㉔日本企業の特徴的な組織文化と欧米の学校

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

・働き方改革の行方

参考動画

【アメリカ・ヨーロッパ・韓国最新「働き方事情」】/アメリカ大学生に人気の職

   業/韓国では「部長・課長」呼び廃止?/人に「年齢」を聞くのは日本だけ/イギ

   リス履歴書に写真NG/イタリアに最低賃金は存在しない

   PIVOT 公式チャンネル 2023/11/30  37:56

参考記事

なぜ日本人は「休むこと」に罪悪感を持ってしまうのか…「有休取得率が世界最下位」

 となる3つの根深い理由 プレジデントオンライン

 新田 龍 によるストーリー 2024.6.19

 「定額働かせ放題」「やりがい搾取」と呼ばれる教師のブラックな働き方の背景を日本企業の働き方の特徴から理解していく上では欠かせない資料と言えるだろう。よく整理されていて分かりやすいイチオシの資料である。

深刻な人手不足に直面する企業が今、採用に力を入れるのは… 2024年問題、キー

 ワードは「多様性」東京新聞 2024.4.28

 多様な働き方や多様な人材の確保が叫ばれる中で多くの中小企業は人材不足による倒産の危機に直面しているという。とりわけ建築業、運送業の人手不足は深刻だそうだ。これも「老害政治」と少子高齢化がもたらした問題に違いあるまい。

 さらには多様性、個性を尊重せず、画一性、同質性ばかりを強要してきた日本の学校教育の弊害がこうした点にも及んでいる、とも考えるが、いかがだろう。

文科省「博士数を3倍に増やす」と言うが 博士号取得者の就職が困難を極め

 るワケ Yahoo!ニュース JAPAN 2024.4.28

 この問題の背景には高度な科学技術の急速な発展に背を向けてスペシャリストよりもいまだにジェネラリストの確保を優先する日本の企業の保守的な人事のあり方があるらしい。本来ならば高度な専門性を持つ人材を確保するために博士号を持つ人々こそ先を争って確保するのが現今の企業として当然の人事であるべきだろう。

 オーバードクターの就職難が問題視されてから久しい。しかし根本的解決が遅々として進まない背景に何があるのか…「博士数を3倍に増やす」などと他人事のように無責任で非現実的なスローガンを掲げる文科省の厚顔無恥さ、トンチンカンさには呆れるほかあるまい。まず反省すべきはスペシャリスト養成の出発点に当たる高校教育においていまだに学習指導要領を通じた堅苦しい統制を加え、漫然と高校生たちにジェネラリスト養成のカリキュラムを強制してきた文科省自身であるはず。

 なお、戦後教育の歩みを少し振り返っただけで日本の学校教育は事あるごとに政財界の圧力を受けて教育内容の見直しを迫られてきた経緯がよく分かるはず。特に学習指導要領の改訂を巡る政財界からの圧力には凄まじいものがあった。この点は分かりやすく整理して生徒に示しておくと議論を深めることができるだろう。そうした下ごしらえがあれば、なぜ日本では博士号取得者の就職難が続いているのか、その原因と解決策を考えさせていく上での有意義な議論が可能となるだろう。

日本人の“働く幸福度”、世界最低に 調査で分かった「3つの理由」

 ITmedia ビジネスONLiNE 2023.5.25

1つ目は、日本企業の特徴的な組織文化だ。上層部の決定にはとりあえず従う、物事

 は事前の根回しによって決定されるといった、「権威主義・責任回避」。

 (→学校の隠蔽体質、上意下達の教育行政)

2つ目は、「寛容性」が低いことであった。18カ国・地域の中で2番目に低く、異質な

 他者と積極的に関わろうとしない傾向が顕著で、職場における相互尊重の組織文化

 が乏しい

 (→生徒間や教師間でのイジメ問題、マイノリティへの偏見・軽視)

3つ目は、学習投資が仕事や働き方の選択肢の増加につながらないこと。日本では、企

 業横断的な職業意識が薄く、ジョブ型ではなくOJTを中心に組織内部で能力向上に

 取り組むため、業務外の学習・自己啓発が仕事の選択肢の増加につながりづらいと

 考えられる。

 (→旧態依然の校則や行事、授業方法の残存、教職員における学校教育そのも

   のへの無知・無理解の蔓延)

 …とのことで「日本の就業者が『所属組織に自分を捧げる』ことを最も重視しない傾向とも整合する」とし、「異なる意見や背景、特性を持つ個人やグループを受け入れ尊重することが、就業者の働く幸せを実感させ、組織のパフォーマンスやイノベーションにも寄与するだろう」と指摘されている。

 これは経済界の強い圧力を受けてこれまで変容してきた日本の学校教育の歴史を踏まえれば、上記の三点に対応するように、(→…)内で挙げたような学校組織の欠点と日本の企業文化とは大きく重なる問題だと思うがいかがか。

 

「ハーバード大学」での体験に基づいた教育論が日本では参考にならない「納得の 

 理由」現代ビジネス 畠山 勝太 の意見 2023.6.12

 この考え方は欧米との比較から日本の学校改革を唱える立場への反論としてよく登場するものと考えるが、いかがか。もちろん安易な外国の物真似が失敗に終わりがちなのは文明開化時の日本が経験してきたことで、今更、言うまでもない。

 しかし「…日本の教育の平等さを支える大きな柱の一つが義務教育費国庫負担金制度である。教員給与の3分の1は中央から、残りの3分の2は都道府県から支出されるだけでなく、教科書も国が支出し、施設費も国が半額負担をしている。また、広域教育行政が敷かれているために、遠隔地で極端な教員不足が発生することもない。日本の教育システムには、このような、豊かな地域や富裕層からの税収を貧しい地域や貧困層の教育に充てるシステムが存在する。」という指摘には素直に頷けぬものを感じてしまう。

 むしろ教育の平等を重視するあまり、国家予算の配分を通じて行政の中央集権的な学校支配が強く及んでしまったデメリットにも着目する必要があるだろう。国家の統制力は教育内容への過剰な介入となって行き過ぎたレベルの画一的、管理的指導を蔓延させてしまっているのではあるまいか。平等を重んじるあまり、学校は生徒の多様性や個性を蔑ろにしてはいないか。そしてITの発展によって実現可能性がせっかく高まってきた個別学習の進展を、旧来の平等、公平の理念の強調によって台無しにしてしまう虞はないのか。

 

 確かに義務教育レベルでは平等と公正は相変わらず重視すべき概念であることに異論は無い。問題は個性・多様性の尊重がより一層求められている現在、これまでのような片方ばかりの偏重を改め、平等・公正と自由・多様性尊重との間で両者のバランスをどう考えていくか、であろう。この問題は決して二者択一の単純な選択ではなく、複雑な対立、競合をはらむはず。

 しかし実態は義務教育ではない高校教育ですら、教科書の検定制度が適用されてしまっていることに表れているように、今も「平等・公正」への偏重が顕著である。しかも平等・公正の確保を盾にして予算や人事での国家統制が強まったことにより、表向きの「平等・公正」の陰でかなり前から社会科の検定教科書では「政治的中立性」すら危うくなっている。つまり、実際にはある意味において「平等・公平」ですらない。また上っ面の「平等・公平」による入試がかえって人々の格差拡大という不平等を正当化していないだろうか。

 他方で受験競争や共通テストの導入を通じて教育内容は「入試に出る」内容に収斂されていき、教科書も多様性を徐々に失ってきた。しかも政府の意向を「忖度」できないと大手の教科書会社であっても瞬く間に倒産しかねないのが日本の現状である。

 

 もう一つ、この論考には重大な欠陥があると考える。「…もう一つ重要なのは、教育の成果物は多様であるという点である。教育経済学の文脈で分析されるものだけでも、知識やスキル・社会性など主に個人に帰するものもあるが、国民統合・市民性・平等性など主に社会に帰するものもある。」という指摘である。確かに太字にした箇所などはいち早く封建制を脱して近代的、中央集権的国民国家創出を急ぐ明治政府にとっては学校教育の目的の大きな要素であった。しかし他方で近代日本の重要な設計者であった伊藤博文らは殖産興業をも強力に推進すべく、「立身出世の学」として「個人に帰する」モチベーションを煽ることで学校への就学率を高めようとしたのは周知のことである。

 しかし「国民統合」に関しては学制頒布から150年以上経った今も同じように強調されるべき理念なのか、がまず問われよう。今や外国人観光客の来日急増は観光業の発展を招いており、日本経済の停滞を乗り越える上で重要な産業の一つとしてさらなる発展が期待されている。また労働力不足の解消のため、多くの外国人が国内で働くようになってきた。日本語を母語としない人々がすさまじい勢いで国内に殺到してきており、学校の児童生徒として数多く教室に迎え入れている現状がある。当然、外国籍のままの児童生徒も多くなってきている。

 もはや「国民」ではない児童生徒を目の前にして「国民統合」を理念とする画一的学校教育がふさわしいのかどうか、これまで通りの指導体制で良いのか、真剣に問い直す必要はあるだろう。

 そもそも日本の学校は戦後、家庭や地域社会の教育力低下に伴い、国民としての人材の「選別・配分・社会化」機能をほぼ一身に背負わされてきた。そのため教師たちは授業だけではなく各種学校行事、部活動等にも全力を注ぐようになった。他方でそれは学校の職場としてのブラック化をも招き、直近では深刻な教員不足と教育の質の低下を全国規模でもたらしてもいる。

 「選抜・配分」機能はともかくとして、せめて「社会化」機能の役割は一部、地域社会に返還すべきだろう。それは実際、部活動の地域移行によって徐々に進展しているが、いまだ不十分というほかあるまい。

 またこれまで学校が担ってきた「社会化」機能は既存の社会にひたすら適応を迫る保守的側面があったのも否めない。「ブラック校則」と揶揄された管理主義的生徒指導が生じてきた背景には大勢の生徒たちを少ない教師で管理し、一斉指導する体制があった。工場における規格化された単純労働が主体であった高度成長期にはその教育体制がむしろ時代に適合的な側面があったのかもしれない。

 しかし少子化社会の進展はようやくにしてクラスの定員を少しだけでも減らす方向に働いている。児童生徒の個性、多様性に向き合える条件もわずかながら整ってきた面がないわけではない。

 さらに社会の進展、変化のスピードが増している現在、特定の鋳型にはめるような、既存の社会に適応させることを主な眼目とする指導体制はあまりにも保守的過ぎて技術的革新が相次ぐ現代社会には適合的とは言えまい。今の児童生徒たちに求められる力は時代の激動に対応できる柔軟性と人々の多様性を受け入れられるマインドセットの方ではあるまいか。

 従って今、日本の学校教育に切実に求められているのは個性や多様性に十分配慮した限りにおける平等や公正さであろう。そうした点では一歩も二歩も前を行く欧米の学校教育制度に日本が素直に学ぶべき点は決して少なくないと思うが、いかがか。

 

・公益通報と守秘義務の関係 

 公務員の守秘義務(公務上知りえた秘密を外部に漏らしてはならない…)と生徒や保護者のプライバシーの保護を盾に取った学校側や教育委員会によるイジメ隠ぺい事件が頻発している。この問題を考える上でまず知っておきたいのが下の記事で解説されている「公益通報」であろう。何が「公益通報」に該当するのか、「公益通報」と判断される条件とは何か(・通報内容は「役務提供先で、通報対象事実となる法令違反行為が生じている旨」、・通報先は「事業者内部」「権限を有する行政機関」「報道機関、消費者団体、労働組合などその他事業者外部」…)、少し整理してある程度理解しておくと、以下の具体的な事件の理解にも資するであろう。

なぜ、大阪王将“ナメクジ騒動”告発者は逮捕された? 意外と知らない「公益通報」

 のあれこれ ITmedia ビジネスONLiNE 2024.4.22

公益通報の市職員が自殺 処分の職員が同じフロアに異動 和歌山

   毎日新聞 によるストーリー 2024.6.1

人口8000の町で起きた「公益通報」の不可解 不正をただすつもりが「懲戒処分

 はあまりに不当」AERA dot. 夏原 一郎 によるストーリー  2024.5.21

警察庁、鹿児島県警本部長を長官訓戒 24日から特別監察

   毎日新聞 によるストーリー 2024.6.21

「本部長の犯罪隠蔽」告発で揺れる鹿児島県警の愚挙 批判メディアへの強制捜査、

 心臓疾患を無視した取り調べ AERA dot.今西憲之 によるストーリー 2024.6.14

 公立学校教師を含む地方公務員の採用、人事に関しては昔から情実、コネとカネ絡みの噂が絶えなかった。地域によっては地元有力政治家が公務員人事、とりわけ管理職人事に口出しする場合もあると聞いてきた。こうした不正だらけの要素を数多く含む採用を長期間行っている地域ではせっかく公益通報のシステムがあったとしてもまともには稼働せず、結果的に旧態依然の行政がいつまでも改善されることはないだろう。そして各種の不正が将来的にもまかり通っていく可能性は低くはあるまい。

 妙な人間関係のしがらみに厳しく縛られている腐敗し切った職場では下手に正義感ぶって職場のあり方を批判すれば陰湿なイジメの対象とされてしまうのがオチ。たとえ純然たる公益通報者であったとしても「裏切者」、「チクリ屋」、「KY」、「偽善者」といった汚名を着せられて袋叩きにあい、遅かれ早かれ職場から排除されてしまうのはほぼ確定的となるはずである。

 イジメ事件隠蔽が学校で横行する背景には一つの役所や学校の枠を超えた公務員人事の深い闇が広がっている、と考えておくべきだと思うが、いかがだろう。