61.市原の戊辰戦争③
赤い矢印は官軍がの進撃方向、黄色い★印は畑木での戦いに関わる遺跡(五井戦争の後日談としていずれ配信予定)、青の印は右が姉崎神社、左が妙経寺の場所、緑の●印は鶴巻藩の陣屋があった地点。
姉崎は義軍にとって重要な拠点とされ、姉崎神社には砲台も築かれて兵力も相当数集まっていた。しかし養老川での敗戦を聞くと大砲を一発撃っただけでほとんど戦わずして木更津、真里谷方面に逃げてしまった。残った義軍の精鋭30名(幕府陸軍出身)ほどは妙経寺に立てこもって抗戦し、6人が陥落直前に脱出したが、途中、官軍と遭遇して二人が戦死し、二人が降伏した。残り二人は近くの農家の納屋に逃げ込んだが、結局深手を負った兵は死に、一人は自害して果てた。
妙経寺境内には16人の死体が残されていた。なお戦闘は午前中に大勢が決し、午後3時に終結。翌日には義軍の拠点、真里谷も陥落し、房総における組織的な抗戦は瞬く間に鳴りを潜めることになった。この日の戦いの犠牲者総数は義軍だけで60人を超えたという(住民は4人、官軍も4人。ただし判明した者のみ)。
姉崎の鶴牧藩(動員可能な兵力はわずか100人の小藩)では佐幕か勤皇かで藩論が揺れたが、最終的には官軍側につく事で決定していた。しかしなかには徳川の恩義に報いるためにも藩論を無視してあくまで官軍と戦おうとする血気盛んな藩士がいた。7日、5人の藩士が必死に引き止める同僚を切り捨てて陣屋から飛び出したが、すでに義軍は壊滅状態で合流できず、かといって陣屋に戻ることもできず、切腹して果てるという悲劇も起きた。翌日、陣屋に四斗樽に入れられた彼ら5人の生首が官軍から届けられたという(その内の一人はまだ17歳の青年であった。その後、彼らは椎津の瑞安寺に葬られた。
鶴牧藩はこの戦いに両軍から協力を求められたが、立場上一切の協力を固辞して6人の犠牲者を出しつつも陣屋の門を堅く閉ざし続けたのである。
※鶴牧藩:文政10年(1827)、水野氏が安房北条藩から1万5千石をもって椎津に陣屋(現在姉崎小
学校)を移し、成立。陣屋ではあったが水野が城主格であったため鶴牧城と公称。藩祖および二代
目は若年寄を務めるなど幕閣で活躍。
一方、時代の移り変わりとはいえ旧幕府方の末路は哀れであった。かつて京都で恐れられた新撰組は房総の義軍が集結する直前には崩壊し、隊長であった近藤勇は流山で捕まって4月、官軍に処刑されていた(近藤は武士身分とは認められず、切腹も許されずに斬殺された)。
しかしたとえ官軍に刃向かったとしても大名で命を落とした者は誰一人としていなかった。木更津請西藩主林忠崇はわずか1万石の身でありながら、21歳という若さもあってか佐幕一途であった。
1868年閏4月3日、家老以下、家臣59人もろとも脱藩して旧幕臣からなる遊撃隊(大鳥圭介ら)に加わり、箱根、小田原まで打って出て官軍と戦い、さらには東北で
も転戦したが、形勢の決した9月、ついに官軍に降伏した。
彼とともに脱藩した59名の家来は20名に減っていた。請西藩の領地は没収されたが、忠崇は親類に「永預け」となり、やがて赦されて華族にも列せられ、1894年にはとうとう官吏になっている。
1941年、彼は94歳の長寿を全うしてその数奇な生涯を閉じた(参照:「脱藩大名の戊辰戦争」中村彰彦 中公新書 2000)。
五井戦争の犠牲者はもっぱら下級武士であった。彼らの本意をもはや知る由も無いが、はたして死んだ者のうちどれだけの人が心底、佐幕の意志を持って戦ったのだろう。殿様やご主人様に逆らえず嫌々ながらお供をし続けた挙句の戦死だとしたら…
身分制社会のむごさを思わずにはいられない。