⑪職員室のあり方

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 都立高の教員が生徒600人の個人情報を紛失…一部が生徒間で共有されていた 外部

   への流出は未確認 東京新聞 2024.7.5 

 紙ベースで生徒全員分の写真付き個人情報(個人調査票)が記された資料をファイルに入れて保管している学校の場合、そのファイルは現在、教頭がカギのかかる場所に保管していることが多い。教師がファイルを使用したい時は教頭、ないしは教務主任に声をかけてカギを借り、ファイルを取り出す。その際、カギのある場所につるしてあるノートに借り出した資料と時間、返却した時間、借りた教師名等を記す…といったような作業が必要となっている学校は多いだろう。

 かつては各クラスの個人調査票をそのクラス担任が保管し、学年分は学年主任が保管。全生徒分は生徒指導部長や進路指導部長がそれぞれ保管していた。しかし荒れた学校では学年室に常駐する教師が少ないとたちまち生徒たちが侵入してきて様々な悪さを働く。生徒指導室や進路指導室も同様である。学年生徒全員をクラス別にまとめた生徒の個人写真(業者ないしは教師の手作業で一冊にまとめてある)もまた教師には必須の資料であった。しかし保管場所に生徒の侵入を許すとそうした資料が流出してしまうことは実際、度々、起きていた。しかし当時はそうしたことがほとんど表沙汰にはならなかった時代であったのだ。

 生徒の個人情報の管理が厳しく問われる現在、その保管は細心の注意が必要となっている。管理を徹底するには最初に述べたような、教頭への個人情報集中管理方式が情報流出を防ぐ点で最も効果的であろう。しかし、実際問題、学年室や生徒指導室での仕事が多い教育困難校では、この方式を採用できない。どうしても生徒の個人情報を参照しなければならない案件(特別指導等)が多く、いちいち教頭のところまでファイルを借りに行く手間ヒマはかけたくない。学年主任や生徒指導部長だって自分の空き時間にしか、分掌の仕事はできないからである。そして教頭や教務主任も激務であり、ファイルや鍵のあるところ(教務室や大職員室)に不在の場合が少なくない。

 ならば学年室や生徒指導室に誰もいない時には生徒の侵入を防ぐために施錠したら良かろう。実際、施錠できるように鍵箱や鍵をしまう場所を設けている学校は多い。しかし学年室や生徒指導室が不在となりがちな学校では別の場所での盗難や器物破損(特に消火器、火災報知器、ロッカー、トイレ等)が横行してしまいがちである。それらを防止する意味でも学年室の常駐制度は機能している必要があるのだ。

 しかし多くの教育困難校では学年室常駐体制が機能していないことが予想できる。その原因の第一は生徒数減少による教師数の不足である。一学年3クラス程度となってしまうと学年職員の総数が7人前後。出張や休暇等で学校に不在の教師が一人出ただけで学年室にいる職員は不足してくる。まず過半の教師が授業に出てしまっている。加えて一部の教師は教務室や進路指導室に常駐している。しかも英語、国語、理科、芸術、家庭、体育科の教師は様々な理由によって教科準備室に常駐することが多い。

 その結果、特定の学年の教室が並ぶフロアではアナーキーな状況が度々出現し、火災報知器がけたたましく鳴ってしまう、消火器が3階、4階の窓から投げ落とされる、水道の水が廊下まであふれ出る、トイレでの恐喝、喫煙やロッカーの破損と盗難が繰り返される…そうした事態に加え、学年室や教科準備室(他の部屋に教師が常駐することが多い社会科、数学科の被害が目立つ)から様々な物品が紛失し、物が窓の外に放り出されるなど、散々に荒らされてしまう。件の都立高校も、もしかしたらこんな状況下での出来事だったのかもしれない。

 こうした事態を防ぐことはきわめて困難である。冒頭の管理システムを取れていた学校は実際には学力的に中位層より上の進学校であった。教育困難校が置かれている状況は過酷であり、学年を超えた取り組み(学年を超えた校内の巡回等)が必要不可欠なのである。もちろん、これは管理主義的発想であり、必ずしも民主主義的、教育的対応ではあるまい。では、他の方法に何かあるのだろうか…少なくとも私には定年に至るまで有効な方法がついに見当たらなかった。

じつは「日本だけ」だった…海外とあまりに違う「日本の職場の特徴」が意外だっ

 た 『日本社会のしくみ』現代ビジネス 小熊 英二 の意見 2023.7.5

 

 個室と大部屋」に関する論考は高校の大職員室制や学年室常駐制と教科準備室制とに対応するだろう。大職員室制を採用する学校は義務教育の学校や生徒指導が困難な高校に比較的多い。教育困難校では学年室常駐制を採用するケースもかなりみられる。一方、教科準備室制を採用する学校は進学校に多い傾向がある。

 大学における教師養成教育が不十分な日本では新採用の教師に決定的な影響を与えるのは大学での講義ではなく、もっぱら初任校における準拠集団である。主にどの集団に属して多くの時間を過ごすか…これによってその後の教師生活はかなり方向づけられる。

 教科準備室にいる事が多い進学校に配属された教師は勢い、授業重視の教師文化を身につけ、専門科目を中心とした授業準備を念入りに行うようになる。しかし大職員室や学年室に常駐する教師は遅刻指導や学年の仕事、部活動の仕事といった授業以外の雑務に振り回されがちで管理職や主任、先輩教師からの助言と称する介入も頻繁に行われる。同調圧力がそこでは強く働くのだ。勢い新任教師は授業準備以外の仕事にも追われ、学校行事や部活指導、生徒指導をメインにする傾向が強くなる。

 そして進学校の数が少ない首都圏の公立高校では教師として最も重視されるべき授業力は二の次となり、むしろ生徒指導や部活指導の力が重視されがちになってしまう。

 

 日本企業は多くが大部屋であり、新入社員には専門性を強く求めず、交換可能で使い勝手の良いジェネラリストであることを求められる。これに対応して大学でも仕事の高度な専門知識・技術を養成する意識は低く、あくまで学者の養成を念頭に置いた学問的な講義ばかりとなりがち。したがって日本では長期にわたって専門の職務に専念し、仕事のレベルアップをはかるという欧米型、ジョブ型の勤務が最初から条件的に難しい。また採用選考時も大学での専攻や学位についてはほとんど重視されず、学校歴、サークル活動や学外でのボランティア活動などが注目されてしまう。

 つまり日本の学校組織の文化と企業組織の文化とはかなり共通する要素が多いのだ。日本の大学での教師養成教育が授業実践の面では教育系大学あるいは教育学部ですら極めて不十分であるのもこれで首肯できるだろう。だからこそ大胆な授業改革が求められる現在、授業実践力の向上を軸とした大学における教員養成教育の、より一層の充実が必要不可欠だと私は考える。