64.市原の戊辰戦争⑥
・市川船橋戦争
閏4月の撒兵隊の動きは結果的に勝の戦略を破たんさせてしまったようです。脱走部隊への統制はどうやら勝の手には余るものだったのでしょう。特に2千人を擁する撒兵隊の隊長福田八郎右衛門はフランス語にも通じたエリート将校であり、自信過剰気味であったと思われます。
木更津の奥、真里谷の真如寺に本拠を置き、「徳川義軍府」と称して江戸をうかがい、4月17日、福田は江原鋳三郎(後の江原素六)の第一大隊、堀岩太郎の第二大隊、増田直八郎の第三大隊を北上させ、第四、第五大隊を真里谷にとどめました。大鳥圭介軍も総勢2千人(参謀は土方歳三)で官軍に反抗する姿勢を示しましたが、北関東に向かい、福田側との連携は取らずに終わりました。
なお請西藩の林忠崇は協力を一方的に募る「徳川義軍府」に反発し、単独、箱根に赴いて背後から官軍を脅かす行動に打って出ます(閏4月3日、100人ほど率いて請西を出発)。こうした連携の欠如、足並みの乱れが旧幕府側にとっては致命傷となったようです。
徳川義軍府の過激な動きを制するため、勝は田安家の家臣松波権之丞を木更津に送り込みましたが、閏4月6日、姉崎で第三大隊長の増田に斬殺されてしまいました(妙経寺境内のことと考えられている)。政府から妥協を引き出す前に、拙速にも徳川義軍府は勝の制止を振り切って動き出してしまったといえるでしょうか。勝はこれが戊辰戦争最大の敗因と回顧しています。江原も勝と同様の考えであったようですが、福田らの強引な動きに逆らえないまま、立場上、義軍府の動きに加わらざるをえなかったようです。
下総ではフランス式装備の撒兵隊第一大隊(江原鋳三郎→後の江原素六指揮)約300人が4月29日、市川法華経寺に本陣を置き、第二大隊(堀岩太郎指揮)は船橋大神宮に布陣、第三大隊(増田直八郎指揮)は姉崎の妙経寺に本陣を置きました。一方、新政府軍は福岡藩兵が行徳、岡山藩が市川、佐土原藩(宮崎県)が松戸に布陣し、これに対抗しました。
閏4月3日(現在の5月24日)、既に官軍の動きを察知していた第一大隊は200人余りで午前2時に中山法華経寺を出発し、3時過ぎには市川八幡の岡山藩兵80人が屯集する旅館を包囲し、やがて攻撃。さらに古川善助(後に日清戦争で勲功を立て陸軍少将になる。なお喜劇役者の古川ロッパは彼の養子。※参照)の50人余りの小隊も加わり、官軍を市川まで後退させました。江原は第一小隊を率いて夜明け頃には下総国分寺のある国分山付近に到達。津藩の小隊と遭遇し、曽谷で銃撃戦となったのですが、台地の西端に沿って南下し、市川で大隊の主力と午前8時頃、合流し、岡山藩兵や津藩兵を江戸川の向こう側に追いやっています。しかし江原は船橋の第二大隊がしばらくしても追尾してこないため、単独では江戸川を越えて進撃出来ないと判断し、深追いせずに中山に引きあげました。
※古川ロッパ(1903~1961):東大総長加藤弘之の孫にあたるが、嫡男ではなかったため当時満鉄の
役員だった古川に養子に出された。エノケンと並び称された喜劇役者、コメディアン。「ロッバ」と
もいう。太った体格に丸眼鏡がトレードマーク。美声の持ち主でレコードを出す一方、徳川夢声らの
声帯模写も得意としていた。雄弁快活で貴族的育ちの優美さがある古川と庶民的で軽快な動きを持つ
エノケンとは対照的であった。
右端が江原鋳三郎(後の素六) 晩年の江原素六
※左の写真、チョンマゲに洋装という新旧入り乱れた和洋折衷の姿が見えるところがこの時代の過渡期
としての性格をよく表しています。
鎌ヶ谷に駐屯していた佐土原藩兵約100人は木下街道を西南に下り、馬込沢で午前6時頃、第二大隊の待ち伏せを受けました。しかし佐土原藩には大砲があったため、次第に義軍側は劣勢に追い込まれます。午前10時頃には夏見台を制圧した佐土原藩兵は、休むことなく第二大隊の本営船橋大神宮を目指しました。南風が強く吹いていたため、南側に迂回した佐土原藩の砲撃は大神宮を炎上させ、漁師町にも火を放ったため、船橋宿は猛火に包まれました(783軒が焼失)。
その頃、江原の第一大隊は中山で食事を取り、休息していました。やがて船橋方面から聞こえてくる砲声に対して江原は第二大隊救援のためにまず海神方面へ出撃する命令を出しました。海神では筑前福岡藩兵が200人ほど行徳から進撃してきました。その一部が海神三差路付近で江原の部隊から銃撃を受けました。江原はここで体格に勝る敵兵(小室弥四郎)にいったん組み伏せられましたが、古川らが斬りつけ、かろうじて救出されています。
※船橋では旧幕府側の死者を「脱走様」と呼んで各地で丁寧に葬っている。中には近代以降、戦争とな
ると徴兵除けの神様として遠くからも密かに参拝された「脱走様」の墓があったらしい。他方官軍側
の死者は後に明治11年(1878)以降、千葉県令柴原和の命で「殉国者の墳墓」として手厚く葬るよ
うにされた。市川・船橋では「官軍墓」の多くが明治19年(1886)に建てられている。しかし市原
ではそのような意図で建てられた墓石は一基も確認できていない。
なお当時の江原の写真を見れば分かりますように彼は必ずしも体格には恵まれていませんでした。背が低くてやせ気味であり、敵兵に組み伏せられた時は確かに万事休すであったと思われます。その後、江原は狙撃され、左太股貫通銃創の重傷を負ってしまいました。彼は部下に戸板の上へ乗せられて佐倉街道を運ばれ、山野村に逃げ込んでいます。隊長の負傷によって第二大隊の組織的な行動は不可能となりました。船橋での戦いは午後二時頃に大勢が決し、第一大隊、第二大隊の多くは散り散りとなって東金や木更津方面に退散していきました。
古川の回想では部隊は山野村に逃げ込んだ当初、30人ほどいましたが、翌朝になると過半が逃亡し、12.3人になっていたといいます。古川は2人の従者を江原に宛てがい、残りを引き連れて立ち去りました。彼らはその後、東金、茂原、笠森を経由し、市原の牛久を経たあたりで第三大隊の敗退を知ります(閏4月7日)。そこで真里谷に向かいましたが福田らは既に大多喜方面に撤退していました。古川も後を追っていったん大多喜に行きましたが、義軍は崩壊して流れ解散状態であったため、結局、勝ら上層部との連絡を保つためにも船橋経由で江戸へ潜入します。
一方、江原は山野村の名主達に匿われ、長持ちに隠れるなどして1カ月以上村内を転々とします。多少傷の癒えた江原は官軍から指名手配を受ける身となっていたにも関わらず、足を引きずりながら船橋に出て漁船に乗り、5月15日、江戸に向かいました。奇しくも上野彰義隊が壊滅した日でした。徳川義軍府の暴発は上野彰義隊の暴発を呼び、旧幕府勢力はかえって壊滅的な打撃をこうむったのです。勝の徳川家大藩復活の夢(慶喜の復権と江戸で100万石の大名としてとどまる目論見)も潰えました。
やがて徳川家には静岡70万石移封という過酷な処分(六分の一の減封)が下されることになります。江原は江戸各所を転々とし、8月に徳川宗家が静岡に移封されるまで江戸で潜伏を続けています。この間、榎本武揚に艦隊の脱走に加わるよう要請されましたが断ったといいます。榎本はこの頃、勝と対立し、幕臣としての節義を通そうとして函館を目指して艦隊ごと脱走を考えていました。これに対して江原は勝の路線に沿って、徳川宗家の今後のために移封先の静岡で力を尽くそうと決意したようです。
静岡藩(駿河、遠江と三河の一部)が設置された一方で沼津藩水野氏は菊間へ、浜松藩井上氏は鶴舞へ、といったようにその周囲の譜代は安房、上総に移されました。徳川宗家とともに静岡に向かった旧幕臣は明治4年の調査では13753人に達したといいます。江原は8月19日、「小野三介」という変名で静岡移住組に紛れ込みました。この日の夜、徳川宗家の出立を見届けたかのように榎本武揚艦隊は脱走の途に就きます。しかし折悪しく房総沖で台風に遭遇し、一艘が銚子沖で沈没、咸臨丸と蟠竜は駿河湾まで流されてしまい、清水港に寄港しました。8隻の艦隊は5隻となって仙台に寄港。蟠竜は遅れて仙台に到着しましたが咸臨丸は損傷がひどく、また老朽化していたため清水から動けませんでした。なお請西藩林忠崇は仙台で下船して降伏の道を選びました。
9月22日、会津若松城が開城し、奥羽越列藩同盟は瓦解しましたが、榎本艦隊は沖合にしばらく停泊を続けました。政府軍は相変わらず海軍を欠いていたため、手が出せなかったようです。やがて榎本艦隊は大鳥圭介、土方歳三ら3000人ほどを乗せて10月18日、東北を去り、悠々と函館に向かいました。
江原は藤枝にしばらく身を潜めましたがたちまち政府側から藩庁に対して身柄の引き渡しが求められました。しかし自首することなく沼津近くに移動して潜伏を続けました。また勝も江原赦免の運動を始めていました。9月18日に咸臨丸が政府軍の襲撃を受けて20人全員殺され、海に投げ込まれた事件が起こります。港内に浮遊する死体を引き揚げて葬ったのはあの清水次郎長だったといいます。10月、江原は政府からの指名手配が解かれ、赦免されました。12月、沼津城の二の丸の殿舎を校舎として沼津兵学校が開校し、鋳三郎は素六と名を改めて、その中心を担わされました。1869年5月、函館戦争が終わり、榎本武揚、大鳥圭介らは降伏しました。
沼津兵学校は西周を校長に招き、長崎海軍伝習所や講武所出身者を教授にしたため、全国的な注目を浴び、他藩からの留学が相次ぎました。しかし旧幕府軍の復活を恐れた政府は西を兵部省に引き抜きました。さらに1871年の欧米視察(岩倉具視遣欧使節団)の一員に江原が選ばれたことで沼津兵学校は完全に骨抜きにされ、1872年には解体されてしまいました。
帰国後、政府への出仕を断った江原は沼津に残り、困窮していた旧幕臣達のために「士族授産」の一環で牧畜業や製茶輸出業などを手掛け、1877年には洗礼を受けてキリスト教徒の立場から慈善活動にも従事。1885年、麻布中学校を設立、終身、校長を務めました。1890年、第一回衆議院議員選挙に当選以降、自由党、憲政党、政友会に属して政治活動にも携わり、大正11年(1922)、81歳で生涯を閉じます。
幕府時代は房楊枝作り(当時の歯ブラシ)の内職で貧乏のどん底から這い上がり、寸暇を惜しんで懸命に学問にはげみ、ついには若き俊才として将来を嘱望されていた江原でした。が、明治になって政府に仕えた榎本や大鳥と違い、終始、野にあった福沢諭吉のように「やせ我慢」の美学を終始、貫いた反骨の精神には学ぶべき点が多いようです。
江原の反骨の精神は畑木にある墓碑銘からも察せられるでしょう。
・徳川氏遺臣梶塚成志(しげゆき)墓
畑木供養碑「徳川氏遺臣梶塚成志墓」友人江原素六書
「ふるさとの小さな歴史」(佐野彪 千代田出版 平成24年)によりますと・・・
江原素六は市川船橋戦争当時、撒兵隊第一大隊隊長であった。また江原の先祖は梶塚と同じ三河国幡豆(はず)郡であった。江原は徳川方の為に戦い、自ら重傷を負った経緯もあり、犠牲になった人々に同情的だった。また維新後も在野にあって旧幕臣の困窮を救うために奔走し、子弟の教育に専心していた。
碑の裏面には…
「一死報恩」 梶塚成志君碑陰記 枢密院顧問官従二位勲一等男爵大鳥圭介題額
概要「1867年に慶喜公が大政奉還をされて後、幕府方のなかで官軍に抗しようとする者たちが撒兵隊という組織を作り、梶塚君はその一員であった。が、(彼の部隊は官軍に追われて)市原の畑木村の露崎半四郎の家に逃げ込んだ。そこにも官軍が来て攻撃を受け、多勢に無勢、一部を残して多くはさらに望陀郡に向かい敗走していった。しかし梶塚君らはここに踏みとどまって6人が戦死してしまった。
慶応4年(1868)閏4月7日の事である。梶塚君は元の苗字を高瀬といい、文政8年(1825)、三河幡豆郡友国村に生まれた。十余歳で江戸に出て文武に励み、俳句を良くした。やがて幕府に仕える梶塚定右衛門の養子となり、岡本氏の娘を娶った。三男二女を設けたが、長男と二男は早く亡くなってしまった。
三男の武松君は母と共に上総の地で亡き父梶塚君の遺品を捜し出し、畑木村に梶塚君の消息を訪ねた。村には小さな丘があり、当時、五人の死者を葬ったという碑が建てられていたが既に壊れてしまっていた。
ただ当時の村役人大野真十郎氏によると6人の死者が出たという。一人は近澤岩五郎(※)であり、負傷し、他村(永津)で亡くなったという。残りの五人は梶塚君以外の姓名が分からなかったが、死体の傍らにあった書きつけから木村清勝、川崎善太郎の二人は判明した。残りの二人は不明のままである。武松君は父の遺跡が今後亡くなってしまう事を恐れ、母の意を汲んでここに石碑を建て、後世に残すこととした。」
明治41年(1908)8月
※近澤岩五郎は永津の墓石(下の写真)では近澤岩四郎とある。
この碑が建てられたのは1908年。既に江原は還暦を過ぎて66歳を迎えており、晩年といってもよい時期にあたります。大鳥圭介に負けない程度、それなりのきらびやかな経歴を有していたはずなのに、なぜ江原はポツンと「友人」とのみ記したのか?皆さんはどうお考えでしょう?すこし気になるところですよね。
最後に梶塚らが戦死した永津での戦いの後日談をご紹介いたしましょう。こちらも佐野氏の記述に基づきます。
・海保永津の共同墓地
「閏4月上七日卒 徳川家臣近澤岩四郎正治 行年41歳」
右はその裏側:しね女の歌「永らえて 何をたよりに 古里へ
心ぞ時に すみ染めの袖」
夫(近澤岩五郎?)の安否を尋ねてきた若妻が夫の最期を看取った海上氏の話(岩五郎氏が瀕死の重傷を負い、田んぼで苦しんでいるのを海上氏が発見。介抱しようとしたが、たちまち息を引き取ってしまった…)を聞いて夫の墓前で歌った一首である。「しね」と名乗る、まだうら若いその女性は歌を詠み終えるとにわかに短刀をとりだし、自らの喉を突こうとした。が、かろうじて海上氏に制止され、数年、海上氏宅に身を寄せることになった。
本名を隠し、「しね」と名乗った女性は、おそらく最初から武家の女として夫の息絶えた場所で自害しようと覚悟を決めていたのだろう。辞世の歌を予め用意してこの地に臨んだものと思われる。「死ぬ」ことを繰り返し強く念じてきたために、彼女は海上氏に対して思わず「しね」と名乗ったのかもしれない。
やがて彼女は海上氏が紹介した千種小学校初代校長(加藤徳八)の後妻として引き取られていったという。
それにしても海上氏の行いには驚かされる。見も知らぬ岩五郎氏を弔い、墓を設けてその妻を何年か預かり、再婚させた挙句にさらに岩五郎の墓石に妻が作った歌をわざわざ追刻して岩五郎の追善供養までしている。
カッパたちは畑木の墓碑の近くに住んでいる倉持氏からこんな話を伺っている。倉持氏の曾祖母から聞いた話として、官軍が義軍の首を刎ねて倉持氏の裏山の竹やぶから伐ってきた竹に首を刺し、意気揚々と引き上げていったとのこと。
惨い戦場の有様に心を痛めた住人達が戊辰戦争後、どんな思いを抱いて明治という時代を生きていったのか、海上氏の行いに思いを寄せてみたい。
青柳光明寺:加藤徳八碑(大正9年=1920)
加藤徳八は寺子屋の師匠であったが、明治6年に千種小学校初代校長となる。後に長年の教育界への貢献に対して鮎川孝一郎とともに市原郡の明治43年度第一回目教育功労表彰者となっている。
義軍戦死者(近澤岩五郎?)の未亡人「志祢子」(佐野氏によると本名を「ひさ」といい、東京巣鴨の佐脇新兵衛の長女であったらしい)を後妻に迎えた。志祢子は明治36年(1903)に亡くなっているとのこと。