60.市原の戊辰戦争②
7日未明、曇り空の下、官軍(薩長中心に約200名)が号砲を合図に五所、金杉、白金から房総往還を一斉に南下した。五所から左に分かれた隊は十数軒の集落(「ふさのぞよめき」では君塚とされている)に入った。村人の多くはすでに避難していたが、風邪で寝込んでいた18歳と15歳の青年が「出て来い」の呼びかけに応じず、くるまった布団に数発の銃弾を打ち込まれ殺害されてしまった(怯えていたのに加えて薩摩言葉が聞き取れず、撃たれてしまったらしい)。
五井は継立て場(宿場町に相当)だったので道が町の入り口(波淵)と出口付近(龍善院近く)でS字状にクランクしている。北五井の名主中島甚吾左衛門宅は今の五井駅北側、千光寺近くにあった。若宮八幡はそこから東北東へ100mほど進んだ場所(「⛩」記号)にある。
本隊は房総往還を進み、左分隊は君塚を経て五井若宮八幡の裏手で合流した。波淵に集結した官軍は三隊に分かれて豪農中島甚五左衛門宅に置かれた義軍の本陣(現在の五井支所付近)に迫った。一隊は街道を突き進み、右に分かれた隊は本仲を通り、左は若宮八幡から岩野見道、蓙目(ござめ)道の出途(でど)を横切って進んだ。このとき、街道を進んでいた隊を生垣から覗いていた勘助(「カンカラカン」というあだ名のひょうきんでそそっかしい人物だったという)という農民が捕まり、間諜(スパイ)と疑われて処刑されてしまった。
攻撃隊は甚五左衛門の家に踏み込んだが義軍は完全に撤収した後であった。その後斥候の知らせで前原、権現堂方面に義軍(村上分隊の敗走兵)が出現したと聞き、120名が平田、島野方面と町田、柳原に差し向けられた。人気のない五井をくまなく索敵しながら官軍は三隊に分かれて南下した。
上宿の宿屋(日光屋)に逃げ込んだ義軍兵一人が抵抗する間もなく斬られた。下宿の龍善院の境内では逃げ遅れた三人の義軍兵が捕まったが、ここまではさほどの抵抗もなく、攻撃隊が大宮神社、新田の南端まで到達したのが8時半頃のこと。五所を発って一時間少々の快進撃であった。
※義軍の右翼分隊20人は7時から始まった五井での砲声を聞くと村上から岩野見を経由して五井の北
東側から官軍の背後をつく作戦に出たが官軍左翼と衝突し、君塚で二人が組み伏せられて首をはね
られてしまった。たちまち劣勢になった義軍は村上方面に引き返したが、そこでも官軍に遭遇し、
村上の北に広がる麦畑で二人、戦死し、残りは川を渡って逃げたという。
義軍第三大隊の総指揮官増田直八郎(旧幕府陸軍伝習所出身でフランス流兵学を身に付けた秀才であったという)は未明のうちから官軍の布陣を察知し、少しずつ五井の兵員を養老川対岸に渡らせて、出津の旧家桐谷八郎衛門宅に指揮所を移した。
午前七時、開戦を知らせる号砲が本陣の真上を通過して200mほど西の蓮田(現在のスーパーせんどう付近)に着弾した(後年、新田の中島氏が水田中からそれらしきものを偶然発見し、五井小学校に寄贈したという)のを知った増田は全軍に対して出津の渡船場から川を渡って出津、飯沼などに散開し、官軍を迎え撃つよう命令した。
多くの兵は渡河し、官軍に利用されぬよう、渡ったところで舟を打ち壊した。ところが新しく加わった義軍の一部を中心に30人ばかりが五井側根山の渡船場(旧南総病
院付近)に取り残されてしまった。
根山は右の地図で赤い「+」マークがついている付近。現在、病院は無く、住宅地になっている。かつての房総往還の渡船場に近い場所。左の迅速測図で川を横切るように細い点線が引かれているのが両岸の渡船場を結ぶ川船が行き来した航路で養老橋のやや下流にあった。
舟が無くなり渡河できなくなった彼らは下流の吹上方面に逃げるものや、首までつかって川を渡ろうとするものもいた(川幅は約120m)。が、多くは根山の松林に集結して抗戦することになった。官軍は大宮神社から水田の中の街道脇の用水路に身を隠し、銃撃しながらじりじりと根山に迫った。別の一隊は宮下から東に向かい、中瀬の渡しで右折して回り込み、根山を南から攻撃した。
根山の東には麦畑が広がっていた。本隊は200mにわたって散開し、麦畑を匍匐前進しながら徐々に包囲網を狭めた。交戦30分にして根山は官軍の手に落ちた。義軍の戦死者は17人、官軍は1人にとどまった。義軍本隊は友軍への誤射を避けるために十分な加勢はできぬまま、対岸から成り行きを見守るしかなかった。
根山の友軍が全滅したのを機に、義軍は川を挟んで銃撃したが官軍の火力がはるかに上回っていた(官軍の多くが使っていた1860年製のスペンサー銃は7連発式で旧式の単発銃とは比較にならない性能を備えていた)のに加え、玉前方面からも官軍の部隊(五所から金杉塩田の東側に沿って南下。玉前に舟で渡河し、出津方面に進撃)が攻撃してきたため、義軍は総崩れとなった(9時半頃)。
別働隊30人は満潮に乗じて漁船三艘を借り出し、海から養老川に漕ぎいれた。陸路を進んだ隊は塩田を回ったところで義軍30人と遭遇。彼らが戦わずして川を渡って岩崎、玉前方面に逃げるとこれを追い、吹上で舟に乗った別働隊と合流。
なおこの激戦中、麦畑に避難していた隠居(根山の街道脇に夫婦で茶屋を営んでいた)が様子を見ようと頭を上げた途端に流れ弾にあたって即死している。結局、五井戦争における住民の死者は4人にのぼった。劣勢のなか指揮官の増田は全軍に本部のある姉崎までの撤退を命じたが、指揮系統の乱れもあってもはや組織的な抵抗は覚束なくなっていた。
※出津の戦跡:旧養老橋を渡り右折して川下へ100mほど進んだ河川敷の柳の木の根もとにかつて戦
死者を葬った小さな墓石があった。現在は河川改修工事で往時の面影はなくなってしまったが、堤
防上の道路わきに2006年4月、戦跡を記した石柱が建てられている。また松ヶ島の養老神社近くの
出津共同墓地には徳川義軍の墓が二基(浅野蔵之・三澤惣左衛門)ある。出津の浜口某が7日、一家
を挙げて玉前の縁者宅に避難し、夕方帰宅すると家の前で二人が白鉢巻をしてうつぶせに倒れてい
た。家の中では一人が仏壇を前に畳を裏返して作法通りの切腹をしていた。その墓は浜口某が村人
とともにねんごろに彼らを埋葬し、冥福を祈ったものという。
左の写真には10数年前まで根山にあった南総病院が写っている。右が出津の戦跡碑。
義軍の撤退によって大宮神社方面から進んできた一隊は続々と川を渡り、追撃していった。出津の渡し場の榎の根元には4,5人の義軍兵が息絶えていたという。官軍は出津川端の農家を一軒一軒探索しながら姉崎に向かった。松ヶ島の南、判ヶ台(高さ5m余り、幅200m、長さ300mほどの松の木に覆われた砂丘で天神山とも)に陣取った20人ほどの義軍が松の根元に銃を構えて反撃を試みたがたちまち11人が戦死し、他は青柳方面に逃げた。また海岸では6人の義軍兵が舟に乗って逃げようとしていたが、降伏勧告に応じず、銃撃されて3人が海に転げ落ちた。
なお青柳では負傷して麦畑に隠れていた義軍兵が二人見つかり、処刑されている。後に村では死んだ義軍兵を共同墓地に葬り、彼らの標識木板に刻まれた名前を残している。今津朝山でも義軍三人が戦死する、小さな交戦があったが難なく官軍の手に落ちた。今津では瀬兵衛宅の納戸の仏壇の陰に隠れた一人の義軍兵が追ってきた官軍に仏壇の前面から槍で刺し貫かれ、殺されたという話が穴のあいた仏壇とともに残されている。
涼風庵は判ヶ台にあるので、おそらく青野氏はここで戦死したと思われる。
北青柳墓地内義軍墓
「市原を駆け抜けた戊辰戦争~戦いの跡をたずねて~」(佐野彪 2017 千代田印刷)によると青柳で戦死した義軍兵士で、内二人は麦畑で斬られ、残り二人は船で逃げようとして撃たれ、戦死したという。死者の所持金27両2分のうち、組合村維持費に16両余り充てたらしい(「組合村一同相助かり申し候」名主日記より)