59.市原の戊辰戦争①
・主な参考資料
いちはら歴史自慢漫遊(市原市文化財研究会企画)のしおりより第4回
(2002.9.29)、及び第9回(2003.11.9)分
「しんきん・たより107号」(木更津信用金庫発行、2001.7.3)
「五井戦争を駆け抜けた五人の青年」酒枝次郎 朝日新聞出版サービス 1997
「義軍官軍むかしむかし」落合忠一編 五井町文化財研究会 1959
「ふさのぞよめき」(市原市史資料近世編4所収)
以下、特に「五井戦争を駆け抜けた五人の青年」の記述(多少フィクションを織りまぜながらも官軍斥候隊長の目を通してみた五井戦争の様子が詳細かつリアルに描き出されていて最も興味深い作品)を中心に五井戦争を中心とした市原での戊辰戦争の概要を眺めてみたい。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は市原各地にもたちまち波乱を呼び起こした。3月以降、江戸城開城に不満を持つ旧幕府軍(房総に集結した勢力は徳川義軍府を名乗り、略して義軍と呼ばれた。静岡、愛知、福島等から馳せ参じた者が多く、木更津の真里谷に本陣を置いていた)は房総の地でも官軍を迎え撃つ態勢を整えた。しかし市川・船橋方面であっけなく敗退(閏4月3日)し、閏4月4日(旧暦で閏年に二度ある月がある。五井戦争が行われたのは新暦で5月28日にあたる)には検見川、6日には朝のうちに八幡宿まで官軍の進出を許した。
八幡の円頓寺は右の地図では「八幡宿駅」と記された文字の左(西)側の「卍」。すぐ近く、左下の卍は長遠寺。官軍が進撃に使った房総往還と現在の旧道(JR内房線と平行に走る黄色線)とは八幡ではほぼ重なっている。
なお6日の夕刻、官軍の前哨兵2人(薩摩の菊地ら)が八幡宿で義軍の遊撃隊15人ほどに遭遇して捕まり、斬殺されている。
また同じ頃、五井でも官軍の密偵と案内人(五所村の権次という漁師で魚の行商にも出ていた。威勢の良い若者で「向う鉢巻の権次」というあだ名で通っていた)が義軍に捕まり、中瀬の渡船場近く(現在、中瀬橋の五井駅寄りの付近)で首を刎ねられている。
※後にそこの豪農斉賀氏が松の根元に葬むり、「官軍塚」、「官軍松」の呼称をしばらく残していた
が、河川改修もあって今は跡形も残っていない。中瀬墓地に彼らの墓石があるという。
中瀬の渡船場は右の地図では「中瀬橋」と記された箇所にあった。いわゆる「官軍松」は五井寄り(右岸)の川べりに生えていたらしい。
※補足資料「ふるさとの小さな歴史のはなし」(佐野彪 平成24年)
八幡で殺された斥候役の二人の官軍は東京杉並の大円寺に葬られているという。
「戊辰薩摩戦死者墓」:大正4年
4月6日総州八幡にて死す
菊地竹庵40歳 …京都東漸寺の住職と言われる 種子島出身
助市25歳 …薩摩藩士赤松守衛の家来
と記された墓石があるらしい。
なお中瀬橋近くの墓地には義軍側に処刑された官軍の密偵の墓と思われる墓碑が建っている。こ
れは市内唯一の官軍墓とされている。施主が斎賀氏なので、場所的にも官軍の密偵たちの墓石か?
「三士の墓:施主斎賀氏」
6日夜、官軍の前線本部は八幡宿の円頓寺に置かれた。総勢540人ほどの軍勢は房総往還沿いに五井に向かう約300人の一隊と左翼の君塚から岩野見・根田・村上に向かう120人と右翼の金杉、川岸方面に向かう約120人の部隊に分かれた。一方、義軍側は五井村から姉崎にかけて迎撃態勢を取ろうとしていた。この日、姉崎妙経寺では勝海舟の命を受けて義軍の降伏と恭順を説きにきた松波権之丞(田安家家来で生麦事件の事後処理のためパリで奔走)が増田の手で斬られてさらし首にされており、義軍の徹底抗戦の意志が鮮明にされてもいた。
※義軍の勢力配置:義軍第一大隊500人は市川(本部は中山法華経寺)、第二大隊300人は船橋(本
部は大神宮)、第三大隊300人は五井・姉崎(本部は姉崎妙経寺)、第四・第五大隊1000人は真里
谷に陣取っていたが、閏4月3日の戦闘で第一及び第二大隊は敗退し、多くが四散していた。なお五
井戦争直前になると第三大隊は敗走兵や新参者を加えて約500人に達していたという。
補足資料:松波権之丞(1836~1868)について
※写真はいずれもウィキペディアより
「松濤」、「松浪」の表記もある。江戸生まれで実父は不明だが、加賀前田の支藩大聖寺藩の家老という説がある。どうやら庶子であったため、生まれてすぐに寺へ預けられていたようである。やがて御家人株を買って幕臣となり、外国奉行配下となった。1861年には外国奉行水野忠徳に随行して小笠原諸島に渡航(咸臨丸に乗船)している。1863年、小笠原諸島から帰ると翌1864年2月6日(旧暦では文久3年12月29日)、横浜鎖港談判のために遣仏使節の一員としてフランス艦に乗り込み、出港。途中、エジプトに立ち寄り、スフィンクスの前で有名な記念写真(写真家はベアト)をとっている。
「文久」とあるが、実際は元治元年の1月から7月にかけての事となる。幕府は1863年5月10日の攘夷決行の流れの中で朝廷からすべての開港場を閉鎖するよう、迫られていた。結局、横浜のみを鎖港することに決した幕府はその交渉のために使節団を送ることになり、正使池田筑後守長発(ながおき)を中心に総勢34名の派遣を決めた。使節一行はフランス陸軍少尉の殺害事件(井土ヶ谷事件)の賠償問題解決のためフランスに直行。フランスの強硬姿勢に恐れをなした使節は横浜鎖港交渉の打ち切りと帰国を決定した。帰国後、使節団のメンバーの中には維新後、外交官として活躍した田辺太一や東京大学医学部部長となった三宅復一(またいち)、三井物産社長となった益田孝らがいる。
松波は1864年8月19日に帰国。1867年11月、海軍伝習所通弁掛となり、勝海舟配下に置かれた。勝の命令で幕府内の恭順工作にあたり、五兵衛新田にいた大久保大和(=近藤勇)に面会している。しかし、1868年閏4月6日、撒兵隊第三大隊の本陣とされた姉崎妙経寺境内で増田らに斬殺されたとされる。首は木更津で晒されたという。享年34歳、お墓は東京都文京区西教寺(浄土真宗)にある。勝海舟はその三日後、松波家に12両、組下の者に36両の手当てを渡したという。