㉖ゆとり教育と特色化選抜

~学校のブラック化の裏側~

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 1980年代前半まではほとんど目立つことのなかった高校教師による発信は前述したように1980年代の後半から臨教審の動きに触発された形で目に付くようになり1990年代になると急激に増えてきた印象がある。この時期は「ゆとり教育」の導入が検討されており、学校の特色化も入試改革を伴って進められつつあった(例:岐阜県の「特色化選抜」2002~2012)。

 岐阜県が始めた特色化選抜は直ちに千葉県も採用している。この入試改革によって千葉県の公立高校入試は1年間に「特色」と「一般」の二度も行われるようになり、ただでさえ忙しい学年末の教師達を瀬戸際まで追い込んでいった。さらに「ゆとり教育」の余波からか、特色化選抜においては部活枠が導入され、生徒の個性、多様性を尊重すべく学力以外の能力も適正に評価する、などという美名に隠れて実際には学業よりも部活動を重視する風潮が多くの中学校や高校で強まっていった。

 土日は遠征試合に明け暮れ、下手をすれば教師も生徒も授業は二の次・・・当然、中学、高校のブラック化が加速していく。それは以下のようなメカニズムが働くからであると考える。

※参考記事

 ◎部活実技以外冷遇か 千葉県教委「透明・公平性に問題も」 幕張総合高入試

  千葉日報 2017年3月24日 10:58 |

 ○【知りたい!】高校入試 謎の内申書 部活動はどう評価?

  NHK 2022年6月29日 19時06分

 ○部活の過熱化、内申書反映への過度な期待も一因…高校入試での評価基準明示を文科省要望 

  読売新聞 2022/10/25 09:55

 ○公立中学の内申点、親世代より「評定5」の割合が増加? 高校受験塾講師が教えるイマドキの内申

  点事情 AERA with Kids+ 2024.6.7

 ○【高校受験2024】千葉県、公立高入試の学習成績分布表を公表 リセマム 2024.7.3

  今年、実施された千葉県高校入試の際の中学3年生における評定値の教科別成績分布が公表された。

  かつての様に評定5を与えられる生徒は生徒全体の何パーセント前後で評定4の場合は…といった

  ように、一応、成績分布が正規分布に近似するような相対評価的規定は既に無くなっている。つま

  り、自校生徒に有利になるような偏りのある甘め成績をつけることへの一定の歯止めがあったわけ

  だが、その歯止めがなくなり、学校や教師によって5の評定をもらえる生徒が多くなる傾向が指摘

  されてきていた。いわゆる内申点に学校間や教科間においてかなりの不公平が生じている可能性が

  出ていたのである。

   実際、今回の公表によって教科による差はかなり大きい事が分かる。ただし総じて5の評定をも

  らえる生徒が多い事実も確認できよう。やや詳しく見るとある程度は全体のバランスをとるため

  か、多くの教科では4の評定をもらう生徒が意外にも少なくなっている。どうやら5及び4の評定

  をもらう生徒の割合を合わせて5割前後にすることで3以下の評定をもらう生徒の割合も5割に近づ

  ける努力、工夫が水面下で働いているように見受けられる。これで割を食うのはかつて評定値4の

  下位辺りに属する生徒たちであろう。学校や教科によっては評定値3にされてしまうおそれが出て

  きている。

   いずれにせよ、現在の評定平均値への信頼性、公平性はかつてよりさらに低下していると考えら

  れる。学校によってこの状況への対応は違うだろうが、総じて合否判定に評定値をどれほど反映さ

  せるのか、その評価基準を根本から見直すべき時にきているのだろう。とはいえ、行動の特性、部

  活動やボランティア活動の実績、欠席日数等を今まで以上に高く評価するのはスジ違いだろう。た

  だでさえ、これらの観点は部活動の過熱化と勝利至上主義を招きかねず、教師の主観によって左右

  されかねない危険性や不登校の生徒に不利となる側面がある。そうした問題をはらむ観点について

  は合否判定において慎重な扱いが必要だろう。

   ならば中学校から送られる調査書を高校ではどう評価すれば良いのだろう。当然、年配の教師か

  らは受験時のテスト得点だけではなく、勉強以外での中学校3年間の頑張りをも評価すべきであると

  の、一見良識的な意見が相変わらず出てくるだろう。確かにもっともらしく聞こえる意見だが、実

  際には非現実的な考えに基づくものであり、ほとんど傾聴に値しないものと私は考える。

   3年間の生徒たちの頑張りを3年生担任だからといって本当に一人一人きちんと評価できるのか

  が、そもそも疑わしい。現状では3年生のクラス担任がたとえ当該学年を1年生から担任として見守

  ってきたとしても、クラス替えなどがあるため、一人の生徒を3年間、担任として見続けてきたとは

  限らない。クラス担任ではあったが授業は担当していなかった、2年生あるいは3年生から学年団に

  入り、途中からクラス担任になった…近年、教師不足からこうしたケースは増えてきている。しか

  も特定の生徒とは相性が悪い、接点が少ない…などにより、プラス評価の材料が他の生徒と比べて

  かなり乏しい生徒がいても不思議ではない。実際、生徒をあまり良く知らないくせに、調査書の総

  合的所見欄では無理くり適当にそれらしく褒めちぎって書くことがこれまで普通に見られていた。

   子どもたちの3年間の頑張りなど、たかが一人の教師如きに評価できるわけがあるまい。教科担任

  制をとる中学校では自分の授業以外での生徒たちを評価することがほとんど出来ない。教科の評定

  に関しては教科担任の評価をほぼ鵜呑みするほかは無い。部活動等の頑張りは顧問から伺うほかに

  すべはないが、それらの情報が本当に信頼できるという保証はない。「他の教師を信用する」と表

  現すれば聞こえは良いが、実際には「鵜呑みにする」に近いのが現実であろう。

   生徒一人一人の「3年間の頑張り」の全体像など本当は誰も見ることはできないし、それをクラス

  担任がまっとうに評価できると考える方が思い上がりも甚だしいのだ。ポートフォリオに蓄積され

  たデータでさえ、一つ一つ信頼性や妥当性を吟味されてはいない項目ばかり。したがって「総合的

  評価」というのは厳密には言葉遊びに過ぎず、一つ一つの評価ポイントが不確かなもののただの寄

  せ集め、ボンヤリとした集合体…それこそ、「総合的評価」の実態である。「3年間の頑張り」とい

  う、いかにも感傷的でいい加減極まりない表現に流されてはなるまい。

   今後は調査書や受験時のテスト得点以外に作文テストの比重を高め、クレペリン検査などの適性

  検査を新たに加える…などといった学校独自の検査をそれぞれ工が夫する必要に迫られるのではあ

  るまいか。教師受難の時代はさらに長く続くに違いない。

 

 まずは部活動の実績を今まで以上に学校の宣伝材料にしようとする安易な発想から部活動の強化を推進するという一点に過半数の学校が「特色化」の目標を定めてしまい、結果的に高校間で有望選手の奪い合い、青田買いを招いてしまった。

 夏休みには高校の顧問が相次いで中学校を訪問し、めぼしい選手を物色しては推薦枠を用いて自校への受験を促す。管理職としては入試での定員割れを防ぐ上でも早めに一人でも多くの入学希望者をおさえておきたいので末端でのこの動きに異論は無い。そして中学校の顧問と高校の顧問との密接な関係を築くため、中高の合同練習や練習試合が盛んになる。どの中学生が有望か、早めに知っておくことが有望選手獲得の第一歩であるからだ。

 また一定レベル以上の選手を一人でも多く確実に獲得するために、教育困難校では中学生での学業成績をこれまで以上に軽視していく。中学校側でも成績の振るわない生徒は部活動に専念させ、試合で一定の成果をあげさせてから推薦枠で高校進学を実現させようとする。

 こうした動きが加速すると授業時間をきちんと送ろうとする姿勢は教師、生徒共に崩れていきかねない。実際、高校によっては運動部の推薦枠で合格となった生徒の多いクラスほど授業が成り立たなくなる。授業は最早、教師や生徒の本業ではなくなり、良くて副業、実態としてはほとんど消化試合となってしまう。したがって生徒の中には放課後になってからようやく登校し、部活だけ参加する者まで出てくる。私の四校目の学校がまさにそうした状況に直面していた。

 運動が苦手で部活動には入らないが真面目に授業を受けたい生徒や、部活動の指導を苦手とする教師にとっては一部の学校がいよいよ辛い場所となっていった。また部活動を片手間にこなしてきた教師達は授業準備よりも部活指導に本腰を入れざるを得なくなり、時間的、体力的なゆとりを失っていく。

 こうして高校教師の世界にも臨教審以降、くすぶり続けていた新自由主義的「改革」の火の粉がついに情け容赦なく降り注ぎ始めたのである。それは高校のブラック化が一気に加速した瞬間でもあった。

 

 近年、どの高校でも「~部全国大会出場」などと書かれた宣伝用横断幕や垂れ幕を普通に見かけるようになった。しかし部活動に熱心な高校がすべての生徒達にとって良い高校であるという保証はまったく無い。ただし部活動とは無関係に「面白い、分かりやすい、役立つ授業をする先生が多い」との口コミ、評判がある高校はほぼ間違いなく多くの生徒達にとって良い高校であると確信する。授業の質こそが第一に追求されるべき、本来の学校の魅力ではなかったか。

 

 過度な献身性を賛美しがちな教員社会独特の精神的風土もまた教師の疲弊を自ら強めてきた一因であっただろう。これまでの自分の教師としての活動を改めて振り返ってみて痛感するのは教師自ら自分達の過重労働を賛美し、教師の「働き過ぎ」体質を助長すらしてきたのではなかったか、と言う疑念である。

 学校のブラック化は学校の内側から見れば皮肉にも多くの教師が持つ善意の発露によってもたらされた「負の遺産」の一つでもあった・・・つまり「やり甲斐搾取」と揶揄される現状は教師自らが招いてしまった側面があると私には思えるのだ。かつて教員社会に蔓延していた「教職」を「聖職」と見なす論調はとっくの昔に学者や組合によって否定されてきたはずであった。しかし組合加入率の低下、学校のブラック化もあってか、いつのまにか聖職論的な価値観に基づく無私の献身性が教師一人一人に強く求められる空気感が教員世界にジワジワと広く深く浸透し始めていたのではあるまいか。

 そもそも職場の労働環境の改善に取り組むべき組合員が率先して過剰労働を担い、職場のブラック化の先頭に立ち続けていたのではなかったか。組合活動自体が職場のブラック化に加担していた側面を私は否定できない。放課後の地区集会、土日の動員、資料の配布…部活動や学校行事の合間に行ってきた組合活動の多くが献身的自己犠牲を強いるものであった。

 普段、教師としての仕事が容赦なく山積していく中で組合活動との両立を諦めていった教師は私を含めて数多くいたであろう。組合員の減少は自己犠牲を当然とする組合の教職観、価値観そのものにも胚胎していたのではあるまいか。