63.郷土の忠魂碑・忠霊塔
・市原市、千葉県の忠魂碑と忠霊塔
「千葉県の忠魂碑」千葉県護国神社 1998年(非売品:―千葉県護国神社創建120周年を記念して護国神社が各市町村の遺族会の協力を得てまとめた忠魂碑関係の調査報告書)のデータを一部、ご紹介いたします。
1.市原市内の忠魂碑のデータ
総数50基(本書では51基だが内1基は個人の墓として除外した)
以下は本書のデータをもとにカッパが個人的に分類したもの
ア.設置年による分類(ただし設置年不明分11基は除く)
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明治期
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大正期 |
昭和前期 1926~45 |
戦後前半 1946~70 |
戦後後半 1971~98 |
基数 |
11(28%) |
4(10%) |
3(8%) |
20(51%) |
1(3%) |
イ.設置場所による分類
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神社・寺 |
学校 保育所、小・中学校 |
農協 |
その他 公民館・公園・道路脇 |
基数 |
18(寺は4) |
19 |
5 |
8 |
神社が総数の3割にも満たず(28%)、学校や保育所に多い(38%)点は意外であるが、何れにせよ公共性の高いところに設置される傾向があろう。
ウ.姉崎忠霊塔(昭和31年=1956年建碑):妙経寺門前
なお「忠霊塔」の書は当時の首相鳩山一郎によるもの。碑文の表記は現代仮名遣い等に変え難解な漢字は平仮名にしてある。忠魂碑設立の思想的背景がうかがえるので以下、全文紹介しよう。
祖国の不滅を信じ その安泰と東亜諸民族の解放を念願し 喜んでその礎石たる事に甘んじ 身を挺して戦陣に突入し 莞爾として殉じて逝った崇高な精神は永久に滅びるものでなく 今日においても依然としてわれら郷党の中にも尊い神の姿と映じ 尊栄(ママ)感謝の念を失ってはいないのであります。遠く日清日露の戦役以降 満州支那事変 今次大東亜戦争に至る当町出身の戦没者375柱の英霊を祀り その偉勲を顕彰し 忠魂を慰めるため また当時の戦友の間に忠霊塔建設の議が起り 先に町議会の協賛を得るに至り 郷友会また相呼応して広く各種団体 区長 有志等に諮り 挙町一体の忠霊塔建設委員会が結成されたのである。
この事一度伝わるや 町内外の有識者の熱烈至純なる協力を辱うし 半歳を出ずして建碑の功 全く成る。そびえ立つ高塔を仰ぎ見ては英霊の遺徳を追慕し 伏して遺族に思いを致すとき 万感胸に迫る。こいねがわくは英霊 とこしえにここに鎮まりたまいて郷土を照覧し 恵みと守護を垂れたまえと念願するものであります。
姉崎忠霊塔建設委員会 委員長 小泉茂
※なお菊間、飯香岡八幡の忠霊塔も立派な作りであり、写真だけ掲載しておく。
2.県内の忠魂碑のデータ
本書では総数781基となっている。
以下、本書の統計結果のうちで興味をひいたデータを紹介する。
ア.揮毫者ランキングトップ5
第1位:乃木希典(日露戦争時の陸軍大将) 46基
第2位:大山巌( 同上 ) 31基
第3位:鈴木孝雄(陸軍大将、兄は海軍の貫太郎。靖国神社宮司) 28基
第4位:川村景明(日露戦争時の陸軍大将) 24基
第5位:筑波藤麿(元皇族、靖国神社宮司) 23基
なお東郷平八郎の9基、戦後の政治家では柴田等千葉県知事の20基が目立つ。
また岸信介の7基も注目される。他に市内では野村吉三郎や島田繁太郎ら海軍関係者が揮ごうした戦後のものが散見される。
忠魂碑・忠霊塔は陸軍と靖国神社が中心となって建てられてきたので、当然、揮ごう者もそこに偏っている傾向がみられる。とりわけ乃木や大山、川村といった日露戦争で有名になった陸軍大将が上位に目立つ。市原でも戦死者が多く出たこの戦争の影響の大きさが分かるだろう。
また政治家では忠魂碑等が最も多く設置された1952~1955年に活躍していた人物(鳩山一郎や岸信介、柴田等ら)が必然的に多くなっている。
イ.設置年別の基数(ただし判明分の739基からカウント)
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明治期 |
大正期 |
昭和前期 |
戦後 |
基数 |
182(25%) |
56(8%) |
66(9%) |
435(59%) |
戦後に建碑されたものが6割近く占めている。とりわけ昭和27年(1952)の63基、28年(1953)の48基、29年(1954)の55基、30年(1955)の38基が突出して多く、わずかこの4年間で計204基(28%)も設置されている。
1952年はサンフランシスコ講和条約発効の年であった。戦後まもなく、GHQの命令によって学校などから撤去されていた忠魂碑等のほとんどは寺社の境内などに移されていた。しかし1952年以降はアメリカに遠慮することなく、続々と県内各地の公共性が高い場所に忠魂碑等が新設されていったことが分かる。
3.千葉県護国神社(所在地:千葉市中央区弁天町)の概要
これまでの経緯
明治11年(1878):千葉県招魂社として創建
昭和14年(1939):千葉県護国神社と改称
昭和22年(1947):GHQの指導により頌徳神社と改称
昭和27年(1952):サンフランシスコ講和条約発効によって千葉県護国神社に復
する
1853年のペリー来航以来、国家に殉じた人々は差別なく、従軍慰安婦でも祀っていると本書ではしているが…社殿以外で最も重要な施設の忠霊塔(昭和29年=1954年に千葉県が建立した高さ20mもの巨大なモニュメント)には日清戦争以後の県内出身の戦没者約6万柱が祀られている。
この忠霊塔の前で毎年終戦記念日に知事や県の遺族会などが参加して戦没者追悼式が県主催で開かれている。
ただしキリスト教徒などの遺族から、勝手に故人が神社へ合祀されてしまうことへの反発が表面化することもあった。
・補足「船橋の歴史散歩」(宮原武夫編 崙書房 2011)より
招魂碑は西南戦争頃に建てられ、忠魂碑は日露戦争後から、表忠碑は昭和期から目立つようになるという。そもそも「忠魂」という用語は日露戦争時から使われ出した言葉であって、それまでは「招魂」がもっぱら用いられていたようだ。
また日清戦争までは個人碑が多く、日露戦争後に忠魂碑や戦役記念碑のような集合碑が多くなるという。これは日露戦争中、戦死者が多数出ていたため、厭戦気分を広げぬよう個人碑の設立に制限を加えたことに起因するようだ。この制限を契機に個人墓と紛らわしい碑の設立は公有地、神社内に建てることが事実上禁止され、集合碑にとって代わられることになったと思われる。
1932年、文部省は校外生活指導の充実を通して「敬神崇祖」「国体観念の涵養」を図るため、学校行事の中に宮城遥拝、御真影礼拝、神社参拝などと並んで忠魂碑礼拝を盛り込んだ。このため忠魂碑に花筒、供物台、線香台を設けた例もある。
また社寺境内だけでなく校内に建碑されることもあった。除幕式は3月10日の陸軍記念日(日露戦争での奉天会戦に勝利した日本軍が奉天城に入城した日。ちなみに海軍記念日は5月17日で同じく日本海海戦で勝利した日)に設定されることが多いようだ。
・カッパの意見
日露戦争以降、大勢で戦死者を慰霊するための忠魂碑が陸軍を中心に建てられるようになり、やがて学校での軍国主義的教育に利用されるようになった…という経過、及びその後、敗戦に至る40年ほどの歴史を考えると、やはり日露戦争の後、日本がこの戦いをどう受け止めたか、どう評価したのか、どう教えていったのか、が日本という国家の運命の分かれ道だったような気がする。
ロシア革命の動きがもう少し遅れていたなら、日本がロシアに逆転負けしていた可能性は決して低くないだろう。アメリカやイギリスの大きなバックアップがなかったなら、国力的に見ても日本の劣勢は明らかだった。
伊藤博文だけでなく、明治天皇すら反対していたこの戦い…実際にかなり危険な賭けであったと思わざるを得ない。
少なくとも「勝てた勝てた、万歳!」と言って大喜びしてよい戦争ではなかったはず。政府は日清戦争、日露戦争に連勝し、慢心する国民に対して本当はギリギリの戦いであったことを正直に伝えるべきではなかったか…
ポーツマス条約に反発する民衆が暴徒化した日比谷焼き討ち事件は日露戦争の実相を全くと言って良いほどに知らされてこないまま、初めて白人の国を倒したアジア人としてひたすら慢心していた日本国民の惨めで哀れな姿を内外にさらしていた。
今、ウクライナ戦争についてロシア国民の少なからぬ人々がプーチンを支持し、EUを憎む姿勢を変えようとしていない姿が報道されている。そんなロシアの人々を憐れむ資格は日本人にあるのかどうか、ぜひ、生徒たちに問うてみたい。
市原市松ヶ島永井家に伝わる下の写真を見て欲しい。
日露戦争の勝敗を分けたといわれる日本海海戦と奉天会戦の勝利の日をそれぞれ陸軍記念日、海軍記念日として毎年、戦勝を祝い(…今も、だ)、危険な賭けに出たことの反省をきちんとしなかったツケはあまりにも大きかったのではあるまいか。
「神頼み」と「大和魂」に依存する、非科学的で危険極まる博打に国家の命運を賭けてしまったと言っても良い、当時の指導者たちの無責任さは決して見過ごして良いはずはなかった。
しかも結果的には運よく勝てたに過ぎない日露戦争への反省は今も不十分なままではないのか。むろん、太平洋戦争の敗戦への反省がいまだに不十分であるのは言うまでもないのだが…
日本人は歴史の改ざんと隠蔽におそろしく無頓着な、「神風頼み」の自分たちの危険性にそろそろ気付いた方が良い、と思うのですが…皆さんはいかがでしょう。