㉗教員免許更新制の裏側

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 「ヤンキー先生」こと義家弘介氏らによって現場の教師達が受けた被害の最たるものはかの悪名高い教員免許の更新制度(2009年から導入)であろう。例の「ゆとり教育」後の学力低下が指摘されたとき、主たる責任を負うべきは「ゆとり教育」を画策した政治家や文科省であったにも関わらず、すべての責任は「トカゲの尻尾切り」の如く、末端の教師に押しつけられた。児童生徒の学力低下はもっぱら教師達の指導力の低下が原因だと見なされたわけである。義家氏はちょうどこの時、「不適格教員の排除」を主目的に教員免許の更新制度を計画(2007年)していた張本人である。

 この制度では免許状更新講習の時間が30時間以上と定められていた。30時間もの講習は多くの場合、あくまでも教師が自らの休日を返上して受講したものである。講習の内容や質には凄まじい格差があり、不平等であったのに、講習を受けなかった者の免許は一律無効とされた。それほど強制的なものであるのなら、せめて講習の質ぐらいはきちんと国家によって保証されていてしかるべきであり、教師が休日返上してでも、かつ有料であっても受けたくなるほどに良質の講習でなければなるまい。

 文科省は2009年に更新制度がスタートする際、講習の目的を姑息にも「不適格教員の排除」から「教員の能力の向上」へと切り替えた。しかし2021年4月~5月に文科省が現職教員約2100人を対象にアンケートを行った結果、更新講習の内容について「教育現場で役立っている」は3割に対し、「役立っていない」は4割近くに上っている。理由として、5割以上が「現実と乖離があり、実践的ではない」を挙げたように、講習の質は総じて低かったと言えるだろう。

 しかしこれは必ずしも研修を行う講師の質の問題ではあるまい。そもそも幼稚園教諭から高校教師まで学校種別が異なる大集団相手に一斉講義形式の古臭い授業方法を用いて、しかも授業のベテラン相手に大喜びされるほどの授業が出来る、そんな大学講師がこの世にいるとは思えない。講習の最後に実施される試験の結果次第で教員免許の無効化をちらつかせるなど、いたずらに高圧的な姿勢のくせに講習の制度設計があまりにも杜撰であり、幼稚すぎる。そもそも研修の発想そのものが根本的に間違っているのだ。

 講習を受ける時間は多くの場合、勤務時間外(土日)であり、当然、残業手当や休日手当、出張旅費はもとより支給されない。さらに受講費用のうち3万円が教師の自己負担とされるなど、ほとんど一方的に教師の休日と金銭が収奪されてしまうという、史上稀に見る犯罪的制度であった。ただでさえ過労死レベルの負担にあえいでいる教師にとってこの制度は教育への意欲、やり甲斐まで根こそぎ奪いかねない、まさに噴飯物の悪政と断じても言い過ぎではない。

「教員免許更新制を問う」(今津孝次郎 岩波ブックレット 2009)及び以下の記事参照

 ◎主体性のある子どもを育てたいと言いながら、教員と自治体の主体性は無視する文科省と国会 

  妹尾昌俊教育研究家、学校・行政向けアドバイザー  YAHOO!ニュース 

  JAPAN 2022 4/30(土) 18:29

 ◎迷走する教員政策:研修履歴の管理で事態はよくなるのか?妹尾昌俊教育研究家、学校・行政向け

  アドバイザー YAHOO!ニュース JAPAN 2022 4/7(木) 11:42

 ○教員免許更新制の廃止で教員の負担は軽減されるのか? 質は担保されるのか?

  TOKYO MX+ 2022/06/01 06:50

   ○「運動嫌いの子供」が増えるだけ…オリンピック選手を"体育教師"として学校に送り込む文科省の大

  失策 プレジデントオンライン 平尾 剛 の意見 2024.11.2

  文科省は一体、いつまでトンチンカンな迷走を繰り返すのだろう。これまで学校現場側がオリンピ

  ック選手だった人たちをぜひ教員として採用して欲しいと繰り返し声を合わせて要求してきたのな

  らばこの話は分かるが、そんな声は今までただの一度も聞いたことが無い。果たして文科省は一体

  全体、誰の声に耳を傾けてこんなバカげたことをいきなり公にしたのだろう。

   これは明らかに現行の教員免許制度を文科省自ら破壊しようとする、自爆テロのような施策であ

  る。加えて大学での教員養成教育の充実を図ることを諦め、教員養成教育を真っ向から否定するも

  のであり、良き体育教師養成を目指してきた大学、学部の、これまでの努力を嘲笑するがごとき愚

  策というほかあるまい。

   かつて教員免許の更新制度を導入してひたすら現場を困惑させ、いかにも教員免許の権威保持に

  拘ってきたはずの文科省が、今回は何とした事か、突如として無免許での教育を奨励しだした。こ

  のてのひら返しの背景に一体どんな事態が生じていたのか、ぜひ説明して欲しい。もしかすると石

  破内閣、あるいはJOCやらオリンピック組織委員会の元メンバーなどが密かに背後で動いたのだ

  ろうか。

   何はともあれ、多くの政治家や文科省は学校現場の事を一切知ろうとせず、ひたすら教師たちの

  意向を無視し、どう見てもハチャメチャで現場の混乱と疲弊をさらに招く政策を性懲りもなく押し

  付けてきたのだ。あきれてものが言えない。これが教師不足の解消につながるとでもいいたいのだ

  ろうか。むしろいよいよ教師たちの文科省不信が強まり、若者の教職離れが進み、教師の中途退職

  や病休が増えるだけであろう。

   今や明らかに文科省の解体こそ、最も重要な教育改革だと考えるが、いかがか。授業ではぜひ、

  この施策の是非を生徒たちに問いたい。

 

 確かに問題教師への対応は必要であるが、この制度はなぜかほぼ教師全員を対象としたものであり、学力低下問題の責任などを一方的に教師全員に押しつけたものであった。その挙げ句に教師全員をあたかも問題教師か罪人であるかのようにして一律罰するかのような、嫌がらせじみた幼稚な研修強要制度であった。我々教師からすればこうした愚かな制度を導入した不適格官僚や不適格議員への研修や処分の方が真っ先に優先して行なわれるべきだと思うが、いかがだろう。

 ブラック化した学校の中ではたとえそれが内容的に素晴らしい研修だったとしてもまともな教師ほど研修を受けようとは思わないだろう。自分が研修に出ている間、同僚や生徒達に及ぼす負担、迷惑を考えれば研修を受けないで済ませようとするのがよほど正常な判断である。

 ところが政府も文科省も、学校での問題はすべて教師の責任であるとの前提で教師への研修を以前からむやみやたらと増やしてきた。役立ちそうもない研修の多さも間違いなく学校のブラック化を加速させていた一因である。したがってくどいほど繰り返される無意味な研修は教師の指導力を向上させるどころか、むしろストレスを高め、教師間の分断と対立を招き、かえって教師の不祥事と精神疾患を多発させてしまっているのではないだろうか。

 教員免許更新制度は現在、ようやく廃止されるに至ったが、何とその代わりに性懲りも無く新たな研修の導入が検討されているそうだ。自己研修の機会を奪われる一方で執拗に悪者扱いをされる・・・教師の意欲はさらに低下することは明かである。

 研修を受けるべきは一体、どこのどなたなのだろう。

 

参考記事

なぜ多くの人が「仕事を苦痛」に思うのか…世界中で増える「クソどうでもいい仕

 事」の全容 現代ビジネス 酒井 隆史 の意見 2023.12。

 ブルシットジョブに携わる人の5類型として「取り巻き」、「脅し屋」、「尻ぬぐい」、「書類穴埋め人」、「タスクマスター」が挙げられているが、学校でもこの5類型に当てはまる人がいるようだ。教頭は校長の、教務主任は教頭の、それぞれ取り巻きであることが多く、当然、教頭も教務主任もストレスのきつい激務である。「脅し屋」は管理職や教育委員会、文科省がきっちりと努めているが、教員の不祥事多発により、必ずしも功を奏していない。「尻ぬぐい」は下らない教育政策を強要してくる政府の犠牲となっている教育委員会以下の教育現場全員が我慢しながら務めてきた最悪のブルシットジョブである。そして政策を遂行したフリ、成果を挙げたフリをするための「書類穴埋め人」も教育現場が担当している。こうした教育現場の末端にいる人々の不毛な仕事の山を築くきっかけづくりに生きがいを見出し、精を出してきたのが諸悪の根源、日本政府という最悪の「タスクマスター」であろう。

 「失敗が予見できる計画を、専門家をふくむさまざまな批判にもかかわらず、無視して突っ走って、しわよせが現場の下請けに押しつけられるなどということは、失敗が大きな確率で予測できるのに、あるいは失敗があきらかになってからすらも構造的に計画を途中でやめることがきわめて困難である日本では、深刻なレベルで蔓延しているだろうからです。」という指摘に首が折れてしまうほど激しく頷いてしまうのだが、皆さんはいかがだろう。

 

㉖ゆとり教育と特色化選抜

~学校のブラック化の裏側~

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 1980年代前半まではほとんど目立つことのなかった高校教師による発信は前述したように1980年代の後半から臨教審の動きに触発された形で目に付くようになり1990年代になると急激に増えてきた印象がある。この時期は「ゆとり教育」の導入が検討されており、学校の特色化も入試改革を伴って進められつつあった(例:岐阜県の「特色化選抜」2002~2012)。

 岐阜県が始めた特色化選抜は直ちに千葉県も採用している。この入試改革によって千葉県の公立高校入試は1年間に「特色」と「一般」の二度も行われるようになり、ただでさえ忙しい学年末の教師達を瀬戸際まで追い込んでいった。さらに「ゆとり教育」の余波からか、特色化選抜においては部活枠が導入され、生徒の個性、多様性を尊重すべく学力以外の能力も適正に評価する、などという美名に隠れて実際には学業よりも部活動を重視する風潮が多くの中学校や高校で強まっていった。

 土日は遠征試合に明け暮れ、下手をすれば教師も生徒も授業は二の次・・・当然、中学、高校のブラック化が加速していく。それは以下のようなメカニズムが働くからであると考える。

※参考記事

 ◎部活実技以外冷遇か 千葉県教委「透明・公平性に問題も」 幕張総合高入試

  千葉日報 2017年3月24日 10:58 |

 ○【知りたい!】高校入試 謎の内申書 部活動はどう評価?

  NHK 2022年6月29日 19時06分

 ○部活の過熱化、内申書反映への過度な期待も一因…高校入試での評価基準明示を文科省要望 

  読売新聞 2022/10/25 09:55

 ○公立中学の内申点、親世代より「評定5」の割合が増加? 高校受験塾講師が教えるイマドキの内申

  点事情 AERA with Kids+ 2024.6.7

 ○【高校受験2024】千葉県、公立高入試の学習成績分布表を公表 リセマム 2024.7.3

  今年、実施された千葉県高校入試の際の中学3年生における評定値の教科別成績分布が公表された。

  かつての様に評定5を与えられる生徒は生徒全体の何パーセント前後で評定4の場合は…といった

  ように、一応、成績分布が正規分布に近似するような相対評価的規定は既に無くなっている。つま

  り、自校生徒に有利になるような偏りのある甘め成績をつけることへの一定の歯止めがあったわけ

  だが、その歯止めがなくなり、学校や教師によって5の評定をもらえる生徒が多くなる傾向が指摘

  されてきていた。いわゆる内申点に学校間や教科間においてかなりの不公平が生じている可能性が

  出ていたのである。

   実際、今回の公表によって教科による差はかなり大きい事が分かる。ただし総じて5の評定をも

  らえる生徒が多い事実も確認できよう。やや詳しく見るとある程度は全体のバランスをとるため

  か、多くの教科では4の評定をもらう生徒が意外にも少なくなっている。どうやら5及び4の評定

  をもらう生徒の割合を合わせて5割前後にすることで3以下の評定をもらう生徒の割合も5割に近づ

  ける努力、工夫が水面下で働いているように見受けられる。これで割を食うのはかつて評定値4の

  下位辺りに属する生徒たちであろう。学校や教科によっては評定値3にされてしまうおそれが出て

  きている。

   いずれにせよ、現在の評定平均値への信頼性、公平性はかつてよりさらに低下していると考えら

  れる。学校によってこの状況への対応は違うだろうが、総じて合否判定に評定値をどれほど反映さ

  せるのか、その評価基準を根本から見直すべき時にきているのだろう。とはいえ、行動の特性、部

  活動やボランティア活動の実績、欠席日数等を今まで以上に高く評価するのはスジ違いだろう。た

  だでさえ、これらの観点は部活動の過熱化と勝利至上主義を招きかねず、教師の主観によって左右

  されかねない危険性や不登校の生徒に不利となる側面がある。そうした問題をはらむ観点について

  は合否判定において慎重な扱いが必要だろう。

   ならば中学校から送られる調査書を高校ではどう評価すれば良いのだろう。当然、年配の教師か

  らは受験時のテスト得点だけではなく、勉強以外での中学校3年間の頑張りをも評価すべきであると

  の、一見良識的な意見が相変わらず出てくるだろう。確かにもっともらしく聞こえる意見だが、実

  際には非現実的な考えに基づくものであり、ほとんど傾聴に値しないものと私は考える。

   3年間の生徒たちの頑張りを3年生担任だからといって本当に一人一人きちんと評価できるのか

  が、そもそも疑わしい。現状では3年生のクラス担任がたとえ当該学年を1年生から担任として見守

  ってきたとしても、クラス替えなどがあるため、一人の生徒を3年間、担任として見続けてきたとは

  限らない。クラス担任ではあったが授業は担当していなかった、2年生あるいは3年生から学年団に

  入り、途中からクラス担任になった…近年、教師不足からこうしたケースは増えてきている。しか

  も特定の生徒とは相性が悪い、接点が少ない…などにより、プラス評価の材料が他の生徒と比べて

  かなり乏しい生徒がいても不思議ではない。実際、生徒をあまり良く知らないくせに、調査書の総

  合的所見欄では無理くり適当にそれらしく褒めちぎって書くことがこれまで普通に見られていた。

   子どもたちの3年間の頑張りなど、たかが一人の教師如きに評価できるわけがあるまい。教科担任

  制をとる中学校では自分の授業以外での生徒たちを評価することがほとんど出来ない。教科の評定

  に関しては教科担任の評価をほぼ鵜呑みするほかは無い。部活動等の頑張りは顧問から伺うほかに

  すべはないが、それらの情報が本当に信頼できるという保証はない。「他の教師を信用する」と表

  現すれば聞こえは良いが、実際には「鵜呑みにする」に近いのが現実であろう。

   生徒一人一人の「3年間の頑張り」の全体像など本当は誰も見ることはできないし、それをクラス

  担任がまっとうに評価できると考える方が思い上がりも甚だしいのだ。ポートフォリオに蓄積され

  たデータでさえ、一つ一つ信頼性や妥当性を吟味されてはいない項目ばかり。したがって「総合的

  評価」というのは厳密には言葉遊びに過ぎず、一つ一つの評価ポイントが不確かなもののただの寄

  せ集め、ボンヤリとした集合体…それこそ、「総合的評価」の実態である。「3年間の頑張り」とい

  う、いかにも感傷的でいい加減極まりない表現に流されてはなるまい。

   今後は調査書や受験時のテスト得点以外に作文テストの比重を高め、クレペリン検査などの適性

  検査を新たに加える…などといった学校独自の検査をそれぞれ工が夫する必要に迫られるのではあ

  るまいか。教師受難の時代はさらに長く続くに違いない。

 

 まずは部活動の実績を今まで以上に学校の宣伝材料にしようとする安易な発想から部活動の強化を推進するという一点に過半数の学校が「特色化」の目標を定めてしまい、結果的に高校間で有望選手の奪い合い、青田買いを招いてしまった。

 夏休みには高校の顧問が相次いで中学校を訪問し、めぼしい選手を物色しては推薦枠を用いて自校への受験を促す。管理職としては入試での定員割れを防ぐ上でも早めに一人でも多くの入学希望者をおさえておきたいので末端でのこの動きに異論は無い。そして中学校の顧問と高校の顧問との密接な関係を築くため、中高の合同練習や練習試合が盛んになる。どの中学生が有望か、早めに知っておくことが有望選手獲得の第一歩であるからだ。

 また一定レベル以上の選手を一人でも多く確実に獲得するために、教育困難校では中学生での学業成績をこれまで以上に軽視していく。中学校側でも成績の振るわない生徒は部活動に専念させ、試合で一定の成果をあげさせてから推薦枠で高校進学を実現させようとする。

 こうした動きが加速すると授業時間をきちんと送ろうとする姿勢は教師、生徒共に崩れていきかねない。実際、高校によっては運動部の推薦枠で合格となった生徒の多いクラスほど授業が成り立たなくなる。授業は最早、教師や生徒の本業ではなくなり、良くて副業、実態としてはほとんど消化試合となってしまう。したがって生徒の中には放課後になってからようやく登校し、部活だけ参加する者まで出てくる。私の四校目の学校がまさにそうした状況に直面していた。

 運動が苦手で部活動には入らないが真面目に授業を受けたい生徒や、部活動の指導を苦手とする教師にとっては一部の学校がいよいよ辛い場所となっていった。また部活動を片手間にこなしてきた教師達は授業準備よりも部活指導に本腰を入れざるを得なくなり、時間的、体力的なゆとりを失っていく。

 こうして高校教師の世界にも臨教審以降、くすぶり続けていた新自由主義的「改革」の火の粉がついに情け容赦なく降り注ぎ始めたのである。それは高校のブラック化が一気に加速した瞬間でもあった。

 

 近年、どの高校でも「~部全国大会出場」などと書かれた宣伝用横断幕や垂れ幕を普通に見かけるようになった。しかし部活動に熱心な高校がすべての生徒達にとって良い高校であるという保証はまったく無い。ただし部活動とは無関係に「面白い、分かりやすい、役立つ授業をする先生が多い」との口コミ、評判がある高校はほぼ間違いなく多くの生徒達にとって良い高校であると確信する。授業の質こそが第一に追求されるべき、本来の学校の魅力ではなかったか。

 

 過度な献身性を賛美しがちな教員社会独特の精神的風土もまた教師の疲弊を自ら強めてきた一因であっただろう。これまでの自分の教師としての活動を改めて振り返ってみて痛感するのは教師自ら自分達の過重労働を賛美し、教師の「働き過ぎ」体質を助長すらしてきたのではなかったか、と言う疑念である。

 学校のブラック化は学校の内側から見れば皮肉にも多くの教師が持つ善意の発露によってもたらされた「負の遺産」の一つでもあった・・・つまり「やり甲斐搾取」と揶揄される現状は教師自らが招いてしまった側面があると私には思えるのだ。かつて教員社会に蔓延していた「教職」を「聖職」と見なす論調はとっくの昔に学者や組合によって否定されてきたはずであった。しかし組合加入率の低下、学校のブラック化もあってか、いつのまにか聖職論的な価値観に基づく無私の献身性が教師一人一人に強く求められる空気感が教員世界にジワジワと広く深く浸透し始めていたのではあるまいか。

 そもそも職場の労働環境の改善に取り組むべき組合員が率先して過剰労働を担い、職場のブラック化の先頭に立ち続けていたのではなかったか。組合活動自体が職場のブラック化に加担していた側面を私は否定できない。放課後の地区集会、土日の動員、資料の配布…部活動や学校行事の合間に行ってきた組合活動の多くが献身的自己犠牲を強いるものであった。

 普段、教師としての仕事が容赦なく山積していく中で組合活動との両立を諦めていった教師は私を含めて数多くいたであろう。組合員の減少は自己犠牲を当然とする組合の教職観、価値観そのものにも胚胎していたのではあるまいか。

参考記事

財務省VS文科省バトル再び 中学程度の私大授業に財務省「助成の在り方見直しを」

 求める 産経新聞 2025.6.7

 私大によっては小学校レベルの授業も必要となるはず。おそらく分数や比の問題が解けない大学生は少なからず存在しているはずだ。財務省の認識に学校教育の現実との大きな乖離を感じてしまうのは私だけではあるまい。

 基礎学力の欠如した大学生が発生してしまう背景には基礎学力を身に付けないまま児童生徒が進級し、形式卒業していく義務教育の在り方自体により大きな要因が潜んでいると見て間違いない。

 したがって財務省が「助成の在り方」の見直しを文科省に求めるのはお門違い。たとえ教育内容が大学にふさわしくないレベルだとしても、それだけで助成金をケチるほどの口実にはなるまい。社会全体から見れば「Fラン」大学にもそれなりの存在理由はある。

 要は「落ちこぼれ」を黙認し、児童生徒の学力の底上げを怠ってきた日本の学校教育全体の問題である。特定の大学の問題ではあるまい。需要があるから供給も生まれてきたのだ。そしてこの問題においても歴代内閣が長期にわたって教育予算をケチり続けてきた、その政治責任の方こそ、厳しく問われるべきなのだ。

 

㉔日本企業の特徴的な組織文化と欧米の学校

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・働き方改革の行方

参考動画

【アメリカ・ヨーロッパ・韓国最新「働き方事情」】/アメリカ大学生に人気の職

   業/韓国では「部長・課長」呼び廃止?/人に「年齢」を聞くのは日本だけ/イギ

   リス履歴書に写真NG/イタリアに最低賃金は存在しない

   PIVOT 公式チャンネル 2023/11/30  37:56

参考記事

退職や産休・育休で欠員⇨約8割の組織が「人員補充」なし。業務の「横滑り」…日

   常的な組織文化の見直しを ハフポスト日本版  2024.11.28

   この状況のままでは少子化の流れを変えることは出来まい。

なぜ日本人は「休むこと」に罪悪感を持ってしまうのか…「有休取得率が世界最下位」

 となる3つの根深い理由 プレジデントオンライン

 新田 龍 によるストーリー 2024.6.19

 「定額働かせ放題」「やりがい搾取」と呼ばれる教師のブラックな働き方の背景を日本企業の働き方の特徴から理解していく上では欠かせない資料と言えるだろう。よく整理されていて分かりやすいイチオシの資料である。

深刻な人手不足に直面する企業が今、採用に力を入れるのは… 2024年問題、キー

 ワードは「多様性」東京新聞 2024.4.28

 多様な働き方や多様な人材の確保が叫ばれる中で多くの中小企業は人材不足による倒産の危機に直面しているという。とりわけ建築業、運送業の人手不足は深刻だそうだ。これも「老害政治」と少子高齢化がもたらした問題に違いあるまい。

 さらには多様性、個性を尊重せず、画一性、同質性ばかりを強要してきた日本の学校教育の弊害がこうした点にも及んでいる、とも考えるが、いかがだろう。

文科省「博士数を3倍に増やす」と言うが 博士号取得者の就職が困難を極め

 るワケ Yahoo!ニュース JAPAN 2024.4.28

 この問題の背景には高度な科学技術の急速な発展に背を向けてスペシャリストよりもいまだにジェネラリストの確保を優先する日本の企業の保守的な人事のあり方があるらしい。本来ならば高度な専門性を持つ人材を確保するために博士号を持つ人々こそ先を争って確保するのが現今の企業として当然の人事であるべきだろう。

 オーバードクターの就職難が問題視されてから久しい。しかし根本的解決が遅々として進まない背景に何があるのか…「博士数を3倍に増やす」などと他人事のように無責任で非現実的なスローガンを掲げる文科省の厚顔無恥さ、トンチンカンさには呆れるほかあるまい。まず反省すべきはスペシャリスト養成の出発点に当たる高校教育においていまだに学習指導要領を通じた堅苦しい統制を加え、漫然と高校生たちにジェネラリスト養成のカリキュラムを強制してきた文科省自身であるはず。

 なお、戦後教育の歩みを少し振り返っただけで日本の学校教育は事あるごとに政財界の圧力を受けて教育内容の見直しを迫られてきた経緯がよく分かるはず。特に学習指導要領の改訂を巡る政財界からの圧力には凄まじいものがあった。この点は分かりやすく整理して生徒に示しておくと議論を深めることができるだろう。そうした下ごしらえがあれば、なぜ日本では博士号取得者の就職難が続いているのか、その原因と解決策を考えさせていく上での有意義な議論が可能となるだろう。

日本人の“働く幸福度”、世界最低に 調査で分かった「3つの理由」

 ITmedia ビジネスONLiNE 2023.5.25

1つ目は、日本企業の特徴的な組織文化だ。上層部の決定にはとりあえず従う、物事

 は事前の根回しによって決定されるといった、「権威主義・責任回避」。

 (→学校の隠蔽体質、上意下達の教育行政)

2つ目は、「寛容性」が低いことであった。18カ国・地域の中で2番目に低く、異質な

 他者と積極的に関わろうとしない傾向が顕著で、職場における相互尊重の組織文化

 が乏しい

 (→生徒間や教師間でのイジメ問題、マイノリティへの偏見・軽視)

3つ目は、学習投資が仕事や働き方の選択肢の増加につながらないこと。日本では、企

 業横断的な職業意識が薄く、ジョブ型ではなくOJTを中心に組織内部で能力向上に

 取り組むため、業務外の学習・自己啓発が仕事の選択肢の増加につながりづらいと

 考えられる。

 (→旧態依然の校則や行事、授業方法の残存、教職員における学校教育そのも

   のへの無知・無理解の蔓延)

 …とのことで「日本の就業者が『所属組織に自分を捧げる』ことを最も重視しない傾向とも整合する」とし、「異なる意見や背景、特性を持つ個人やグループを受け入れ尊重することが、就業者の働く幸せを実感させ、組織のパフォーマンスやイノベーションにも寄与するだろう」と指摘されている。

 これは経済界の強い圧力を受けてこれまで変容してきた日本の学校教育の歴史を踏まえれば、上記の三点に対応するように、(→…)内で挙げたような学校組織の欠点と日本の企業文化とは大きく重なる問題だと思うがいかがか。

 

「ハーバード大学」での体験に基づいた教育論が日本では参考にならない「納得の 

 理由」現代ビジネス 畠山 勝太 の意見 2023.6.12

 この考え方は欧米との比較から日本の学校改革を唱える立場への反論としてよく登場するものと考えるが、いかがか。もちろん安易な外国の物真似が失敗に終わりがちなのは文明開化時の日本が経験してきたことで、今更、言うまでもない。

 しかし「…日本の教育の平等さを支える大きな柱の一つが義務教育費国庫負担金制度である。教員給与の3分の1は中央から、残りの3分の2は都道府県から支出されるだけでなく、教科書も国が支出し、施設費も国が半額負担をしている。また、広域教育行政が敷かれているために、遠隔地で極端な教員不足が発生することもない。日本の教育システムには、このような、豊かな地域や富裕層からの税収を貧しい地域や貧困層の教育に充てるシステムが存在する。」という指摘には素直に頷けぬものを感じてしまう。

 むしろ教育の平等を重視するあまり、国家予算の配分を通じて行政の中央集権的な学校支配が強く及んでしまったデメリットにも着目する必要があるだろう。国家の統制力は教育内容への過剰な介入となって行き過ぎたレベルの画一的、管理的指導を蔓延させてしまっているのではあるまいか。平等を重んじるあまり、学校は生徒の多様性や個性を蔑ろにしてはいないか。そしてITの発展によって実現可能性がせっかく高まってきた個別学習の進展を、旧来の平等、公平の理念の強調によって台無しにしてしまう虞はないのか。

 

 確かに義務教育レベルでは平等と公正は相変わらず重視すべき概念であることに異論は無い。問題は個性・多様性の尊重がより一層求められている現在、これまでのような片方ばかりの偏重を改め、平等・公正と自由・多様性尊重との間で両者のバランスをどう考えていくか、であろう。この問題は決して二者択一の単純な選択ではなく、複雑な対立、競合をはらむはず。

 しかし実態は義務教育ではない高校教育ですら、教科書の検定制度が適用されてしまっていることに表れているように、今も「平等・公正」への偏重が顕著である。しかも平等・公正の確保を盾にして予算や人事での国家統制が強まったことにより、表向きの「平等・公正」の陰でかなり前から社会科の検定教科書では「政治的中立性」すら危うくなっている。つまり、実際にはある意味において「平等・公平」ですらない。また上っ面の「平等・公平」による入試がかえって人々の格差拡大という不平等を正当化していないだろうか。

 他方で受験競争や共通テストの導入を通じて教育内容は「入試に出る」内容に収斂されていき、教科書も多様性を徐々に失ってきた。しかも政府の意向を「忖度」できないと大手の教科書会社であっても瞬く間に倒産しかねないのが日本の現状である。

 

 もう一つ、この論考には重大な欠陥があると考える。「…もう一つ重要なのは、教育の成果物は多様であるという点である。教育経済学の文脈で分析されるものだけでも、知識やスキル・社会性など主に個人に帰するものもあるが、国民統合・市民性・平等性など主に社会に帰するものもある。」という指摘である。確かに太字にした箇所などはいち早く封建制を脱して近代的、中央集権的国民国家創出を急ぐ明治政府にとっては学校教育の目的の大きな要素であった。しかし他方で近代日本の重要な設計者であった伊藤博文らは殖産興業をも強力に推進すべく、「立身出世の学」として「個人に帰する」モチベーションを煽ることで学校への就学率を高めようとしたのは周知のことである。

 しかし「国民統合」に関しては学制頒布から150年以上経った今も同じように強調されるべき理念なのか、がまず問われよう。今や外国人観光客の来日急増は観光業の発展を招いており、日本経済の停滞を乗り越える上で重要な産業の一つとしてさらなる発展が期待されている。また労働力不足の解消のため、多くの外国人が国内で働くようになってきた。日本語を母語としない人々がすさまじい勢いで国内に殺到してきており、学校の児童生徒として数多く教室に迎え入れている現状がある。当然、外国籍のままの児童生徒も多くなってきている。

 もはや「国民」ではない児童生徒を目の前にして「国民統合」を理念とする画一的学校教育がふさわしいのかどうか、これまで通りの指導体制で良いのか、真剣に問い直す必要はあるだろう。

 そもそも日本の学校は戦後、家庭や地域社会の教育力低下に伴い、国民としての人材の「選別・配分・社会化」機能をほぼ一身に背負わされてきた。そのため教師たちは授業だけではなく各種学校行事、部活動等にも全力を注ぐようになった。他方でそれは学校の職場としてのブラック化をも招き、直近では深刻な教員不足と教育の質の低下を全国規模でもたらしてもいる。

 「選抜・配分」機能はともかくとして、せめて「社会化」機能の役割は一部、地域社会に返還すべきだろう。それは実際、部活動の地域移行によって徐々に進展しているが、いまだ不十分というほかあるまい。

 またこれまで学校が担ってきた「社会化」機能は既存の社会にひたすら適応を迫る保守的側面があったのも否めない。「ブラック校則」と揶揄された管理主義的生徒指導が生じてきた背景には大勢の生徒たちを少ない教師で管理し、一斉指導する体制があった。工場における規格化された単純労働が主体であった高度成長期にはその教育体制がむしろ時代に適合的な側面があったのかもしれない。

 しかし少子化社会の進展はようやくにしてクラスの定員を少しだけでも減らす方向に働いている。児童生徒の個性、多様性に向き合える条件もわずかながら整ってきた面がないわけではない。

 さらに社会の進展、変化のスピードが増している現在、特定の鋳型にはめるような、既存の社会に適応させることを主な眼目とする指導体制はあまりにも保守的過ぎて技術的革新が相次ぐ現代社会には適合的とは言えまい。今の児童生徒たちに求められる力は時代の激動に対応できる柔軟性と人々の多様性を受け入れられるマインドセットの方ではあるまいか。

 従って今、日本の学校教育に切実に求められているのは個性や多様性に十分配慮した限りにおける平等や公正さであろう。そうした点では一歩も二歩も前を行く欧米の学校教育制度に日本が素直に学ぶべき点は決して少なくないと思うが、いかがか。

新しい「ZEN大学」に3380人が入学 ドワンゴ顧問・川上量生さんが語る「オンライ

    ン大学を作った理由」【前編  

    年間授業料は38万円、ドワンゴ・川上量生さんが描くオンライン「ZEN大学」の未

    来とは【後編】朝日新聞Thinkキャンパス 2025.4.28

 いよいよZEN大学に最初の新入生3380人が入学したという。個人的な期待を込めてもう少し応募者数が多くなると事前に予想していたが、やや微妙な入学者数に落ち着いたようだ。ひとまず3000人の大台を超えた自体は喜ばしいこととして受け止めたい。

    N高の試みから出発したドワンゴ学園の学校教育改革がとうとう中等教育段階から高等教育の世界にも到達。通信制といういかにもネット社会にふさわしい学校教育の在り方が広く普及することで、従来の硬直化した公教育体制を少しでも柔らかくほぐしていく効果が発揮されてくることを大いに期待している。また少子高齢化の進展により疲弊、衰退する地方に住む児童生徒たちにおける、もう一つの有力な進学先としてドワンゴ学園が広く大きく定着していくことを願ってやまない。

 

・公益通報と守秘義務の関係 

 公務員の守秘義務(公務上知りえた秘密を外部に漏らしてはならない…)と生徒や保護者のプライバシーの保護を盾に取った学校側や教育委員会によるイジメ隠ぺい事件が頻発している。この問題を考える上でまず知っておきたいのが下の記事で解説されている「公益通報」であろう。何が「公益通報」に該当するのか、「公益通報」と判断される条件とは何か(・通報内容は「役務提供先で、通報対象事実となる法令違反行為が生じている旨」、・通報先は「事業者内部」「権限を有する行政機関」「報道機関、消費者団体、労働組合などその他事業者外部」…)、少し整理してある程度理解しておくと、以下の具体的な事件の理解にも資するであろう。

なぜ、大阪王将“ナメクジ騒動”告発者は逮捕された? 意外と知らない「公益通報」

 のあれこれ ITmedia ビジネスONLiNE 2024.4.22

公益通報の市職員が自殺 処分の職員が同じフロアに異動 和歌山

   毎日新聞 によるストーリー 2024.6.1

人口8000の町で起きた「公益通報」の不可解 不正をただすつもりが「懲戒処分

 はあまりに不当」AERA dot. 夏原 一郎 によるストーリー  2024.5.21

警察庁、鹿児島県警本部長を長官訓戒 24日から特別監察

   毎日新聞 によるストーリー 2024.6.21

「本部長の犯罪隠蔽」告発で揺れる鹿児島県警の愚挙 批判メディアへの強制捜査、

 心臓疾患を無視した取り調べ AERA dot.今西憲之 によるストーリー 2024.6.14

 公立学校教師を含む地方公務員の採用、人事に関しては昔から情実、コネとカネ絡みの噂が絶えなかった。地域によっては地元有力政治家が公務員人事、とりわけ管理職人事に口出しする場合もあると聞いてきた。こうした不正だらけの要素を数多く含む採用を長期間行っている地域ではせっかく公益通報のシステムがあったとしてもまともには稼働せず、結果的に旧態依然の行政がいつまでも改善されることはないだろう。そして各種の不正が将来的にもまかり通っていく可能性は低くはあるまい。

 妙な人間関係のしがらみに厳しく縛られている腐敗し切った職場では下手に正義感ぶって職場のあり方を批判すれば陰湿なイジメの対象とされてしまうのがオチ。たとえ純然たる公益通報者であったとしても「裏切者」、「チクリ屋」、「KY」、「偽善者」といった汚名を着せられて袋叩きにあい、遅かれ早かれ職場から排除されてしまうのはほぼ確定的となるはずである。

 イジメ事件隠蔽が学校で横行する背景には一つの役所や学校の枠を超えた公務員人事の深い闇が広がっている、と考えておくべきだと思うが、いかがだろう。

㉒ユーチューバーの告発

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

・口コミサイト「みんなの高校情報:尼崎市立尼崎双星高等学校の口コミ

 昨年、話題になったユーチューバー「天才むかたん」の高校への突撃取材。多くの高校生も知っているはずのこの件で学校側がとった不自然で異様に見える対応は学校の部外者からすれば理解に苦しむものかもしれない。本来、不登校生徒やイジメ問題の直接的対応をすべきクラス担任や学年主任の顔や動きがまったく見えてこない点にもこの異様さは感じられるだろう。撮影当日、対応したのは直接の当事者を排除し、二人の教頭となった。

 管理職が表に出て対応するケースとは大抵、教師、学校側の不祥事が発覚し、マスコミからの取材が予想されるケースが多い。つまり何らかの厳しい情報統制を行って学校が「悪目立ち」しないよう、慎重な対応を行おうとしているケースである。この場合、背後で教育委員会の意向や校長の判断が働いているものと考えてほぼ間違いは無い。

 とは言え不登校の生徒が最も切実に求めているのはどうやら当事者同士の話し合いであった。このためカメラの前での不用意、不穏当な当事者達の発言を極端に恐れる管理職との話し合いは平行線を辿るしかなかった。管理する側の本音からすれば、必ずしも信用できず、統制も難しい当事者(平教師や生徒、保護者)同士の話し合いは感情的な言動の応酬に発展するかもしれず、不測の事態を招きかねない。特にその結果として学校や管理職の評判、評価が悪化する事を彼らは最も恐れているからである。確かに校長が臨席する場でそのような事態に発展した場合には校長の地位、身分をも揺るがすことになるかもしれない。

 従って「教師や生徒達を世間の好奇の目から守る」、「イジメを行う者も含めた自校の生徒達や保護者、あるいは部下である教師を無責任なマスコミ取材から庇う」という口実のもとに、多くの管理職はなるべく本当の当事者を表に出そうとはしない。良く言えば教職員のみならず、イジメを行った側の当事者をも世間による猛烈なバッシングから「匿っている」のである。

 当然、石田氏の指摘した通り、それらの対応は教師や管理職の自己保身に基づく学校の隠蔽工作に過ぎないと見えるだろう。しかしこうした対応はほぼ間違いなく教育委員会のマニュアル通りなのであり、学校独自の判断によるものとは限らない。この件に関して、教頭への個人攻撃はおそらく的外れであろう。

 むしろ驚くのは校内では最も激務で知られる教頭が毎週、不登校生徒宅を訪問して授業課題を渡していたこと。これは学校の実態からすると、極めて仕事熱心で誠実な対応に見える。学校現場のブラックさを知る者からすればむしろ驚愕の行為である。私は教頭Aが過労死してしまうのではと案じてしまった。

 しかし残念ながら(と言うか、当然ながら)その教頭や背後にいる校長の思いと不登校生徒やその保護者との思いとは完全にずれている。但し完全にずれているのは教頭達よりも表に出てこない校長の方ではないか…と勘ぐりたくなるケースではある。

 そのズレが一体どこから生じているのか、なぜ双方の溝が埋まらないのか、学校側は気付くことができない、ないしは気付いていても気付かない振りを余儀なくされている。この動画は学校を管理する側の論理と世間の価値観との大きなズレを非常に分かりやすく可視化している点で極めて貴重なものと思う。

 なお石田氏の願いも虚しく・・・と言うか、当然の結末として尼崎双星高校の口コミは現在、最悪の状況となっている。SNSの怖さを管理職はこの際、思い知るべきであろう。特に石田氏の取材時、表に出るべきだった校長とクラス担任が最後まで登場しなかった。この事の重大さを学校側は是非、問い直していただきたい。

⑬三部制の定時制の裏側

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・三部制定時制高校増設が学校社会全体に及ぼす衝撃

 高校の場合、他校に赴任すると自分の意に反して突然、自分の専門外の科目を任されることは普通にある。そもそも転勤先が定時制や職業高校ならば専門外どころか複数の科目を任されること自体、当たり前である。特に定時制や小規模校(現在、増加中)の場合、少なくとも三科目までは覚悟する必要があるだろう。自分も大学時代に専攻した学問とは全く異なる科目を初任からずっと任されてきた。初めて受け持つ科目が一つならば何とか対処できるだろうが、それまでやったことのない科目を一度に二科目も任されてしまうとなればさすがに誰でも辛いはず。

 ところで今、ごくごく一部で話題の三部制の定時制高校では多くの場合、学年制ではなく、単位制を取っており、しかも秋入学秋卒業を認めている例が多い。このためほとんどの講座は2単位もので構成されている。と言うことは必然的に一人の教師の持ち科目数と持ち時間数が多くなりがちになる。

※4単位ものの場合、半期の講座では週8時間の授業となってしまうのでこれは教師、生徒共に辛すぎ

 る。どうしても4単位ものの講座は通年の講座しか設定できない。とは言え通年の4単位ものの講座を

 多くしてしまうと選択肢が狭まるため、今度は秋卒業が難しくなってしまう生徒が出てくる。これで

 は生徒の不利益につながるので勢い、講座は2単位ものばかりになってしまう。

 

 また各科目の講座は通年の講座と半期の講座(半年で2単位が修得できる)とに分かれている。私は日本史で採用試験を受け、表面的には日本史を専門としていたにもかかわらず、三部制の定時制では転勤してきた初年度、現代社会の通年講座と半期講座(前期)、倫理の通年講座と半期講座(前期)、政治経済の通年講座と半期講座(前期)をそれぞれ一講座ずつ年度の前半に持たされた経験がある。地理歴史科の教師なのに、この年は専門科目の一科目すら教えることが出来なかった。そのかわりにこれまで一度も受け持ったことのない倫理を2講座、担当することになった。

 

 半期講座の場合は半年で2単位取得できる。つまり2単位の講座にもかかわらず週に4回の授業を行うわけである。同じ倫理という科目でも通年の講座の方はごく普通に週に2回の授業で一年かけて行う。このため、単純に見ても半期の方が授業の進度は通年の講座の倍の速度になる。

 すなわち倫理を通年と半期の2講座を担当するといっても同じ内容の授業を繰り返せるのは最初の頃の授業だけ。ということは倫理一科目に限ってみても、授業準備にかける労力は通常の2単位ものとは比べものにならないほど重くなる。

 倫理の場合、「週6種類の授業準備」とまではいかないにしても、実質週3~4種類余りの授業準備をほぼ半年間行う・・・少なくとも倫理一科目だけでそれくらいの負担に相当すると言えるだろう。

 

 私のいた高校ではすべての講座が2時間連続(45分+45分=90分)の授業展開で、合間に僅か5分の休憩が入るだけ。もちろん連続の2時間が終われば今度は次の2時間まで15分もの休憩が入るから、休憩時間に関してトータルで不足しているわけではない。ただ授業の合間の5分という時間がそもそも休憩時間として適切なのか・・・と思う部分はあった。

 転勤してきた際に初めて受け持つ科目(倫理)が2単位ものと聞いた時、2単位ものなのだから授業準備にそれなりの時間が確保できそうだ・・・と実際に授業が始まるまでは安心していた。が、4月になって半期ものが週4時間、それも一度に2時限が連続(つまり90分の授業)するということを知った時、愕然としてしまった。これでは授業準備が間に合わなくなるかもしれない・・・加えてこれまで教えたことのある政治経済や現代社会までもが異様なほどの負担感となって私を襲ってきたのである。

 それはなぜか…

 

 三部制の場合、午前部、午後部、夜間部の時間割にそれぞれ2時間分オーバーラップする時間があるため、教師の時間割は一日6時限ではなく、一日8時限で組まれている。普通の学校は授業の分母が6時限なのに対してこちらは8時限であるため、当然、一日6時限分もの授業を割り当てられることは普通にある。最悪の場合は半期のみとは言え一日8時限の授業となる曜日も出てくるかもしれない。

 となればその日に必要な授業準備は確実に前日までに終わらせておく必要が出てくる。否応なしに授業準備や提出プリントのチェックなどは前後の空き時間が少ないため、そのほとんどを自宅へ持ち帰ることになるのだが、時間不足と翌日の授業に間に合わなくなるかも、という不安とで、曜日によっては夜もまともに寝付けなくなる。

 もちろん自習監督の割り当ては一日8時限という分母を基準にしているので一日4時限程度の授業負担ならば当然の如く自習監督を入れられてしまう。

 しかも8時限の時間割のため教師及び生徒には放課後としての時間がほとんど確保されていない。どうしても生徒との面談や文化祭の準備、部活の指導、学年会議や分掌の会議などはその時間設定と教室の確保に常時、非常な困難をきたてしまう。HRや教室掃除の時間も実質20分程度しか用意されておらず、休憩時間を削らないとどちらも成り立たないのだから、最早稀に見る、驚きのブラック・システムであった。

 半期の講座は通年の講座よりも早く終了してしまうため、定期考査の問題漏洩を避け、両講座の成績面での公平を期するには、厳密に考えれば(通常とは逆に思えるだろうが・・・)テスト問題をまったく同じ内容にするわけにはいかないはずである。したがって同じ倫理という科目で同じ担当者でありながら、実は通年と半期とでは問題どころか授業内容自体をも一定程度、変えていく必要が生じてしまうはずなのだ。

 

 しかしこんなことは一体どこまで可能だろうか・・・そもそも一体どこのどなたがこんな無茶苦茶なシステムを考え出したのだろう・・・というわけでこの年は前期の場合、実質的には週に合計18種類の異なった授業をしなければならず、定期考査の問題はその都度6種類、前期だけで合計12種類もの試験問題を限られた空き時間の中、たった一人でひねり出す必要があった。

 

 三部制の定時制の生徒達の中には日本に来たばかりで日本語すら十分に理解できない子(日本語を母語としない生徒は定時制の全学年で合計50人以上か。平仮名すら分からないまま高校3年生になっている生徒もいた)や中学校3年間で200日以上欠席している子(かつて不登校だった子は午後部ではクラスの3割近くを占める)、非行に走り、腕力にものを言わせて周囲を威圧するいじめっ子、家ではDVを受けて心に深い傷を負っている子(児童養護施設から通う子もいる)、貧困にあえぐ子(生徒の8割近くはアルバイト、年間100万円も稼ぐ生徒がいた)、何らかの発達障害や学習障害を持つ子(ディスレクシアや重い知的障害を抱えた自閉症の子もいる)・・・それぞれが少なからぬ割合で一つの講座に混在している。

 多様性に満ちた定時制の生徒達を授業中誰一人取りこぼすことなくしかも合計90分という、どうみても無理筋の長丁場を生徒たちに飽きさせることなく最後まで乗り切っていける社会科教師など果たしてこの世に存在しうるのだろうか。

 そもそもどんな生徒が相手であってもこの条件下で3科目すべての科目、合わせて6講座を一人の教師が無事に半期終了まで勤め上げること自体ほとんど神業に等しいに違いない。だが誰が何と言おうと、割り当てられた週18時間分の授業準備を前期の半年間は続けなければならない・・・

 もちろん三部制の定時制だからといって、すべての高校がこんな過酷さを持つわけではなく、また担当教科や午前部、午後部、夜間部によっても負担感の差はかなりある。夜間部の場合は普通の定時制に比べて若干、授業の負担は重いものの、生徒指導や進路指導のあり方には他の定時制とほとんど差が無い部分も少なくはない。しかし午前部や午後部は教師の誰一人として経験が無い分、何かと面食らうことが多い。

 とりわけ教科の違いによる負担感の差は三部制の場合、明らかに極大化してしまうだろう。多様な生徒の実情に合わせようとして授業を工夫しようとする教師ほど悪戦苦闘は不可避であり、なおのこと負担が重くなる。

 毎時間、提出用の自作プリントを用意し、回収するだけでも過酷な作業量である。プリントは授業中に終えることが出来なくとも授業の終わりに必ず回収する必要がある。次の授業の時(多くは1週間後)までにかなりの生徒が紛失してしまうか、教室に持参してこないからである。実はこの学校、本当の意味でのホームルームや自分の机が存在していないので、教科書や配布プリントなどは持ち歩くか、昇降口のロッカーにしまうしかない。一週間も経つうちにプリントなどは紛失してしまっても不思議ではないのだ。

 このような極めて特殊な学校で、しかも理解不能なほどに多様な背景を持つ生徒達に通用する社会科の授業を創り出すには想像を絶する忍耐力と努力を要する。しかしそこはあまりに特殊なケースであるため、どんなに言葉を尽くして説明しても第三者の理解や共感はほとんど得られないに違いない。

 

 こうした学校ではよくありがちなことだが学級担任の希望者が極めて少なく、新任者には有無を言わせずに学級担任、場合によっては学年主任などを委ねてくる。特に再任用の常勤講師ならばベテランということでクラス担任どころか主任にされることも珍しくない。だから多くの場合、転勤早々の4月から分掌の責任者あるいは新入生の学級担任としての激務なども加えられた上で授業を含め、疾風怒濤の勢いで新学期が始まったりするわけである。

 当然の事ながら教育困難校にはこれまたありがちなことだが、新一年生の学年団が新任者ばかりという笑えない事態が繰り返されてしまう。そのため、極めて常識外れで複雑怪奇な三部制のシステムのことを校内の誰に聞いても苦笑いされるだけでほとんどの教師は明確には答えてくれない・・・人事面での異動が激しいため、経験の蓄積と共有が決定的に不足してしまっているのだ。

 私の属していた不登校の多い午後部の担任の多くは3年で転勤するか、たちまち午前部へと鞍替えしていった。私の隣のクラスなどは4年間、何とすべて違う教師が入れ替わり立ち替わり学級を受け持っている。事情に通じている他の三部制高校の経験者がこの高校に転勤してくることは在任6年間で一度も無かった。いつまでたってもまったくの手探り状態のまま、時間だけが慌ただしく過ぎていく。特に社会科教師の在任期間は短く、3~4年程度である。

 

 こうして長々と三部制の定時制における無茶ぶりの実態を愚痴ったのには深い訳がある。実は何と悲惨なことに現在、多くの県の教育委員会はこの過酷な実態を持つ三部制の定時制高校をその欠陥を取り立てて是正することもなく、増加する一方の不登校者への対策としてさらに増設する計画を持っているというのだ。

 このとんでもないダイナマイトのような破壊力のある「教師のバトン」を一体、誰が手にしてしまうのだろう。このバトン渡しはまさに命懸けの罰ゲームのような悪夢ではないのか。運の悪い(?)少なからぬ数の教師にとってあまりにも過酷すぎる将来がすぐ近くまで迫ってきていることを皆さんは実際、覚悟出来ているのだろうか。特に社会科教師が直面する悲惨さには全員が絶句する他ないだろう。

 

 もちろん中学時代、不登校だった生徒達や発達障害などでいじめられてきた子共達の貴重な受け入れ先として各地の三部制の定時制高校が不十分ながらも一定の社会的役割を果たしている側面は見逃せまい。しかし教師の授業負担一つとっても異常なレベルであるこのシステムの欠陥だらけの現状は余り世間には知られていない。しかもこうした学校がこの状況のままで増やされていくことが意味することは学校社会全体にとってとてつもなく破壊的であろうと予想する。これまでも批判されてきたはずの学校のブラック化が性懲りも無く一気に加速していき、心身を病む教師がいよいよ増えていくに違いないのである。

 

 おそらく中学校でも多くの教師達が三部制の定時制と大差のない苦しさの中で高校を遙かに上回る週20~24時間程度の授業数を精神的に不安定な思春期の子供達相手に必死でこなしているはずである。そして当然のように中高の多くの教師は放課後や土日のほとんどを会議や保護者への対応、事務処理、とりわけ部活動に捧げている。

 であるにも関わらず、十二分にブラック化していた学校現場に(今度こそ教師達のとどめを刺そうとするかのように)何とコロナ禍への対応、そして高校の場合はいよいよ2022年度から新科目「公共」、「歴史総合」などを含む新学習指導要領の導入が始まってしまった。にもかかわらず文科省はこれまで教員の負担軽減にずっと力を入れてきたと平気でうそぶいているのだから何とも始末に負えない。

 

 現場の教師たちにどれだけの無力感とやるせなさが蔓延しているのか、政府は分かっているのだろうか。いや、おそらく分かろうとさえしていないに違いない。

⑫高校入試採点ミスの裏側

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【高校受験】千葉県公立高、デジタル採点導入など…採点ミス改善策で提言

 リシード 2023.6.19

 2022年度の千葉県における公立高校での入試採点ミスが98校、933件にも達してしまった件に関して県の教育長は「…各県立高へのアンケートで不注意や解答用紙の様式などが採点ミスの原因として挙げられた」との認識を示し、専門家からなる改善検討会議を設置してその提言に基づく改善を検討していくとのこと。

 しかしながら直近まで高校入試の現場にいた自分としてはなぜもっと早くから改善策がとられなかったのか、不思議でならない。そもそも「解答用紙の様式」と「模範解答の様式」が異なることが採点時のミスを招く、との指摘はかなり昔から存在していたし、アンケートでも繰り返し指摘されてきたはず。ところがこれまでまったく改善されることは無かった。

 加えて入試の前後は3年生の追試、成績処理、卒業式の準備、就職指導などと重なり、3学年に関わる多くの職員は極めて忙しい。殺人的な忙しさに振り回される中での不注意を一体、誰が咎められるのだろう。

 「入試」は別格の重要な仕事であることなぞ、とっくの昔に承知している。別格の仕事ならばその時期に他の仕事を集中させてはならぬはず。採点ミスの責任の一端は教員の多忙化を加速させ、アンケートの結果、すなわち現場からの提言を黙殺してきた県教委にあることは明白だろう。これこそが「人為的ミス」の最たるものなのに、相変わらず自らは反省せず、ミスの責任を現場に転嫁する無責任な弱いもの叩き…いかにも千葉県らしい対応ではある。

 とはいえ高校入試の受験者数が年々、減少の一途をたどり、採点すべき答案の枚数は以前よりかなり減ってきているはず。しかも千葉県では年2回の入試が1回に軽減されたばかりの段階であるにも拘わらず、ミスがこれだけ多いとなると、この件がはらむ問題は意外に根深く、相当に深刻なのでは。

 もはやミス多発の原因を単なる教員の過労や県教委の怠慢…といった分かりやすい要因だけでは十全に説明できないようにさえ感じられるのだ。少なくともそう思えるほどに千葉県の高校教育現場の疲弊は今や切迫してしまっているのではあるまいか。

 

 では現今の入試採点ミス多発が意味することとは一体何だろう。もしかしたらこれは学校運営の中核たる40代後半から50代前半の教員の異常なまでの少なさと校務全体の複雑化、多忙化などによって千葉県公立高校全体が徐々に自らを教育機関としてまともに運営する力を奪われ、まさに今、地滑り的崩壊が始まろうとしている…すなわちこれは公教育としての破局的な局面に移行しつつある一つの兆しなのかもしれない。

 現に大学生は「沈もうとする船に乗りたくない」と言わんばかりに教職を忌避するようになっている。教師不足が叫ばれる一方で今や再任用を断る退職予定の教師だって少なくない。一番悲惨なのは職場から長期離脱したり、早期離職に追い込まれる働き盛りの教師が増えていること。加えて生徒たちもまた学校への忌避感が増大し、不登校児童生徒数は増える一方である。これらの問題ばかりは「人為的ミス」という表現でアッサリと説明してしまうことは許されないだろう。

 従って私としてはせっかくの有識者の提言もおそらく時すでに遅し、入試を含めたあらゆる事態の悪化が容赦なく加速度的に同時進行し、視野の狭い部分的改善など現時点に至っては何の意味もなさなくなる…と考えるが、いかがか。

 

異例の196人処分・指導措置 千葉県教委、入試で採点ミス相次ぎ

 毎日新聞 によるストーリー 2023.7.20

 結局は例の通りトカゲの尻尾切りである。これで教師の意欲はさらに低下し、千葉県の公立高校における機能不全はさらに進行するだろう。

 マークシート方式の導入など、採点業務に絞られたミクロな観点からの改善策だけではもはや高校現場の働きやすさの向上には何一つ、つながるまい。採点ミスが減ったとしても教員採用試験の倍率が上がるわけではない。

 県の対応は対症療法でただのモグラたたきに過ぎず、今度は別の事件事故が頻発するだけだろう。

 

生徒へのわいせつ行為や盗撮などで教諭ら9人を懲戒処分 過去最多を更新 千葉県教

   育委員会 TBS NEWS DIG_Microsoft によるストーリー 2024.1.17

   案の定、教員の不祥事が多発してきている。明らかに千葉県の教育界は機能不全に陥っているのであり、その原因は多岐にわたるだろう。しかし最大のポイントは県の教育界の頂点にいるはずの教育長に責任を問う論調がマスコミにおいて皆無であること。指導的立場にいる人物が部下たちの不祥事の責任を一切、とろうとしないような組織に自浄能力は期待できない、と考えるのが世間の常識であろう。

  マスコミの機能不全は今に始まったことではないが、やはりマスゴミには今後も一切、期待してはなるまい。

   昨今のパーティー券販売による裏金問題では関係する自民党所属の閣僚が相次いで辞任している。当然、岸田首相もまた任命責任を厳しく問われることになろう。腐敗を極める政界ですら、多少のケジメはとろうとしている。ところが千葉県の教育界では令和4年度の高校入試における採点等のミスが千件近くも発覚するという、未曾有の不祥事を引き起こしてもなお、教育長は自ら責任をとることを一切せず、末端の教員ばかりを処罰するにとどまっていた。そしてたちまち令和5年度の教員による不祥事多発である。

   残念ながら教育次長は何と学校現場に綱紀粛正を求める通達を出すだけで事足れりと考えているようだ。しかも教育委員会として他に出来ることは無い、という言い訳がましいセリフを残しているという。無責任であり、恥知らずであり、無能すぎるのではないのか。

 一体、県の教育長は何のために存在しているのだろう。文科省の官僚が天下る高給取りの名誉職という、肩書だけの役職に過ぎないならばいっそのこと無くしてしまった方が良いに決まっている(なお現教育長は文科省出身ではないが…)。いよいよ兵庫県などと並んで学校不祥事多発の県として悪名を全国に轟かせようという勢いのある千葉県の教育界からは一時も目を離してはなるまい。

 

参考動画

千の葉の先生たちの一歩目【千葉県教員採用プロモーション動画】

 千葉県公式PRチャンネル 2025/01/15 8:57

 この動画の薄気味悪さに辟易するのは私だけだろうか。教師不足に対応するために教職の魅力を分かりやすく動画で発信する、というコンセプトはその意図を含めて多少とも分からなくはない。が、やはり現役の教師たちが徐々に募らせてきた学校教育への不安や不満、不信とまったく向き合おうとしない県教委の、相も変わらぬ無責任で厚顔無恥な姿勢ばかりが目立つ動画…などと感じてしまうのは、はたして私のヒガミ根性が過ぎるのだろうか。

 これらの動画を視聴していると、なぜ今、教師不足が生じているのか、その原因について県や市(千葉市も同様な動画を発信している)がまともな分析をしているようには到底思えない。そもそも現状からして、今の若者たちに教職の魅力が広く理解されていない…などとはどうみても思えないはずである。

 多くの教師たちはこれまでも児童生徒の力になろうとして悪条件の下でそれなりに奮闘してきたはずである。それを10年以上の長期間、児童生徒の立場で教師のすぐ傍から見て育ってきた今の若者たちの多くは、当然のことながら教職の魅力、やりがいについてそれなりの理解を持っている。そうでなければ児童生徒の将来就きたい職業の上位に長期間にわたって教師が君臨し続けるわけがない。

 明らかに教師不足の問題は若者たちの教職のやりがいへの無理解、無知にあるのではない。したがってこの程度の薄いつくりの動画で既に分かり切ったことを敢えて税金を投じて業者に依頼し、動画編集を重ねても、教員志望者数を増やす点での効果はほとんど期待できまい。いや、これはむしろ美辞麗句を連ねたブラック企業の新入社員募集広告に酷似する、詐欺まがいの怪しさすら漂っている。一言でいえばまさに有為な若者たちをたぶらかす、悪質な扇動広告に過ぎまい。

 どうやら動画に実名で登場する二人の新人教師たちは本名に加えて自分たちの勤務校までネット上に晒されている恐ろしさにまだ気づいていないようだ。初任なので彼らがその恐ろしさに気付けないのはある程度仕方ないのだが、そうした彼らの無知さと立場の弱さに付け込み、ただの詐欺まがいの広告に利用する教育委員会の狡猾さには怒りしか覚えない。

 管理主義教育先進地で悪名高い千葉県のことである。数年後、彼らは予想外の厳しい労働環境に耐えかねて早くも休職や退職に追い詰められているのかもしれない。いや、さほど遠くない将来、彼らが自分たちの動画を一刻も早くネット上から削除して欲しいと願う日さえ来るかもしれない。

 なぜならば小学校に赴任した女性教師は初任であるにもかかわらず、いきなりクラス担任を任されている。初任者研修の厳しさからすればこれは決して好ましくない人事であり、配慮を欠いている。そもそも初任の教師をいきなりクラス担任に据えることは本来、学校として極めてみっともない人事であるし、決して世間に晒してはならないはずの異常事態であるべきだろう。公にされたら恥ずかしいレベルの人事が千葉県の場合、平然とネット上で晒されている…これはこうした残念極まる異常な人事がこの地では既に常態化しているという証拠なのである。もちろんこうした「恥知らず」の人事が横行しているのは間違いなく木更津市だけではあるまい。

 そして男性の高校教師の方は県内でも有名な教育困難校に、可哀そうにも初任で赴任している。こうした初任教師に対する慎重な配慮の欠片も見られない人事は、ベテラン教師が異動先として嫌がる困難校での人手不足を無理やり補う手段として千葉県では古くから常套化していた。これもまたどんな赴任先でも「ノー」とは言えない初任の弱い立場に付け込んだ卑劣な人事というほかない。

 加えてこれもまた常態化してしまっているがゆえにその異常さ、卑劣さに県の誰もが気付けていないのだ。非常識な異常事態を常識的人事であるかのように押し付けてくる、恐ろしい教育風土が千葉県には根深くこびりついているとみて良い。そしてそうした残念な人事が千葉県の公立高校ではいまだに横行している…という極めて情けない実状を千葉県自ら「恥知らず」にもネットを通じて堂々と全国に晒しているわけである。あまりの厚顔無恥さに呆然とする他あるまい。

 千葉県や各市町村が学校の実情をどこまで直視し、学校のブラック化にどう対処していくつもりなのか…学校の労働環境の改善目標を的確に明示し、どのような見通し、スケジュールを持って事態の改善にどの程度まで真剣に取り組もうとしているのか…こうした事を赤裸々に開示し、表面的にはキラキラして見える教職の魅力の裏側に隠された学校のブラックな実情への改善への道のりをしっかりと示していく…この事こそ、今の若者が教育委員会に対して真に求めている情報であると思うのだが、いかがだろう。

 こんなゴマカシ動画が今もまかり通ると信じている教育委員会の方々、時代錯誤も甚だしく、若者を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

⑪職員室のあり方

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 都立高の教員が生徒600人の個人情報を紛失…一部が生徒間で共有されていた 外部

   への流出は未確認 東京新聞 2024.7.5 

 紙ベースで生徒全員分の写真付き個人情報(個人調査票)が記された資料をファイルに入れて保管している学校の場合、そのファイルは現在、教頭がカギのかかる場所に保管していることが多い。教師がファイルを使用したい時は教頭、ないしは教務主任に声をかけてカギを借り、ファイルを取り出す。その際、カギのある場所につるしてあるノートに借り出した資料と時間、返却した時間、借りた教師名等を記す…といったような作業が必要となっている学校は多いだろう。

 かつては各クラスの個人調査票をそのクラス担任が保管し、学年分は学年主任が保管。全生徒分は生徒指導部長や進路指導部長がそれぞれ保管していた。しかし荒れた学校では学年室に常駐する教師が少ないとたちまち生徒たちが侵入してきて様々な悪さを働く。生徒指導室や進路指導室も同様である。学年生徒全員をクラス別にまとめた生徒の個人写真(業者ないしは教師の手作業で一冊にまとめてある)もまた教師には必須の資料であった。しかし保管場所に生徒の侵入を許すとそうした資料が流出してしまうことは実際、度々、起きていた。しかし当時はそうしたことがほとんど表沙汰にはならなかった時代であったのだ。

 生徒の個人情報の管理が厳しく問われる現在、その保管は細心の注意が必要となっている。管理を徹底するには最初に述べたような、教頭への個人情報集中管理方式が情報流出を防ぐ点で最も効果的であろう。しかし、実際問題、学年室や生徒指導室での仕事が多い教育困難校では、この方式を採用できない。どうしても生徒の個人情報を参照しなければならない案件(特別指導等)が多く、いちいち教頭のところまでファイルを借りに行く手間ヒマはかけたくない。学年主任や生徒指導部長だって自分の空き時間にしか、分掌の仕事はできないからである。そして教頭や教務主任も激務であり、ファイルや鍵のあるところ(教務室や大職員室)に不在の場合が少なくない。

 ならば学年室や生徒指導室に誰もいない時には生徒の侵入を防ぐために施錠したら良かろう。実際、施錠できるように鍵箱や鍵をしまう場所を設けている学校は多い。しかし学年室や生徒指導室が不在となりがちな学校では別の場所での盗難や器物破損(特に消火器、火災報知器、ロッカー、トイレ等)が横行してしまいがちである。それらを防止する意味でも学年室の常駐制度は機能している必要があるのだ。

 しかし多くの教育困難校では学年室常駐体制が機能していないことが予想できる。その原因の第一は生徒数減少による教師数の不足である。一学年3クラス程度となってしまうと学年職員の総数が7人前後。出張や休暇等で学校に不在の教師が一人出ただけで学年室にいる職員は不足してくる。まず過半の教師が授業に出てしまっている。加えて一部の教師は教務室や進路指導室に常駐している。しかも英語、国語、理科、芸術、家庭、体育科の教師は様々な理由によって教科準備室に常駐することが多い。

 その結果、特定の学年の教室が並ぶフロアではアナーキーな状況が度々出現し、火災報知器がけたたましく鳴ってしまう、消火器が3階、4階の窓から投げ落とされる、水道の水が廊下まであふれ出る、トイレでの恐喝、喫煙やロッカーの破損と盗難が繰り返される…そうした事態に加え、学年室や教科準備室(他の部屋に教師が常駐することが多い社会科、数学科の被害が目立つ)から様々な物品が紛失し、物が窓の外に放り出されるなど、散々に荒らされてしまう。件の都立高校も、もしかしたらこんな状況下での出来事だったのかもしれない。

 こうした事態を防ぐことはきわめて困難である。冒頭の管理システムを取れていた学校は実際には学力的に中位層より上の進学校であった。教育困難校が置かれている状況は過酷であり、学年を超えた取り組み(学年を超えた校内の巡回等)が必要不可欠なのである。もちろん、これは管理主義的発想であり、必ずしも民主主義的、教育的対応ではあるまい。では、他の方法に何かあるのだろうか…少なくとも私には定年に至るまで有効な方法がついに見当たらなかった。

じつは「日本だけ」だった…海外とあまりに違う「日本の職場の特徴」が意外だっ

 た 『日本社会のしくみ』現代ビジネス 小熊 英二 の意見 2023.7.5

 

 個室と大部屋」に関する論考は高校の大職員室制や学年室常駐制と教科準備室制とに対応するだろう。大職員室制を採用する学校は義務教育の学校や生徒指導が困難な高校に比較的多い。教育困難校では学年室常駐制を採用するケースもかなりみられる。一方、教科準備室制を採用する学校は進学校に多い傾向がある。

 大学における教師養成教育が不十分な日本では新採用の教師に決定的な影響を与えるのは大学での講義ではなく、もっぱら初任校における準拠集団である。主にどの集団に属して多くの時間を過ごすか…これによってその後の教師生活はかなり方向づけられる。

 教科準備室にいる事が多い進学校に配属された教師は勢い、授業重視の教師文化を身につけ、専門科目を中心とした授業準備を念入りに行うようになる。しかし大職員室や学年室に常駐する教師は遅刻指導や学年の仕事、部活動の仕事といった授業以外の雑務に振り回されがちで管理職や主任、先輩教師からの助言と称する介入も頻繁に行われる。同調圧力がそこでは強く働くのだ。勢い新任教師は授業準備以外の仕事にも追われ、学校行事や部活指導、生徒指導をメインにする傾向が強くなる。

 そして進学校の数が少ない首都圏の公立高校では教師として最も重視されるべき授業力は二の次となり、むしろ生徒指導や部活指導の力が重視されがちになってしまう。

 

 日本企業は多くが大部屋であり、新入社員には専門性を強く求めず、交換可能で使い勝手の良いジェネラリストであることを求められる。これに対応して大学でも仕事の高度な専門知識・技術を養成する意識は低く、あくまで学者の養成を念頭に置いた学問的な講義ばかりとなりがち。したがって日本では長期にわたって専門の職務に専念し、仕事のレベルアップをはかるという欧米型、ジョブ型の勤務が最初から条件的に難しい。また採用選考時も大学での専攻や学位についてはほとんど重視されず、学校歴、サークル活動や学外でのボランティア活動などが注目されてしまう。

 つまり日本の学校組織の文化と企業組織の文化とはかなり共通する要素が多いのだ。日本の大学での教師養成教育が授業実践の面では教育系大学あるいは教育学部ですら極めて不十分であるのもこれで首肯できるだろう。だからこそ大胆な授業改革が求められる現在、授業実践力の向上を軸とした大学における教員養成教育の、より一層の充実が必要不可欠だと私は考える。

⑤清掃における献身性のヌマ

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   組合活動だけではない。教師をしていれば否が応でも相当の自己犠牲を強いられるような雑多な仕事の数々を学校のそこかしこに見出すことになる。たとえば困難校では学校内の清掃が行き届くことは極めて稀である。そもそも通常の清掃をしていてもたちまちゴミが散乱してしまう。場合によってはその清掃すら監督者が諦めてしまい、まともに掃除されない状況が時折見られるようになる。

 教室によっては黒板がジュースの染みだらけで字がどこにも書けないようなことがよく生じてしまう。つまり黒板消しではなく、濡れ雑巾を使わないと授業にはならない最悪レベルの黒板となっている。

 足下、教壇の上には黒板に向かって投げつけられたジュースの紙パックや缶、丸められた配布物の切れ端が幾つも落ちている。第一、黒板消しもチョークの粉だらけ、黒板クリーナーはかえって粉を吹き出すだけでまったく使用不能。チョークが置かれるべき黒板の溝にも粉やゴミが山のように積もっている。この様では授業を始めるために一体どこから手を付けたら良いのか・・・誰であってもしばらくは途方に暮れてしまうだろう。

 まずは黒板のクリーナーを清掃し、濡れ雑巾で黒板をキレイにして教壇のゴミを捨てる・・・といった段取りが頭に思い浮かぶかもしれない。ところが大抵の場合、そうした教室では雑巾がどこにも見当たらず(多くの場合、教卓のソデに掛けられている)、ゴミ箱もチョークの粉すら捨てる余裕が無いほど沢山のゴミで溢れかえっている。

 結果的に教室内に何匹かのハエがしょっちゅう飛び交っている事だってクラスによっては稀ではない。ゴミ箱近くに座る生徒の悲しげな目を見てしまうと、授業中だが教師が遠くまでゴミ捨てに行かないわけにもいくまい・・・もちろん、日直は全く機能していない。

 

 そんな学校では授業を始めるために20分以上を要する場合だってザラにある。ところが面白いことに教師がそうした、生徒たちの嫌がりそうな仕事に取りかかっている間、掃除をさぼってきた当の生徒達の一部が決まり悪そうにしてくれる事がある。場合によっては清掃後、通常の授業中ほど騒がしくはならないで済むクラスがあったりする。そうした事に教師は少し気を良くしてか、授業中や自習監督中であってもせっせと清掃に専念してしまう事すらあるのだ。第一、たちまち騒がしくなるに違いない授業を始めるよりも、よほどこの方が生産的で心の健康にもつながりそうだ。

 それどころか、教室、とりわけ黒板が新品のようにキレイになると(それなりの時間は要するが)ほぼそれだけで不思議なほどにクラスが静かになってくる場合がある。それまで荒れていたり、無気力だったりした生徒達が何だか観念したかのように俯いて大人しくなってくる事もある。

 こうした経験を重ねていくとせめて自分が担任するクラスの教室だけは黒板を中心に徹底的にキレイにしたいと思うようになるのが学級担任としてのごく自然な心情の流れである。生徒の状況によっては最早、教室の清掃を生徒任せには出来なくなる。少なくとも黒板と教壇付近は教師の独壇場で、教師自ら徹底的にキレイにするように努めてしまうのは困難校のクラス運営上、ありがちな成り行きとも言えるだろう。

 ところが折角キレイにした教室が翌朝、悔しくなるほど汚され、乱雑にされてしまう事もよくある。運動部の生徒達が部活終了後、あるいは夜間部の生徒達が清掃後、教室で飲食し、ゴミをまき散らした挙げ句、黒板にいたずら書きをしたりするのだ。そこで教師は仕方なく生徒が誰もおらず、しかもせめて午前中だけでも教室のキレイさを保てることを可能とする、自分だけの清掃時間帯を探すことになる。すなわち毎朝7時頃から教室の掃除に取りかかるのだ。キレイな教室で毎朝、一日のスタートが切れる・・・確かになんという清々しさだろう。

 

 本来、黒板は濡れ雑巾を使うとチョークの付きが悪くなるため、黒板消しで何度も繰り返して汚れを拭き取る必要がある。だから黒板の清掃だけで少なくとも20分は要するだろう。実はある時期、教室の清掃に私は毎朝40分前後を費やしてきた・・・ただしこれは明らかにやり過ぎである。どう見ても自分の首を絞めているに違いない。ところが朝早く来るような真面目で大人しい生徒が偶然、そんな教師を目撃して感謝の思いを述べ、手伝ってくれたりすると彼は嬉しさのあまりつい有頂天となってしまい、この愚行をやめられなくなる。しかも実際、これでクラスの荒れが沈静化していったと思えるケースは自分の経験上、決して少なくなかった。だからこそ、一度この悪循環の沼にはまってしまうと私だけではなく、普通の教師ならばその多くが自ら沈み込んでいく過重労働のブラック沼から容易には抜け出せなくなるのだ。

 

 以上の例は私が実際に経験してきた「献身性のワナ=沼」の一例に過ぎず、同じようなワナの話は経験豊富な教師であれば枚挙に暇が無いはずである。そしてこんな些細な作業一つだけでも、毎朝繰り返すルーティーンにしてしまうと山積する他の仕事が疎かになるのはもちろん、遂には自分自身の心身を極限まで疲弊させてしまう原因の一つにもなりかねない。

 しかしこうした事は多分、自分だけに限るものではないはず。困難校に勤務する多くの教師が似たり寄ったりの献身性のワナ、沼に繰り返し、性懲りも無くずっぽりとはまってきたのではあるまいか。生徒指導の激務が繰り返される中で…

参考動画

海外の人が驚く日本の学校が特別だと思う理由が衝撃的だったwww

   MrFuji from Japan《目指せトリリンガル》 2023/06/24  30:05

   特に部活動における違いは非常に参考となる。生徒による掃除など、日本の学校の良さにも注目できる。ただし日本の場合、掃除にそれなりの教育的意義があるとはいえ、行き過ぎてしまうと戦時中の「黙働」のように精神主義的な「滅私奉公」の全体主義に染まってしまう危険性は十分あるだろう。「みんなのために」が個人の犠牲を当たり前にするような集団主義は個人の人権や個性を否定するだけではなく、イジメの温床となりかねないと思うが、いかがだろう。

65.市原の戊辰戦争⑦

 

「ふさのそ(ぞ)よめき」上総戊辰戦争見聞録(筆者未詳の新発見史料)君塚斎藤

 操家文書より(「市原市史資料集近世編4」所収)

 

慶応4年(1868)4月11日より閏4月21日までの記録

 ※多少読みやすくするためにカッパが句読点、読み仮名、送り仮名等を補っている。

 慶応四戊辰四月十一日巳之刻過ぎ(午前10時すぎ)、江都(=江戸)より脱走方凡そ二百人ばかり、五井浦へ着船。そのほか椎津、笠上、木更津あたり所々へ着船、上陸。引き続き海陸より毎日、通行あり。重兵隊、撒兵、砲兵義軍、あるいは㋣等の合符等を書き記し、およそ三千人ばかり、木更津、真里谷はじめ、そのほか数か所へ屯集、房総の列藩を応接連合して威勢壮大なり。これにより日々、四方へ往返間断なし。しかるところ、辰四月初めより下総あたりまで軍発向。既に市川、八幡(市川の)、船橋あたりにおいて戦争これある由、相聞こえければ閏四月四日、義軍隊およそ二百人ばかり繰り出しに相なりそうらえども八幡よりただちに引き返しに相なりければ、近日官軍当地の発向、戦争も相なりそうろう様子につき、村中おおいに騒動し、家財、雑具、あるいは畳、建具等にいたるまで片付け、老幼婦女は近里、隣郷へ逃げまどい、今にも合戦に相なるべきやと一同、肝を冷やしけり。

 かくて義軍方隊長福田八郎右衛門、増田直八郎、同差図役池田繁佐郎(ママ)、渡辺新十郎、荒川徳十郎等をはじめとしておよそ百人ほど五井へ出陣し、姉崎に出張。諸方馳せ廻り、見張り所数か所立て、僧俗男女、非人にいたるまで厳しく穿鑿いたしけるところ、同六日夕べ、七つ時(午後4時)、医体一人、俗一人通りかかりけるを北五井において池田氏、これを討ちとり、首級は隊長へ送りけり。右は官軍方間諜菊地道安、豊次郎と申す者のよし。亡骸は五井地内へ埋めさせおき候ところ、一両日過ぎ、掘り返しに相なり、八幡村日蓮宗円頓寺へ改葬し、厚く弔いけるとや。いんぬる程に官軍方、今暁にわたり、八幡、浜ノ村、曽我郷まで押来たり、宿陣のよしたしかに聞こえければ、さらば用意せよと出口出口に塁を築き、砲戦の手当てなく(手当成し?)、村人大勢諸方を見廻り、その備え厳重なり。

 かかるところ、その夜五つ時頃(午後8時頃)、商人体のもの三人通りかかりそうろうにつき、人足共これを咎めしところ、寒川村より岩崎新田へ鮮魚買い出しにまいるよし、答えける。いかにも怪しき体ゆえ、押し捕え、すぐさま見張所へ引き連れ行き、糾明しければ、一人は長藩の卒のよし。ほか二人は五反保の漁夫なりしか。案内者に頼まれ、金二百疋もらいうけまいり候よし答う。右は当村放火のために入り込み、その火の手を合図に海陸二道より官軍一同攻め入る候はからい等のよし白状す。すなわち懐中衣服等改め見るに単物の襟、火薬、付け木等縫い込みこれあるゆえ、火付けに相違なしとて三人をからめおき、用心益々厳密なり。ほどなく右の者を姉ヶ崎へ引き連れ行き、同村海辺で斬首なしける。五反保の漁夫二人は追い放ちけり、命は助かりしとなん。誠に危うかりし次第なり。

 あくれば七日曇天、北風烈しく吹ける。未明に義軍方、池田氏を魁として屈強の兵十余人、八幡村へ襲撃。接戦なしがたく引き取りければ、追々官軍繰り出し来たり。君塚村にて砲戦始まり、同村にて童子二人一砲丸に貫かれ死す。それより納屋原という所にて戦争時を移す。かくて夜は明けわたりける時、海辺に当たりて大砲一声響く。間もなく官軍大勢上陸押し寄せ来たり。五井村をめがけ大砲二、三打ち出しけれども玉は田の中に落ち、人家ともにつつがなし。そのとき藤井、郡本あたりにてラッパ、太鼓の音喧しく聞こえ、四方八面より薩州、長州、備前、大村等の軍勢、紅地に白の菊のご紋の旗を真っ先に押し立て、頭には思い思いの笠をかぶり、筒袖、羽織、細袴を着し、肩には錦の短冊ならびに家々の合符の小旗を差し、剣付き鉄砲を携え、各異人風体にてその勢およそ三千人ほど巍々整々として進み来る。そのうち東兵、池田氏をはじめ、ほか三人まで銃丸を受ければ、大勢に当たりがたく、右往左往に散乱す。当地にて東兵討ち死に三人。官兵手負い数知れず。

 ここに哀れなりしは当村に香具を生業とせし喜三郎というものあり。宵より人足に出、今朝帰宿せしところ、義軍鈴木何某、砲丸を受け、彼宅へ逃げ入り候ところ、官兵追いかけ来たり、即時に鈴木を討ち取りける。喜三郎、大いに驚き、逃げんとするところ、透かす両手を切り、即時に倒れ死す。まことに無惨なる事、それなり。それより寄せ手の軍勢、出津村へ進撃す。養老川の渡船場に東兵、およそ三十人ほど固め居りたりしが、川を隔てて砲戦す。官兵大勢、故事ともせず。川を渡り越し、接戦す。義軍方石川某、踏みとどまり、大勢の中へ切りて入り、奮激突戦目を驚かす働き。敵十余人に手を負わせ、その身も眉間に疵を被り、血眼に入りて働き事叶わず。ここにおいて出津村まで漸々引き取り、見事に切腹なしたりとぞ。残兵、これまでなりと無二無三に切り入り、ここにて十七人、松ヶ島にて十一人討ち死になり。

 官兵討ち死に、手負い若干なりしが、皆々戸板、あるいは駕籠に乗せ、引き取りけるゆえ、その数を知らず。ここにまた、当国鶴牧の領主一万五千石水野肥前侯、最初は朝臣になりたまいしが、先達てより脱走方に説得せられ、連合して兵糧ども少しは貢ぎ、城下あたりも屯集せられしが、今九つ時分(12時頃)、官軍方大勢押し寄せ、大砲打ち掛け、新屋敷という所、焼失す。これによりて肥前侯は何地かへ脱走し、家老共、防戦すべなく、ついに降参す。官兵、城を受け取り、金銀はもちろん、資材・雑具にいたるまで我先にと略奪す。誠に兇暴至極いう計無し。

 また一手の官兵、椎津、笠上あたりまで進撃、このあたりにても戦争これあり。東兵あるいは討たれ、または落ち失せける。さて五井より在方へ向かいし官兵、まづ平田村へ押し寄せ、潜伏の徒これあるやと四方より捜□を放発しけれども、一人も出あわねば、同村にて暫時、休息、昼食等いたしける。これ備前侯の軍勢や、それより村上の方へ押し行ける。しかるに同村地内廿日崎という所に義軍方、七、八人ばかり見張りおりしが、根田、惣社、村上より官軍大勢来るを見て砲声一発響かせしかば、すわここにも敵ありと大勢蟻の如く群れ来り。砲戦し東兵二人戦死、残兵は何地ともなく逃げ落ちける。

 引き続き村上村へ押し寄せ、同村に真言宗にて観音寺という寺あり。脱走兵屯集の沙汰ありければ彼寺を穿鑿せしかども一人も居合わさず。ここにおいて未の刻頃(午後1時頃)、観音寺を放火し、深更に灰燼になる。それより宮原へ進み行き、途中、柳原渡し場にも東兵少々居たりしかば、戦争なし。ただちに宮原村を放火なし、三軒焼失なす。ここに同村前原源兵衛という者あり。この近辺に隠れなく富家なりしが、脱走方屯集せしよし先達てより聞こえありければ彼が宅へ押し寄せ、穿鑿なしけれど居合わさず、これによりて暫時休息し、兵糧等を遣れとせしかども、それ亭主留守のよしにて老婆挨拶ぶり取扱等、すべてよろしからず。よりて四方より発火。本宅、土蔵等ことごとく焦土となりぬ

 また真里谷村に禅宗にて真如寺という大寺あり。ここにも去頃より脱走兵大勢屯集ありければ、今夕、官軍方押し寄せけれども器械等沢山うち捨ておく。はや何処かへ落ち去りけん。一人も居合わさず。これによりて鶏鳴のころ放火し、一宇も残らず灰燼となる。官兵、分捕り若干にしてこれにて漸々鎮静しける。脱走方始め三千人余もありと聞きしが、速やかに何地へか脱走し、今日の戦争にここに八人、彼のところ二十人位にてはかばかしき戦いもなし。せめて勇兵五、六百もあらば勇々しき大合戦にもなるべし。さすれば勝敗いずれにかあらんと思わる。

 同夜、伊州侯の軍勢一千人ほど五井村宿営に相なり、同家の総督籐堂仁右衛門は光明山(千光寺)に宿す。その他大宮山(龍善院)ならびに町家残らず宿営に相なる。しかれども今朝の戦争に村民ことごとく散走し、かつ空き家のみにて一人も居ず。同夜、伊州の手に東兵二人生け捕られ、白山というところにて斬首せられ、首は路傍にありて骸は田中に横たわり、嗚呼感ずべし

 義軍隊わずかの微勢をもって官軍の隊兵に対して闘戦なす事、実に目を驚かす働き勇猛の次第なり。惜しいかな、内に一員の督将なく、外には一方の援兵なくして寡は固より衆し敵すべからず。ついに敗走戦死して骸は田野にさらすとも武名は総場の間にとどめけり。今、七日戦争の場、十余箇所、放火五箇所や、諸方にて東兵の討没都合七十七員なりとぞ。そのうち五井にて五人、いわゆる渡辺喜右衛門、同彦太郎、河合豊吉、鈴木藤原光盛、今一人名前知らず。官兵の闘没、手負い若干にしてその数をしらずと云々。

 

一.木更津に大河内縫之丞という人あり。染物を生業となし、家富み栄えけるが、先代より中村一心斎の門に入り、富士心流の撃剣に熟練しけるが、当代の縫之丞も父の流儀を受け継ぎ、同家大河内何三郎、同舎弟何某三人共武術に長じ、殊に義勇逞しき丈夫にて今般、脱走方に与力し、処々周旋すという。その門人数百人、皆これ義勇を磨き、里人これを称して誠忠隊という。弟何某は七日戦争に討ち死にしたりという風説あり。未詳。二人は北村へ落ちたりという。これまた未詳。

 

一.松波権之丞という人は前将軍家の時より武総房鎮撫使を命ぜられ、右三カ国を巡村せしが、今般の動揺につき脱走してそのところ十四人なり。去る船橋の戦争に官軍方へ回り、忠なし。船橋宿砲撃、放火は松波が所為なりという。しかるに同四日、五井泊まりて義軍隊へ加入のことを乞われしに、隊長福田肯いて入隊させおく。それより姉ヶ崎へ同伴なし、ここにて船橋戦争のあり様、その意を得ずと談判せしが、松波答話に詰まりしところ、福田氏、即座に斬首せしとぞ。この松波氏は元薩藩なりしが、十カ年以前より幕府に奉仕して登用せられしが、今、古主へ回り、忠なせしとも、又元来薩の間諜なりともいう。これ未だ知らざるにあらず。

 

一.当国小田喜城主松平豊前侯、二万石。朝敵たるにより御勅使柳原卿、御発向にて官軍大勢打ち寄せたりしが、防戦かなわずついに虜となりたまい、佐倉侯へ御預けに相なり候よし。家士は京都へ御供せし輩はそのところの寺地へ御預け、国備えは町宅にて恭順のよし承る。

 御勅使柳原卿は房総残らず御発向と聞きしかども、閏四月廿一日、潤井戸御旅泊にて浜ノ村より御乗船、横浜へ御着船ありしとぞ。

 

 以上、五井戦争に関わる新発見の資料をご紹介いたしました。かなり徳川義軍に肩入れした立場からの記述が目立ちますが、他の資料では登場しない人名やエピソードもあって、非常に興味深い内容です。

 

 

64.市原の戊辰戦争⑥

 

・市川船橋戦争

 閏4月の撒兵隊の動きは結果的に勝の戦略を破たんさせてしまったようです。脱走部隊への統制はどうやら勝の手には余るものだったのでしょう。特に2千人を擁する撒兵隊の隊長福田八郎右衛門はフランス語にも通じたエリート将校であり、自信過剰気味であったと思われます。

 木更津の奥、真里谷の真如寺に本拠を置き、「徳川義軍府」と称して江戸をうかがい、4月17日、福田は江原鋳三郎(後の江原素六)の第一大隊、堀岩太郎の第二大隊、増田直八郎の第三大隊を北上させ、第四、第五大隊を真里谷にとどめました。大鳥圭介軍も総勢2千人(参謀は土方歳三)で官軍に反抗する姿勢を示しましたが、北関東に向かい、福田側との連携は取らずに終わりました。

 なお請西藩の林忠崇は協力を一方的に募る「徳川義軍府」に反発し、単独、箱根に赴いて背後から官軍を脅かす行動に打って出ます(閏4月3日、100人ほど率いて請西を出発)。こうした連携の欠如、足並みの乱れが旧幕府側にとっては致命傷となったようです。

 徳川義軍府の過激な動きを制するため、勝は田安家の家臣松波権之丞を木更津に送り込みましたが、閏4月6日、姉崎で第三大隊長の増田に斬殺されてしまいました(妙経寺境内のことと考えられている)。政府から妥協を引き出す前に、拙速にも徳川義軍府は勝の制止を振り切って動き出してしまったといえるでしょうか。勝はこれが戊辰戦争最大の敗因と回顧しています。江原も勝と同様の考えであったようですが、福田らの強引な動きに逆らえないまま、立場上、義軍府の動きに加わらざるをえなかったようです。

 

 下総ではフランス式装備の撒兵隊第一大隊(江原鋳三郎→後の江原素六指揮)約300人が4月29日、市川法華経寺に本陣を置き、第二大隊(堀岩太郎指揮)は船橋大神宮に布陣、第三大隊(増田直八郎指揮)は姉崎の妙経寺に本陣を置きました。一方、新政府軍は福岡藩兵が行徳、岡山藩が市川、佐土原藩(宮崎県)が松戸に布陣し、これに対抗しました。

 閏4月3日(現在の5月24日)、既に官軍の動きを察知していた第一大隊は200人余りで午前2時に中山法華経寺を出発し、3時過ぎには市川八幡の岡山藩兵80人が屯集する旅館を包囲し、やがて攻撃。さらに古川善助(後に日清戦争で勲功を立て陸軍少将になる。なお喜劇役者の古川ロッパは彼の養子。※参照)の50人余りの小隊も加わり、官軍を市川まで後退させました。江原は第一小隊を率いて夜明け頃には下総国分寺のある国分山付近に到達。津藩の小隊と遭遇し、曽谷で銃撃戦となったのですが、台地の西端に沿って南下し、市川で大隊の主力と午前8時頃、合流し、岡山藩兵や津藩兵を江戸川の向こう側に追いやっています。しかし江原は船橋の第二大隊がしばらくしても追尾してこないため、単独では江戸川を越えて進撃出来ないと判断し、深追いせずに中山に引きあげました。

※古川ロッパ(1903~1961):東大総長加藤弘之の孫にあたるが、嫡男ではなかったため当時満鉄の

 役員だった古川に養子に出された。エノケンと並び称された喜劇役者、コメディアン。「ロッバ」と

 もいう。太った体格に丸眼鏡がトレードマーク。美声の持ち主でレコードを出す一方、徳川夢声らの

 声帯模写も得意としていた。雄弁快活で貴族的育ちの優美さがある古川と庶民的で軽快な動きを持つ

 エノケンとは対照的であった。

 

    右端が江原鋳三郎(後の素六)                          晩年の江原素六

※左の写真、チョンマゲに洋装という新旧入り乱れた和洋折衷の姿が見えるところがこの時代の過渡期 

 としての性格をよく表しています。

 

 鎌ヶ谷に駐屯していた佐土原藩兵約100人は木下街道を西南に下り、馬込沢で午前6時頃、第二大隊の待ち伏せを受けました。しかし佐土原藩には大砲があったため、次第に義軍側は劣勢に追い込まれます。午前10時頃には夏見台を制圧した佐土原藩兵は、休むことなく第二大隊の本営船橋大神宮を目指しました。南風が強く吹いていたため、南側に迂回した佐土原藩の砲撃は大神宮を炎上させ、漁師町にも火を放ったため、船橋宿は猛火に包まれました(783軒が焼失)。

 その頃、江原の第一大隊は中山で食事を取り、休息していました。やがて船橋方面から聞こえてくる砲声に対して江原は第二大隊救援のためにまず海神方面へ出撃する命令を出しました。海神では筑前福岡藩兵が200人ほど行徳から進撃してきました。その一部が海神三差路付近で江原の部隊から銃撃を受けました。江原はここで体格に勝る敵兵(小室弥四郎)にいったん組み伏せられましたが、古川らが斬りつけ、かろうじて救出されています。

※船橋では旧幕府側の死者を「脱走様」と呼んで各地で丁寧に葬っている。中には近代以降、戦争とな 

 ると徴兵除けの神様として遠くからも密かに参拝された「脱走様」の墓があったらしい。他方官軍側

 の死者は後に明治11年(1878)以降、千葉県令柴原和の命で「殉国者の墳墓」として手厚く葬るよ

 うにされた。市川・船橋では「官軍墓」の多くが明治19年(1886)に建てられている。しかし市原

 ではそのような意図で建てられた墓石は一基も確認できていない。

 

 なお当時の江原の写真を見れば分かりますように彼は必ずしも体格には恵まれていませんでした。背が低くてやせ気味であり、敵兵に組み伏せられた時は確かに万事休すであったと思われます。その後、江原は狙撃され、左太股貫通銃創の重傷を負ってしまいました。彼は部下に戸板の上へ乗せられて佐倉街道を運ばれ、山野村に逃げ込んでいます。隊長の負傷によって第二大隊の組織的な行動は不可能となりました。船橋での戦いは午後二時頃に大勢が決し、第一大隊、第二大隊の多くは散り散りとなって東金や木更津方面に退散していきました。

 古川の回想では部隊は山野村に逃げ込んだ当初、30人ほどいましたが、翌朝になると過半が逃亡し、12.3人になっていたといいます。古川は2人の従者を江原に宛てがい、残りを引き連れて立ち去りました。彼らはその後、東金、茂原、笠森を経由し、市原の牛久を経たあたりで第三大隊の敗退を知ります(閏4月7日)。そこで真里谷に向かいましたが福田らは既に大多喜方面に撤退していました。古川も後を追っていったん大多喜に行きましたが、義軍は崩壊して流れ解散状態であったため、結局、勝ら上層部との連絡を保つためにも船橋経由で江戸へ潜入します。

 一方、江原は山野村の名主達に匿われ、長持ちに隠れるなどして1カ月以上村内を転々とします。多少傷の癒えた江原は官軍から指名手配を受ける身となっていたにも関わらず、足を引きずりながら船橋に出て漁船に乗り、5月15日、江戸に向かいました。奇しくも上野彰義隊が壊滅した日でした。徳川義軍府の暴発は上野彰義隊の暴発を呼び、旧幕府勢力はかえって壊滅的な打撃をこうむったのです。勝の徳川家大藩復活の夢(慶喜の復権と江戸で100万石の大名としてとどまる目論見)も潰えました。

 やがて徳川家には静岡70万石移封という過酷な処分(六分の一の減封)が下されることになります。江原は江戸各所を転々とし、8月に徳川宗家が静岡に移封されるまで江戸で潜伏を続けています。この間、榎本武揚に艦隊の脱走に加わるよう要請されましたが断ったといいます。榎本はこの頃、勝と対立し、幕臣としての節義を通そうとして函館を目指して艦隊ごと脱走を考えていました。これに対して江原は勝の路線に沿って、徳川宗家の今後のために移封先の静岡で力を尽くそうと決意したようです。

 静岡藩(駿河、遠江と三河の一部)が設置された一方で沼津藩水野氏は菊間へ、浜松藩井上氏は鶴舞へ、といったようにその周囲の譜代は安房、上総に移されました。徳川宗家とともに静岡に向かった旧幕臣は明治4年の調査では13753人に達したといいます。江原は8月19日、「小野三介」という変名で静岡移住組に紛れ込みました。この日の夜、徳川宗家の出立を見届けたかのように榎本武揚艦隊は脱走の途に就きます。しかし折悪しく房総沖で台風に遭遇し、一艘が銚子沖で沈没、咸臨丸と蟠竜は駿河湾まで流されてしまい、清水港に寄港しました。8隻の艦隊は5隻となって仙台に寄港。蟠竜は遅れて仙台に到着しましたが咸臨丸は損傷がひどく、また老朽化していたため清水から動けませんでした。なお請西藩林忠崇は仙台で下船して降伏の道を選びました。

 9月22日、会津若松城が開城し、奥羽越列藩同盟は瓦解しましたが、榎本艦隊は沖合にしばらく停泊を続けました。政府軍は相変わらず海軍を欠いていたため、手が出せなかったようです。やがて榎本艦隊は大鳥圭介、土方歳三ら3000人ほどを乗せて10月18日、東北を去り、悠々と函館に向かいました。

 江原は藤枝にしばらく身を潜めましたがたちまち政府側から藩庁に対して身柄の引き渡しが求められました。しかし自首することなく沼津近くに移動して潜伏を続けました。また勝も江原赦免の運動を始めていました。9月18日に咸臨丸が政府軍の襲撃を受けて20人全員殺され、海に投げ込まれた事件が起こります。港内に浮遊する死体を引き揚げて葬ったのはあの清水次郎長だったといいます。10月、江原は政府からの指名手配が解かれ、赦免されました。12月、沼津城の二の丸の殿舎を校舎として沼津兵学校が開校し、鋳三郎は素六と名を改めて、その中心を担わされました。1869年5月、函館戦争が終わり、榎本武揚、大鳥圭介らは降伏しました。

 沼津兵学校は西周を校長に招き、長崎海軍伝習所や講武所出身者を教授にしたため、全国的な注目を浴び、他藩からの留学が相次ぎました。しかし旧幕府軍の復活を恐れた政府は西を兵部省に引き抜きました。さらに1871年の欧米視察(岩倉具視遣欧使節団)の一員に江原が選ばれたことで沼津兵学校は完全に骨抜きにされ、1872年には解体されてしまいました。

 帰国後、政府への出仕を断った江原は沼津に残り、困窮していた旧幕臣達のために「士族授産」の一環で牧畜業や製茶輸出業などを手掛け、1877年には洗礼を受けてキリスト教徒の立場から慈善活動にも従事。1885年、麻布中学校を設立、終身、校長を務めました。1890年、第一回衆議院議員選挙に当選以降、自由党、憲政党、政友会に属して政治活動にも携わり、大正11年(1922)、81歳で生涯を閉じます。

 幕府時代は房楊枝作り(当時の歯ブラシ)の内職で貧乏のどん底から這い上がり、寸暇を惜しんで懸命に学問にはげみ、ついには若き俊才として将来を嘱望されていた江原でした。が、明治になって政府に仕えた榎本や大鳥と違い、終始、野にあった福沢諭吉のように「やせ我慢」の美学を終始、貫いた反骨の精神には学ぶべき点が多いようです。

 江原の反骨の精神は畑木にある墓碑銘からも察せられるでしょう。

 

・徳川氏遺臣梶塚成志(しげゆき)墓

 

畑木供養碑「徳川氏遺臣梶塚成志墓」友人江原素六書  

   

 「ふるさとの小さな歴史」(佐野彪 千代田出版 平成24年)によりますと・・・

   江原素六は市川船橋戦争当時、撒兵隊第一大隊隊長であった。また江原の先祖は梶塚と同じ三河国幡豆(はず)郡であった。江原は徳川方の為に戦い、自ら重傷を負った経緯もあり、犠牲になった人々に同情的だった。また維新後も在野にあって旧幕臣の困窮を救うために奔走し、子弟の教育に専心していた。

 

 碑の裏面には…

「一死報恩」 梶塚成志君碑陰記  枢密院顧問官従二位勲一等男爵大鳥圭介題額

 概要「1867年に慶喜公が大政奉還をされて後、幕府方のなかで官軍に抗しようとする者たちが撒兵隊という組織を作り、梶塚君はその一員であった。が、(彼の部隊は官軍に追われて)市原の畑木村の露崎半四郎の家に逃げ込んだ。そこにも官軍が来て攻撃を受け、多勢に無勢、一部を残して多くはさらに望陀郡に向かい敗走していった。しかし梶塚君らはここに踏みとどまって6人が戦死してしまった。

 慶応4年(1868)閏4月7日の事である。梶塚君は元の苗字を高瀬といい、文政8年(1825)、三河幡豆郡友国村に生まれた。十余歳で江戸に出て文武に励み、俳句を良くした。やがて幕府に仕える梶塚定右衛門の養子となり、岡本氏の娘を娶った。三男二女を設けたが、長男と二男は早く亡くなってしまった。

 三男の武松君は母と共に上総の地で亡き父梶塚君の遺品を捜し出し、畑木村に梶塚君の消息を訪ねた。村には小さな丘があり、当時、五人の死者を葬ったという碑が建てられていたが既に壊れてしまっていた。

 ただ当時の村役人大野真十郎氏によると6人の死者が出たという。一人は近澤岩五郎(※)であり、負傷し、他村(永津)で亡くなったという。残りの五人は梶塚君以外の姓名が分からなかったが、死体の傍らにあった書きつけから木村清勝、川崎善太郎の二人は判明した。残りの二人は不明のままである。武松君は父の遺跡が今後亡くなってしまう事を恐れ、母の意を汲んでここに石碑を建て、後世に残すこととした。」

 明治41年(1908)8月

 ※近澤岩五郎は永津の墓石(下の写真)では近澤岩四郎とある。 

 

 

 この碑が建てられたのは1908年。既に江原は還暦を過ぎて66歳を迎えており、晩年といってもよい時期にあたります。大鳥圭介に負けない程度、それなりのきらびやかな経歴を有していたはずなのに、なぜ江原はポツンと「友人」とのみ記したのか?皆さんはどうお考えでしょう?すこし気になるところですよね。

 

 最後に梶塚らが戦死した永津での戦いの後日談をご紹介いたしましょう。こちらも佐野氏の記述に基づきます。

 

・海保永津の共同墓地

 「閏4月上七日卒 徳川家臣近澤岩郎正治 行年41歳」

 右はその裏側:しね女の歌「永らえて 何をたよりに 古里へ 

                       心ぞ時に すみ染めの袖」 

 

 夫(近澤岩五郎?)の安否を尋ねてきた若妻が夫の最期を看取った海上氏の話(岩五郎氏が瀕死の重傷を負い、田んぼで苦しんでいるのを海上氏が発見。介抱しようとしたが、たちまち息を引き取ってしまった…)を聞いて夫の墓前で歌った一首である。「しね」と名乗る、まだうら若いその女性は歌を詠み終えるとにわかに短刀をとりだし、自らの喉を突こうとした。が、かろうじて海上氏に制止され、数年、海上氏宅に身を寄せることになった。

 本名を隠し、「しね」と名乗った女性は、おそらく最初から武家の女として夫の息絶えた場所で自害しようと覚悟を決めていたのだろう。辞世の歌を予め用意してこの地に臨んだものと思われる。「死ぬ」ことを繰り返し強く念じてきたために、彼女は海上氏に対して思わず「しね」と名乗ったのかもしれない。

 やがて彼女は海上氏が紹介した千種小学校初代校長(加藤徳八)の後妻として引き取られていったという。

 それにしても海上氏の行いには驚かされる。見も知らぬ岩五郎氏を弔い、墓を設けてその妻を何年か預かり、再婚させた挙句にさらに岩五郎の墓石に妻が作った歌をわざわざ追刻して岩五郎の追善供養までしている。

 

 カッパたちは畑木の墓碑の近くに住んでいる倉持氏からこんな話を伺っている。倉持氏の曾祖母から聞いた話として、官軍が義軍の首を刎ねて倉持氏の裏山の竹やぶから伐ってきた竹に首を刺し、意気揚々と引き上げていったとのこと。

 惨い戦場の有様に心を痛めた住人達が戊辰戦争後、どんな思いを抱いて明治という時代を生きていったのか、海上氏の行いに思いを寄せてみたい。

 

青柳光明寺:加藤徳八碑(大正9年=1920)

 

 加藤徳八は寺子屋の師匠であったが、明治6年に千種小学校初代校長となる。後に長年の教育界への貢献に対して鮎川孝一郎とともに市原郡の明治43年度第一回目教育功労表彰者となっている。

 義軍戦死者(近澤岩五郎?)の未亡人「志祢子」(佐野氏によると本名を「ひさ」といい、東京巣鴨の佐脇新兵衛の長女であったらしい)を後妻に迎えた。志祢子は明治36年(1903)に亡くなっているとのこと。