62.市原の戊辰戦争④
・幕末の市原
幕藩体制は鎖国体制の行き詰まりに加えて領主層の財政難と「米価安の諸色高」という物価問題によっても深刻な危機にさらされていました。支配層は財政難を年貢増徴等の増税などで乗り切ろうとしたため、農民らとの軋轢を強めていったのです。市原でも各地で百姓一揆が起きています。特に天明の大飢饉の前後には養老川(江戸時代、関東では有数の暴れ川であった)の洪水が繰り返され、町田、廿五里から下流の村々は困窮を極めたに違いありません。
市原を含む江戸周辺では大藩を設置せず、一万石程度の小藩や旗本領を多く配置していました。また一つの村が複数の領主に支配される、いわゆる「相給の地」も多かったのです。このため錯綜する支配体制の隙をついて博徒が横行しました。木更津船を利用して江戸周辺から房総に逃げ込む犯罪者も後を絶たなかったようです(※「与話情浮名横櫛」)。1805年、博徒専門に取り締まる「関東取締出役」が設置され、さらに1827年、その下請け組織として40~50の村々が「寄場組合」としてまとめられます。村役人らは治安回復の為、博徒に関する情報提供を義務付けられたのです。
※「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」:1853年、三世瀬川如皐脚本で中村座初上演。
八代目市川団十郎が「切られ与三郎」を演じて有名に。長唄の師匠(東金出身)の実話をもとに如皐
が脚色し、歌舞伎の世話物の代表作として知られるようになった。特に源氏店(げんやだな)妾宅の
場面で与三郎とお富が再会する場面が有名。
関東の治安悪化は一人旅を難しくしました。文化12年(1815年)、富津の織本花嬌の墓参から帰路に就いた俳人小林一茶が八幡宿で宿泊を断れられ、やむなく村田川を越えて蘇我を目指したのもそうした事情が潜んでいたようです。
錯綜した支配体制で生じた五井戦争では村人の多くは領主権力に頼ることができず(そもそも領主層は戦火を避けるべく各地に疎開していました)、村役人を中心に自衛するほかなかったと思われます。市原郡内における海岸部の村々では飛び交う種々の噂話に翻弄されながらも、両軍の「横暴」におびえていました。知人、親類等を頼りに内陸部の村に身を寄せた人もいたに違いありません。しかし村役人層は立場上、相当の覚悟をして村内に踏み止まらざるを得ませんでした。一般の村人も留守中の略奪放火などを警戒したため、戦闘が遠ざかり次第、ビクビクしながらも早目に帰宅した者が多かったようです。そのあげくに潜伏していた義軍兵士と遭遇して逃亡に手を貸すことになったり、屋敷内で切腹している義軍兵士を発見したり、官軍に生首を担がされたり…そうした各種の興味深い体験談、目撃談が戦場となった沿岸部の村々にいくつも残されていました。
五井戦争の直前、官軍が船橋宿に放火して数百軒が焼失した件は瞬く間に市原郡内に伝わっています。実際に市原郡内でも村上の観音寺、海保の露崎家等が放火されるなどして焼け落ちています。今富の根本家(現千葉家)は岡山藩兵の略奪に晒されました。とりわけ名主層は放火を繰り返す津藩兵の無慈悲な振る舞いにおびえていたに違いありません。もちろん事実無根のデマも飛び交ったでしょう。
しかも他方では徳川義軍府から人馬の提供と軍用金をねだられ、次いで官軍からも人馬の提供を迫られ、村役人たちにとってしばらくは身の縮む思いが続いたはずです。島野の旧家落合家所蔵の「名主日誌」からは当時の名主たちの心労がどれだけのものであったか、往時の人々の苦心のほどを偲ぶことができます。
「義軍官軍むかしむかし名主日記」(落合忠一編 五井町文化財研究会 1959)より
以下、島野旧名主落合家所蔵の名主日記よりカッパが抜粋。ちなみに島野村は大岡忠相以降(享保9年から)、大岡家の領地であった。大岡家は他に市原郡内では不入斗、深城、永藤、迎田など六か村を領地としていた。また旗本酒井家も島野村の一部を知行していた。酒井家は他に二日市場、川在、岩崎、奉免、山口、菊間等八か村を支配している。ただしこの時、二人の領主は戦を避けて疎開しており、現地にはいなかった。大岡は遠く三河、酒井は奉免に居を移している。
この日誌からは戦場となった当時の緊迫した状況が生々しく伝わってくる。官軍への恐怖感(頻繁に放火の件が記載)も随所に伺える。また義軍や官軍への様々な協力(人足や軍用金の提供、渡船の取り計らい等)で当時の村役人達が東奔西走を余儀なくされ、気の休まる暇もなかったことが想像できる。
なお読みやすくするため、カッパが多少の改変、解説を加えてある。
・閏4月4日:曇天、大風
歩兵方、御通行につき、かれこれ混雑いたし候。この前は下総、市川、八幡、中
山あたりにて早朝より官軍と義軍隊と戦争いたし候由。同日、八つ頃より、官軍よ
り船橋宿へ放火いたし、大風にて義軍隊敗北の由、承知。夕刻、五井の方より軍勢
引き取り候につき、宰領さしだし申し候。この夜も御通行につき、人足引き連れ、
出張。組合村(出津渡船場を管理する六カ村:島野、玉崎新田、出津、松ヶ島、青
柳、飯沼)一同、罷り出る。御通行これなきにつき、夜四ツ半(11時)帰宅いたし
候。
・閏4月5日:曇天
市左エ門(島野村組頭…現三橋氏)、五井村へ罷り出候ところ、義軍さむらい方
へ召され、渡船場の儀、念入り大切にいたすべきよう、おおせ聞かされ、承知の由
にて帰宅。この日、お断り御通行につき、たてつぎ(?)人足引き連れ、川端(渡
船場)に出張(でばり)。組合村一同出張。夕刻、義士方、出津村たむろいたし、
兵糧頼まれ候につき、私、藤左エ門(島野村割元名主、菊間氏)、市左エ門にてい
たす。出津村へ持参いたし候ところ、受取陣は白塚村へ。市左エ門差し添え、人足
持たせ、罷り出候。この夜、与宗左エ門(島野村酒井家知行分の名主…現鴇田
家)、藤左エ門、私三人名宛てにて義軍府兵糧方より召し状につき、三人同道罷り
出候ところ、三人共別々に召され、軍用金調達申しつけらるる。私百両差し出し候
様申すにつき、与宗左エ門、藤左エ門参拾両ずつ。私は五拾両差し出し日延べ願い
いたし候。この夜、明け方、姉崎より帰村いたし候。
・閏4月6日:天気
…七ツ時、官軍間者弐人、首打ち取られ候由(…中瀬の件か?)、承り候。この
夜、私、市左エ門、人足引き連れ、川端へ出張。官軍間者五人、五井村焼き払いの
ため、火かけ候由(…これはうわさ話に過ぎなかったようだ)。見出し縄かけ川端
へ。五井村人足四拾人ほどにて引き連れ、義軍さむらい方受け取り、姉ヶ崎へ差し
送り申し候。義軍さむらい方、八幡まで出張りいたし候由承る(…彼らによって八
幡で菊地ら官軍の2人が斬られた)。
・閏4月7日:曇天
五所、五井の境にて戦争、始まり。五井村入口にて戦。出津川端にて戦。官軍
方、五井、川岸、吹上、中瀬渡る。村上観音寺、焼失。柳原川端、町田河原、今
富。宮原村名主源兵エ焼失。海保、畑木の内永津(なかづ)、今津、青柳、松ヶ
島、出津、戦場にあいなり。義軍方討ち死に、出津にて拾九人、松ヶ島にて拾弐
人、青柳四人、今津四人、畑木半四郎屋敷辺りに六人、同人焼失。姉崎椎津にて拾
五六人、村上にて弐人。この最寄りにて死人六拾人。砲戦にて騒がしく、この辺り
男女老若所々散乱。午後より官軍方御通行につき、川端へ出張。差略方いたし候。
八ツ頃(2時)村方へ備前様(岡山藩)御人数七百人御本陣おおせつけられ、混雑の
由。またお休みあいなされ候由。
※閏4月10日付けの姉崎名主兵左衛門の鶴牧藩への報告では死体59人。その内訳は出津村17人、松ヶ
島村11人、青柳村5人、今津朝山村4人、畑木村6人、海保村1、姉崎村15人、椎津村2人となってい
る。様々な情報が飛び交っていたのだろう。人数に多少の違いが見られる。
・閏4月8日:天気
松ヶ島善左エ門宅にて組合村一同、午後より忠右エ門(島野村酒井家知行分の組
頭)まいられ、渡船場へ橋かけ候てはいかがの旨申し来たり候につき、両人にて松
ヶ島善左エ門へ罷り出談判。なおまた出津村長左エ門(出津村名主)へ談合いたし
候ところ、例にあいなり候てはよろしからず候につき、見合わせのつもりにて帰
宅。七ツ頃(4時)文助殿(島野村酒井家知行分の名主、現酒巻家)まいられ、姉崎
より人足触れ参り、もし不参の村これあり候はばその村焼き払い申すべくとの御沙
汰につき、同人同道川端へ罷り出、組合村一同へ談判いたし候ところ、村々一同人
馬遅滞なく差しだし候つもり。文助殿かえらる。夜五ツ半(9時)頃、真里谷真如
寺焼失。火の手見え申し候。この夜、川端詰め番いたし候。
※出津の渡船場は近郷六か村(出津、飯沼、島野、青柳、松ヶ島、玉崎新田)で組合を設けて共同管
理していた。島野村が「親村」。料金(1人3文、馬一匹5文→1866年に1人12文に値上げ)は年
番村の収入とされた。参勤交代等で大勢が渡るときには六か村共同で川船を集め、船橋をかけて渡
したという。船や人馬の徴発による負担は組合で村髙に応じて負担(島野400石、青柳300石、出
津200石、玉崎新田200石、松ヶ島100石、飯沼100石の割合)することになっていた。なお100石
につき1年の年番が課されるため、島野村は4年間、渡船業務にあたらなければならなかった。
幕末、江戸湾防備のために幕府役人や諸大名の通行が増え、川越役の負担が重くなったため、六
か村は姉ヶ崎への助郷役を免除してもらえるようになった。渡船は長さ2丈5尺で2人の水主(か
こ)が乗り込み、御用の際には荷揚げ人足12人が両岸の川端に詰めることになっていた。水主は困
窮者救済のため、希望者からくじ引きなどで数人選び、「舟渡川越人」と呼ばれた。彼らは年に3両
ほどを年番村に納めるかわりに渡し賃を自分の収入にできた。ただし余分の運賃を請求する不正が
横行したようで、1842年、運賃は川端に棒杭を立てて示すことになった。今富にも同じような渡船
場が設けられている。他にも渡し場があった(中瀬、町田…)が多くは徒渡(かちわたし)で、満
水時のみ舟を利用していた。
さて物資流通と人々の移動が活発になってきた江戸後期、海の道や陸の道を通じて新しい時代の息吹が次々と市原にもたらされました。山田橋の野城家(現若菜家)に見られるように平田派国学の伝播もそうした動きの一つです。平田篤胤(あつたね)の後継者平田鉄胤(かねたね)が房総を訪れたのは文政11年(1828)と天保元年(1830)の二回であり、市原でも野城良右衛門をはじめとした名主、神官らを中心に鉄胤らの門人になるものが出ています。
また明治初年、姉崎の妙経寺にいたこともある日蓮宗の僧、天羽南翁(市原郡国吉村出身)は天保年間に京都妙満寺に送られて国学を学び、千葉郡村田村泉福寺の住職となって幕末、尊王攘夷派の志士を匿ったといいます(→村田町神明神社の南翁頌徳碑)。彼は明治になってからしばらくして還俗し、村田の泉福寺に私塾を開いて八幡の川上南洞らに大きな影響を与えました。
人や物の移動が活発化したことでいわゆる招かざる災厄も市原にやってきます。疱瘡(天然痘のことで痘瘡とも)や麻疹といった恐ろしい伝染病が市原に入り込み、流行を繰り返したことが「疱瘡神」等の祠によって分かるのです。島崎藤村の「夜明け前」に記されている文久2年(1862)の麻疹の全国的流行に関しては今津朝山の鷲神社にある同年の麻疹神の祠によって市原にも感染者が出ていたことが確認できます。また五井大宮神社の末社「アンバ様」(大杉神社)は水運と疫病流行の両方に関わる信仰遺産といえます。
江戸湾の海上輸送は五大力船(「ごでぇーりきせん」)が中心でした。外洋にも耐えられる海専門の大型船「弁才船(べざいせん)」と異なり、川船と海船との折衷型で喫水が浅く、基本的には矢倉(甲板上の船室)を設けない構造。板張りの「竿走り」が舷側にあり、操作性に富んでいました。100石から300石積みくらいで長さ10~20m、帆船のため順風であれば八幡から江戸まで3時間程度で移動できましたが、逆風の場合、櫓をこいで二日間かかることもあったといいます。川にも乗り込めるため「川船」扱いで渡船と同様、幕府川船役所の管理下に置かれました。1861年の中古船の販売記録では一艘90両の値がついています。役所から与えられた船の所有権は「船株」として貸借されました。なお年貢米の輸送運賃は100俵につき3俵が相場であったといいます。
10~14mと五大力船よりもやや小型のスピード重視の舟が押送船(「おしょくりせん」。帆をかけずに櫓だけで船を「押し送る」ことから命名されたようです)で生簀が設けられ、鮮魚や貝類が江戸などに運ばれました。江戸魚問屋の通船手形を所持しなければならず、このことで江戸魚問屋は江戸湾内の鮮魚流通ルートをほぼ掌握することができたようです。
陸路を見てみましょう。市原を通る街道は脇往還(脇街道)であり、脇往還では五街道に準じて五街道の「宿場」に相当する「継場」(継立場)が設定され、名主層を中心に交通業務にあたっていました。海浜部は房総往還(道標では上総道、木更津道、房州道などとも呼ばれ、江戸へ向かっては江戸道と刻まれている。船橋と館山を結ぶ)が通り、八幡、五井、姉崎が「継場」でした。それぞれ周辺の村々(五郷組合を軸に「高割」で人馬の負担を分担)を巻き込んで参勤交代等の「大交通」に備えました。姉崎を中心とする村々は「姉崎二十五郷」と総称され、五つの五郷組合で組織されていました。なお今富は久留里街道(五井ないしは木更津~真里谷~久留里…嶺岡)の継場でした。街道は他に伊南通往還(浜野ないしは八幡~茂原・一宮)があり、潤井戸が継場として交通業務にあたっていました。
18世紀の中ごろには姉崎村での伝馬役は通常37人、37匹の人馬を姉崎五郷で負担し、それ以上の人馬が必要になると嶋野、海保、新生各五郷にも高割で負担を分担してもらうことに定着したようです。ただし嶋野組は800石分を川越役高としてこの分の人馬役が免除されていました。今富村でも25人、25疋の人馬を五郷で負担し、これを越える負担は姉崎と同様とすることになったようです。江戸中期以降、海防関係で公用通行が増加するのに伴い、周辺農村への人馬の負担が増大すると、これに反発する村々が継場村の指示に従わないケースも生じてきました。中には継場としての利益に注目して継場への人馬負担は拒否しておきながら、独自に物資の輸送を手掛ける村も出現しました。
なお五井にも二十五郷が設けられていたようですが次第に解体していき、五郷組合のみが存続していったと考えられます。五井村の定助郷村は君塚、岩之見(→岩野見)、岩崎新田、平田、村上でした。幕末、公用の通行量が増大すると加助郷村の西広、磯ヶ谷、海士有木、松崎、武士、相川、福増、新堀、山倉、山田、大坪)、さらには大助郷村の牛久周辺(妙香、奉免、池和田、田尾、山口、上原、牛久、馬立、国吉、内田、外部田、久保、大作等)にも人馬の負担を求めることになりました。
幕藩体制の動揺は18世紀後半からいたるところで見られるようになりましたが、江戸湾に臨む房総の地ではとりわけ外国船来航への対応が急がれるようになってきます。
伊能忠敬らによる正確な日本地図の作成は海防上、必要不可欠であったはずです。1801年には房総測量が行われ、6月21日から22日にかけて一行は市原郡内を測量して歩きました。途中、北五井村の中島甚五左衛門宅に宿泊しています。寛政の改革を主導した松平定信は江戸湾の防備体制を固める必要性に気付き、1793年の失脚後も引き続き江戸湾防備体制の確立のために奔走していました。幾度か定信は房総を訪れ、海岸部を巡見しがてら五井の中島家や進藤家に宿泊し、姉碕神社や嶋穴神社に代参のための家臣を送っています。1851年、佐久間象山が今津の始関半左衛門の招きにより姉崎浦でカノン砲の試射を行ったのも当然、江戸湾防備体制の一環でした。安藤信正と共に公武合体策を推進した関宿藩主久世広周らが度々、家臣に鶴峯八幡へ参詣させているのもまた、徳川政権安泰を祈願する心の内に黒船来航への底知れぬ恐怖感があったからだと思われます。
日本武尊を祀る五井大宮神社の鳥居はそうした世情騒然とする中で、1853年、ペリー来航の年に造られました。川岸富貴稲荷神社の鳥居は日米修好通商条約が結ばれた1858年です。これらの造営のタイミングはただの偶然とは思えません。相次ぐ黒船来航は国家存亡の危機を招いていました。特に黒船を実際に遠望することのできた海浜部では未曾有の危機感の中で多くの村々が神仏の御加護を得んとして寺社への参詣や石造物の奉納を繰り返していたに違いありません。
そもそも19世紀は市原において神道、仏教、修験道系の多種多様な信仰が活性化し、多くの信仰遺産が生み出された時代でもあります。仏教界では市内で寺院数が最も多い真言宗においてとりわけ重大な年を迎えます。1834年(天保5年)は空海千年遠忌にあたっていました。この記念すべき年をひかえた18世紀後半から関東各地で「新四国八十八か所」の札所が設けられています。四国でのお遍路は西国中心に流行していましたが、東国では四国への旅自体がそもそも困難でした。そこで近在の真言宗寺院を八十八か所の札所に指定してお遍路体験を身近なものとし、真言宗の一層の普及、発展を期そうとしたのです。市原でも能満の府中釈蔵院を一番札所、菊間の千光院を八十八番札所として1782年(天明2年)以降、郡内の真言宗寺院の多くが「~番札所」の札所塔を寺の入り口付近に建てることになりました。
また山岳信仰の系統が大きな盛り上がりを見せ始めます。富士塚(浅間塚)や三山塚(出羽三山)が各地に築かれ、石尊大権現(相模大山)や白山・秩父三峰・御嶽などの祠が大量に祀られているのです。多くの人々が先を争うように有名な霊山に登り、身を清め、様々な霊力を身につけようとし、各種の講を作ってその日に備えました。とりわけ市原における富士塚と三山塚の多さは注目すべきでしょう。
海辺の集落(八幡、五所、金杉新田、岩崎新田、玉崎新田、松ヶ島村、青柳村、今津朝山村、姉崎村、椎津村の十か村)では富士信仰に加えて金毘羅や厳島神社(=弁天)への信仰が篤く、江戸時代最大の流行神である稲荷も各地で祀られています。もちろんこれに伊勢参りや熊野神社、天神(この時期、寺子屋の普及によって筆子塚とともに学問の神としての天神の祠が目立ってきます)への信仰も加わるのです。実際、どの神社にお参りしても摂社、末社、石祠までつぶさに調べれば江戸末期の人々がどれだけバラエティーに富んだ信仰を持っていたかが容易に分かります。
こうして人々は信仰と経済を軸に海路、陸路を通じて各地を頻繁に移動するようになりました。その流れに乗って野城廣助(1863年、鉄胤門下生らが足利歴代将軍の木像を鴨川に晒し首にした事件に関わる)ら尊皇の志士達なども藩の垣根を越えて東奔西走し、次第に同志としての全国的な交流を深めていきました。
参勤交代制を軸に強力な大名統制を行い、身分制度の下で民衆を分断し、武器の多くを取り上げてお上に対する抵抗力を奪う。さらに民衆を狭い土地に縛り付けて動きを極端に制限しながら米中心の生産体制を押しつける。そのことで確立した石高制を軸に安定した支配体制を築き上げてきた近世の封建的割拠体制、すなわち幕藩体制はここにきてようやく崩壊の歩みを速めてきたのです。