63.市原の戊辰戦争⑤
・戊辰戦争の始まり
まずは日本最初の軍歌として知られる「宮さん 宮さん」の歌詞をご紹介いたしましょう。作詞の品川弥二郎は長州藩士です。戊辰戦争では官軍がこの曲を笛、太鼓で伴奏しながらこの近く、房州街道沿いを南下して参りました。
「宮さん 宮さん(トコトンヤレ節)」
作詞 品川弥二郎 作曲 大村益次郎?
宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
一天萬乗の帝王(みかど)に 手向いする奴を
トコトンヤレ、トンヤレナ
覗い(ねらい)外さずどんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ、トンヤレナ
伏見、鳥羽、淀 橋本、葛葉の戰は
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
音に聞えし関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと問うたれば
トコトンヤレ、トンヤレナ
城も気慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ、トンヤレナ
国を迫うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩長土の先手に 手向いする故に
トコトンヤレ、トンヤレナ
雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に
トコトンヤレ、トンヤレナ
命惜まず魁(さきがけ)するのも 皆お主のため故じゃ
トコトンヤレ、トンヤレナ
「宮さん 宮さん」の歌詞には他のバージョンもありますが、これは明治25年の「小学唱歌」にも載せられた、比較的原型に近いものと思われます。戊辰戦争と言いますとこの楽曲が直ちに思い浮かぶのは私だけではないでしょう。
さてあらかじめ戊辰戦争直前の情勢についてここで簡単なおさらいをしておきます。1867年10月、前土佐藩主山内容堂の建白に応じて大政奉還が行われ、15代将軍徳川慶喜はついに政権を朝廷に返上しました。形式的には江戸幕府が自ら滅亡したことになります。とは言え、幕府の各組織は温存されたままですので軍事的に見れば決して滅亡したとは言えません。むしろ慶喜らはこれまでの将軍を中心とした幕府独裁体制を自らの手で改造しつつ主体的に日本の近代化を進めることで薩長ら徹底倒幕派との内乱を回避し、欧米の不当な介入を阻止する事を最優先したと考えられます。将来的には天皇の号令のもとに議会を招集し、率先して欧米の議会政治を取り込んでいく中で自分たちの権力の温存を図ろうともしたのでしょう。
しかし大政奉還後、11月になっても多くの大名らは天皇の呼びかけに応じず、京都で議会を開ける状況にはありませんでした。政権運営から遠く離れてきた朝廷自体にこうした政局の行き詰まりを打開する力は全くありません。他方で西南雄藩と呼ばれた薩摩や長州は幕府の軍事的滅亡を執拗に策しており、慶喜らの延命策につながる大政奉還には猛反発していました。権力の温存を図ろうとする慶喜らとそれを絶対に阻止しようとする徹底倒幕派との亀裂は深く、多くの諸侯はその対立の狭間にあって立場を決めかね、実質的には「洞ヶ峠」を決め込んでいたのでした。
政局が膠着状態に陥る中で大政奉還のきっかけをこしらえた坂本龍馬らの暗殺は大政奉還後の事態の行き詰まりを一層あからさまにしてしまいます。政治的空白の長期化で天皇や朝廷の無力さをさらけ出してしまうことは天皇の権威を利用しようとする薩摩・長州にとっても打撃となります。また議会政治の早期開始を期待していた越前、土佐、尾張といった有力な諸侯も事態の打開に向けて動き出します。こうして内に大きな対立を孕みながらも12月、いわゆる王政復古の大号令が出されます。総裁、議定、参与という三職からなるにわか作りの臨時政府が立ち上げられ、幕府亡き後の最初の政権が発足したのです。
この段階でも多くの諸大名は強大な軍事力を維持していた将軍家に遠慮して藩内にとどまっていたため、臨時政府の構成には大きな偏りが生じました。肝心の慶喜は大坂城に退去していて京都には招集されず、慶喜不在のままで政権が発足していたことになります。三職の最初の会議(=小御所会議)は大号令が出された夜に開かれますが、当然政局の運営に欠かせぬはずの慶喜を抜きにしたこの会議に越前や土佐から激しい批判が噴出しました。
結局、深夜まで紛糾したこの会議を一気に結論に導いたのは西郷隆盛の「短刀一つあればけりが付くではないか」との一言であったらしく、これで会議の主導権を握った薩長は「辞官納地」(すべての官職を辞職させ、すべての領地を返納させる)という厳しい処分を慶喜に下すことに成功します。もちろん、徹底倒幕派の目論見はこうした新政府の慶喜への一方的な処罰という挑発に乗って旧幕府勢力が何らかの行動を起こしてくれることでした。
もとより倒幕派の意図を察していた慶喜は殺気立つ大坂城内の家来達をなだめつつ、挑発に乗せられぬよう軽挙妄動を厳に戒めています。しかし西郷隆盛らは既に先手を打っていたようです。慶喜が留守にしていた江戸では薩摩藩邸が雇った無頼の徒が放火略奪を繰り返し、慶喜の辞官納地に煮えくりかえっていた江戸町奉行所の面々を執拗に挑発していたのです。ついにこらえきれなくなった町奉行所は薩摩藩邸を襲撃してしまいます。
明治天皇が臨席し、有栖川宮熾仁親王を総裁とする小御所会議の決定に異を唱えることはすなわち朝廷に逆らうことであり、「朝敵」の汚名を着せられることを意味していました。江戸からの知らせを受けた慶喜は覚悟を固め、大坂城や京都守護職の会津藩、京都所司代の桑名藩の勢力を率いて京都に進撃します。1868年1月、京都の鳥羽・伏見の戦いはこうして始まり、ついに戊辰戦争の火蓋が切って落されたのです。
冷静に戦いの経緯を振り返りますと旧幕府方が薩長の非を鳴らし、敢えて朝敵の汚名を着せられながらも戦いに挑んだ、まさにやむにやまれぬ心情は理解できなくもないのです。ですから改めて「宮さん 宮さん」の歌詞を読み直しますと天皇の権威を借りて一方的に旧幕府側を悪者に仕立て上げ、戦いを優位に進めようとする薩長の「悪企み」が透けて見えてくるようにも思えます。
実は作詞した品川弥二郎は松下村塾出身者で高杉や桂(木戸孝允)らと行動を共にすることが多かったのですが、後に内務大臣(第二次松方正義内閣)として大規模な選挙干渉を指揮し(1892年)、自由民権運動に属する立候補者の弾圧を行って全国で死者25人、負傷者数百人に達する多数の死傷者を発生させたことで有名となります。
当時の千葉県は自由民権運動が極めて盛んでこの時の死傷者は死者2人、負傷者40人を数え、死傷者数で見ますと何と全国4位でした。
ちなみに市原では「市原倶楽部」という自由民権派の政治結社が1889年に結成され、地方名望家の多くがそこに名を連ねております(下コピー)。元来が天領や旗本、譜代大名の領地が多く、佐幕派が圧倒的に優勢で幕府を滅ぼした新政府に対する反発が強かった房総市原。この地で薩長藩閥政府を批判する自由民権運動が盛り上がるのは当然であったかもしれません。
「東海新報」(明治22年10月30日)コピー:但し創立委員の一部のみ掲載
※そもそも千葉県は自由民権運動が盛んな地域でした。「房総の自由民権」(佐久間耕治 崙書房
1992)によりますと房総を訪れた民権家の主な弁士は以下の通りです。
1880年、末広重恭(鉄腸:1849~96)、館山から鴨川にかけて田口卯吉らとともに演説会の弁士の
一員で遊説→朝野新聞に「房州紀行」として連載
1882年、1883年、小野梓(1852~86)遊説
1883年、植木枝盛、房州各地で11回もの演説
この年は松方デフレによる不況に加えて夏はコレラが流行。なお植木は既に1881年、東金で演説
しています。翌1882年には大網、土気にも来ています。
1884年、7月、星亨遊説
10月、加波山事件の主犯富松(とまつ)正安、房州長狭の民権家らに匿われる
11月、市原郡姉ヶ崎で富松、逮捕(→死刑:房州の自由党系民権派に対する官憲の弾圧)
1893年、島田三郎と田中正造、遊説
1894年、河野広中、遊説
千葉県の自由党員は1884年の時点で118名と全国6番目の多さ、国会開設請願署名数は32015人で高知県の48392人に次ぐ全国2番目の多さ。民権派の結社数では57社で全国7番目であり、自由民権運動はかなり盛んでした。だからこそ民権派の自由党も立憲改進党も大物弁士を房州に送り込んでいたのです。
・江戸城無血開城
戊辰戦争に戻りましょう。鳥羽・伏見の戦いはスペンサー銃などの最新兵器を擁した薩長土を主力とする政府軍が数の上での劣勢をはねのけて慶喜軍を敗走させます。慶喜は大坂から海路、江戸へ逃げ戻りました。確かに「城も気概も捨てて」慶喜は一足先に江戸へ逃れた・・・と歌で揶揄されても仕方はありません。
しかし江戸を本拠とする旧幕府側の強硬派にとって慶喜の帰還は切望されていた事でもあったはず。東征を進める官軍を迎え撃とうとする機運は薩長への恨みを募らせていた江戸の幕臣達の間で盛り上がっていたことでしょう。
江戸城に戻った慶喜は一体、何を考えていたのか気になるところです。これまでしばらくの間幕政から遠ざけていた勝海舟を急遽呼び戻し、実質的に老中格として処遇した事を考えますとやはり初戦の躓き(鳥羽伏見での惨敗)と「朝敵」の汚名は相当、応えていたと思われます。
坂本龍馬を通じて西郷とも面識のあった勝の登用は慶喜が官軍との和平交渉を視野に入れた、平和的な解決を真剣に模索していたことの表れかもしれません。もちろん本拠地の江戸で官軍を迎え撃てば確かに官軍を一時的に追い返すくらいの力はまだ慶喜方には残されていたでしょう。東国諸藩の多くが佐幕派で占められており、勝手知ったる江戸でならば西国での敗戦から立ち直ることは決して不可能ではなかったに違いありません。
当時官軍は海軍力に劣り、江戸湾は幕府海軍総裁であった榎本武揚率いる艦隊が睨みをきかせていました。実際、官軍の作戦の中心にいた村田蔵六(=大村益次郎)は江戸に入る頃、旧幕府側が一致団結して反撃に出れば官軍の敗戦もあり得るという一抹の不安を抱いていたと言います。
官軍側も敵の本拠地に乗り込む恐怖感をそれなりに抱えていたのです。さらに江戸城には皇女和宮がいるのでこれまでのような一気呵成の攻撃をするわけにはいきません。少なくともしばらくの間だけでも官軍とは互角に戦えるほどの潜在的な力を慶喜側は秘めていた・・・という見方は成り立つでしょうか。
1868年3月、東征軍は品川に到達します。3月15日(旧暦)を江戸城総攻撃の日と決し、慶喜側に圧力をかけました。とは言え西郷と勝とは敵味方に分かれながらも欧米の介入という最悪の事態を避けるために江戸を戦場とした内戦の長期化を阻止する方向で両者の考えは一致していたと思われます。
品川での歴史的会談は慶喜の隠居を条件に江戸城無血開城と決します。勝としては徳川家の存続さえ許されれば十分面目が立つとの判断だったのでしょう。徳川家だけではありません。勝が気にかけていたのは榎本武揚、西周、加藤弘之、大鳥圭介、江原鋳三郎といった若き俊英たちの将来でした。幕臣の中にも日本の近代化を牽引できるだけの進んだ考え方、知識を持っていた人々が大勢いたのです。既に坂本龍馬らを失っていた勝としてはこれ以上、日本の将来を担える優秀な若い人材を失いたくなかったのでしょう。彼らを生かす上でも内戦の拡大、長期化は避けるべきでした。
後年、勝は当時のことを回想して「あの戦は負けてやった戦だ」と言っていたようです。この発言をただの負け惜しみと見る向きもあるようですが、本当のところどうでしょう。多少の勝算があったとしても慶喜側がこの時点で降参しておく方が徳川家にとっても、また日本全体にとっても結果的には得策だったのではないでしょうか。
他方で勝は官軍の弱点を見抜いていたのでしょう。江戸城内に貯えられてきた資金と軍備は勝らの手によってあらかじめ旧幕臣達が脱走する際に少しずつ分け与えられていたようです。官軍が入城したとき江戸城内には既に見るべきものはほとんど無かったといいます。こうして勝は江戸城をあけ渡しながらも兵力と装備の多くを関東各地に分散させ、官軍との敵対を表明していた東北諸藩をバックに軍事的威圧感をちらつかせて官軍から最大限の妥協(徳川将軍家の大大名家としての存続…)を引きだそうとしていたとみられます。
4月の江戸城あけ渡しに反発した旧幕臣達はいくつかのグループに分かれて各地に潜伏し、反攻の機会を伺っていました。福田八郎右衛門ら撒兵隊(さっぺいたい)の幹部を中心とするグループは木更津の真里谷に陣取って徳川義軍府と称し、江戸奪還を狙います。
大鳥圭介らは土方歳三と組んで遊撃隊として北関東各地に出没し、官軍に抵抗します。榎本武揚は海軍を率いて江戸湾上に不気味な沈黙を続けていました。旗本達の一部はやがて彰義隊と称して上野に集結していきます。もしもこれに連動していくつかの藩が動いてくれれば江戸城開城後であってもなお官軍は「飛んで火に入る夏の虫」同然だったかもしれません。
江戸城無血開城が決定した後も、事態は決して双方にとって楽観できない不穏な空気が漂い続けていたようです。他方で勝海舟にとって頭痛の種となっていたのは福田ら旧幕府方強硬派の、無計画な暴発でした。勝は家臣の松波らを密かに動かし、血気盛んな近藤勇、大鳥圭介や福田らの不穏な動きを何とか鎮めて暴発を抑え込もうとします。
※ここまでの主な参考文献
「房総の幕末海防始末」(山形紘 崙書房 2003)
「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編 崙書房 2011)
「遺聞 市川・船橋戦争-若き日の江原素六-」(内田宜人 崙書房 1999)
「新撰組五兵衛新田始末」(増田光明 崙書房 2006)
「レンズが撮らえた幕末の日本」(岩下哲典・塚越俊志 山川出版 2011)
「世界を見た幕臣たち」(榎本秋 洋泉社 2017)