さえあれば悔しい思いはしなかった・・・山村に鉄道敷設反対の声が小さくなるとともに、千葉鉄道連隊の協力も得て工事は急速に進んでいった。由之助は晴れて小湊鉄道に入社し、機関士の助手となった。大正14年3月7日、午前9:30、雨天をついて一番列車が五井駅を発車した。ついに里見駅まで開通したのである。さらに9月1日10:20、快晴に恵まれて由之助が助手を務める列車が月崎駅に到着した。

 物語のフィナーレはこう閉じられる。

 

   …その時、ヒョーッ!と鋭く汽笛が鳴った。汽笛は山々をどよもして鳴りわた

  り、高く空へあがってどこまでも響いていった。

   「あいつが鳴らしてる・・・」

   それは新しい時代の夜明けへの凱歌であり、滅びゆくものへの哀惜の叫びにも

  聞こえた。

   「あいつ・・・」

  源次の目が涙でいっぱいになった。

   「とうちゃん・・・」

  冨美だった。胸にしみ透る声だった。あの子が心をこめて鳴らす汽笛は、川の流

  れを見ながら源さんと二人きりで聞くのが一番ふさわしい…と冨美は思った。

   <源さんも同じ思いだった・・・>

   源次はあふれる涙もぬぐわず、いつまでも流れを見つめ続けていた。

 

 この本のあとがき「流紋の再版に寄せて」で遠山さんはこう述べていた。

 

 …養老川の上流の山村で生まれた私の中には、いつも川の瀬音が伏流となってせせらぎ続けていた。その川の畔を離れてから30年、縁あって、私はまた養老川の畔に住みつくことになった。朝に夕に流れの音を聞きながら田畑の仕事に精を出す。悲しい時、苦しい時、水辺に降りて流れを見つめる。ふとこぼした涙を流れは秘かに飲み込んでくれた。嬉しいときは、嬉しい笑みを流れに映す。映して砕けて水は流れ去っていった。川は私の流れていく人生と共にあった。

 それはきっと私ばかりではないだろう。ずっと昔から川の畔に生きた沢山の人達の、喜びも悲しみも映して川は流れ続けてきたのであった。これから先も、限りのない時間を川は人々の生きざまを黙って見つめながら流れ去っていくことだろう。私は川になりたい。川になってその畔に生きた人たちの生きた足跡を辿ってみたい…

 こうしてこの作品は生まれたのである。

 

 遠山あきさんは大正6年(1917)、大多喜町老川で生まれている。

 昭和11年(1936)に千葉女子師範学校を卒業し、千葉市内で教師となったが、昭和19年(1944)、戦災を避けるため千葉から夫の郷里である里見村に移り、そこで教師

を続けた。

 戦後は昭和23年(1948)農地改革のため教員を辞めて農業に専念。

 昭和42年(1967)、農民文学会に入会し、作品を世に問うことに。以来、50年近くの間、作家活動を続けてこられた。

 

参考動画

○小湊鉄道に初めて乗ってみた!都心から近くこんな場所がある?女子3人で房総半

 島の田舎を散策! 2022/10/12 あしや 1432

55.小湊鉄道について(前編)

 

・「小湊鉄道の今昔」(遠山あき 崙書房 2004)より抜粋

 ※ただし、写真はカッパ撮影のものを利用。

 

 小湊鉄道全線開通に至るまでの経緯は概略以下の如くである。

  第一期大正14年(1925)五井~里見間25.7㎞

  第二期大正15年(1926)里見~月崎間 延長4.1㎞

  第三期昭和3年(1928)月崎~中野間 延長9.3㎞

 全線39.1㎞、国鉄(現在JR)と同じ106.7㎝のレール幅を用いている。

 本来は小湊までつなぐ予定だったが昭和恐慌などにより中野で中断。なお「いすみ鉄道」の前身「木原線」は大原~木更津間を結ぶ予定だったが、木更津から久留里まできたところで頓挫し、その路線は現在「久留里線」となっている。大原からは中野まできて中断した。結果的に中野で小湊鉄道と木原線がつながり、房総横断鉄道として機能することになった。それぞれが途中で鉄道敷設を頓挫させたのは清澄山系の固い岩盤であった。「昭和恐慌」の時代、山塊を貫くだけの莫大な費用は捻出できなかったようだ。また外房はすでに国鉄が安房鴨川まで開通させていた(1925年)ため、小湊まで無理やり開通させる必要性も少なくなっていた。

 小湊鉄道の起点は当初、八幡と五井の二か所が候補地であった。しかし八幡では五大力船や荷車、荷馬車を扱う既存の運送業者が鉄道によって仕事を奪われるおそれから反対の声も大きく、五井の誘致運動が勝った。特に五井では斎賀文太(彼の三女は女流文学者として有名になった原田琴子)らが奔走し、大正2年(1913)、五井を起点とする鉄道敷設計画に認可が下りた。

 しかし第一次世界大戦の鉄材価格高騰を受けて資金難となり、計画の見直しや出資者の変更などが相次ぎ、路線変更などを経てあらためて認可が下りたのは大正6年(1917)であった。こうして小湊鉄道株式会社が大正6年5月16日に創立された。

 ところが内陸部は山林地主だけで資金力が不足しがちのため、地元で資金を調達するには極めて難しかった。しかも最大の出資者であった小湊誕生寺が国鉄の鴨川開通(大正4年)後、さほど小湊鉄道に執着しなくなり、出資者から外れてしまったことで資金繰りは一層の困難を極めた。

 資金を自ら出し、資金集めに動いていた発起人も二人急死するなど、当初のメンバーのほとんどが入れ替わる異常事態となった。そこで五井の斎賀らは五井町を中心に海岸地帯の資金集めに専念し、山間部でも筒森の永島勘左衛門(永島家は筒森の名家で江戸時代には夷隅郡、君津、市原にまたがる三十数村の総名主であった)が東奔西走したが、それでも必要とされる資金の半分にも達しなかった。永島の苦労を見かねた鶴舞出身の奥山三郎(千葉第九十八銀行頭取、鶴舞藩家老伏谷如水の三男)は九十八銀行を支えていた安田財閥の安田善次郎(九十八銀行の相談役でもあった)に紹介状を書いた。

 安田善次郎(1838~1921)は富山藩の足軽の子として生まれている。父は農民であったが士分の株を買って下級武士となった半農半士であった。1858年、奉公人として江戸に出て玩具屋、鰹節兼両替商などで働いた。やがて明治維新後、安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)等、次々と設立し、一代にして金融財閥を築きあげた。

 1870年代は釧路地方の開発に関わり、北海道で最初の私鉄釧路鉄道を敷設、釧路炭田開発、根室銀行を設立するなど地方の発展にも尽くしていた。彼が救済した銀行は70行に及ぶという。しかし1921年、右翼により刺殺され、82歳の生涯を閉じた。東大の安田講堂や日比谷公会堂などを匿名で寄付していたため、安田の社会貢献の側面は世間に知られることはなかった。そのことが誤解を招き、私利私欲に走る人物として怨まれてしまったようである。ちなみにオノ・ヨーコは彼の曾孫にあたる。

 永島は安田に会うために二日がかりで山奥から東京に通い詰めた。紹介状があってもなかなか安田には会えず、門前払いが続いたが、あまりの熱意に押されて面会がかない、永島は床に土下座して融資を懇願したという。善次郎は建設計画を吟味し、採算が取れないためにいったん断った。

 しかし文明の恩恵になかなか与れない房総の山間部に光を当ててほしいとの再三にわたる懇願に屈した善次郎は採算を度外視して融資に踏み切った。三万株の内二万株は安田財閥が負担。社長は安田善助、専務取締役に奥山三郎、常務取締役に永島勘左衛門がついた。安田財閥をバックに用地買収は順調に進んだ。工事は鹿島組(後の鹿島建設)が請負、起工式は五井駅構内で大正13年(1924)1月11日、盛大に挙行された。会社設立から7年もの歳月が流れていた(その間、安田善次郎は大正10年=1921年、84歳で凶刃に倒れ、既にこの世の人ではない)。

 着工後、1年2カ月で里見まで開通。基礎を固める杭打ちは「ヨイトマケ工法」で女性も多く加わった人力頼みの突貫工事だった。ちなみに「ヨイトマケ」とは「よいしょと巻け」という意味で綱を引く際の掛け声からきているという。

 

 鉄道敷設工事で最も苦労するのは鉄橋の架設とトンネル工事だった。第一期工事は平地ばかりでトンネルは無かったが蛇行の多い養老川沿いのルートのため、鉄橋架設は多かった(26か所)。工事は鹿島組が請け負っているが、難工事の場合には演習を兼ねて千葉鉄道連隊が応援した。里見から中野までは6か所、トンネルがある。最長は421.5mの大久保トンネルである。木原線や久留里線もトンネルは一か所も無い。安田財閥の財力が無ければ走行距離40㎞にも満たない短い路線とはいえ、開通は覚束なかったであろう。

 機関車、客車、貨車は新品でまかなわれた。創業とともにアメリカから購入されたのが「ボールドウィン」二両。すべて部品で輸入され、五井の本社機関庫で組み立てられた。組み立てはボールドウィン社から派遣されたアメリカ人技師の指導を受けて行われたらしい。

 昭和3年、蒸気機関車に加え、軽くて動力の付いているガソリンカーが1両導入された。ボールドウィン社の機関車は長く働き続け、昭和31年に現役から退き、昭和34年(1959)、レールから外されて機関区の一隅に保管された。現在は県指定文化財として機関庫に大切に保存されている。昭和21年(1946)にはイギリス製のピーコック(千葉兵器廠で使用されていたが敗戦後の石油不足で小湊鉄道が借り受けた)も走ったが、重量が重く、燃料を多く使うので昭和26年には廃車にされたが、ボールドウィンと同じく機関庫に保管されている。

 

※右側の木造貨車は映画「ラーゲリより愛をこめて」(2022年公開)で捕虜がラーゲリに移送される

 場面で利用されているらしい。なおこの作品以外でも小湊鉄道は数多くの映画、テレビドラマのロケ

 地に利用されている。

 

 大正14年創業当初の保有車両は機関車3両、客車6両、貨車19両ですべて新車であった。貨車の多さで分かるように鉄道の任務は貨物の輸送に主眼が置かれていた。内陸部は人口が少なく、貨車輸送に利益を求めたのである。君津との境の鬼泪山では当時、砂利が露天で採掘されていた。レールの下に敷く砂利として自給できる見込みもあった。また山間部の林産物(炭や薪、農産物)は有蓋貨車で輸送した。やがてトラックの普及により木造の貨車は休車となり、現在も手入れされて保管されている(有蓋貨車ワフ1号、2号は大正12年製)。6両の客車は電車形車両で当時としては贅沢なものであった。しかし昭和4年には資金難で売却されてしまい、武蔵野鉄道の中古を購入した。

 電力は鶴舞に火力発電所を造って自給(鶴舞駅の脇の木造倉庫)し、やがて周辺住民にも電力を供給していたが昭和8年(1933年)に発電を中止し、東京電灯から電力を購入するようになった。

 中野まで開通した昭和3年の段階では駅は14駅、現在は18になった。内、半分の9駅は無人駅。なお上総鶴舞駅は関東の駅百選に選ばれている。