58.明治中期の統計からみた市原郡
・「上総国町村誌(上巻)」(小沢治郎左衛門 明治22年=1889:名著出版による復刻本:昭和53年=1978)
※以下は上記の本のデータに基づきカッパが文章と表をまとめたもの。
この本が出版された明治22年(1889)は大規模な町村合併が進められた年でもあった。市原では172村がわずか1町20村に統合されている。たとえば五所金杉、山木、八幡とが合併し、八幡町とされて市原郡内で最初の町となった。元菊間藩士萩原昇吉が八幡初代の町長になっている。この結果、八幡町は戸数681軒、人口3436人に膨れ上がった。なお鶴牧(→姉崎)、鶴舞、五井はその2年後の明治24年にそれぞれ町となっている。
このとき統廃合の対象にされ、後に消えてしまう村が相当数にのぼっていた。もしかしたならそのことを期しての町村誌編纂だったかもしれない。残されたデータのなかで戸数や人口以外で特に興味を引くのが村ごとの牛馬の頭数や荷車、人力車、荷舟や漁船の数である。当時の村々の交通事情や生業のあり様がこれらのデータから垣間見えるだろう。
鉄道が開通したのは房総の場合、東京に近い割には遅かった。蘇我~姉ヶ崎間は明治45年(1912)のことである。したがって市原の交通事情は明治維新後しばらく江戸時代の面影を色濃く残していたと考えられる。南部、山間部ともなると海浜部に比べ、さらに10年以上遅れて鉄道が開通していた。
小湊鉄道開通は五井~里見間(25.7㎞)が大正14年(1925)、里見~月崎間(4.1㎞)が大正15年(1926)、月崎~中野間(9.3㎞)が昭和3年(1928)のことである。かつて中村ていさんが「潤井戸街道今昔」(「十年の歩み」市原市文化財研究会 昭和48年 p.23~25)で記したように市の内陸部は交通面ではほぼ大正時代まで近代化の恩恵を受けることがなかった。目新しい交通手段といえば人力車や乗合馬車(一頭だての幌馬車で10人乗り、大正末年で潤井戸から浜野まで50銭したという。昭和の初め頃、乗合自動車に取って代わられた。しかし昭和8年にはバスが開通し、乗合自動車も消えてしまったという)、人力鉄道などに限られていたことになる。
市原の多くの地域における交通事情は明治となってからも60年近く「御一新」といわれたほどの劇的変化を被らずにきたといえる。実際、昭和初期までは手漕ぎの船や帆掛け舟が海や川を往きかい、陸上では馬や牛が相変わらず運送の重要な手段であり続けていた。この資料はそうした房総の地域格差の大きい近代化のあり方を雄弁に物語っているのである。
なお牛馬や荷車、人力車、荷舟(五大力船や押し送り船)・漁船、川船の数がいちいち記録されているのはそれぞれに税金が賦課されていたからかもしれない。牛は海浜部ではほとんどみられないが、山間部に行くにつれて多くなる傾向が見られる。おそらくアップダウンの厳しい山間部の地域では昔から馬よりも力のある牛が重宝され、農耕や運送用に数多く使役されていたのだろう。
以下、参考までにデータを表にまとめてみた。データは小沢氏の資料に基づくが、明治22年(1889)当時の村のなかにはその後の統廃合によって現在の字地名の領域とは異なるものがあるだろう。また現在の市域からはずれる地域が含まれている(板倉や椎津の一部等)かもしれない。したがってこのデータをそっくりそのまま市原のデータとして当てはめることはできない。あくまで概算のデータであり、明治時代中頃の市原の概要をつかむための一参考資料に過ぎない点はご勘弁願いたい。
川船の数が思ったほど多くない。おそらく明治以降、東京を中心に燃料として石炭の需要が高まる一方、房総の薪炭はかつてほど必要とされなくなったことが一因であろう。江戸時代までは薪炭を満載して山間部から養老川を下ってきた川船が数多くあったはずである。しかし明治以降、薪炭の需要の低下が川船の活躍の場を徐々に奪いつつあったのではないか。
廃仏毀釈運動のほとぼりが冷めた明治中期以降になっても少なからぬ数の寺院が次々と廃絶していったことが分かる(63か寺)。この表に記載されている寺院は現在、存在しておらず、特に内陸部の天台宗寺院は相当数が姿を消してしまっている。その原因として南部農村地帯は「山仕事」の減少に伴い、比較的早くから過疎化が進行していたこと、寺請制度の撤廃などによって公議による保護を失った寺院の一部が成立基盤を失い、次第に衰退していったこと等が考えられよう。
なお「市原のあゆみ」(昭和48年)によると大正元年の調査では市原郡内の牛は1896頭、馬が2781頭、豚が558頭、鶏は93587羽。市原郡内の車両に関しては下表のデータが存在する。いずれも市原郡内のデータであり、当然市域の広い上記のデータよりも少ない数字になる。ただし牛の頭数が「上総国町村誌」ではあまりにも少なすぎる。馬は軍馬の調達という国家的な目的に沿って厳密に把握されたのかもしれないが、牛への関心は馬に比べて低かったようである。
市原郡内の車両数の変遷(1906~1913)
|
明治39年 |
大正2年 |
概要 |
乗用馬車 |
6 |
3 |
明治43年が9で最大 |
荷積み馬車 |
127 |
― |
大正元年が237で最大 |
人力車 |
199 |
113 |
激減 |
荷積み車 |
2441 |
2433 |
変化に乏しい |
自転車 |
47 |
384 |
激増はしているが希少 |