64.西広貝塚の調査

 

 

 シリーズ「遺跡を学ぶ」080 房総の縄文大貝塚 西広貝塚(忍澤成視 新泉社 2011)よりカッパが抜粋してその内容の一部をご紹介いたします。

 

千葉県の貝塚:およそ700か所で全国一位

 

・市原市の貝塚:縄文期は約40か所…千葉市、市川市、松戸市などに次ぐ多さ

 100mを超す大規模貝塚…西広・祇園原・山倉・山倉山王など。時期的には縄文中期の終わりから後期にかけて。中期主体の貝塚がほとんど無いこと、早期、前期の貝塚もほとんど見つかっていないことが市内の特色。

 

・西広貝塚:直径最大150m、貝の堆積層の厚さ最大2mで屈指の大貝塚。1972年から国分寺台土地区画整理事業に先だって埋蔵文化財の発掘調査開始(七次まで調査が続けられた)。調査と並行して土地区画整理事業が進められ、2003年に終了。

   現在、国分寺台地区には2万5千人余りが暮らしている、市内第一の住宅地となっている。1937年に初めて早稲田大学の西村正衛らによって発掘調査され、戦後、1948年にも再び西村らによって調査されている。

 近年の調査では人骨57体、土偶が一か所からまとまって140点出土(当時日本一の出土量)。イヌ6体、タヌキ1体、ウリボウ1体の埋葬も確認された。

 

・調査手法:4m四方のグリッドを幅50㎝に分割し、貝層断面図を作成して分層し、層毎の貝層を箱詰めしていった。貝塚の遺物すべてを回収し、整理。貝だけで整理箱に約3万7千箱、土器・石器なども1500箱余りに達する前例の無い厖大な資料が集まった。悉皆調査に限りなく近いものとなり、事実上、貝塚は整理箱の中に細分され、移動されたといってよかった。

   1997年からは整理箱内の遺物の整理作業が開始された。そのうち85%は「簡易処理」の対象とされ、内容物から土を取り除くために目が5mmのフルイにかけて水洗いし、残ったものを土器、石器、骨角貝製品、骨などに分類。残りの15%は最終的に目が1mmのフルイにかけて残った遺物をすべて回収し整理する「詳細処理」が施された。こうした水洗いと遺物の抽出作業だけで5年近くも費やされた。

   動物や魚の骨などは分類の為、まずは本物の死骸を入手し骨格標本を作製して分類の参考とした。魚は購入するなどして標本を作製できるが、ウミガメやイノシシ、シカなどは寄せられた情報を基に遠出することもあった。ウミガメの場合、100㎞ほど離れた館山の海岸まで死骸を取りに行ったという。

 

・調査結果

貝類:海水、汽水、淡水それぞれに生息する貝が発見された。総個体数1235669のうち83%をイボキサゴ(径2㎝ほどの小型の巻貝で干潟の砂地を好む…当時、広大な干潟が広がっていたと推量される。今でも小櫃川河口の盤州干潟では波打ち際から1㎞ほど沖合に出ると群棲している)が占めていた。二番目はハマグリで10%ほど。これも干潟の砂地を好む。イボキサゴは身が小さいのでいちいちつまみだして食べるだけでなく、だし汁をとるのに利用した可能性がある。

 

魚類:総個体数6142、およそ30種類。イワシ類16%、マアジ15%、クロダイ12%、キス9%、スズキ・ボラが各5%ほど。沿岸部の表層を群れる小魚が多い。淡水魚も10%ほどでウナギが過半を占める。小魚が多いということは網漁が盛んだったようである。土器の破片を利用した錘が多く見つかっている。クロダイやスズキなどやや大きめの魚は刺突漁で獲ったようでかえしのない小さめのヤス(骨角器)も見つかっている。

 

動物類:哺乳類としては総個体数629、20種類。6割近くをシカが占める。二番目はイノシシで3割ほど。三番目はタヌキで3%ほどなので獲物のほとんどはシカとイノシシである。なお、4番目はニホンザルで1.5%ほど、5番目はウサギで1.2%、6番目にムササビとアナグマが並び、1.1%。珍しいものではオオヤマネコ、カワウソ、オオカミ、クジラ、イルカ、キツネ、テン、イタチなど。

 

鳥類:総個体数106。カモが2割ほど、次にキジが14%、三番目にウとカラスが7%ほどで並ぶ。目立つのはカモ、ウ、アビ、カモメ、ヒシクイ、クイナ、シギ、ミズナギドリ、カイツブリ、ガンなどの水辺に棲む鳥。広大な干潟と川辺に棲む鳥を弓矢などで捕まえたのだろう。

 

道具類

土製品総数1764点。土器等の利器1299点、耳飾り等の装飾品59点、

土偶等の祭祀用具406点。

石製品総数8725点。石鏃等の利器8251点、垂飾103点、石棒等の祭祀用具371点。玉類の素材として滑石、琥珀、ヒスイ(富山や新潟産)

骨角貝製品総数16087点。骨角製のヤス等の利器626点、貝刃(魚の鱗落としや解体、土器の器面調整などに利用…チョウセンハマグリ、アリソガイ、オオトリガイなどの大型二枚貝)などの貝製の利器1212点、骨角製の装飾品504点、貝製の装飾品3256点。装飾品としての利用の多さが注目される。骨角製の装飾品として多く利用されたのはシカの角、イノシシの牙。他にオオカミ、ツキノワグマ、アナグマ、ムササビ、サル、クジラ、イルカ、アシカ、サメ、ウミガメなど。

 

・南房総産の貝製装身具

 貝製装身具3200点余りのうちタカラガイとイモガイ類で700点ほどになり、これまでに東日本で出土した遺物総数に匹敵する数に達した。タカラガイやイモガイは温かい海域に生息し、房総半島付近が生息域の北限になるが、サンゴ礁や岩礁に棲むため、東京湾の干潟には存在しない。

   近くでは館山湾周辺に多く生息している。おそらく3500年ほど前、西広周辺の人々は舟に乗ってか、陸路で100㎞ほど隔たった館山あたりまでわざわざ貝の採集のためにやってきたのだろう。

   なお最も多く見つかった小型のタカラガイ「メダカラ」は二つに割られて「外唇部」だけを切り取った形で見つかっているが、どのような用途に用いられていたのか不明である。土器内に新生児の遺体とともに納められていたケースが確認されている。

 

・集落

 縄文中期末から後期初頭にかけて集落が営まれ、およそ1000年かけて巨大な貝塚を形成した。当初は数軒の竪穴住居が見られるのみ。後期前葉に20軒弱の住居跡が見つかり、集落が発展してきたことがうかがえる。貝塚も環状となって貝層が厚みを増してきている。

   後期中葉には10軒弱となるが貝層は外に向かって広がりを見せている。しかし後期後葉には集落が衰退していったようだ。晩期中頃には集落が消滅したと思われる。その際、多量の祭祀道具(土偶、石棒等)、獣骨が一定の場所に投棄された痕跡がある。

 集落の中央にやや大きめの住居跡(長軸10m)があり、入口から突きあたった奥に掘られた穴から横倒しの状態で土器が埋められ、新生児の骨がタカラガイの加工品とともに納められていた。

   さらに床面には赤く彩られた貝殻(ハマグリ、バカガイなど)が多く見つかった炉の脇にはイノシシの頭蓋骨が置かれていたようで、特殊な役割を持った住居であったことがうかがえる。

 石に恵まれない房総であったため、石材は南東北、北関東、信州、伊豆、伊豆諸島などからもたらされた物が多い600点近くの黒曜石の分析から神津島産のものと諏訪星ヶ台産のものが前半、後半は諏訪星ヶ台と栃木高原山甘湯沢産へ移行したことが分かった。

 15点発見された貝輪に使われたオオツタノハは当時貴重品だったようで通常、一つの遺跡からは1,2点しか発見されない。三宅島、御蔵島周辺で採れたものと思われる。

 

   石材なども含めてこの時代、西広が様々な物資の集散地の役割を果たしていたことが推察される。

 

 

 

 これだけの研究成果を上げ、全国的に注目を集めた西広貝塚だが、上の写真で確認できるように今は跡形もなく宅地化され、碑が建つのみとなっている。わずかにその周辺には貝殻の破片が見られるが、それが貝塚の跡とは市民の多くが気づかない。ましてこの貝塚調査が本として出版されるほど重要なものだったことなど、ほぼ、誰も知らない。だからここを訪れる人はほとんどいない。

 

 古墳の数でもトップクラスの市原だが、貝塚同様、その多くは既に宅地化されていて今はごく一部を除き、存在しない。もちろん、マスコミを騒がせた「王賜銘鉄剣」が発掘された古墳もとっくの昔に消滅している(古墳のレプリカがかわりにつくられたが、やはりレプリカに過ぎない)。

 

 これが市原の現状。

 

 市原ではこれまで発掘調査=遺跡の破壊と言っても過言ではなかった。あくまでも開発のための遺跡調査なのであり、開発優先の原則は揺るがなかった。

 それが高度経済成長期を通じて市原の風景を特色づける、三種の神器「工場・ゴルフ場・ゴミ捨て場(山間部での不法投棄が多い)」の情趣に欠ける残念な景観を生み出してきた。

 

 そして少子高齢化のあおりを受けた南部、養老川の上流は特に廃屋が目立ち始め、乱立したゴルフ場も社用ゴルフの激減でかつてほど繁盛しているようには見えない。おかげでイノシシ、アライグマ、ハクビシンらの進出はめざましく、海浜部の姉崎神社までイノシシが出現しているという。

 

 海浜部の工場地帯にしても石油化学コンビナート、鉄鋼業、造船業などはかつてほどの景気良さはみえない。

 

 最近、工場地帯の夜景を楽しむナイトクルーズが宣伝されているが、どうみても市原の景気を上向かせるほどのインパクトには欠ける。

 

 今更、消滅してしまった貝塚や古墳の多さを誇ることはもう出来ない。市外からも参詣客を集められるだけの寺社は元々、存在していなかった。

 

 つまり市原には小湊鉄道と養老渓谷に田淵のチバニアン、それとわずかに残された里山しか、めぼしい観光資源は見当たらない。

 

 市原の行く末はやはり厳しいようである。

 

63.郷土の忠魂碑・忠霊塔

 

・市原市、千葉県の忠魂碑と忠霊塔

 「千葉県の忠魂碑」千葉県護国神社 1998年(非売品:―千葉県護国神社創建120周年を記念して護国神社が各市町村の遺族会の協力を得てまとめた忠魂碑関係の調査報告書)のデータを一部、ご紹介いたします。

 

1.市原市内の忠魂碑のデータ

 総数50基(本書では51基だが内1基は個人の墓として除外した)

 以下は本書のデータをもとにカッパが個人的に分類したもの

 

ア.設置年による分類(ただし設置年不明分11基は除く)

 

明治期

 

大正期

昭和前期

1926~45

戦後前半

1946~70

戦後後半

1971~98

基数

11(28%)

4(10%)

3(8%)

20(51%)

1(3%)

 

イ.設置場所による分類

 

神社・寺

学校

保育所、小・中学校

農協

その他

公民館・公園・道路脇

基数

18(寺は4)

19

5

8

 

 神社が総数の3割にも満たず(28%)、学校や保育所に多い(38%)点は意外であるが、何れにせよ公共性の高いところに設置される傾向があろう。

 

ウ.姉崎忠霊塔(昭和31年=1956年建碑):妙経寺門前

 

 なお「忠霊塔」の書は当時の首相鳩山一郎によるもの。碑文の表記は現代仮名遣い等に変え難解な漢字は平仮名にしてある。忠魂碑設立の思想的背景がうかがえるので以下、全文紹介しよう。

 

 祖国の不滅を信じ その安泰と東亜諸民族の解放を念願し 喜んでその礎石たる事に甘んじ 身を挺して戦陣に突入し 莞爾として殉じて逝った崇高な精神は永久に滅びるものでなく 今日においても依然としてわれら郷党の中にも尊い神の姿と映じ 尊栄(ママ)感謝の念を失ってはいないのであります。遠く日清日露の戦役以降 満州支那事変 今次大東亜戦争に至る当町出身の戦没者375柱の英霊を祀り その偉勲を顕彰し 忠魂を慰めるため また当時の戦友の間に忠霊塔建設の議が起り 先に町議会の協賛を得るに至り 郷友会また相呼応して広く各種団体 区長 有志等に諮り 挙町一体の忠霊塔建設委員会が結成されたのである。

 この事一度伝わるや 町内外の有識者の熱烈至純なる協力を(かたじけの)うし 半歳を出ずして建碑の功 全く成る。そびえ立つ高塔を仰ぎ見ては英霊の遺徳を追慕し 伏して遺族に思いを致すとき 万感胸に迫る。こいねがわくは英霊 とこしえにここに鎮まりたまいて郷土を照覧し 恵みと守護を垂れたまえと念願するものであります。

                    姉崎忠霊塔建設委員会 委員長 小泉茂

 

 ※なお菊間、飯香岡八幡の忠霊塔も立派な作りであり、写真だけ掲載しておく。

 

 

       

 

2.県内の忠魂碑のデータ

 本書では総数781基となっている。

 以下、本書の統計結果のうちで興味をひいたデータを紹介する。

 

ア.揮毫者ランキングトップ5

 第1位:乃木希典(日露戦争時の陸軍大将)           46基

 第2位:大山巌( 同上 )                  31基

 第3位:鈴木孝雄(陸軍大将、兄は海軍の貫太郎。靖国神社宮司) 28基

 第4位:川村景明(日露戦争時の陸軍大将)           24基

 第5位:筑波藤麿(元皇族、靖国神社宮司)           23基

 

 なお東郷平八郎の9基、戦後の政治家では柴田等千葉県知事の20基が目立つ。

また岸信介の7基も注目される。他に市内では野村吉三郎や島田繁太郎ら海軍関係者が揮ごうした戦後のものが散見される。

 忠魂碑・忠霊塔は陸軍と靖国神社が中心となって建てられてきたので、当然、揮ごう者もそこに偏っている傾向がみられる。とりわけ乃木や大山、川村といった日露戦争で有名になった陸軍大将が上位に目立つ。市原でも戦死者が多く出たこの戦争の影響の大きさが分かるだろう。

 また政治家では忠魂碑等が最も多く設置された1952~1955年に活躍していた人物(鳩山一郎や岸信介、柴田等ら)が必然的に多くなっている。

 

イ.設置年別の基数(ただし判明分の739基からカウント)

 

明治期

大正期

昭和前期

戦後

基数

182(25%)

56(8%)

66(9%)

435(59%)

  

 戦後に建碑されたものが6割近く占めている。とりわけ昭和27年(1952)の63基、28年(1953)の48基、29年(1954)の55基、30年(1955)の38基が突出して多く、わずかこの4年間で計204基(28%)も設置されている。

 1952年はサンフランシスコ講和条約発効の年であった。戦後まもなく、GHQの命令によって学校などから撤去されていた忠魂碑等のほとんどは寺社の境内などに移されていた。しかし1952年以降はアメリカに遠慮することなく、続々と県内各地の公共性が高い場所に忠魂碑等が新設されていったことが分かる。

 

3.千葉県護国神社(所在地:千葉市中央区弁天町)の概要

 これまでの経緯

  明治11年(1878):千葉県招魂社として創建

  昭和14年(1939):千葉県護国神社と改称

  昭和22年(1947):GHQの指導により頌徳神社と改称

  昭和27年(1952):サンフランシスコ講和条約発効によって千葉県護国神社に復

            する

 1853年のペリー来航以来、国家に殉じた人々は差別なく、従軍慰安婦でも祀っていると本書ではしているが…社殿以外で最も重要な施設の忠霊塔(昭和29年=1954年に千葉県が建立した高さ20mもの巨大なモニュメント)には日清戦争以後の県内出身の戦没者約6万柱が祀られている。

 この忠霊塔の前で毎年終戦記念日に知事や県の遺族会などが参加して戦没者追悼式が県主催で開かれている。

 ただしキリスト教徒などの遺族から、勝手に故人が神社へ合祀されてしまうことへの反発が表面化することもあった。

 

 

 

・補足「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編 崙書房 2011)より

 招魂碑は西南戦争頃に建てられ、忠魂碑は日露戦争後から、表忠碑は昭和期から目立つようになるという。そもそも「忠魂」という用語は日露戦争時から使われ出した言葉であって、それまでは「招魂」がもっぱら用いられていたようだ。

 

 また日清戦争までは個人碑が多く、日露戦争後に忠魂碑や戦役記念碑のような集合碑が多くなるという。これは日露戦争中、戦死者が多数出ていたため、厭戦気分を広げぬよう個人碑の設立に制限を加えたことに起因するようだ。この制限を契機に個人墓と紛らわしい碑の設立は公有地、神社内に建てることが事実上禁止され、集合碑にとって代わられることになったと思われる。

 

 1932年、文部省は校外生活指導の充実を通して「敬神崇祖」「国体観念の涵養」を図るため、学校行事の中に宮城遥拝、御真影礼拝、神社参拝などと並んで忠魂碑礼拝を盛り込んだ。このため忠魂碑に花筒、供物台、線香台を設けた例もある。

 また社寺境内だけでなく校内に建碑されることもあった。除幕式は3月10日の陸軍記念日(日露戦争での奉天会戦に勝利した日本軍が奉天城に入城した日。ちなみに海軍記念日は5月17日で同じく日本海海戦で勝利した日)に設定されることが多いようだ。 

 

 

・カッパの意見

 日露戦争以降、大勢で戦死者を慰霊するための忠魂碑が陸軍を中心に建てられるようになり、やがて学校での軍国主義的教育に利用されるようになった…という経過、及びその後、敗戦に至る40年ほどの歴史を考えると、やはり日露戦争の後、日本がこの戦いをどう受け止めたか、どう評価したのか、どう教えていったのか、が日本という国家の運命の分かれ道だったような気がする。

 ロシア革命の動きがもう少し遅れていたなら、日本がロシアに逆転負けしていた可能性は決して低くないだろう。アメリカやイギリスの大きなバックアップがなかったなら、国力的に見ても日本の劣勢は明らかだった。

 伊藤博文だけでなく、明治天皇すら反対していたこの戦い…実際にかなり危険な賭けであったと思わざるを得ない。

 少なくとも「勝てた勝てた、万歳!」と言って大喜びしてよい戦争ではなかったはず。政府は日清戦争、日露戦争に連勝し、慢心する国民に対して本当はギリギリの戦いであったことを正直に伝えるべきではなかったか…

 

 ポーツマス条約に反発する民衆が暴徒化した日比谷焼き討ち事件は日露戦争の実相を全くと言って良いほどに知らされてこないまま、初めて白人の国を倒したアジア人としてひたすら慢心していた日本国民の惨めで哀れな姿を内外にさらしていた。

 

 今、ウクライナ戦争についてロシア国民の少なからぬ人々がプーチンを支持し、EUを憎む姿勢を変えようとしていない姿が報道されている。そんなロシアの人々を憐れむ資格は日本人にあるのかどうか、ぜひ、生徒たちに問うてみたい。

 

 市原市松ヶ島永井家に伝わる下の写真を見て欲しい。

 

 

 日露戦争の勝敗を分けたといわれる日本海海戦と奉天会戦の勝利の日をそれぞれ陸軍記念日、海軍記念日として毎年、戦勝を祝い(…今も、だ)、危険な賭けに出たことの反省をきちんとしなかったツケはあまりにも大きかったのではあるまいか。

 「神頼み」と「大和魂」に依存する、非科学的で危険極まる博打に国家の命運を賭けてしまったと言っても良い、当時の指導者たちの無責任さは決して見過ごして良いはずはなかった。

 

 

 

 しかも結果的には運よく勝てたに過ぎない日露戦争への反省は今も不十分なままではないのか。むろん、太平洋戦争の敗戦への反省がいまだに不十分であるのは言うまでもないのだが…

 

 日本人は歴史の改ざんと隠蔽におそろしく無頓着な、「神風頼み」の自分たちの危険性にそろそろ気付いた方が良い、と思うのですが…皆さんはいかがでしょう。

  

62.鷹捉飼場(たかとらえかいば)について

 

 ※「霞村」とは鷹のエサとなる小鳥たちを捉える村のこと。

 

・「ふるさと神納」(多田憲美 H.7  P.87~)より

 多田氏が本書で詳細に江戸期の鷹捉飼場について記されていますので、ご参考までにその概要を以下にご紹介いたします。

 

 幕府は将軍の鷹狩りに備えて天和元年(1681)頃から鷹の訓練場、および鷹の生き餌の供給地を逐次、設置していった。最終的には房総の沿岸部(蘇我~富津)や、村田川、養老川、小櫃川、小糸川などの流域合わせて135か村を「鷹捉飼場」に指定。その管理には野廻り役人が在地の有力農民から選ばれ、名字帯刀を許されていた。彼らには役料として二人扶持(年に玄米3石6升)が支給された。このため、鷹捉飼場に指定された村々はそれぞれの領主から名主へと出される支配命令とは別に、鷹匠頭から野廻り役人を経て名主へという命令系統が存在していた。

 

 指定された村々は「捉飼場六箇条御定書」が出された。

一.鉄砲を撃ってはならない。

一.鳥を殺してはならない。相撲や芝居などの人寄せ事をしてはならない。

一.8月から9月にかけては川魚を捕ってはならない。鷹の訓練時は溝や堀に橋を架け

 るべし。川沿いの竹藪などは刈り取ってはならない。

一.鳥を追い立ててはならない。訓練時はかかしや縄などは取り払うこと。犬や猫は飼

 ってはならない。どうしても必要なときは許可を得るべし。

一.稲刈りが終わった田は水を抜き、春になってから水を入れよ。

一.村役や百姓は鷹の御用を滞りなく勤めよ。

 

 鷹匠が村にやってくるのは7月から翌年の2月まででおよそ8ヶ月。鷹一羽につき鷹匠一人、目付一人、同心一人、餌取屋二人ほどが付き添う。鷹8~9羽で一組とされた。彼らは年平均で50日余りの宿泊を重ねながら村々を巡回していった。

 

 夏はもっぱら隼、冬は大鷹を訓練していた。夏はヒバリ、冬は雁や鴨、鷺、鶴などが獲物とされた。特に鶴は珍重され、鶴が飛来すると直ちに鷹匠に報告。鷹匠は取り急ぎ現地に赴くことになっていた。その際には予め人馬の往来から農作業まで厳しく制限して鷹匠の来訪に備えなければならなかった。捕らえられた鶴は「上げ鳥」と称して将軍に献上。房総往還を継ぎ送りで江戸まで鶴を運ぶ際には篭方、鉄砲方まで動員され、お茶壺道中なみの物々しさだったという。

 鷹匠来訪の際には村々で人馬を差し出す。鷹匠頭には馬4匹、水夫人足3人、平鷹匠には二人につき馬一匹。人足には自宅から現場までの距離に応じて米の現物で日当が支給(5里以内で一日五合)。村高百石につき二人の人足を差し出すのが原則であった。安政3年(1856)の場合、一行は鷹7据、鷹匠4人、同心8人、供の小者が2人。次の宿まで移動するのに四箇村で人足90人、馬16匹と茶番、村内見廻り等の諸役に36人が動員されている。しかも通行前には木障切り(こきり)、道草刈りなども別途、課される。

 特に宿泊先となった村は負担が重かった。文政2年(1829)11月6日、鷹4据、鷹匠3人、餌取屋2人、野廻り役3人、餌差し3人(宿泊無しの一食供与)、計11人で来訪。一泊三食付きでしかも昼食は屋外の訓練となるため弁当を用意。夕食は晩酌付き(三升)。

 幕府は表向き鷹匠一行の出張にあたっては鷹匠一人あたり17~35文、餌取屋、野廻り役には一人17文の宿代を出し、一人あたり米五合を現物支給して村方に支払うことになっていた。また一汁一菜、香の物以外は一品たりとも出してはいけない、膳や椀は持参するなど余分の出費は一切認めない事と村方への布告には書かれていた。

 しかし実際には山海の珍味やお酒などを饗応するのが通例となっていた。

 

 宿泊される家の者は余所へ移り、村役は皆、宿の近くに会所を設けて待機しなければならなかった。神納村は四給知だったので村役は四組あり、十名以上が会所に控えて人馬の割り当て、会計処理など、雑多な仕事をこなしていた。この時の村の収支は支出が7076文に対して収入が594文であり、赤字分は6482文に達している。赤字分は宿泊した村以外の捉飼場=霞村が村高に応じて負担したが、応分の負担を払わない村もあり、訴訟沙汰に発展するケースもあった。

 

 市原では鷹匠一行が威張り散らし、田や畑を踏み荒らして難儀させられたと言い伝えられている。また鷹の多くは松前や津軽から献上されていたらしい(「馬と人の江戸時代」兼平賢治 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー398 2015)。

 鷹匠屋敷は江戸の駒込、御鷹部屋は雑司ヶ谷にあった。

㉟3年生の学級担任

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

ウ.3年生の学級運営

 学級担任としては進路希望の実現が3年生における最大のテーマとなる。もちろん部活では最後の大会で最高の結果を出すという、大きな目標がある。多くの生徒は最終学年として総体、夏の大会までは部活に専念したくなるだろう。

 しかし進路決定は確実に人生の岐路となる。夏まで進路のことには見向きもせず、準備不足のまま部活動での引退の時を迎えてしまい、とどのつまり保護者や部活の先輩のアドバイスを鵜呑みにして進路を決めてしまう残念な運動部員をこれまでに沢山見てきた。

 

 浪人覚悟の四大進学希望者ならば多少の出遅れも許されるが、就職や専門学校進学希望者、現役での四大進学希望者となるとそうはいかない。特に野球部で就職を希望する生徒は夏の大会と就職準備が重なる点(どちらも7月が最大のヤマ場となる)は早めに予告しておくべき。就職試験で野球部が有利なのは事実だが、野球部員であるが故に自分の個性と合わない職場、職種になまじ内定をとれてしまう事は後日、本人にとってむしろ大きな悲劇となりかねない。

 

 実は3年生になってから就職指導を始めても遅すぎる。遅くとも部活の最後の大会までにまだ間がある2年生の1月から就職希望者への手厚いガイダンスが数回分は用意されているべきである。その段階から7月の日程の厳しさは周知徹底させておきたい。

 

 そもそも進路決定の歩みは部活動と違って、孤独な歩みである。どんなに親しい友人であっても同じ職場、同じ大学、同じ専門学校に行ける事はほとんど無い。

 しかし同調圧力が基本的に強い日本の部活では自分だけが進路に向けて動き出すわけにはいかないと感じてしまう。お互いに様子をうかがいながらも結局は進路を二の次にしてチームワークを盾に部活に専念してしまうのは自然の流れであろう。

 ここでも教師の果たす役割は大きい。まず部の顧問の協力が無ければ放課後の就職ガイダンスは成り立たない。さらには学年団が一致団結して進路指導に邁進する必要がある。

 

 高校生最後の体育祭が秋に行われる場合、9月から10月にかけては就職試験や推薦入試のシーズンと重なる点も早く予告しておくべきである。運動部顧問の担任であるならばさらに新人戦の予選まで重なってくる。

 

 生徒側も3年生として学校行事で「最後の花道」を飾りたいのはよく分かるが、運の悪い人は就職や推薦入試の試験日などと学校行事が重なり、そもそも最後の花道を飾れない場合もあることは予め覚悟させておく必要がある。3年では進路希望の実現が何よりも最優先されなければならない事を早めに生徒に周知徹底させておくべきだろう。

 

 確かにAOや一般入試で四大にチャレンジする生徒の合否はかなりの部分、自己責任が大きい。学校以外でも塾や予備校などがある程度は受験指導してくれる。しかし専門学校への進学や推薦入試、とりわけ就職は生徒個人の資質や努力ばかりに責任を転嫁できない要素がかなり多い。どうしても教師によるテコ入れがものを言う。

 

 ほとんどの教員は高卒で働いた経験が無いため、自分の大学進学時の体験をベースに進路指導を捉えがちである。しかし高校生の就活は世間の常識とはかなりズレており、通常では受け入れがたいほどの謎ルール、特殊ルールがある。

 

 就職指導を経験したことのない教師と就職指導のベテランとの認識の差はこの点でかなり大きい。就職指導したことのない教師が3年生担任になった時、下手をするとそのクラスの生徒は大きなハンデを背負ってしまいかねない。

 

 進路指導は生徒の人生を左右しかねない、重大な案件であることの共通理解がまずは3学年職員全員に必須となる。

 

 担任への精神的プレッシャーは3年間を通じて3年の秋が最大、最強となる。

 

 秋は学校行事が目白押しで極めて忙しい時期にあたるため、仕事に漏れやポカが生じやすい。担任や進路指導部のちょっとしたミスから法的、民事的な責任を問われるような深刻な事態に発展するケースもある。特に就職と推薦入試、AOが重なる9月から10月にかけては推薦書と調査書の発行手続き、面接指導の希望が各担任のもとへと殺到する。

 

 進学用の調査書と就職用の調査書では書式が違うので取り違えは許されない。推薦入試の場合には字数400字を超える推薦文をほぼ同時に何枚も書かなければならない。進学用の調査書の場合、数値等の間違いは命取りになりかねないので学年、進路指導部、教頭と、最終的に職印が捺されるまでに何度もチェックが行われる。印鑑漏れはもってのほかである。

 

 もちろん生徒から預かった推薦願いを一旦引き出しにしまったことでうっかり出し忘れ、受験先への提出が出願期間に間に合わなかった・・・といった教師側のミスはあっという間に裁判沙汰、新聞沙汰となりうる重大事。担任や進路担当者にとってまさに薄氷の上を歩くような慎重さが受験手続きには求められるのである。

 

 誰の何を何日までに担任に提出させ、担任は何を何日までに本人に手渡すべきなのか、本人は何日までに出願書類一式を受験先に送らなければならないのか・・・逐一クラス名表を使って一覧表にして整理し、常に自分の目の前にさらしておく位の工夫を担任はすべきだろう。

 

 残念ながら生徒の一部はこちらから繰り返し声を掛けないと期限通りに推薦願いや調査書発行願いすらなかなか担任に提出してくれない。しかも締め切りギリギリで提出してくる生徒はかなり多い。様々な理由から出願書類を自力で書き終えてすべて取り揃えることすら危うい生徒、ご家庭も少なからず存在している。

 

 担任はやかましいほど毎日繰り返し、手続き上の見落としはないか、期限は大丈夫か、生徒達に確認させる事が必要となる。特に郵送の際、簡易書留などの説明はしておくべきである。調査書や推薦書は所定の封筒に入れて緘印を捺すのだが、この封筒をそのまま郵便ポストに入れてしまった生徒が実際にいる。

 

 出願手続きに関しては生徒に相応の常識を期待するのはもはや無謀とも言える時代となってしまったのだ。まずは最初から「キチンと出来るわけはない」という教師側の諦めが肝心。

 生徒が出そうとしていた就職予定の企業に送る郵送物をふと見てみると宛名の住所が何と高校の住所、それも自分の所属クラス宛であった・・・こうした普通ならあり得ない間違いを見つけるためにも本来、生徒には常識など無いのだからきっと間違えるはずである、と予め覚悟していた方が担任の身のためでもある。

 

 以上、強調してきたように3年の担任にとっては秋が正念場。若くして3年の担任となった場合、もしも交代できる人がいるならば運動部の第一顧問をその時(秋)だけは下りた方があらゆる意味で無難である。

 

 進路多様校の場合は推薦入試希望者が多く、しかも就職希望者も多いのでとりわけ大変。9月末から10月にかけてはほぼ徹夜状態で推薦書などを書く日があることも覚悟しなければならない。生徒が書いた出願書類、作文等には間違いが多いので念入りなチェックが必要である。

 

 たとえベテランであったとしてもこの時期、3年担任でありつつ同時に部活指導に専念するのは相当危険なチャレンジと言えるくらいに責任重大な仕事が山積してくる。多くの場合、仕事の期限も切羽詰まったケースが少なからずあってほとんどが待ったなしである。

 

 進路指導に関してはちょっとした油断、うっかりミスが身の破滅につながりかねないことを重々、覚悟しておきたい。

 

 晴れ晴れとした気分で生徒と担任とで喜びを分かち合い、感動の卒業式を迎えるためにも、教え子達の高校生活のフィナーレをしっかりと飾ってあげるためにも、担任は生徒達の進路実現という最大の難所、ヤマ場を細心の注意を払って無事乗り越えていかなければならないのだ。

㉞2年生の学級担任

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

イ.2年生の学級運営

 2年生になると生徒達は学校生活にも慣れてきてある程度まで自主的に動けるようになってきている。1年生の時と違って手取り足取りの指導は不要となってくるだろう。しかし多くの学校は2年の秋に体育祭(球技大会)、修学旅行が連続する。さらに部活動の大会(新人戦)も重なってくるので担任にとっても過密なスケジュールになることを見越した、早めの計画性が必要とされる。2年生もまた文化祭の準備は4月早々から始めた方が良い。

 

 大抵は2学年の前半に楽しい行事が続くのでクラスの雰囲気が暗くなる心配はほとんど不要。1年生の時の経験が活かされれば大抵の行事は大きな失敗をしない。だからこそ1年生での文化祭の体験は貴重であり、1年での担任の役割も大きい。

 逆に1年生の時に文化祭などがイマイチの結果に終わり、ギクシャクしてしまったクラスの生徒が多くいる場合、担任は1年生の時と大差ない、丁寧な働きかけをする必要が出てくる。

 

 3年間の文化祭の成否は1年生での体験にかかっていると言っても過言ではない。学校生活の一番の楽しい思い出として生徒達が挙げるのは何と言っても修学旅行や文化祭、体育祭、そして部活動である。その中でクラスの雰囲気を決定的に左右するのはクラス単位で行われる学校行事。クラスを協力的でイジメの少ない、明朗快活な雰囲気にしていく上で文化祭などの学校行事が果たす役割は極めて大きい。

 

 問題は修学旅行を終えた後半戦。楽しい行事が続いたのでクラスの雰囲気は明るいだろうが、そろそろ進路という厄介で大切な課題に目を向けさせる必要が出てくる。

 2年の11月に就職指導を始める学校があるくらい、この時期はあらゆる面で大きなターニングポイントになる。

 

 特に就職する生徒はあと一年半ほどでそれまで長かった学校生活に別れを告げて社会に出て働く・・・経済的自立という人生上の大きな飛躍が課されるのだから、気持ちの面でひるんでしまう生徒は多い。しかし学校生活と労働社会とは連結する要素が沢山あったことにまずは気付かせたい。遅刻せずに通学する、部活で心身を鍛える、多少退屈であっても授業などでの学習を地道に重ねる、学校行事でチームワークを作る・・・これらの経験はすべて社会に出て働いていく上でも役立つ事である。

 

 まずは2度経験してきた文化祭での共同作業を出来るだけアリアリと思い出させてみよう。それぞれの個性を活かした役割分担、作業の手順、共同作業の難しさ、必要とされるコミュニケーション能力、装飾やプレゼンの工夫、接客や会計の煩雑さetc・・・「働く」ということを文化祭での体験を通じて出来るだけ具体的にイメージさせ、箇条書きでまとめさせたい。

 この課題は就職希望者に限らず3年生でのAO入試や推薦入試での面接対策にもつながる。もちろん就職試験での作文や面接に向けての準備にもなる。

 できれば成功体験だけではなく、失敗した、苦労した、反省したこともしっかり思い出し、その時にどのようにして困難を乗り越えようとしたのか、時間をかけて考えておくことは極めて重要である。

 

 進路を考えるための材料はまず身近な事柄、自分の経験から探し出すことが肝要。これが十分に出来ていないと後々、面接試験の際に具体的で説得力のある話が出来ずに困るだろう。

※面接試験では抽象的なきれい事を暗記してスラスラ話せる生徒が必ずしも高い評価を得られるわけで

 はない。自分の体験に根ざした、具体的で説得力のある話が生き生きと語れるかどうかが合否の分か

 れ目になることも多いと考える。

 

 学校行事への取り組みは高校生活の前半を振り返り、良かったこと悪かったことを整理して他人に説明するための重要な土台となる。面接試験で頻出の「あなたが高校時代に最も力を入れて取り組んだことは何ですか?」、「あなたの高校生活で最も印象に残ったことは何ですか?」、「あなたの長所と短所を教えてください」といった質問への具体的で個性的な答えを用意することにもつながる。

 

 進路を決めるという人生の重大な岐路に差し掛かる生徒達にとって高校生活の意義を2年生の後半でしっかりと見直しをさせることは残り一年余りとなった高校生活をより一層有意義なものにしたいという意欲をもかきたてる事につながるだろう。

 

 よく言われる「中だるみの2年生」と形容されるような状況が年度末まで続くようでは自他共に納得できる進路決定は難しくなる。

 2年の後半は冬休み、LHR、総合学習の時間等をフルに使い、じっくり時間をかけて真剣に自分の進路を考えさせておきたい。

㉞1学年学級担任の目線とは

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 クラス担任となった高校教師が実際、どのタイミングでどんなことに心を砕き、どんなクラス経営をしているのか、学校関係者でない方でもある程度はイメージできるよう、以下、ベテランのクラス担任目線で記述してみよう。

 

ア.新入生を迎える際の心構えと1年生の学級運営

 新入生は入学したての頃、期待と不安で一杯であり、しばらくの間は緊張で疲れてしまうことが多い。当然、クラスの人間関係はまだまだぎこちない段階。そうした中での最初のホームルーム。

 初対面の印象はもちろん重要。ここで1年生の担任にまず必要とされるのは段取りの良さである。やるべき事、伝達すべき事が目白押しなのでテキパキと作業をこなしていかないと新入生の混乱と不安はなかなか解消できない。ただでさえ不慣れな環境で次から次へと課題、配布物が配られ、緊張の連続となる。

 当日のきめ細かな指示が口頭だけでなく、予めわかりやすく整理されて板書されていると生徒は動きやすい。また当面の日程や提出物、座席表、時間割表、掃除分担表などをコンパクトにまとめ一枚のプリントにして生徒に配布すると共にクラス掲示しておく。時間割表は特に別途、大判の紙でクラス掲示しておく。

 中学時代の級友がどのクラスにいるのか分かるように学年名表も掲示しておくとかなり喜ばれる。また学校全体の年間計画も掲示しておこう。先の見通しを少しでも明示しておけば新入生の不安は多少なりとも軽減される。

 

 遠足や文化祭の日程は4月早々から告げておくと生徒に目標を持たせやすくなる。クラスを活性化させる上で4月の中頃までには文化祭の企画を大雑把で良いから話し合いを通じてまとめてしまうのも有効。楽しい行事を待ち遠しくさせるとともに、クラス全体に今後の学校生活への期待感をもたらし、不安と緊張に満ちた雰囲気を一気に軽くすることが出来る。

 新入生は多くの場合、お互いの様子をうかがって言動が慎重となっており、なかなか率先して動こうとはしない傾向がある。文化祭の話し合いを通じていち早くリラックスさせ、生徒の自主的な動きを自然に誘い出すこともできよう。

 

 ただしリラックスさせすぎてしまい、ケジメがつかずにだらしないような状況を作り出してしまうのはもちろん良くない。そこで多くの生徒達がサボリがちな掃除に関しては予め出欠表を作っておくなど、最初からキッチリとやらせる工夫が必要。担任も教室掃除はテキパキと指示しながら、黒板と教壇だけは自らの責任で常にきれいにしておく。少なくともずるい生徒が楽をして威張り散らし、真面目な子ばかりが損をする・・・といった最低のクラスにしてはなるまい。

 経験上、朝のホームルームの時から黒板や教壇がチョークの粉などで汚れているクラスは授業でも反応がイマイチのクラスになってしまう。また座席が始終、縦横乱れているクラスは生徒間にやがて不公平感が醸成されのか、人間関係のもめ事が多いクラスになりがちであるという印象が個人的にはある。

 折り目正しさと清潔感と公平感を演出するのはあくまでも清潔できちんと整理された教室であろう。教室の環境と担任の普段からの言動は生徒たちへの影響力が決して小さくないことに留意すべき。そのどちらも欠けていてはダメ。

 教室が雑然としている中で担任が生徒に向かってどんなにきちんと勉強しろ、きちんと掃除しろと怒鳴っても大した効果は期待できまい。口から発せられる言葉よりも担任の無言の行為と無言のモノたち、つまり教師の背中と教室自体に語らせる方が生徒達への説得力ははるかに勝ると私は考える。

 

 昔から反社会的な生徒は教師の目を引きがちだが、今や非社会的生徒への気配りは極めて大切である。中学校で幾度もイジメを目撃し、自らも体験して憂鬱な気分を何度も味わってきた生徒たちは、その存在感が控え目であるせいか、教室では大勢に埋もれてしまったようで目立たない。しかしその数は実際にはかなり多いと感じてきた。

 察するに多くの生徒達は立場の弱い生徒への気配りを担任の教師が行えるのかどうか、密かに、しっかりと観察していると思われる。だからこそ担任は無口で孤立している生徒への意識的な働きかけが上手に出来なければならない。

 遠足でのバスの座席決め、文化祭での役割分担でなかなかグループに入れない生徒へのフォローが上手に出来ないと、本来、クラスの役に立とうと思っている真面目な生徒の心までもが担任から離れていってしまうかもしれない。

 逆に目立ちたがり屋で弱者への思いやりに欠ける生徒達がその派手な積極性でグループを形成し、いつの間にか遠足や文化祭などの主導権を握ってしまうと、クラスは学年の後半、まったく収拾がつかなくなるほどに乱れ、挙句の果てに不登校の生徒を複数生み出してしまうかもしれない。

 

 1年生の文化祭では初めての体験が多いため、なかなかスムーズに事は運ばない。最初から最後までギクシャクしがちである。意欲のある生徒、真面目な生徒を腐らせないためにも担任のリーダーシップ、テコ入れが1年ではどうしても必要である。

 自主的な行事だからといって何でも生徒任せにすると大変な事態を招きかねない。1年生の場合、大成功する必要はまったく無い。逆にやや悔しい思いで終わる方が次年度につながる、と思うべきだろう。

 重要なのは結果以上に文化祭当日に至るまでのプロセスである。実際、文化祭終了後に「先生、来年はもっと楽しい、凄い企画をみんなでやりたい!」と生徒達が声をそろえて言ってくれれば1年生としてはむしろ大成功の部類なのである。

 

 繰り返しになるが、大切なのはずるい生徒が楽をして真面目な子ばかりが損をする・・・という最悪の不公平感を出来るだけ生み出さない工夫。

 部活や塾を理由にして文化祭の準備をろくろく手伝わず放課後すぐにいなくなる一定数の生徒、放課後は残ってくれるが無駄話ばかりしていて教室に居残ること自体を目的にしてしまっている女子、無意味に外出し徒にダンボールだけ集め、それで事足れりとばかりに教室で遊んでばかりの男子、無謀な企画を押しつけておきながら思い通りに動いてくれない生徒達にイライラを募らせているクラス代表、文化委員・・・そのどれもが1年生にはありがちな光景である。

 彼らをまとめ上げてチームワークを作り、できるだけ多くの生徒を巻き込んで生き生きと動かしていけるかどうかはひとえに担任の力量にかかっている。

 

 まずは文化祭の楽しさを4月早々からアピールしておくこと。折に触れてはこれまでの楽しかった様々な文化祭での経験を担任が目を輝かせて語る必要がある。

 役割分担とそれぞれの責任を早めに明確にしておこう。文化祭が近づいてきたら班ごとに「本日のスケジュール」を印刷し、こまめに配布して一日の目標と作業手順などを簡単に示してあげるとクラス代表、文化委員のクラスメイトに対するイライラは多少なりとも解消されるはずである。

 

 文化祭の出来不出来は年度の後半、クラスの雰囲気を一変させてしまうことがある。文化祭を軽く見てはなるまい。一見、文化祭に対してクールで協力的に見えず、やる気も無さそうな生徒達ほど心の中で文化祭の盛り上がりに期待していたりする。不登校だった生徒たちが実は文化祭への意欲旺盛だった…という経験もある。

 多数派でもあるそのような生徒達の期待が裏切られたとき、今まで真面目だった生徒、協力的だった生徒までもが根こそぎ、クラスや担任に背を向けてしまうかもしれない。表面的には文化祭に消極的な彼らを他力本願の「自己中」と馬鹿にしてはいけないのだ。

 

 そもそも進路多様校での生徒は中学校時代、リーダーシップを発揮した経験を持つ子の数が限られている。基本的にはフォロワーだった生徒が多いだろう。そもそも仲間から叩かれるのが怖くて目立ちたくない生徒が圧倒的に多い。面倒くさそうな事には大抵腰が引けている。そうした生徒達をもグイグイと巻き込んでいく、担任のアイデアと情熱が問われている。

㉝等高線トレードと学校の危機

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 千葉県ではかつて「等高線トレード」と呼ばれる人事異動が頻繁に行われ、困難校ばかりを異動している教師たちが数多くいた時代があった(進学校ばかりを異動する教師も少なくなかった)。つまり困難校での経験豊富なベテランたちが困難校の教育を支える中核として多くの場合、有効に機能していたのである。もちろん進学校は進学校での経験豊富な教師たちによって支えられてきた。

 

 ただし「等高線トレード」には負の側面もあった。一旦、困難校に転勤してしまうとその学校、あるいは同程度の困難校から脱出したい状況が生じても、なかなか異動出来ないケースが少なからず見られたのである。実際、ある困難校では県に「10年条項」(同じ学校に原則として10年を超えて勤務できない…)が存在していたにも関わらず、毎年、転勤希望を出し続けても11年以上転勤できなかった教師は10人近くにのぼっていた。なかには同一校勤務14年目の方までいたのだ。

 

 当たり前のことだが、わざわざ進学校から困難校に転勤希望を出す教師は当時も極めて稀である。本音ではそれなりの進学校に転勤したいと思う教師がおそらく過半を占めていたと思うのだが、その本音は多くの場合、ただの夢か愚痴で終わっていた。

 

 こうしたことから「等高線トレード」は多くの教師にとって不公平な人事であると批判され、県教委もこれを20年余り前から本腰を入れて見直していくことになった。しかしこの見直しの結果も手伝って、一部の困難校では皮肉にも深刻な混乱が生じてしまったと思われる。

 

 困難校のベテランが転出していく一方で困難校の経験が無い、あるいは浅い教師が続々と困難校へ転勤してきたため、一時的にせよ、それまでの生徒指導、学習指導体制が崩れてしまい、ついには生徒の間から逮捕者や退学者が続出するとともに、入試での大幅な定員割れが恒例となってしまう学校まで出現したのだ。

 

 この混乱はなかなか終息しないまま、各学校で様々な問題を引き起こしていったように思う。残念なことに教師間でのチームワークが崩れ、組織的なバックアップすら期待できないブラックそのものの学校まで登場してしまったのだ。そうした学校では問題生徒たちと直面するのを可能な限り避けるべく、生徒棟ではなく特別棟ばかりに籠もる、あるいは教科準備室にしがみついて離れない進学校出身の教師がすこぶる多くなる。ついには噴出する生徒たちの問題行動で心身を病み、2~3年で異動を希望する、そんな教師が続出するようになる。

 

 ただし、幸いなことにかつての校内暴力世代やそのジュニア世代と違って、現在の高校生たちは自己顕示的な集団非行に走る者が極めて少ない。校舎の窓ガラスが何十枚も割られたり、校庭をこれ見よがしにバイクが走り回るようなことは昔とは違い、当分の間、滅多に起きることはないように思う。

 

 他方で不登校の数がここ数年、急増してきている。実は今の生徒たちの不気味なまでの大人しさが、本来ならばとっくに危機的段階へ突入していたはずの高校を上辺だけでも今日まで学校として支えてきたのだと私は考えている。

 

 今や非行を中心とした生徒指導上での問題を引き金にして公立高校の崩壊が生ずる可能性はほぼなくなったと考える。したがってかつてのような、生徒指導の強化を念頭に置いた学年室常駐体制にこだわり続ける必要性も多くの高校では消滅してきた。今やほとんどの高校は授業中心の教科準備室体制を軸にして授業改革に専念すべき時だろう。これは高校本来の姿に立ち返る、絶好のチャンスが到来してきたということでもあろうか。

 

 しかし他方で公立高校の危機は教員不足の進展に象徴されるように、一層、深刻度を増してきているように見受けられる。

 

 ならば今後、何が原因となって公立高校の崩壊が起こりうるのだろうか。それは2022年度における千葉県の公立高校での入試採点ミスが1000件近くの数に上ったことで明確に示されてしまったのではないか。

 

 学校の危機は生徒側よりもおそらく教師集団側の要因、教師集団の組織的自壊によって本格化していく可能性が高まってきたと私は危惧している。

 以前から精神的疾患などで中途退職や休職に追い込まれる教師が目立っていた。加えて近年の教師志望者の減少はこれからの学校現場を二重に追い詰めていくだろう。当然のことながら学校を支えるべき人材の質と量の両面にわたる決定的不足は、学校の危機を招く最大の要因とならざるをえない。

 

 私が将来的に予想する学校教育の危機の真因はこれまでの「教育改革」と称する施策がまともに反省されることもなく徒に繰り返され、教師たちをひたすら疲弊させ、絶望させてきた点に求められるだろう。

 それは現場の実情を何一つ知ろうとしない独断専行の政治家や官僚によって強行され、長い間、無意味な迷走を繰り返してきたお粗末な教育政策がとどのつまり招いてしまった、当然の帰結なのだと思うが、いかがか。

 

 千葉県教委が進めるその場しのぎの安易な再任用雇用策や非常勤講師採用の拡大などによって極度に深刻化した教師集団の高齢化と組織の弱体化…教員採用試験での倍率低下が加速させる教師の集団的劣化に起因する学校の自壊現象は決して入試採点ミスの多発だけで済ませていられる性格のものではあるまい。

 

 かつて教師集団が持ち得ていた能力の限界ギリギリの状況の中でこれまでかろうじて破綻なく遂行されてきた様々な教育的営為全般においても、このままの状況が放置されるのであるならば、いずれ教師集団の勤労意欲の喪失と能力的、体力的破綻が一気に表面化する日が来てしまうだろう。そうなれば全学校のあらゆる局面で同時多発的に不祥事が連発し、ついには学校教育活動をマヒさせてしまうような破滅的な結末に発展していくかもしれない。

 

 ただし、その前に大量の離職者と教職希望者の激減とで学校が完全にマヒするような、大幅な教員不足が生じ、不足分がいつまでたっても補えない時代がまず到来するに違いない。今はその暗黒時代の入口に立っている瞬間だとカッパは見ている。

 

 学校のブラック化の放置がいずれ招き寄せる危機的事態を私たちは断じて軽く見てはなるまい。

㉜ゆとりを奪ったゆとり教育

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 私の手元にはこの30年近くの学校教育の行く末を暗示することになった本がある。「動き始めた教育改革」(主婦の友社1997)という題名でかの寺脇研氏(1952~)が書いた本である。寺脇氏は文部省の官僚時代(1990年代の後半から10年間ほど)にゆとり教育の広報を担った、生涯教育とゆとり教育推進者の一人であった。

 この本では実に広く浅く教育についての所見を誰にも分かりやすく述べていて、法学部出身であったにも関わらず、文部省入省後、瞬く間に学校教育について世間に向けて堂々と語れるほどの知識を彼はいつの間にか獲得していたようである。

 ただし少しでも欧米の教育事情に通じている人ならば彼の見識の底の浅さをたちまち見抜けるだろう。彼が推奨する生涯教育、リカレント教育などはとっくの昔から教育学の世界では言われてきたものであり、彼の提唱するものに目新しさなぞは一切、見られない。むしろ彼がいかに学校現場を知らないか、いかに学校教育に関して限られた経験しか持っていないか、いかに輸入物に過ぎない机上の空論を自慢げに吹聴しているのか、はバレバレである。

 この本の137ページには「小・中学校は義務教育の本筋に帰れ」と題して中学校や高校が上級学校進学に向けての塾のようになっていると上から目線で一方的に学校現場を批判している。しかし歴史的経緯からすれば教職員の反対を押し切って全国共通テストを強行し、学校間の学力競争、進学競争を煽ってきたのは一体どこのどなただったのだろう。どの口がそれを言うのか…

 教育行政に携わる者がまさか学校の果たしてきた「選別・配分・社会化」といった社会的機能を知らないわけではあるまい。学歴社会、学校歴社会が成立した責任は学校にのみあるのではなく、社会全体の問題であることは自明の理である。それにも関わらず、学校教師の取り組みばかりに原因をなすりつけ、保護者に擦り寄るようにして一方的に学校を批判し、返す刀で学校改革、教師改革を迫るこの言い草には呆れてものが言えなくなる。

 

 受験の過熱は企業の人材選抜のあり方に問題の根本があるのであり、学校だけが受験戦争を煽ったわけではない。ところが「教師は自分が大卒だから生徒達も大学に進学することがベストだと勘違いしている」などと当時の教師批判の風潮に便乗して過熱していた受験をあたかも全面的に学校や教師の責任であるかのような言い方で責任転嫁している。教育行政の上層部に位置する人物が学校教育や学歴社会成立の経緯を知ること無く、学校現場への共感的理解の欠片すら持ち合わせていないのだから、この本を読了した教師にはドンヨリとした徒労感と絶望しか残るまい。

参考記事

 ○人事を行う教育委員会に「上納金」の慣行 約80の教員団体 校長候補の「名簿」も添えて…名古屋

  市が調査へ 東京新聞 2024.2.11

  未だに性懲りもなく寺脇氏が学校現場への無知さを晒してしまっている。「名古屋市教育委員会事

  務局が市内全16区の校長会など80以上の教員の団体から毎年、1団体ごとに3万円前後の現金など

  を受け取っていたことが関係者への取材で分かった。各団体は次年度の市立小中学校の校長に推薦

  する教員の名簿とともに金品を納めていた。」というまことに「けしからん」案件に関してのコメ

  ントがふるっている。

   「…教育現場には戦前の師範学校の名残で、昭和の終わりくらいまで学閥が存在していたが、名

  古屋ではまだ残っているのか。名古屋市と市教委は早急にうみを出し切らなければならない。」と

  のご託宣。しかしこの程度の認識レベルで文科省の官僚が務まっていた不思議さ、怪しさを感じて

  しまうのだが、いかがだろう。そもそも寺脇氏自身、東京大学の学閥を通じて官僚としての地位を

  築いてきた可能性を自ら証拠を示して堂々と否定できるのだろうか。

   少なくとも私の記憶では40年ほど前、特定の学閥同士で校内や管理職のポストを巡って激しい勢

  力争いが生じているという情報は神奈川県や千葉県などで個人的には確認できている。その後、都

  道府県によっては多少、学閥の構成に変化はみられるものの(千葉県では高校でかつての最有力学

  閥であった旧東京教育大学、現筑波大学系の茗渓会が体育以外では急速に力を失う一方で、千葉大

  の学閥が人事面で突出した力を持ってきているということはもはや周知の事実)、学閥の力が現在

  も相変わらずそれなりの力を持っていることは疑いようもない。

   実際、北海道旭川市の女子中学生凍死事件などは旭川市において北海道教育大旭川分校の学閥が

  突出した力を持っていることと決して無関係ではあるまい。「…昭和の終わりくらいまで学閥が存

  在していた…」と過去形で語る寺脇氏の現状把握のずぼらさ、甘さには呆れかえるほかないのだ。

   もちろん人事に影響を与えるのは学閥だけではなく、個人的縁故に加えて高野連、高体連、高文

  連、教科研究会などの団体もある。教員人事の裏側はいまだに完全なブラックボックスであり、完

  全な情報公開など不可能な世界である。当然のことながら、それを良いことに裏側でどんな人事が

  横行しているのかは一部の当事者しか分からない仕組みとなっていて、実際、怪しい限りの人事が

  行われていることはほぼ確実なのだ。たとえばありえないほどにレベルの低い校長の実態を見れば

  明らかだろう。残念ながらこの場では支障があるので実例を公表することは控えるが…

   私が知っている件と比べれば名古屋市での出来事はきわめて「かわいい」レベルである。ことは

  名古屋市に限らず、しかも一層悪質な人事、隠ぺい工作などが今も全国各地で進行中なのだ。そん

  なことも知らない、知ろうとすらしない人間が文科省の上層部に長くいられたこと自体、本当は日

  本にとって大事件そのものではないのか?

   日本の教育行政の圧倒的に的外れでトンチンカンな現状把握こそが日本の学校教育の大混乱を引

  き起こす主因となってきたことを現在の文科省の官僚たちは深く反省すべきだろう。

 

 「ゆとり教育」が孕んでいた本質的問題はどこにあったのだろうか。かつてよく言われていたような、「ゆとり教育が日本の児童生徒の学力低下を招いてしまった」などということでは決してない、と私は考えている。確かにそうした側面もあるにはあったのだろうが、もっと遥かに重大な問題があると私は考える。

 それはゆとり教育導入のために実施された様々な新しい試み(総合的学習の時間、職場体験、生活科などの導入・・・)が学校現場の混乱と疲弊を招き、改革の美名の下、教師達から最も大切な時間的、体力的、精神的ゆとりを奪い取ってしまったということ。結果的に学校が辛うじて保ってきたはずの現実対応力を劇的に低下させてしまったことの方がはるかに責任重大であったと感じている。

 もちろんその責任の過半は本来、「学校の特色化」路線が背負うべきだろうが、ゆとり教育の問題点は「学校の特色化」路線がもたらす悪影響についてまったく予想できていなかったことにある。

 つまり「学校の特色化」路線と「ゆとり教育」路線とが最悪のタイミンングを得てタッグを組み、公教育の破壊、学校のブラック化を推し進めてしまった…とカッパは捉えているのだ。したがって私から見ると「ゆとり教育」の責任は決して軽くはないのだ。

 

 確かに学習内容の削減は多少、児童生徒の負担軽減に繋がったかもしれないが、教師の負担は決して減じていない。むしろ土曜日が休日になった(2002年から完全実施)ことでやがて「定額働かせ放題」と揶揄されることとなった教師の部活指導は一層、過熱し過酷な負担となっていった。授業時数が減った分、部活指導の時間が増えただけ・・・「教師のゆとりを奪うゆとり教育」では完全に本末転倒であろう。

 部活動の過熱化は次第に授業よりも部活動を優先する傾向を一部の教師や生徒、さらには保護者の間にまで生み出してしまったのではないのか。高校入試の部活推薦枠に見られる不公正さが一層、学校教育の矛盾を拡大していったのもこの頃ではなかったか。むしろ土曜日の半日を授業で費やすかつての日程の方がまだ有意義であり、教師の負担も小さかったのではないのか。

 加えて総合的学習の時間(→総合的探究の時間)を週に一回行うことで多くの教師は1単位分の新科目を背負うことになってしまった。特にインターンシップ(職場体験)は児童生徒を預かる事業所への迷惑をかけることにも繋がり、担当教師の精神的な疲弊を強めてしまった。彼が自画自賛する生活科の導入もいたずらに小学校の混乱を招いたに過ぎないのでは・・・

 この頃から私の読書する時間が劇的に削られていったのは間違いない。複数の科目負担が当たり前になり、進路指導や生徒指導、部活指導、授業準備に追われることが常態化してしまったのである。従って授業準備に直接繋がらない学習に時間を割くことがほぼ出来なくなった。

 先にも触れたが大学卒業後も必死に取り組んできた学校教育に関する読書を私はこの20年近く、ほとんどしていない。教師であるにもかかわらず学校教育について学習する機会を根こそぎ奪われていくという、教師としては悲しいまでに致命的な現象が学校現場では皮肉にも「ゆとり教育」という「教育改革」の掛け声の下、一気に進んでいたのだ。

 この現象はおそらく私だけではあるまい。たとえば直近の10年間で学校教育に関する言説によって学校現場に大きな影響を及ぼすことの出来た現役教師がもしもいるのならばその名前を是非挙げてほしい。せいぜい「百ます計算」の山メソッドで知られる隂山英男(1958~:岡山県の小学校教師を経て立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長)氏くらいのものではなかったか。しかし隂山氏はたちまち管理職へご栄転し、大学へと活動の舞台を変えてしまった。

 しかも隂山メソッドに関しては教育技術法則化運動と同様に基本的には技術論であり、内容論は等閑視されてしまっていて高校社会科教師の関心を惹くものではなかった。教育内容が厳しめに限定されている義務教育では役立つだろうが、高校、それも教師の判断による授業内容の選定が鍵を握る社会科ではほとんど参考にできるものはないと私は考えている。

 従ってブログでの発信を除いてしまうと、不勉強ながら私はフルタイムで働く現職教師の有力な発信者を一人も思い浮かべることができないのだ。

 

 現役教師からの発信がほぼ途絶えてしまったことで「学校のブラックボックス化」が進み、世間からの理解や共感、支援を受けにくい状況が生み出されていく。そして人知れず「学校のブラック化」までもが容赦なく進み、ついにはSNSで「先生、死ぬかも」と静かにつぶやくほどに教師たちは追い詰められていった。

 ただ、一人の教師が声を上げた時には既に事態の悪化は深刻なレベルに達してしまっていた…もはや手遅れであることは明らかだと私は確信している。

「S・I戦略」=学校の特色化がもたらしたもの

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 

 進ゼミエコール臨時増刊「高校サバイバル戦略」(保坂展人&S・I戦略研究グループ編 日本ドリコム1992)は様々な観点から注目すべき冊子であった。まず編者の一人保坂展人(1955~)氏は麹町中学校内申書裁判の原告として知られ、当時は教育ジャーナリストであった。著書として「学校が消える日」(晶文社 1986)などがある。以後、衆議院議員を歴任し、現在は東京都世田谷区長となっている。しかし30年ほど前は管理主義教育批判の急先鋒であった。この冊子は学校の多様化、自由化を目指して企業の経営戦略である「C・I」を学校に応用した「S・I(スクールアイデンティティ)」戦略の導入を公立学校にも広く浸透させようという狙いで編集されている。

 「S・I」戦略の狙いは1996年の第15期中央教育審議会第一次答申によって提唱された「特色ある学校づくり」を先取りしたものとして評価できるだろう。1998年の教育課程審議会答申でも学習指導要領において各学校が創意工夫を生かし、特色ある教育活動を展開することが繰り返し強調されている。ただし夏野剛氏の「N高等学校」レベルならばともかく、学校が企業の発想の上面だけ真似ただけで根本から改革されていくのかどうかは多くの学校の現状を見れば一目瞭然であろう。

 「S・I」からはいわゆる「ネオリベ」(新自由主義)の嫌味な臭いが強烈に漂ってくるのだ。金太郎飴のように画一的で硬直化した公教育の弊害は確かに大きいに違いないが、優先して尊重されるべきは学校の個性よりもむしろ一人一人の児童・生徒や教師の個性の方ではなかったかと思うのである。

 またこの冊子で個性ある取り組みとして紹介されている北星学園余市高校は全国から高校中退者や不登校者などを含む多様な生徒を受け入れていることで一時期、全国的にその名を馳せていた。「ヤンキー先生」の活躍ぶりもテレビ等で有名になった。しかしあれだけ成功事例として当時は有名になった学校ですら、2015年以降、入学生徒数の減少によってしばらくの間、存続の危機を迎えてしまっていた。

 

 「S・I」という発想はそこにいる教師や生徒達の一体感をほどほどに醸成する程度ならば何らかの意味を感じる事が出来るが、それが行き過ぎてしまい、過剰なまでの一体感、同調圧力を生み出してしまうと、「チーム学校」の掛け声と同様に教師や生徒達を一定の枠内に縛り付け、窒息させてしまう虞のある危険な発想ともなってしまいかねない。

 そもそも公立学校は利益追求を旨とする企業とは違う側面を持つべきであり、そうでなければ「公立」にする意味が無くなるはずである。企業と同様、競争原理の下で公立学校の多様化、個性化と改革を推し進めようとの意図は多少、分からぬでもないが、公立学校が「公立」であることの意義、価値をも見失ってはなるまい。

 

 第一義的に競争させるべきは教師の授業内容と授業技術であり、学校の知名度アップを狙うだけの、見かけ倒しの個性や部活動の成果、進路実績に関する、なりふり構わぬ宣伝広告の巧拙であってはならないはずである。

 

 しかし、学校の特色化が実際にもたらしたものといえば、多くの高校が個性の欠片すら感じさせないほどに同じ戦略をとり始めたという予想外(?)の皮肉な事態であった。学力中位層や下位層に属するほとんどの高校が足並みをそろえて「特色化選抜」での部活動推薦枠を拡大していき、有望部員を出来だけ早く、数多く入学、入部させることで各種大会の上位校に名を連ね、高校の名を広く売り出す宣伝材料にしようとする巨大なうねりが生まれていったのである。

 

 確かに少子化の中で高校入学者数は減少に転じていき、突出した進学校を除けば多くの高校は入試倍率の低下による学校の「荒れ」や大幅な定員割れを恐れていた。したがって受験生の「分捕り合戦」よろしく、部活動の実績作りに専念する一方で、部活動推薦枠の拡大に多くの高校が走ってしまうのは、今になって冷静に考えれば当然の帰結だった。

 それが結果的には中学生に対する勧誘競争の激化、優秀な選手の「青田買い」争いと入試における部活動枠の設定や採点基準(部活推薦枠と一般推薦枠との加点面での格差)への疑惑を生み出し、高校入試における公正さと高校での学力軽視への疑念さえ、生じさせてしまった。

※2022年度の千葉県公立高校入試で採点ミスが千件近く発生した背景には、もちろん学校のブラック化

 があるだろう。多忙を極めた中での不注意、ミスの多発、という側面が圧倒的に大きいことは疑いよ

 うがない。

  しかしそれに加えて、当時、特色選抜において特に蔓延していた学力テストの得点を軽視する流れ

 が大勢の教師たちの記憶に強く残存していた…実はそのことが採点ミスの多発に少しばかり絡んでい

 るのではあるまいか…と私は感じている。いかがだろう。

 

 さらには部活動の過熱によって「学校のブラック化」が加速し、教師たちの疲弊を招くとともに、教育の根幹であるべき肝心の授業が空洞化していくという、本末転倒の悲劇的事態をも招いてしまった。

 

 当然、部活動の過熱化は勝利至上主義と強く固く結びつき、体罰や暴言をはびこらせ、管理主義を推し進めてブラック校則を生み出し、強圧的な生徒指導を長らく支え続ける流れを作り出していた。

 

 違うだろうか?

 

 当時、特に売名行為に露骨だったt千葉県のとある県立高校では数々の部活動の大会実績の垂れ幕に加え、「生徒棟全館、冷房完備!」などと謳った気色悪い垂れ幕を恥ずかしげも無く校舎から垂らし続けていた。

 

 ネオリベに屈して生徒、保護者の人気取りに汲々とし、競争主義の喧騒と商品化の波に公立学校が丸ごと押し流されることは二度とあってはなるまい。

 

 真っ先に尊重されるべきはかつて一度たりとも正面において議論されてこなかった生徒、教師の個性、多様性、人権であった。しかし一番肝心なその部分をまたもや素通りし、学校全体の集団主義的個性化を高校は目指してしまった。このため学校の特色化、個性化はかえって復古的で全体主義的な同調圧力を強め、部活動の過熱を通じて教師や生徒の個性、多様性、人権を踏みにじる方向へと機能していった。

 学校カースト制の成立に伴うイジメや不登校の増加の背景に何があったのか、私たちはもう一度、振り返って考えた方が良いのではあるまいか。

 

 日本全体で「失われた30年」という表現があるが、この20数年間はまさに高校教育にとって「進歩」とは真逆の方向へ向かって一斉に悲惨極まりない退歩、退化を繰り返した暗黒時代であり、「復古」の時代だったとハッキリ総括したほうが良いとさえカッパは考えている。

 そしてこうした問題だらけの日本の学校教育が日本の経済や政治の停滞をも招き、もはや取り戻すことの出来ない「失われた30年」の大きな一因をなしてきた、と考えるべきだろう。

 

 いわゆる「教育改革」とお上から称されてきたこれまでの文教政策を皆さんはどのように評価されていらっしゃるだろう?

 

※参考記事

<23区の予算案>世田谷区 学校教員の負担軽減を推進   東京新聞 2025.2.8

   かつて内申書裁判の原告であり、学校教育に関心の深かった保坂氏が世田谷区長としてどのような策を打ち出すのか…学級経営支援教員の配置と教科担任制の推進とが小中学校教師の負担軽減策の柱となりそうである。また不登校支援策として「学びの多様化学校」や「ほっとスクール」の設置に取り組むらしい。施策には特に目新しさが無いものの、それなりの予算措置を講じるという。

   小学校での教科担任制の推進や中学校での「学びの多様化学校」の設置などは文科省でも既に検討してきた事であり、実際、教師の負担軽減に有効な対策と評価できるが、大きな不安を覚えるのが学級経営支援教員の配置である。一体、この難しい任務を誰が引き受けるのか、どういう基準で支援教員を選ぶのか…この記事では肝心なことが少し曖昧にされている。世田谷区や区の教育委員会自体が人選に関するこれらの点で明確な見通しを持っていないはずはあるまい。新聞記事にするばらば、現場の教師たちが最も懸念している点をもっと深掘りすべきだろう。

   記事の内容からおそらくベテラン教師たちが人選の対象になるのだろうが、仮に教育委員会のメンバーや主幹教諭、あるいは元校長などから選ぶとすれば不安は募るばかりとなる。そもそもベテラン教師ほど、現代の教育環境の目まぐるしい変化には追い付けていない可能性が高い。変化の遅い時代ならば「ベテラン」の有難みは小さくないが、変転極まりない現代社会では多くの場合、ベテラン=老害教師となりかねない。まして学校経営の経験は学級経営に直ちに生かされるものではあるまい。

   麹町中学校の校長の様に、管理主義に走る人物が支援教員とされてしまえばむしろ学校の崩壊を加速させかねないだろう。戦前の視学官のように、学校現場を厳しく指導管理するだけの支援教員ならば現場を委縮させるだけである。どのような観点で世田谷区が人選するのか、マスコミはキッチリと監視する必要があるだろう。

大分の県立高推薦入試で優遇 県教委「本当に不適切」も謝罪はせず

   毎日新聞 2025.1.22

   かつては特色ある学校作りのために部活動推薦が千葉県内でも広範に存在しており、各部活の部員数や活動実態に応じてそれぞれ一定数の推薦枠を持っていた。高校によってはその推薦枠で受験すればほぼ合格が決まるような採点基準が設けられていて、当時、それが問題視されることはほぼ無かった。ただ千葉県内では一度だけ、20年近く前であったが、入試倍率や大学進学率がかなり高いにもかかわらず、部活動推薦枠の受験生にややアンバランスなほどの加点をしていた県立高校が問題視されたことはあった。

   大分県教委として中学校と同様に部活動を高校から地域へ移管する方向性をとるならば、今後は部活動の実績を公立高校の入試で加点することは一切、禁止すべきであろう。しかし、相変わらず部活動を高校教育の一環として継続するつもりならば、部活動を入試成績の一部として評価するのは決して「不適切」ではなく、むしろ理にかなっているとさえ言えるだろう。高校入試は本来、一回のペーパーテストだけで合否を判定すべきではないはずである。中学校時代の学習成績に加えて部活動やブランティア活動など、総合的な見地から合否を決定するのが、公平公正を強く要求される公立高校入試のとるべき本筋であろう。

 おそらく以上の観点から、大分県教委は謝罪しなかったと思われるが、いかがか。ここで問われているのは部活動による加点というよりも、むしろ高校での部活動継続の是非であろう。その判断によって、高校入試の判定基準も定まると言って良い。したがって大分県教委としては受験生や保護者の不信感を払しょくする上でも、できるだけ早く公立高校における部活動存続の是非に関する方針を明確に打ち出していくべきであると考えるが、いかがか。

なぜ日本からブラック校則はなくならないのか…校則は憲法より上位の存在、その

 校則の権限は校長に絶対的に委ねられている現状 集英社オンライン 2024.5.26

 ブラック校則残存の歴史的背景を知るにはもってこいの記事で、生徒たちにとっても大いに参考となるはず。子どもの権利条約の批准が日本が世界で158番目であったように、日本の学校教育は子どもの自主性を抑圧し、管理することに特化してきた傾向があるのは否めない。また教師自身の自主性も児童生徒と同様に厳しく否定されてきた。

 GHQの指導で職員会議に生徒代表が参加できていた時代は遠く過ぎ去ってしまった。今や職員会議は形式的な審議以外は連絡事項ばかりで校長の独断がはびこっている。これで教師たちに自主性や創意工夫の芽は育つはずがない。職員会議でほぼ全職員の賛成を得て決定していた事案が校長1人の判断で覆されてしまった経験を持つ教師は千葉県の場合、おそらく少なくあるまい。どの学校を問わずとも否応なく職員会議には無力感が蔓延し、会議を早く終わらせることが目的化している学校が多いはず。

 ただし「ゼロ・トレランス」という、生徒に妥協しない生徒指導のあり方は必ずしも否定的文脈のみで語られるべきではないと思う。個人的な経験ではあるが、学校秩序がほぼ崩壊し、生徒指導を放棄してしまったような学校に数年間私はいたことがある。そこでは授業を妨害する生徒が校内外を問わずに自由を謳歌し、器物破損や盗難、暴力、イジメがはびこり、授業中に火災報知器が鳴り響く現状があった。校内を巡回するとほとんどの消火器のピンが抜かれていて消火器自体も二階から投げ捨てられる、トイレのドアが二階から教師めがけて投げ捨てられる、職員室や教科準備室の物品が中庭に投げ捨てられる、退職まじかの教師が授業を成り立たせることが出来ずに早期退職を迫られる…しかし何があっても教師たちは教科準備室に閉じこもったまま、組織的対応の動きはあまり見られなかった。

 何とその高校は退学者数を劇的に減らしたことで文科省から表彰されたことを自慢にしている高校でもあった(年間の退学者数100人越えから20人台にまで激減)。しかしそれはあくまでも生徒指導をひたすら後退させることで実現された退学者数の減少に過ぎず、学校の内実は恐ろしいほどに空虚なものであった。個別対応を原則とする「カウンセリングマインド」が吹聴されていたが、集団的な秩序の崩壊に対して「カウンセリングマインド」だけで個々人の教師が対処することの無謀さを咎める者はいなかった。もちろん管理職の無知無能さは言うまでもない。

 しかもその高校は運動部が活発で、多くの生徒をスポーツ推薦によって遠方の中学校からも入学させ、定員割れをかろうじて防ぎつつ同時に運動部の実績を上げようという戦略を取っていた。しかし組織的な生徒指導を放棄した中での、そうした戦略は否応なく授業を軽視する風潮を教師と生徒とに蔓延させ、授業中の問題行動の頻発を招いていた。とりわけスポーツ推薦で入学してきた生徒の多いクラスでは一定数の生徒たちによる手が付けられないほどの傍若無人ぶりが随所で頻発していたのである。

 こうした高校ではある程度までの秩序を回復させることが何よりも優先されるべきだろう。個々の教員の個別対応には大きな限界がある。大人しくて真面目な生徒たちを徒に怯えさせて次々と不登校に追い込むような無政府状態だけは絶対に許容できない、と教師たちが考えるならばどうしても学年や生徒指導部による、統一的で組織的対応が不可欠となるはず。その際、「ゼロ・トレランス」の方針が暫定的にとられるのは学校の現状や教師たちの実力から見てもやむをえまい。

 もちろん、生徒たちの状況が一定程度、落ち着いた段階に到達できれば、当然のことながら生徒の自主性を育む、民主的指導を取り入れていく必要がいずれ生じてくるだろう。それぞれの学校の、時々の状況に応じて生徒指導の方針に多少の差異が生じてしまうのは仕方のないことだと考えるが、いかがか。

 むしろ全国一律に「生徒の自主性を尊重せよ」、「カウンセリングマインドを持って生徒に臨むべし」などといった、時流に乗っただけの表層的掛け声でひたすら学校現場を混乱させてきた、これまでの教育行政のあり方自体を根底から見直すべきだろう。教師の自主性をさんざん踏みにじってきた管理主義的な教育行政への反省がまったく見られない現在の文科省に生徒の自主性の尊重を説く資格など一片たりともあろうはずがない。厚顔無恥にもほどがあろう。

 ブラック校則などに関するマスコミの表層的な報道もまた、個々の学校現場の実情に寄り添う姿勢がイマイチ感じられず、非常に残念である。せめて学校自体がひどくブラック化、ブラックボックス化してきたことを前提に、より現場の実態に深く踏み込んだ報道を心がけていただきたい…がおそらく無理だろう。もうマスコミに期待するのはやめた方が良い。守秘義務の厚いベールを破ってでも学校現場からの、生の発信がいよいよ必要となっていると考えるが、いかがだろう。確かにこのブログも、そうした思いから発せられているのではあるが、元教師ではなく現役の教師の発信力こそが強く問われているのではあるまいか…

大阪で私立高校ブーム、専願者が20年間で初めて3割突破 授業料完全無償化で選択

   に幅 産経新聞 2024.6.19

   大阪における高校の授業料無償化が私立高校の躍進を招くことは予想されていた。この記事では私立の長所と公立の短所がよく整理されていて分かりやすい。公立高校が学校の独自性、個性を強め、多様化していくことへの限界が公立と私立との教員採用のあり方の違いからも説明されていて納得できる。

 今後の高校教育改革の先端を担うのは大胆な試みを行うことの出来る私立高校であると予想できるが、だからといって公立高校の改革が不必要だということにはならないだろう。県教委、文科省自体の改革と公教育のあり方の根本的な見直しは今後とも断行しなければなるまい。

㉙若者と企業社会

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

ホリエモン式記憶術。「偏差値」のせいで有能な人材が埋もれてしまう?【成田修

 造×堀江貴文】 堀江貴文 ホリエモン  2024/01/18 11:31

 学校と企業や社会とのつながりを踏まえて学校と若者の未来を考える上でヒントとなる指摘が多く、学校の社会的機能を考えるきっかけとして最適の動画だろう。

【見えざる貧困】厳しい残業で体壊し仕事と住みかを失う 若者のホームレス増加

  必要な支援とは・・・【newsおかえり特集】

    ABCテレビニュース  2023/10/27  13:56

【2023年大展望:キャリア|後編】転職実現率5%という現状は変わるのか?/男

 女の賃金格差は埋まり始めるのか?/罰則付きの情報公開義務の必要性/ジェンダ

 ー視点による仕事選び【北野唯我×渡邉正裕】

 PIVOT 公式チャンネル  2023/01/05 27:08

 企業の情報開示が進まず、転職率が低いままである点と男女賃金格差の大きさが日本経済停滞の大きな原因となっているという指摘は極めて重要だと考える。しかもこの二つのポイントが学校教育の問題点とほぼ重なっているように思われる点が悲しい。日本の教師は一見、男女平等度がかなり高いように思えるが、実際にはかなり格差が大きいと考えるべきではないのか。実際、大学の教師や学長は圧倒的に男性が多い。また校長の数は高校や中学校の場合、まだまだ女性がかなり少ない。

 その一方で給与の低い幼稚園教諭や保育士は相変わらず女性が圧倒的に多い。教職全体で見れば明らかに男女格差は大きいままなのである。またイジメ事件等の隠蔽が性懲りも無く繰り返されている点から見ても日本の学校ほど情報開示が遅れている組織はあるまい。つまり日本経済停滞の淵源を遡れば学校教育に辿り着くと言っても決して過言ではないとカッパは考えている。日本経済の回復を図る上でも学校教育の根本的な見直しは必須であろう。

オワコンの国「日本」を脱出する富裕層、実はいま「子供の教育」のための海外移

   住が増えている……!現代ビジネス A4studio の意見 2023.11.8

 当然、日本の学校教育もオワコン化していよう。子どもの教育のために一時的海外移住が増えていることは、「安かろう、悪かろう」の日本の学校教育の害悪が一定数の児童生徒には及ばない点で非常に好ましい。

 今後、この流れはさらに拡大していくだろう。その結果、日本社会での格差拡大は不可避となるに違いない。

参考動画

夢を持てない子ども?AI時代に取り残されないためのキャリア教育とは?【成田修

 造さん対談】【生成AI】安野貴博の自由研究チャンネル【SF作家】

  2025/03/17 32:39

 ティーチングからコーチングへと教育の軸が移っていくことは間違いないだろう。成田氏の関わる通信制サポート校が将来的には高校の主流となるかもしれない中で、既存の高校がどう変容していくべきなのか。教師として考えるべき点は少なくないだろう。一条校のN高に加えて、自由度が極めて高い通信制サポート校が高校のあり方を先取りしている面はかなりあると考えるが、いかがか。

 少なくとも既存の学校が変わるべき側面は極めて大きいのであり、どこをどう変えるべきなのかは、この対談からも見えてくるはずである。

【目標だらけの世の中】「目標からの逆算が、僕らから奪っているもの」編集部員

   ×若新雄純が“逆算思考”に物申す【前編】

   新R25チャンネル  2023/07/05  31:35

【人生と逆算】「“逆算思考”を身につけないと、これ以上出世は…」編集部員の悩

   みに若新雄純が「魔が差している」と一刀両断【後編】

   新R25チャンネル 2023/07/12 28:29

 高校生になっていても「思期」「中二病」の心性を持ち続けている生徒は決して少なくないだろう。そうした生徒たち向けの進路指導として素晴らしい指摘に満ちている動画。

 「生きている間はすべてである」という捉え方を大切にする生き方を選ぶならば、「逆算」式(他者からの評価を軸とする、満点がある、という前提を許容する、減点式の現状把握を招きがち)の、長期的見通しを持つ堅実な、計画性のある生き方を諦めた方が良いのかもしれない。「積算」式の、先を読みにくい生き方の良さ、幸福感を発信する力さえあれば、周囲から居場所を与えられる可能性は高まるだろう…若新氏の指摘に頷く方は少なくあるまい。

【油断禁物】海外から見る本当の「日本経済」事情/今投資をするなら熊本/

   「成果主義」の導入が急務/優秀な外国人人材を採用するための方法/どうすれば 

    日本がもっと良くなるのか?【KUROFUNE】

    PIVOT 公式チャンネル  2023/10/21  31:00

 「報告・連絡・相談=ホウレンソウ」と呼ばれるように、個人プレーを極端に嫌う昭和な社内文化が企業の進化を遅くし、何事にも細かすぎて窮屈、不自由な雰囲気を職場に蔓延させてしまう。中高年層が「ミルフィーユ」のごとく厚い層をなして少数派の若者にのしかかっている少子高齢化の日本においては、年功序列型の階層構造と集団主義的企業文化が長い順番待ちの行列の最後尾、階層の最下層に立つ若者を徐々に腐らせている元凶。こうした組織文化は連帯責任を重視するがために失敗を恐れる傾向が強く、新しい事にチャレンジすることを妨げ、若者を末端に追いやる。また同調圧力が強く、妬みを生みやすい組織となり、仕事の失敗は組織の中に隠蔽されやすい。「出る杭は打たれる」ため、個々の力が十分には発揮されず、すべてがチームワークの成果と見なされるため、個々人の実績や成果が給与には反映されにくい。

 しかし歴史的に見れば日本人は本来、複眼思考に長けていて異文化への順応性は高く、実際、日本企業の外国支店・工場での生産性は比較的高いとされる。日本がこれから先、異文化とのハイブリッドで高い業績を挙げていくことは可能である。しかしそのためには英語の習得と硬直した組織文化の改善は必須の条件。学生も労働者も国内にとどまろうとすると時代の流れに取り残されるリスクは高まる。政府は若者の所得税を減免するなど、若者支援を強化し、教育においては早くからダイバーシティの尊重を重視すべき。

知の巨人「ルトガー・ブレグマン」、絶望する日本のZ世代に喝

 NewsPicks /ニューズピックス 2023/01/05 9:08

 日本の若者が過度な忖度を強いる、極めて同調圧力の強い日本の高齢化社会から抜け出し、閉塞感の色濃く漂う現状を打ち破っていくためには嫌われる勇気を持つことが不可欠である、とブレグマンはいう。

 老害や集団によるイジメがはびこり、多数派と協調する事を強いる日本の学校が若者の閉塞感、絶望感を醸成してきた張本人であることは否定できないだろう。真面目な議論を避け、社会派が唱える正論に対して否定的に冷笑する姿勢が目立つ若者達を育成してきた責任の一端は明らかに教師や児童生徒の個性や多様性を尊重しようとしない旧態依然の学校の有り様にあるとカッパは考える。

 

参考記事

「真面目に努力」若年層ほど低く 社会に悲観的意識強まる

 共同通信社 2022.12.8

 このアンケート結果は非常に興味深い。確かに老害がはびこる日本の政財界の現状(会議中の居眠り議員の多さ、改革を図る首長と議会との対立、各種差別発言を執拗に繰り返す政治家達、長老政治の跋扈、教育や福祉の後退・・・)は若者を絶望させるのに十分なほどの無軌道ぶり。そこで若者の自己肯定感を高める上で学校教育の役割が重要だと記事は説く。

 しかし、肝心の日本の学校教育の停滞ぶり(ブラック校則、イジメ事件隠蔽、画一的管理教育や体罰、一斉講義形式の残存、教員志望の減少、地域の現状を無視した学校統廃合の進展・・・)は極めて深刻で今や先進国と名乗るのもおこがましい状況。むしろ学校は若者の自己肯定感を下げ続ける方に加勢してしまっていると言った方が良いだろう。従って若者の自殺率や不登校児童生徒数は増加の一途を辿っており、その背景には日本の経済的競争力の低下、格差の拡大、とりわけ若者の貧困化が加速している現状がある。

 日本社会の未来を背負っていくべき若者世代が絶望して引きこもり、ついには自殺してしまう、そんな国に明るい未来が訪れるはずもない・・・と考えるのがむしろ当然の認識なのだ。だから「真面目に努力」することにすら積極的な意義を見いだせない若者が増えている。

 この事態が示す日本社会の未来の見取り図はものすごく絶望的で暗い、と言うほかあるまい。そして宮台氏が繰り返し、指摘してきたように日本社会への徹底した絶望感を共有することでしか私たちは最早前に進めなくなっているのかもしれない。

 まずはこの短い記事から何を読み取ることが出来るのか、真正面から生徒達に問うていきたい。そして日本社会の今後に少しでも光明を見出せるとすればそれは何か、どこに着目すればこの「時代閉塞の現状」を打開できるのか、「私たちのその先」を問い続けていきたい。

 

日本の深刻実態が露呈…3兆円以上がばらまかれた東京五輪に見る「クソどうでも

 いい仕事」の実態 現代ビジネス 酒井 隆史 の意見 2023.9.9

 成田氏が指摘した、あたかもミルフィーユのように層をなして少数派の若者の上にのしかかってくる高齢者集団の「老害」こそがおそらく社会の中に次々と「クソどうでもいい仕事」を増やし、「クソどうでもいい肩書」を増やすことと緊密に繋がっているのだろう。

 

「知らないのはヤバい」日本の若者が伝えたい気候変動に並ぶ“もう一つの危機”。 

 生物多様性条約のCOP15が開幕 ハフポスト日本版 の意見 2022.12.8

 教科書準拠の画一的一斉講義形式授業によって生じている日本の教育に特有な「取りこぼし問題」としては性教育を始めとする学校教育の遅れ問題や近現代の日本史への知識・理解の浅さ、天皇制や日米安保体制、とりわけ沖縄での基地問題への関心や知識、理解の欠如、そして移民問題や気候変動・生物多様性への関心の低さ等が挙げられるだろう。

 実際に枚挙に暇がないほど、日本の学校で教えるべきとされる教科書の内容には穴が多くなってきている。あまりにも多すぎるのが現状なのだ。

 そもそも授業の内容を教科書に全面的に頼っているようでは時代の流れに取り残される一方となろう。今や日々刻々と更新されるホットなニュースを授業で取り上げることは不可避である。生徒達にとって比較的関心が高いテーマの多くはネット上で話題になっている最新の出来事であろう。今、目の前で起きている出来事への説明が欲しい時に、それらについて一顧だにしない社会科授業など、面白くあろうはずが無い。

 目の前の生徒達に今、何を教えたら良いのか、個々の教師の工夫と裁量に委ねるべき領域は日増しに増大していると考えたほうが現実的である。私たちが暮らしている社会は激動の渦中にあると認識すべきなのだ。

 であるならば教師は部活指導や形式的な事務仕事、意味の薄れた学校行事の準備に追われている場合ではあるまい。国は一刻も早く教師の負担を軽減して教師が授業

準備に専念できるような環境整備を何よりも最優先して取り組むべきである。加えて学習指導要領の拘束力を弱め、学習内容に関しての学校や教師の裁量権をもっと大幅に認めていくべきなのである。