その5.④ゆとり教育と免許更新制

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。 

 

 もう一つ私の手元には学校教育の行く末を暗示することになる本がある。「動き始めた教育改革」(主婦の友社1997)という題名でかの寺脇研氏(1952~)が書いた本である。寺脇氏は文部省の官僚時代(1990年代の後半から10年間ほど)にゆとり教育の広報を担った、生涯教育とゆとり教育推進者の一人であった。この本では実に広く浅く教育についての所見を誰にも分かりやすく述べていて、法学部出身であったにも関わらず、文部省入省後、瞬く間に学校教育について世間に堂々と語れるほどの知識を彼はいつの間にか獲得していたようである。

 ただし少しでも欧米の教育事情に通じている人ならば彼の見識の底の浅さをたちまち見抜けるだろう。彼が推奨する生涯教育、リカレント教育などはとっくの昔から言われてきたものであり、彼の提唱するものに目新しさなぞは一切、見られない。むしろ彼がいかに学校現場を知らないか、いかに学校教育に関して限られた経験しか持っていないか、いかに輸入物に過ぎない机上の空論を自慢げに吹聴しているのか、はバレバレである。

 この本の137ページには「小・中学校は義務教育の本筋に帰れ」と題して中学校や高校が上級学校進学に向けての塾のようになっていると上から目線で一方的に学校現場を批判している。しかし歴史的経緯からすれば教職員の反対を押し切って全国共通テストを強行し、学校間の学力競争を煽ってきたのは一体どこのどなただったのだろう。教育行政に携わる者がまさか学校の果たしてきた「選別・配分・社会化」といった社会的機能を知らないわけではあるまい。学歴社会、学校歴社会が成立した責任は学校にのみあるのではなく、社会全体の問題であることは自明の理である。それにも関わらず、学校教師の取り組みばかりに原因をなすりつけ、保護者に擦り寄るようにして一方的に学校改革、教師改革を迫るこの言い草には呆れてものが言えなくなる。

 受験の過熱は企業の人材選抜のあり方に問題の根本があるのであり、学校だけが受験戦争を煽ったわけでもない。ところが「教師は自分が大卒だから生徒達も大学に進学することがベストだと勘違いしている」などと当時の教師批判の風潮に便乗して過熱していた受験をあたかも全面的に学校や教師の責任であるかのような言い方で責任転嫁している。教育行政の上層部に位置する人物が学校教育や学歴社会成立の経緯を知ること無く、学校現場への共感的理解の欠片すら持ち合わせていないのだから、この本を読了した教師には徒労感と絶望しか残るまい。

 従って教師としてはさすが東大出の秀才・・・と感心している場合ではなかった。特に彼が提唱していた「ゆとり教育」が学校現場にもたらした悪影響は21世紀に入ると他の改革(特色ある学校づくり、教師改革・・・)と相俟って、ごく僅かな期間で破滅的といって良いほどの破壊力を学校現場に及ぼしていくことになったのである。

 では「ゆとり教育」が孕んでいた本質的問題はどこにあったのだろうか。かつてよく言われていたような、「ゆとり教育が日本の児童生徒の学力低下を招いてしまった」などということでは決してない、と私は考えている。確かにそうした側面もあるにはあったのだろうが、もっと重大な問題があると私は考える。それはゆとり教育導入のために実施された様々な新しい試み(総合的学習の時間、職場体験、生活科などの導入・・・)が学校現場の混乱と疲弊を招き、改革の美名の下、教師達から最も大切な時間的、体力的、精神的ゆとりを奪い取ってしまったということ。結果的に学校が辛うじて保ってきたはずの現実対応力を劇的に低下させてしまったことの方がはるかに責任重大であったと感じている。

 確かに学習内容の削減は多少、児童生徒の負担軽減に繋がったかもしれないが、教師の負担は決して減じていない。むしろ土曜日が休日になった(2002年から完全実施)ことでやがて「定額働かせ放題」と揶揄されることとなった教師の部活指導は一層、過熱し過酷な負担となっていった。授業時数が減った分、部活指導の時間が増えただけ・・・「教師のゆとりを奪うゆとり教育」では完全に本末転倒であろう。

 部活動の過熱化は次第に授業よりも部活動を優先する傾向を一部の教師や生徒、さらには保護者の間にまで生み出してしまったのではないのか。高校入試の部活推薦枠に見られる不公正さが一層、学校教育の矛盾を拡大していったのもこの頃ではなかったか。むしろ土曜日の半日を授業で費やすかつての日程の方がまだ有意義であり、教師の負担も小さかったのではないのか。

 加えて総合的学習の時間(→総合的探究の時間)を週に一回行うことで多くの教師は1単位分の新科目を背負うことになってしまった。特にインターンシップ(職場体験)は児童生徒を預かる事業所への迷惑をかけることにも繋がり、担当教師の精神的な疲弊を強めてしまった。彼が自画自賛する生活科の導入もいたずらに小学校の混乱を招いたに過ぎないのでは・・・

 この頃から私の読書する時間が劇的に削られていったのは間違いない。複数の科目負担が当たり前になり、進路指導や生徒指導、部活指導、授業準備に追われることが常態化してしまったのである。従って授業準備に直接繋がらない学習に時間を割くことがほぼ出来なくなった。先にも触れたが大学卒業後も必死に取り組んできた学校教育に関する読書を私はこの20年近く、ほとんどしていない。教師であるにもかかわらず学校教育について学習する機会を根こそぎ奪われていくという、教師としては悲しいまでに致命的な現象が学校現場では皮肉にも「ゆとり教育」という「教育改革」の掛け声の下、一気に進んでいたのだ。

 この現象は私だけではあるまい。たとえば直近の10年間で学校教育に関する言説によって学校現場に大きな影響を及ぼすことの出来た現役教師がもしもいるのならばその名前を是非挙げてほしい。せいぜい「百ます計算」のメソッドで知られる隂山英男(1958~:岡山県の小学校教師を経て立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長)氏くらいのものではなかったか。しかし隂山氏はたちまち管理職へご栄転し、大学へと活動の舞台を変えてしまった。しかも隂山メソッドに関しては教育技術法則化運動と同様に基本的には技術論であり、内容論は等閑視されてしまっていて高校社会科教師の関心を惹くものではなかった。教育内容が厳しめに限定されている義務教育では役立つだろうが、高校、それも教師の判断による授業内容の選定が鍵を握る社会科ではほとんど参考にできるものはないと私は考えている。従ってブログでの発信を除いてしまうと、不勉強ながら私はフルタイムで働く現職教師の有力な発信者を一人も思い浮かべることができないのだ。

 安価で雇える非正規教員の急激な増加もまた学校全体の力を奪ってきている。各種講師に加えて退職後の教師を再任用で65歳まで雇用することで給与の額をほぼ半減させながら教師不足の解消を図ろうとする安易極まりない手抜きの人事政策の弊害は極めて大きい。いわゆる「老害」の問題だけではなく、短期間で学校を異動する教員を増やした事で失われがちとなった現場での活力をどう取り戻し、共通理解をどう確立するのか、その方途がまったく見えてこない。ただでさえ高齢化していた正規教員の数をこの安易な人事政策によって結果的に削減してしまった事は学校現場に取り返しの付かない程の混乱と疲弊を招きつつあるはずだ。

 加えて学校現場での予算措置や人員の補充をサボりつつ、障害のある児童生徒を普通学校の授業に参加させる「インクルーシブ」教育を強行する文科省の強引な姿勢が現場の疲弊を一層、募らせるだけなのは火を見るよりも明かである。予算と人事を抜きにしてきれい事を現場に押しつけるだけ・・・こんな杜撰な教育行政では「やり甲斐搾取」と批判されても何ら不思議ではないだろう。

 ※参考記事

  〇「子どもたちのためなら常識にとらわれない」狛江第三小学校が挑むインクルーシブへの道 学校

   に行きたいけど行けない子どもたち3 

   現代ビジネス 太田 美由紀 によるストーリー  2023.7.8

   この取り組みで笑っていられるのは教育長や管理職、そして管理職を目指す一部の教師に過ぎな

   い、と疑ってしまうのは私だけであろうか。おそらくこの取り組みのために下々が作成しなけれ

   ばならなかった文書の量は膨大であり、教育委員会への報告書の類だけで誰か一人は過労死する

   レベルの量になっているだろう。私が預かった障がい者の記録は副担が記したものだけでわずか

   半年の間に段ボール箱の半分にも達していた。

    当然、インクルーシブ教育導入のためにこの学校で実施された数々の研修は多くの教師たちの

   時間と労力を奪うことで辛うじて成り立っていたはず。この記事ではそうした闇の部分は語られ

   ず、笑顔の管理職と特別支援学級の先生が登場するだけ。どう見てもこの記事、上滑り気味でし

   かもきれいごと過ぎる。表面的なきれいごとほど質の悪いものはない。

    本来、障がい者や不登校児童を受け入れる普通学級の担任こそが一番の苦労を背負わされる主

   役であるはず。しかし肝心の教師たちは縁の下に隠れていて当然、本音は言えず、素の姿を見せ

   ることがほとんどない。この小学校がリーダーシップのある優れた校長の尽力によって実際に教

   師の事務仕事などが激減し、本当にすべての教師たちがゆとりをもって笑顔でいられる学校なら

   ばインクルーシブ教育の導入があったとしても別段、文句は出ないかもしれない。だが私が抱く

   学校のイメ ージではそんなことはありえない。

    もしかすると校長は配下の教師たちの疲弊ぶりをよそに、自分がより良い再就職先にありつく

   上での手柄作り、点数稼ぎのために話し合いの場を設けることなくほぼ独断でインクルーシブ教

   育の研究指定校に名乗りを上げたかもしれない。少なくとも私が経験した千葉県では凡そそんな

   具合であった。表面的な取材できれいごとばかり並べ、教師の仕事を増やすだけの報道は学校に

   とって百害あって一利無しであると思うが、いかがか。

 〇中学校で“雨漏り”“ボロボロの壁” 市役所のトイレが 使用不可 130㎏のコンクリート片が落下す

  る事故も深刻な老朽化問題【埼玉県久喜市】

  FNNプライムオンライン によるストーリー 2023.7.6

  児童生徒の安心安全が最優先されるべき学校がこのザマである。子ども家庭庁の設置と異次元の少

  子化対策とは何であったのか…威勢の良い花火を立て続けに打ち上げてきた政府の本当の思惑は国

  民の目を宙に逸らさせ、足元を見えなくすることだったのかも。

 〇教員不足「悪化した」教育委員会の4割超…一部地域で「専門的指導が十分行えない懸念」

  読売新聞 によるストーリー 2023.6.20

 〇【後編】「子供より早く、ドンドン先生が消えていく…」現役教師が絶句。文科省の「どうしてそ

  っちへ?」的、無策すぎる迷走 FORZA STYLE 2023.6.12

 〇みんなが休んだら回らない…深刻な教員不足、代替見つからず現場疲弊

  毎日新聞 によるストーリー 2023.7.30

 ◎仕事が続けられない!子育て中教員の悲痛な叫び 「給特法改正」より配置や仕組みを変えてほしい

  東洋経済オンライン 石田 勝紀 によるストーリー 2023.6.27

  部活動にはあまり触れられていないが、その他の問題に関してはほぼ網羅されているであろう。学

  校教師の疲弊ぶりを整理して理解する上でとても役立つ記事。

 ○子供も親も知らない「卒業式にいない先生」の正体~担任、部活顧問も担う「非正規教員」の実態~

  佐藤明彦 : 教育ジャーナリスト  2022/06/15 5:20 東洋経済オンライン

 ○「文科省が公表しない「教師の非正規率」増の衝撃、20%を超える勢いで上昇

  2022. 6/16(木) 5:01 東洋経済オンライン

 ○学校だよりで募集をかける「教師不足」の深刻度~教師不足で過労の「ドミノ倒し」が起こる 

  佐藤明彦 : 教育ジャーナリスト  2022/06/18 6: 東洋経済オンライン

 ○約2割の小中学校で教員不足の可能性、「社会人採用」は切り札にならない訳 学級担任決まらない、一

  部の授業できない例も 2022/06/23 妹尾昌俊 東洋経済オンライン

 ○先生はスーパーマンじゃない。――なぜ、学校はすごく忙しくなったのか?

  妹尾昌俊 YAHOO!JAPANニュース 2022.7/30(土) 16:56

 〇 “スーパーマン教員”はいない 複雑化した小中学校の仕事をこなせるか? 学校の過酷な環境 

  AERA dot. 2023.6.26

 ・公立小中学校教員の疲弊 深刻化 信濃毎日新聞デジタル 2022/08/18 21:03

 ○インクルーシブ教育推進と反論 文科省、支援学級通知で

  共同通信社 2022/11/04 19:28

 ○日本とデンマーク「似て非なる」インクルーシブ教育、共に学ぶことの真の価値「分離された特別支援

  教育」は何が問題か 執筆:こたえのない学校 代表理事 藤原さと

  東洋経済education × ICT編集部 2022/11/07

 ○学校施設のバリアフリー化…トイレ70.4%、エレベーター29.0%

  リシード 2022.12.28

  十分な施設も無い、人員も圧倒的に不足する中でインクルーシブ教育という美名のために普通科の

  教師が車椅子や生徒を抱えて階段を上り下りし、さらには通学途中、突然歩行できなくなった生徒

  のために幾度も駅まで出迎えに行き、生徒を背負って帰ってくる…そんな担任がいた。

   時と場合によっては命の危険があるため、常時マンツーマンの対応が不可欠な生徒を抱えた担任

  は副担任と共にクラスの他の生徒達をほぼ放置して修学旅行、遠足、球技大会などをこなす。当

  然、自分の授業が無い時には週6~8時限程度、一人の生徒につきっきりで同伴しつつ、週16~18

  時限の授業もこなしている。それでも割り当てられた自習監督や分掌の仕事は引き受けざるを得な

  い。

   授業中、泣き叫んでリスカを試み、教室を血まみれにした挙げ句に窓から飛び降りようとする生

  徒を必死で制止し、授業を中断。結局、自殺予防のためにその都度、担任が現場に呼ばれ、最後は

  責任を持って担任が家まで送ることになる。

   以上は特別支援学校での出来事ではなく、とある定時制普通科高校で私自身が目撃した事、ある

  いは自ら体験した事である。文科省や教育委員会はきれい事を並べる前に、設備や人員の配置を見

  直すなど、障がい者の受け入れを可能とする条件整備にまずは着手すべきであった。バリアフリー

  やインクルーシブ教育が進まないのは学校現場、とりわけ教師の無理解や怠惰によるもの、とされ

  てしまうのであればそれは現場で悪戦苦闘する教師にとってあまりにも酷すぎる仕打ちである。

 ◎都内公立小の教員不足が拡大、夏休み明け130人欠員…ハローワークに求人出す区教委も

  読売新聞オンライン 2022/11/22 05:00

 ◎教員を確保できない「未配置」問題が深刻化 担任不在で「自習状態」「2人体制」も

  gooニュース 2022/11/24 08:00 ※AERA 2022年11月28日号より抜粋

  小学校教師の不足が夏休み明けに深刻化するのは、産休、育休や結婚による退職が目立つ女性教師

  の比較的多い小学校特有の現象であろう。しかし求人をハローワークに依存する区教委まで出てき

  た事に愕然とする。特に千葉県の小学校における惨状ぶりには目を覆うばかりである。比較的、男

  女の格差が小さいと言われ、かつては高学歴女子の有力就職先であった学校ですら、最早若い女性

  からは魅力の無い職場となってきた・・・この事の重大さを政治家や官僚は十分、認識できている

  とは思えない。中学校の部活動を地域に移行する措置は小学校の労働条件の改善にはまったく繋が

  っていないのに、それがあたかも義務教育全体の負担軽減に繋がっているとの勘違いと油断が教育

  行政に広がっていたとしたら、その識見の低さに唖然とするほかあるまい。なお自民党は遅ればせ

  ながら教育現場の人材確保へ特命委員会を立ち上げ、教員の処遇改善を検討するとのこと

 (2022/11/16)だが、これまでの政策への反省が微塵も見られず、少子化対策と同様、そもそもが

  すべて完全に手遅れなのである。したがってどう見ても「泥縄式」の取り組みに終わる可能性が高

  いだろう。

 ◎教員「未配置」問題なぜ起きた? 専門家「正規教員の採用数を抑えた政策的要因」 

  AERAdot.深澤友紀 2022.11.26

 ○「心の病」休職の教員、約2割が退職に 多忙で産業医面談拒否も

  毎日新聞 2022.12.26

 〇内田樹「間違った教育行政には『それは違う』と立ち上がる勇気が必要」

  AERA dot. 2023.4.12

 〇「定額働かせ放題」教員のブラックな現状。就活生からも「学校は“沈みかけた船”」と見放されて

  深刻ななり手不足…学校教育の危機に、どうする文科省!? 集英社オンライン 2023.6.6

 〇精神疾患により離職した教員 公立の幼小中高校で過去最多の「995人」 文科省調査

  TBS NEWS DIG_Microsoft によるストーリー 2023.7.28

  2022年度における教員の精神疾患による離職者数、および転職による離職者数が過去最高を記録し

  たという事実の重みをおそらく政府や官僚はきちんと受け止めることが出来ないだろう。結局は教

  員の不足を補うためにペーパーティーチャーの雇用促進や教員免許の無い人材の登用、教員採用試

  験の日程調整等による青田買いといった逆効果を招きかねない弥縫策を続けるしか能は無いのだ。

  すなわちこうした教職の安売り、大バーゲンセールは教職の価値をさらに暴落させ、若者の教職離

  れを一層、加速させかねないだろう。

 

 おそらく現役の学校教師としてほぼ最後の発信者は「現場から見た教育改革」(ちくま親書002)や「学校解体新書~世紀末ノ教育現場カラノ報告」TBSブリタニカ 1999)の著者永山彦三郎(1960~:栃木県の小中学校教師を歴任)氏ではないかと思うが、いかがだろう。その永山氏もちょうど私が学校関係の読書を完全に諦めた頃と重なる2002年の著書が最後になっている。

 なおベストセラーにもなった「残念な教員~学校教育の失敗学~」(光文社親書 2015)で知られる林純次(1975~)氏はジャーナリストから教師に転身した変わり種の人物であるが、当時の勤務校が中高一貫校であり、普通の学校教師が直面している過酷な状況にはあまり通じていないと私は考えた。彼が言うところの「残念な教員」がなぜ生み出されるのか、教師はなぜ学ばなくなったのか・・・それは教師の資質や学校の風土だけに由来するのか、この本に対する疑問点は数多い。そもそも技術論ばかりを言いつのり、学校のブラック化への視点が基本的に欠けている点で私はこの本をあまり評価していなかった。教師個々人の問題を超えた構造的領域への目配りが足りないように思えたのだ。

※参考記事

 ○ヒーローが現れるのを待つな――スーパー校長ばかりに期待してはいけない

  YAHOO!JAPAN ニュース 妹尾昌俊 2022.7.31. 10:06

 

 ただし林氏は2022年に出版された「学校では学力が伸びない本当の理由」(光文社親書)で学校のブラック化を指摘し、教育行政の欠陥に対して多角的な観点から的確な批判を加えている。今、読むならばこちらの本だろう。

 とは言え、近年、推薦入試やAO入試が増えてきた事に対して「・・・暗記は退屈で辛く、苦手とする学生は多い。受験を回避する、あるいは楽な方式の受験方法を選択するということは、この辛さから逃避していると言っても過言ではない。これを俯瞰すると、知識の保持という部分を抜きにして、「意見を言う」「権利を主張する」という状況が蔓延しつつあると受け止めることもできる。傲慢と言わざるを得まい。というのも、意見や主張は「評価」の段階でやっと行えることだからだ。きちんと情報を吸収し、理解した上で、それらを用いたり分析したりする。・・・そうでなくては、世の中に根拠のない言説が溢れかえる。だからこそ、学びの基礎である、「暗記」を求める受験制度は維持しなくてはならない。」(P.168より引用)という主張には社会科教師として強い違和感を覚えてしまう。

 もちろん社会科でも暗記すべき事や理解すべき事は盛り沢山ある。しかし林氏が主張するように「きちんと情報を吸収し、理解した上」でなければ意見を言ってはならない・・・という主張に関しては大いに疑問である。社会科の主題に関わる判断の基礎となり得る情報はフェイク情報を含めて山ほどあり、理解すべき事も数多い。しかも時代の急速な移り変わりの中で身につけるべき知識や技術が次々と変化し、折角身につけた情報もたちまち陳腐化しかねない現状があろう。それなりに自信が持てるような意見を言えるに至るまでの情報収集自体が今やそもそも際限の無い作業となりつつあるのだ。流動性を急速に高めている情報化社会においてはもはや誰であっても社会全体に対して確固たる自分の意見を言える日は未来永劫、訪れないのかもしれない。

 しかし、だからといって私達や生徒達に意見がない、自分の意見が言えない、意見を言ってはならない、というわけではあるまい。むしろ自分達の限られた知識や経験の中でも自分なりの意見を持ち、上手に自己主張出来るようにする工夫が現在の授業には求められていると考える。当然、その意見は判断基準となる情報量が限定されているゆえにあくまでも意見形成の途中経過報告のようなものに過ぎないという自覚、謙虚さはしっかりと持っておくべきだろう。そしてその自覚さえ持っていれば、自分の意見や特定の考えに執着することの愚かさに気付くことは出来るだろうし、その気付きの経験をすること自体が重要な教育目的にもなるだろう。

 まず大切なのは情報過多とも言えるような現今の状況においても私たちがあるタイミングまでに一定の決断を迫られている、という現実社会への理解である。進路決定一つとってもこの情報化社会の中では情報量があまりにも膨大すぎてすべての必要資料に目を通すことは最早不可能となっている。しかし一定の時期が来れば私たちは知識不足による不安を抱えたままでもどれかを選び、決断しなければならない。むしろこのジレンマに私たちはどう上手に対処すべきなのかが問われているのだ。言い換えれば不十分な知識と限られた時間の中で少しでも的確な判断ができ、それなりに納得感のある選択ができる現実的で実践的な力の養成こそが今の学校教育、とりわけ社会科教育では必要とされてきているのではあるまいか・・・とすれば不十分な知識でも的確な判断に少しでも近づけられる方法論こそが大切となる。たとえば討論や意見表明の機会を増やすことで多様な意見、自分とは異なる意見の背景を知り、自分の意見と他人の意見とを悪戦苦闘しながら妥当と思われる方向へと自分と皆の意見を擦り合わせていく経験の積み重ねは今後、一層重視されるだろう。

 最初は青臭い意見や議論でも良いから生徒達にどんどん意見を出して貰い、どの意見が一番、納得できそうか、情報収集を重ねてみんなで詰めていく丁寧な議論の進め方こそが必要となると思うがいかがだろう。時間をかけて他者から多様な意見を引き出す中で自分が納得できる意見に辿り着く努力を重ねることは精神衛生上、最も大切とされるメタ認知力を高めることにも繋がるはずである。少なくとも無味乾燥した暗記学習の連続で生徒達を忙殺し、生徒達の自己表現欲求をも圧殺するだけの授業には終始したくない。ひたすら受け身にさせて各自の意見を封じ込め、教師からの一方通行に終始しがちな旧式の一斉講義形式中心の授業を温存させてしまうことだけは絶対に避けるべきだと私は考えている。

※参考記事

 ○【フランスの高校生が学ぶ】自信を持つためのシンプルな方法 

  DIAMOND online シャルル・ペパン,児島修 2022/08/10 06:00

 

 話を元に戻そう。今、ネット上で学校教育について盛んに発言しているのは学者や評論家、芸能人や元教師達ばかりである。なかには妹尾昌俊氏のように教師の経歴がないにも関わらず、学校現場の実情をしっかりと踏まえた有益な発言を活発に行ってくれている方もいらっしゃる。今は妹尾氏のような方の発信に学校現場は全面的に頼らざるを得ないのが実情であろう。

 最早、著作やマスコミを通じて学校について活発に発言している教師経験者は民間出身の校長だった藤原和博氏や元麹町中学校長の工藤勇一氏、元中学校教師の「尾木ママ」こと尾木直樹氏、「夜回り先生」こと元定時制高校教師の水谷修氏、元小学校教師の岡崎勝氏ら、ごく僅かな数に限られる。少なくともフルタイムの現職教師のまま学校現場の生の声を発信し続けている人は前述の林氏以外、ほとんど見当たらなくなったと感じる。

 すなわち2020年代に入り、長らく「教育改革」という名で推し進められてきた学校のブラック化は教師から学習時間を奪い、世間に向けて教師の生の声を発信するだけのエネルギーを多くの教師から奪い去ってしまった。学校教育に関して現役教師が現場の実態を踏まえて盛んにアピールしてきた時代はとうの昔に終わりを告げてしまったのだ。そして教師から生の発信が途絶えつつあるという現状は、学校の実態、内実が世間からすればほぼ完全な「ブラックボックス」と化しつつあることを意味するだろう。世間の死角の中に閉じ込められた教師達は世間から温かい理解の手を差し伸べられることもなくなり、学校不信、教師不信の声ばかりが響き渡る中で孤立の度合いを強めている。最早、「先生、死ぬかも」とSNSを通じ、辛うじて小さな悲鳴をあげることしか出来ない・・・人知れず、そんな瀬戸際まで今の教師達は追い詰められていたのではあるまいか・・・違うだろうか。

 もう一つ、学校教師をさらに疲弊させたのは教師改革の動きであったと考える。衆議院文部科学委員長などを歴任している「ヤンキー先生」こと義家弘介(1971~)氏は、「S・I」の事例として取り上げられた北星学園余市高校出身で同校の教師を務めていたことで有名である。彼はその後、教職を辞し、やがて安倍政権のもとで教育再生会議の中心的役割を果たしている。教師在任中、熱血指導で知られた彼は熱血体育会系路線を忠実に継承する立場だと思われるが、彼が学校改革の中心にいたことが学校現場のブラック化に拍車をかける結果を招いたことは最早疑いようもないだろう。つまりすべての教師に熱血指導を求めかねないような人物が教育政策を動かしたことで、過労死しかねないレベルまで教師達は追い込まれてしまったのではあるまいか。

 義家氏らによって現場の教師達が受けた被害の最たるものはかの悪名高い教員免許の更新制度(2009年から導入)であろう。例の「ゆとり教育」後の学力低下が指摘されたとき、主たる責任を負うべきは「ゆとり教育」を画策した政治家や文科省であったにも関わらず、すべての責任は「トカゲの尻尾切り」の如く、末端の教師に押しつけられた。児童生徒の学力低下はもっぱら教師達の指導力の低下が原因だと見なされたわけである。義家氏はちょうどこの時、「不適格教員の排除」を主目的に教員免許の更新制度を計画(2007年)していた張本人である。

 この制度では免許状更新講習の時間が30時間以上と定められていた。30時間もの講習は多くの場合、あくまでも教師が自らの休日を返上して受講したものである。講習の内容や質には凄まじい格差があり、不平等であったのに、講習を受けなかった者の免許は一律無効とされた。それほど脅迫的なものであるのなら、せめて講習の質ぐらいはきちんと国家によって保証されていてしかるべきであり、教師が休日返上してでも、かつ有料であっても受けたくなるほどに良質の講習でなければなるまい。

 文科省は2009年に更新制度がスタートする際、講習の目的を姑息にも「不適格教員の排除」から「教員の能力の向上」へと切り替えた。しかし2021年4月~5月に文科省が現職教員約2100人を対象にアンケートを行った結果、更新講習の内容について「教育現場で役立っている」は3割に対し、「役立っていない」は4割近くに上っている。理由として、5割以上が「現実と乖離があり、実践的ではない」を挙げたように、講習の質は総じて低かったと言えるだろう。

 しかしこれは必ずしも研修を行う講師の質の問題ではあるまい。そもそも幼稚園教諭から高校教師まで学校種別が異なる大集団相手に一斉講義形式の古臭い授業方法を用いて、しかも授業のベテラン相手に大喜びされるほどの授業が出来る、そんな大学講師がこの世にいるとは思えない。講習の最後に実施される試験の結果次第で教員免許の無効化をちらつかせるなど、いたずらに高圧的な姿勢のくせに講習の制度設計があまりにも杜撰であり、幼稚すぎるし、研修の発想そのものが根本的に間違っているのだ。

 しかも講習を受ける時間は多くの場合、勤務時間外(土日)であり、当然、残業手当や休日手当、出張旅費はもとより支給されない。さらに受講費用のうち3万円が教師の自己負担とされるなど、ほとんど一方的に教師の休日と金銭が収奪されてしまうという、史上稀に見る犯罪的制度であった。ただでさえ過労死レベルの負担にあえいでいる教師にとってこの制度は教育への意欲、やり甲斐まで根こそぎ奪いかねない、まさに噴飯物の悪政と断じても言い過ぎではない。

「教員免許更新制を問う」(今津孝次郎 岩波ブックレット 2009)及び以下の記

 事参照

 ◎主体性のある子どもを育てたいと言いながら、教員と自治体の主体性は無視する

  文科省と国会 妹尾昌俊教育研究家、学校・行政向けアドバイザー 

  YAHOO!ニュース JAPAN 2022 4/30(土) 18:29

 ◎迷走する教員政策:研修履歴の管理で事態はよくなるのか?妹尾昌俊教育研究

  家、学校・行政向けアドバイザー 

  YAHOO!ニュース JAPAN 2022 4/7(木) 11:42

 ○教員免許更新制の廃止で教員の負担は軽減されるのか? 質は担保されるのか?

  TOKYO MX+ 2022/06/01 06:50

 

 確かに問題教師への対応は必要であるが、この制度はなぜかほぼ教師全員を対象としたものであり、学力低下問題の責任などを一方的に教師全員に押しつけたものであった。その挙げ句に教師全員をあたかも問題教師か罪人であるかのようにして一律罰するかのような、嫌がらせじみた幼稚な研修強要制度であった。我々教師からすればこうした愚かな制度を導入した不適格官僚や不適格議員への研修や処分の方が真っ先に優先して行なわれるべきだと思うが、いかがだろう。

 ブラック化した学校の中ではたとえそれが内容的に素晴らしい研修だったとしてもまともな教師ほど研修を受けようとは思わないだろう。自分が研修に出ている間、同僚や生徒達に及ぼす負担、迷惑を考えれば研修を受けないで済ませようとするのがよほど正常な判断である。ところが政府も文科省も、学校での問題はすべて教師の責任であるとの前提で教師への研修を以前からむやみやたらと増やしてきた。役立ちそうもない研修の多さも間違いなく学校のブラック化を加速させていた一因である。したがってくどいほど繰り返される無意味な研修は教師の指導力を向上させるどころか、むしろストレスを高め、教師間の分断と対立を招き、かえって教師の不祥事と精神疾患を多発させてしまっているのではないだろうか。

 教員免許更新制度は現在、ようやく廃止されるに至ったが、何とその代わりに性懲りも無く新たな研修の導入が検討されているそうだ。自己研修の機会を奪われる一方で執拗に悪者扱いをされる・・・教師の意欲はさらに低下することは明かである。研修を受けるべきは一体、どこのどなたなのだろう。

※参考記事

・生徒が悩みを抱えていても「厄介なことに首を突っ込まないでくれ」 現場から悲痛

 な声があがる“教員不足のリアル” 吉川 ばんび 

 2022/08/22 06:10 文春オンライン

・不登校対談・短期連載① 前川喜平×おおたとしまさ「不登校者数・過去最多」

 の“元凶”は何か おおたとしまさ 2022.11.1

・過去最高の24万人! 激増する不登校児画一的に人材を育てる昭和教育に未だ目を

 つぶる学校の怠慢「ギフテッドの3割は不登校傾向」

 集英社オンライン 2023.6.14

・公立校、1年以内に辞める教諭じわり増加 目立つ精神疾患での退職

 朝日新聞社 によるストーリー 2023.6.20

 

 こんなことすら分からないお役人達ならば罰として学校現場での長期研修を強制的に受けさせるべきではないか。たとえば文科省の役人には年間最低でも30時間、公立の中学校か高校の教育困難校などに赴任させ、一介の教師に身をやつして自分たちの教育行政の成果を教育現場で直接ご自分の目でご確認、ご検証していただこうではないか。さらに学校が直面している問題についての研修を学校教師達から繰り返し受けることを義務化してみてはいかがだろう。教育に携わるお役人としてこの程度の研修は毎年受けておくのが筋だろう。そもそもつまみ食いのように先進的な取り組みを行っている恵まれた僅かな学校現場ばかりを視察するだけで、課題山積の教育困難校には一度も顔を出したことのない人間が上から目線の物知り顔で学校現場に一方的に指図するのはどう見ても失礼な話である。私が提案する官僚達の研修制度が実現すればきっと多くの教師達は舌なめずりし、手ぐすね引いて彼らの来校を待ち受けてくれるだろう。少なくとも教師がこれまで受けさせられてきたお粗末な官製研修よりも教師による実地研修の方がはるかに高品質で実践的であり、間違いなく過酷ではあろうが、すぐにでも役立つに違いないのだ。

※参考記事

 ・「頑張れど埋められない格差」不登校児から“文部科学省職員”へ転身した元教員

  の魂の叫び 

  週刊女性PRIME [シュージョプライム] によるストーリー 2023.7.15

  文科省にこうした経歴を持つ人材がもっと増えてくることを願っている。とはい

  え、現状は既に末期的症状であろう。実際には何をしてももう手遅れなのでは…

 

  ⑤に続く