56.小湊鉄道について(後編)
・遠山あき「小湊鉄道のあけぼの(流紋)」より抜粋
※ただし以下の写真はカッパが撮影したものを主に利用。
この作品は昭和62年(1987)12月から昭和63年9月まで千葉日報に掲載された新聞小説を一部修正し、加筆推敲してまとめたもので、平成25年(2013年)7月に市制移行50周年の記念刊行物として出版された。既に90代の半ばに達していた人とは思えぬ筆力に脱帽せざるを得ない。そもそも千葉日報に連載された当時、遠山あきさんは70歳前後。しかしまったく年齢を感じさせないその瑞々しく官能的な描写に今更ながら感嘆するばかりである。
残念ながら遠山さんは平成27年(2015)に98歳でお亡くなりになっている。
この本のあとがきにはこうある。
…市原の地は、あたかも背骨のようにその中央を貫いて養老川が流れている。川を外しては、ふるさと市原は語れない。そうしてその川に沿って付かず離れず小湊鉄道は走っている。市原に住む人々の生活を昔から支えていた川の役割は小湊鉄道に取って替わった。地域発展を担う役割が移動したのである。その大きな変化の裏側にあった人間の苦悩は計り知れないものがあったに違いない。
文化の変遷と発展はあたかも川の流れのように止どめることは出来ない。これから先もあらゆる変化が待ち受けていると思う。…
遠山さんが市原の歴史地理的特色をきちんとふまえつつ、心の底から常に地元に密着し続けようとしてきた、郷土愛に満ちあふれる稀有の作家であったことを痛感させられる一文である。
さて冒頭の書き出しはこうだ。始まりから何やら不吉な予感が漂う。
河口から沖へかけて、空が異様な赤さに染まっていた。海は凪いでいたが肌にま
つわる風がなまぬるい。
「面白くねえ空模様だ…」
平七は呟いて空を見上げた。
市原市歴史資料館に展示されている五大力船の模型
時は戊辰戦争が35年前とされているので1903年あたりか。第一章に相当する「流紋」(p1~68)に登場するのは養老川の河口にある船宿紀州家の主人藤兵衛とその雑用係の平七、冨美(6歳で父の豊作を失い、母親も間もなく病死したため、8歳で紀州屋に引き取られていた)。材木商の増富屋(月に4・5回、深川に材木を卸す)と増富に木材を上流からおろしてくる筏(いかだ)師の仙平、その弟子の源次(父親の孫吉は15歳の時に死んでおり、その時から仙平によって仕事を仕込まれてきた)、五井の医者宅間、大通寺住職日寛ら。
話は平七の予感通りに「はやて」が河岸を襲い、土砂降りの中で筏や船の係留、薪炭の運び出しに追われる船頭や増富屋の慌ただしい動きの描写から始まる。12月の寒い中でびしょぬれになった源次が高熱に襲われ、宅間の指導のもと平七や冨美らの必死の看病で源次は回復していく。この一件を機に源次と冨美の間にほのかな恋愛感情が芽生えてくる。両者を平七と宅間、日寛らが懸命にとりもって二人の縁組を実現しようとするが、彼らは冨美に言えない秘密の過去を共有していた。それは冨美の父親に関わるもののようだが・・・
話の舞台は養老川の河口付近。「柳の渡し」は間違いなく出津の渡船場であるが、船宿の紀州屋はもっと河口に近いので玉前か岩崎になろうが、河岸としては対岸の川岸が発展しており、木材や薪炭の搬入搬出でにぎわう舞台としてはふさわしい。
江戸時代、房総往還の渡船場が置かれていたのは今の養老橋付近で五井戦争の主戦場となった場所。出津の船着き場と筏の木材引き揚げ場も渡船場の近くにあった。上の地図では中央の下方、川が90度近く上(北)方向に蛇行する地点に24号線の橋(養老橋)が架かっている付近。
下図は養老橋付近を拡大したもので、右端にJR五井駅から分岐する小湊鉄道の路線が下(南)に伸びているのが確認できる。写真は養老橋から南西方向に向いて撮影したもので、地図では出津河川敷工事と記されており、今後、かつての出津の船着き場の面影は消えていくことが予想される。
なお、この箇所での川の急激な蛇行がこの地域に養老川の洪水被害を繰り返しもたらしていた。地図では河川敷工事と記され箇所からその下の「出津」という地名が記された箇所がとりわけ数多く決壊し、18世紀後半には4この辺りからあふれ出た川の水は北西に向かって流れだし、そのまま40年近くの間、メガドンキの裏手付近(上の地図では青柳北という地名が記された辺り)で海に注いでいた。
話の中では「五井」「佐是」「牛久」「川間」「本郷」など実際の地名が頻繁に使われる一方で日寛のいる大通寺は確かに実在するが、養老川から遠く離れた米原にある。話の内容からみてこれは作者が創作した架空の寺であろう。小説なので虚実入り混じるのは当然であり、したがって紀州屋の所在地をこれ以上アレコレと詮索するのは野暮というものである。
次の「上総義軍」(p69~136)では親同然の平七でも冨美には言えない、冨美の父親に関する謎が解き明かされていく。慶応4年(1868)閏4月7日の薄暮のことである。柳の渡場(=出津の渡船場)付近で一人の義軍兵士が足に深手を負って川船のトマ小屋に隠れていた。船は仙平の船であった。見つけた仙平らは増富屋にいた平七に相談し、密かに宅間を呼んで応急処置をしてもらう。翌朝、仙平らは官軍の目を盗んで義軍兵士を川船に乗せ、上流の村に連れていく。担ぎ込まれたのは日寛のいる大通寺。薬草と「仙水」の効能も手伝って足の傷はたちまち回復していくが、若者は精神的にはかえって落ち込んでいくばかりであった。
助けられた義軍兵士の名は福島出身の真木由之助で19歳の若武者であった。戦の中で深手を負って自分を担ぎ、逃げ遅れて柳の渡船場で官軍に殺されてしまった自分の兄達に対する自責の念から由之助はふさぎ込んでいくばかりだった。
しかし日寛は村の娘と心中事件を起こして出奔した自分の若き日の出来事を告げ、由之助を精神的にも立ち直らせていった。ほぼ由之助と同年令の筏師孫吉も日寛の意を受けて由之助を自分の弟分とし、豊作という名を与えて新しい人生を歩ませようとした。やがて立ち直った由之助すなわち豊作は読み書き算盤が出来ることで増富屋に目を付けられ、五井に向かうため山村を後にする。
「時は過ぎて」(p137~200)では増富屋で働く豊作と増富屋の隠居の世話をしている娘サトエとの関係を軸に、豊作を陰で支えようとする平七、宅間、孫吉らの動きが絡んで展開していく。増富屋の当主万右衛門は遣り手ではあるが人情味に欠けた計算高い男であった。彼は隠居の世話をするサトエにも色目を使う一方で隠居の提灯の置き忘れが原因で生じた木材倉庫の火事を豊作の責任としてしまう。
無実の罪により高崎監獄で3年の服役を強いられた豊作であるが、兄達を死なせてしまった自責の念が消えていなかった分、刑務所での生活は何とか耐えられていた。彼は出所後、増富屋に戻る一方で平七や宅間の奔走により、隠居の世話をしていたサトエと結ばれることになる。
「結ばれる糸」(p201~250)では豊作の子に孫吉が「冨美」という名を与え、冨美は順調に育っていくが、6歳の時に父親の豊作が海で遭難し、帰らぬ人となる。やがてサトエも病死し、冨美は藤兵衛に引き取られて紀州屋の手伝いをするようになる。平七もまた増富を辞めて紀州屋で風呂焚きなどの雑用を務め、冨美をなにくれとなく陰から支え続けた。
「新しい糸」(p251~290)は成長した源次と冨美が結ばれて源次夫婦の山村(泉水村…おそらく作者遠山あき氏が居を構えた田淵近辺をイメージした場所))での生活がメインとなる。山仕事の過酷さ、冬場に川船を上流まで引き揚げてゆく辛さのなかで夫婦の絆は固く結ばれていく。
市原市郷土資料館の展示模型
源次の母は金遣いが荒く、遊び呆けて冨美を困らすが、両親を早く亡くして他人の家で育てられてきた冨美にとってはそれも大した苦にはならなかった。その母が酔っぱらった挙句に急死した日、冨美は男の子を設けた。男の子には由之助という名が平七から与えられる。由之助は順調に育っていき、9歳の時、源次と一緒に川を下って五井の平七らのもとを訪れる。その時目にした蒸気機関車に由之助は心を奪われる。
「流れの果て」(p291~)小湊鉄道に勤めることを夢見るようになった由之助とこれに反対する父親源次との葛藤が始まるが、増富に木材を卸している山大の若旦那信吾は鉄道敷設に全力を傾け、体を壊す。由之助はこの信吾のバックアップを受けて英語を覚え、着々と機関士への道を歩み始めた。そうした中で発生した大正12年の関東大震災は山間部の人々に鉄道への期待を高まらせた。
震災直後、木材価格が高騰して東京中心に木材不足となったにも関わらず、市原の山間部、すなわち木材供給基地は鉄道が無いため、黙って指を加えるだけになっていた。10月以降にならなければ水田の灌漑が終わらず、川の水量が足りないため、川船の運航ができない。また山村といえども細々と稲作は行われおり、農閑期に入らなければ筏師も仕事ができなかったのである。
鉄道さえあれば悔しい思いはしなかった・・・山村に鉄道敷設反対の声が小さくなるとともに、千葉鉄道連隊の協力も得て工事は急速に進んでいった。由之助は晴れて小湊鉄道に入社し、機関士の助手となった。大正14年3月7日、午前9:30、雨天をついて一番列車が五井駅を発車した。ついに里見駅まで開通したのである。さらに9月1日10:20、快晴に恵まれて由之助が助手を務める列車が月崎駅に到着した。
物語のフィナーレはこう閉じられる。
…その時、ヒョーッ!と鋭く汽笛が鳴った。汽笛は山々をどよもして鳴りわた
り、高く空へあがってどこまでも響いていった。
「あいつが鳴らしてる・・・」
それは新しい時代の夜明けへの凱歌であり、滅びゆくものへの哀惜の叫びにも
聞こえた。
「あいつ・・・」
源次の目が涙でいっぱいになった。
「とうちゃん・・・」
冨美だった。胸にしみ透る声だった。あの子が心をこめて鳴らす汽笛は、川の流
れを見ながら源さんと二人きりで聞くのが一番ふさわしい…と冨美は思った。
<源さんも同じ思いだった・・・>
源次はあふれる涙もぬぐわず、いつまでも流れを見つめ続けていた。
この本のあとがき「流紋の再版に寄せて」で遠山さんはこう述べていた。
…養老川の上流の山村で生まれた私の中には、いつも川の瀬音が伏流となってせせらぎ続けていた。その川の畔を離れてから30年、縁あって、私はまた養老川の畔に住みつくことになった。朝に夕に流れの音を聞きながら田畑の仕事に精を出す。悲しい時、苦しい時、水辺に降りて流れを見つめる。ふとこぼした涙を流れは秘かに飲み込んでくれた。嬉しいときは、嬉しい笑みを流れに映す。映して砕けて水は流れ去っていった。川は私の流れていく人生と共にあった。
それはきっと私ばかりではないだろう。ずっと昔から川の畔に生きた沢山の人達の、喜びも悲しみも映して川は流れ続けてきたのであった。これから先も、限りのない時間を川は人々の生きざまを黙って見つめながら流れ去っていくことだろう。私は川になりたい。川になってその畔に生きた人たちの生きた足跡を辿ってみたい…
こうしてこの作品は生まれたのである。
遠山あきさんは大正6年(1917)、大多喜町老川で生まれている。
昭和11年(1936)に千葉女子師範学校を卒業し、千葉市内で教師となったが、昭和19年(1944)、戦災を避けるため千葉から夫の郷里である里見村に移り、そこで教師
を続けた。
戦後は昭和23年(1948)農地改革のため教員を辞めて農業に専念。
昭和42年(1967)、農民文学会に入会し、作品を世に問うことに。以来、50年近くの間、作家活動を続けてこられた。
参考動画
○小湊鉄道に初めて乗ってみた!都心から近くこんな場所がある?女子3人で房総半
島の田舎を散策! 2022/10/12 あしや 14:32