62.鷹捉飼場(たかとらえかいば)について
※「霞村」とは鷹のエサとなる小鳥たちを捉える村のこと。
・「ふるさと神納」(多田憲美 H.7 P.87~)より
多田氏が本書で詳細に江戸期の鷹捉飼場について記されていますので、ご参考までにその概要を以下にご紹介いたします。
幕府は将軍の鷹狩りに備えて天和元年(1681)頃から鷹の訓練場、および鷹の生き餌の供給地を逐次、設置していった。最終的には房総の沿岸部(蘇我~富津)や、村田川、養老川、小櫃川、小糸川などの流域合わせて135か村を「鷹捉飼場」に指定。その管理には野廻り役人が在地の有力農民から選ばれ、名字帯刀を許されていた。彼らには役料として二人扶持(年に玄米3石6升)が支給された。このため、鷹捉飼場に指定された村々はそれぞれの領主から名主へと出される支配命令とは別に、鷹匠頭から野廻り役人を経て名主へという命令系統が存在していた。
指定された村々は「捉飼場六箇条御定書」が出された。
一.鉄砲を撃ってはならない。
一.鳥を殺してはならない。相撲や芝居などの人寄せ事をしてはならない。
一.8月から9月にかけては川魚を捕ってはならない。鷹の訓練時は溝や堀に橋を架け
るべし。川沿いの竹藪などは刈り取ってはならない。
一.鳥を追い立ててはならない。訓練時はかかしや縄などは取り払うこと。犬や猫は飼
ってはならない。どうしても必要なときは許可を得るべし。
一.稲刈りが終わった田は水を抜き、春になってから水を入れよ。
一.村役や百姓は鷹の御用を滞りなく勤めよ。
鷹匠が村にやってくるのは7月から翌年の2月まででおよそ8ヶ月。鷹一羽につき鷹匠一人、目付一人、同心一人、餌取屋二人ほどが付き添う。鷹8~9羽で一組とされた。彼らは年平均で50日余りの宿泊を重ねながら村々を巡回していった。
夏はもっぱら隼、冬は大鷹を訓練していた。夏はヒバリ、冬は雁や鴨、鷺、鶴などが獲物とされた。特に鶴は珍重され、鶴が飛来すると直ちに鷹匠に報告。鷹匠は取り急ぎ現地に赴くことになっていた。その際には予め人馬の往来から農作業まで厳しく制限して鷹匠の来訪に備えなければならなかった。捕らえられた鶴は「上げ鳥」と称して将軍に献上。房総往還を継ぎ送りで江戸まで鶴を運ぶ際には篭方、鉄砲方まで動員され、お茶壺道中なみの物々しさだったという。
鷹匠来訪の際には村々で人馬を差し出す。鷹匠頭には馬4匹、水夫人足3人、平鷹匠には二人につき馬一匹。人足には自宅から現場までの距離に応じて米の現物で日当が支給(5里以内で一日五合)。村高百石につき二人の人足を差し出すのが原則であった。安政3年(1856)の場合、一行は鷹7据、鷹匠4人、同心8人、供の小者が2人。次の宿まで移動するのに四箇村で人足90人、馬16匹と茶番、村内見廻り等の諸役に36人が動員されている。しかも通行前には木障切り(こきり)、道草刈りなども別途、課される。
特に宿泊先となった村は負担が重かった。文政2年(1829)11月6日、鷹4据、鷹匠3人、餌取屋2人、野廻り役3人、餌差し3人(宿泊無しの一食供与)、計11人で来訪。一泊三食付きでしかも昼食は屋外の訓練となるため弁当を用意。夕食は晩酌付き(三升)。
幕府は表向き鷹匠一行の出張にあたっては鷹匠一人あたり17~35文、餌取屋、野廻り役には一人17文の宿代を出し、一人あたり米五合を現物支給して村方に支払うことになっていた。また一汁一菜、香の物以外は一品たりとも出してはいけない、膳や椀は持参するなど余分の出費は一切認めない事と村方への布告には書かれていた。
しかし実際には山海の珍味やお酒などを饗応するのが通例となっていた。
宿泊される家の者は余所へ移り、村役は皆、宿の近くに会所を設けて待機しなければならなかった。神納村は四給知だったので村役は四組あり、十名以上が会所に控えて人馬の割り当て、会計処理など、雑多な仕事をこなしていた。この時の村の収支は支出が7076文に対して収入が594文であり、赤字分は6482文に達している。赤字分は宿泊した村以外の捉飼場=霞村が村高に応じて負担したが、応分の負担を払わない村もあり、訴訟沙汰に発展するケースもあった。
市原では鷹匠一行が威張り散らし、田や畑を踏み荒らして難儀させられたと言い伝えられている。また鷹の多くは松前や津軽から献上されていたらしい(「馬と人の江戸時代」兼平賢治 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー398 2015)。