57.養老川の水運
養老川のか左岸、ちょうどライトグリーンの辺りが出津村の船着き場、筏の陸揚げを行う河岸であった。「出津」と地名が記された箇所には昔から浜田材木店があって、上流から来た材木の陸揚げが行われていた。今も屋敷には立派な土蔵が残されている。
・「養老川と養老川漁業協同組合」(平成24年 養老川漁業協同組合)より
清澄山系に源を発し、北西に流れ下る養老川は途中、古敷谷川、平蔵川、内田川と合流して東京湾に注ぐ。総延長およそ73㎞。昭和初期まで物資輸送の大動脈として内陸部と沿岸部を結んでいた。物資流通の主役は川船。一艘に米80俵、木炭400俵、薪1200束を積んだ。親船と呼ばれた大型船は150俵もの米を積めたらしい。馬は米2俵、馬車でも米15俵が限界であり、船の積載能力は突出して大きかった。大正初期で180艘の川船があったという。
川船の標準サイズは長さ6間(10.8m)、幅8尺3寸(2.51m)で、底の浅い木造船。船頭夫婦が一組で運搬に従事し、船の中程に杉皮葺きの屋根をしつらえ、両側に茅で編んだ「ドバ」を垂らして休憩した。
筏も大きなものでは長さ17間(32m)、幅10尺(3m)。男二人で操って五井まで二日がかりで下った。
「五井漁業史」(昭和63年=1988)によると出津は当初、出洲と呼ばれて五井村の枝郷であった。文政6年(1823)の宗門人別改帳では家数25軒、人口147人、馬4疋。川船による運送業が盛んで村の成人男性のほとんどが船頭であったため「船頭村」といわれた。
昭和61年(1986)当時、82歳であった高沢幹愛氏の思い出話が同書に残されている。彼は13歳から船頭稼業に従事してきたが鉄道開業(おそらく小湊鉄道。とすれば昭和に入る頃)によって川船の仕事が急速に途絶えていったという。船頭は異様ないでたちで股引をはかず、膝から下は蓙を巻いて怪我の防止を図ったらしい。養老川の川船問屋が三軒あったが最大の問屋は高滝の問屋で出津の船頭は高滝まで船を三日がかりで綱で引き上げていき、そこから薪炭などを船に積んで運び、五井の河岸で五大力船に積み替えていた。彼は年を感じさせない朗々としたハリのある声で「養老川舟歌」をこう謳って見せたという。
養老川舟歌
イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン
イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン
養老川こそ宝の川よ 船頭働けよ 養老川 船頭起きろやえ
はや夜が明けた 起きなや 出船がよう 遅くなる
三五反の帆を巻き上げて 川上めがけて走り行く
船は早かろ 帆なりもよかろ
乗り子の 船頭さんのよ 程の良さ
走りゃ間もなく高滝村(そん)よ
着けば荷主がよ待っている
船は○○○○○でも 炭薪きゃ積まぬ
積んだ荷物は米と酒 荷役終えれば はや船下る
下り下ってよ 五井の河岸 北風(ならい)吹かせて 江戸船呼んで
荷物積んだり積ませたり
イヤーテッテノ クラガラ クラガラ クランクラン
青柳至彦氏(「いちはら 歴史散歩」)によると大正の頃までは養老橋付近の街道には桜の大木が並び、シーズンになると花見客で賑わっていたという。しかし大正6年の洪水(10月1日の未明に到来した台風と大潮が重なり、発生した水害。「大正の大津波」と呼ばれた)高潮の際、水流を弱めるために桜の枝を伐採し、堤防にとりつけた後、樹勢が急速に衰え、次々と枯死してしまったという。
川船が活躍するのは11月以降。農閑期に入るとともに水田等の水を引かずにすむようになった分、川の水量が増し、川船が上流にまで上れるようになること、また「ならい」と呼ばれる北西の風が吹くようになり、帆を張れば漕がずに上流まで遡れることが冬のメリット。しかし冬の水の冷たさは船頭の命取りにもなった。