55.小湊鉄道について(前編)

 

・「小湊鉄道の今昔」(遠山あき 崙書房 2004)より抜粋

 ※ただし、写真はカッパ撮影のものを利用。

 

 小湊鉄道全線開通に至るまでの経緯は概略以下の如くである。

  第一期大正14年(1925)五井~里見間25.7㎞

  第二期大正15年(1926)里見~月崎間 延長4.1㎞

  第三期昭和3年(1928)月崎~中野間 延長9.3㎞

 全線39.1㎞、国鉄(現在JR)と同じ106.7㎝のレール幅を用いている。

 本来は小湊までつなぐ予定だったが昭和恐慌などにより中野で中断。なお「いすみ鉄道」の前身「木原線」は大原~木更津間を結ぶ予定だったが、木更津から久留里まできたところで頓挫し、その路線は現在「久留里線」となっている。大原からは中野まできて中断した。結果的に中野で小湊鉄道と木原線がつながり、房総横断鉄道として機能することになった。それぞれが途中で鉄道敷設を頓挫させたのは清澄山系の固い岩盤であった。「昭和恐慌」の時代、山塊を貫くだけの莫大な費用は捻出できなかったようだ。また外房はすでに国鉄が安房鴨川まで開通させていた(1925年)ため、小湊まで無理やり開通させる必要性も少なくなっていた。

 小湊鉄道の起点は当初、八幡と五井の二か所が候補地であった。しかし八幡では五大力船や荷車、荷馬車を扱う既存の運送業者が鉄道によって仕事を奪われるおそれから反対の声も大きく、五井の誘致運動が勝った。特に五井では斎賀文太(彼の三女は女流文学者として有名になった原田琴子)らが奔走し、大正2年(1913)、五井を起点とする鉄道敷設計画に認可が下りた。

 しかし第一次世界大戦の鉄材価格高騰を受けて資金難となり、計画の見直しや出資者の変更などが相次ぎ、路線変更などを経てあらためて認可が下りたのは大正6年(1917)であった。こうして小湊鉄道株式会社が大正6年5月16日に創立された。

 ところが内陸部は山林地主だけで資金力が不足しがちのため、地元で資金を調達するには極めて難しかった。しかも最大の出資者であった小湊誕生寺が国鉄の鴨川開通(大正4年)後、さほど小湊鉄道に執着しなくなり、出資者から外れてしまったことで資金繰りは一層の困難を極めた。

 資金を自ら出し、資金集めに動いていた発起人も二人急死するなど、当初のメンバーのほとんどが入れ替わる異常事態となった。そこで五井の斎賀らは五井町を中心に海岸地帯の資金集めに専念し、山間部でも筒森の永島勘左衛門(永島家は筒森の名家で江戸時代には夷隅郡、君津、市原にまたがる三十数村の総名主であった)が東奔西走したが、それでも必要とされる資金の半分にも達しなかった。永島の苦労を見かねた鶴舞出身の奥山三郎(千葉第九十八銀行頭取、鶴舞藩家老伏谷如水の三男)は九十八銀行を支えていた安田財閥の安田善次郎(九十八銀行の相談役でもあった)に紹介状を書いた。

 安田善次郎(1838~1921)は富山藩の足軽の子として生まれている。父は農民であったが士分の株を買って下級武士となった半農半士であった。1858年、奉公人として江戸に出て玩具屋、鰹節兼両替商などで働いた。やがて明治維新後、安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)等、次々と設立し、一代にして金融財閥を築きあげた。

 1870年代は釧路地方の開発に関わり、北海道で最初の私鉄釧路鉄道を敷設、釧路炭田開発、根室銀行を設立するなど地方の発展にも尽くしていた。彼が救済した銀行は70行に及ぶという。しかし1921年、右翼により刺殺され、82歳の生涯を閉じた。東大の安田講堂や日比谷公会堂などを匿名で寄付していたため、安田の社会貢献の側面は世間に知られることはなかった。そのことが誤解を招き、私利私欲に走る人物として怨まれてしまったようである。ちなみにオノ・ヨーコは彼の曾孫にあたる。

 永島は安田に会うために二日がかりで山奥から東京に通い詰めた。紹介状があってもなかなか安田には会えず、門前払いが続いたが、あまりの熱意に押されて面会がかない、永島は床に土下座して融資を懇願したという。善次郎は建設計画を吟味し、採算が取れないためにいったん断った。

 しかし文明の恩恵になかなか与れない房総の山間部に光を当ててほしいとの再三にわたる懇願に屈した善次郎は採算を度外視して融資に踏み切った。三万株の内二万株は安田財閥が負担。社長は安田善助、専務取締役に奥山三郎、常務取締役に永島勘左衛門がついた。安田財閥をバックに用地買収は順調に進んだ。工事は鹿島組(後の鹿島建設)が請負、起工式は五井駅構内で大正13年(1924)1月11日、盛大に挙行された。会社設立から7年もの歳月が流れていた(その間、安田善次郎は大正10年=1921年、84歳で凶刃に倒れ、既にこの世の人ではない)。

 着工後、1年2カ月で里見まで開通。基礎を固める杭打ちは「ヨイトマケ工法」で女性も多く加わった人力頼みの突貫工事だった。ちなみに「ヨイトマケ」とは「よいしょと巻け」という意味で綱を引く際の掛け声からきているという。

 

 鉄道敷設工事で最も苦労するのは鉄橋の架設とトンネル工事だった。第一期工事は平地ばかりでトンネルは無かったが蛇行の多い養老川沿いのルートのため、鉄橋架設は多かった(26か所)。工事は鹿島組が請け負っているが、難工事の場合には演習を兼ねて千葉鉄道連隊が応援した。里見から中野までは6か所、トンネルがある。最長は421.5mの大久保トンネルである。木原線や久留里線もトンネルは一か所も無い。安田財閥の財力が無ければ走行距離40㎞にも満たない短い路線とはいえ、開通は覚束なかったであろう。

 機関車、客車、貨車は新品でまかなわれた。創業とともにアメリカから購入されたのが「ボールドウィン」二両。すべて部品で輸入され、五井の本社機関庫で組み立てられた。組み立てはボールドウィン社から派遣されたアメリカ人技師の指導を受けて行われたらしい。

 昭和3年、蒸気機関車に加え、軽くて動力の付いているガソリンカーが1両導入された。ボールドウィン社の機関車は長く働き続け、昭和31年に現役から退き、昭和34年(1959)、レールから外されて機関区の一隅に保管された。現在は県指定文化財として機関庫に大切に保存されている。昭和21年(1946)にはイギリス製のピーコック(千葉兵器廠で使用されていたが敗戦後の石油不足で小湊鉄道が借り受けた)も走ったが、重量が重く、燃料を多く使うので昭和26年には廃車にされたが、ボールドウィンと同じく機関庫に保管されている。

 

※右側の木造貨車は映画「ラーゲリより愛をこめて」(2022年公開)で捕虜がラーゲリに移送される

 場面で利用されているらしい。なおこの作品以外でも小湊鉄道は数多くの映画、テレビドラマのロケ

 地に利用されている。

 

 大正14年創業当初の保有車両は機関車3両、客車6両、貨車19両ですべて新車であった。貨車の多さで分かるように鉄道の任務は貨物の輸送に主眼が置かれていた。内陸部は人口が少なく、貨車輸送に利益を求めたのである。君津との境の鬼泪山では当時、砂利が露天で採掘されていた。レールの下に敷く砂利として自給できる見込みもあった。また山間部の林産物(炭や薪、農産物)は有蓋貨車で輸送した。やがてトラックの普及により木造の貨車は休車となり、現在も手入れされて保管されている(有蓋貨車ワフ1号、2号は大正12年製)。6両の客車は電車形車両で当時としては贅沢なものであった。しかし昭和4年には資金難で売却されてしまい、武蔵野鉄道の中古を購入した。

 電力は鶴舞に火力発電所を造って自給(鶴舞駅の脇の木造倉庫)し、やがて周辺住民にも電力を供給していたが昭和8年(1933年)に発電を中止し、東京電灯から電力を購入するようになった。

 中野まで開通した昭和3年の段階では駅は14駅、現在は18になった。内、半分の9駅は無人駅。なお上総鶴舞駅は関東の駅百選に選ばれている。