「S・I戦略」=学校の特色化がもたらしたもの

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 

 進ゼミエコール臨時増刊「高校サバイバル戦略」(保坂展人&S・I戦略研究グループ編 日本ドリコム1992)は様々な観点から注目すべき冊子であった。まず編者の一人保坂展人(1955~)氏は麹町中学校内申書裁判の原告として知られ、当時は教育ジャーナリストであった。著書として「学校が消える日」(晶文社 1986)などがある。以後、衆議院議員を歴任し、現在は東京都世田谷区長となっている。しかし30年ほど前は管理主義教育批判の急先鋒であった。この冊子は学校の多様化、自由化を目指して企業の経営戦略である「C・I」を学校に応用した「S・I(スクールアイデンティティ)」戦略の導入を公立学校にも広く浸透させようという狙いで編集されている。

 「S・I」戦略の狙いは1996年の第15期中央教育審議会第一次答申によって提唱された「特色ある学校づくり」を先取りしたものとして評価できるだろう。1998年の教育課程審議会答申でも学習指導要領において各学校が創意工夫を生かし、特色ある教育活動を展開することが繰り返し強調されている。ただし夏野剛氏の「N高等学校」レベルならばともかく、学校が企業の発想の上面だけ真似ただけで根本から改革されていくのかどうかは多くの学校の現状を見れば一目瞭然であろう。

 「S・I」からはいわゆる「ネオリベ」(新自由主義)の嫌味な臭いが強烈に漂ってくるのだ。金太郎飴のように画一的で硬直化した公教育の弊害は確かに大きいに違いないが、優先して尊重されるべきは学校の個性よりもむしろ一人一人の児童・生徒や教師の個性の方ではなかったかと思うのである。

 またこの冊子で個性ある取り組みとして紹介されている北星学園余市高校は全国から高校中退者や不登校者などを含む多様な生徒を受け入れていることで一時期、全国的にその名を馳せていた。「ヤンキー先生」の活躍ぶりもテレビ等で有名になった。しかしあれだけ成功事例として当時は有名になった学校ですら、2015年以降、入学生徒数の減少によってしばらくの間、存続の危機を迎えてしまっていた。

 

 「S・I」という発想はそこにいる教師や生徒達の一体感をほどほどに醸成する程度ならば何らかの意味を感じる事が出来るが、それが行き過ぎてしまい、過剰なまでの一体感、同調圧力を生み出してしまうと、「チーム学校」の掛け声と同様に教師や生徒達を一定の枠内に縛り付け、窒息させてしまう虞のある危険な発想ともなってしまいかねない。

 そもそも公立学校は利益追求を旨とする企業とは違う側面を持つべきであり、そうでなければ「公立」にする意味が無くなるはずである。企業と同様、競争原理の下で公立学校の多様化、個性化と改革を推し進めようとの意図は多少、分からぬでもないが、公立学校が「公立」であることの意義、価値をも見失ってはなるまい。

 

 第一義的に競争させるべきは教師の授業内容と授業技術であり、学校の知名度アップを狙うだけの、見かけ倒しの個性や部活動の成果、進路実績に関する、なりふり構わぬ宣伝広告の巧拙であってはならないはずである。

 

 しかし、学校の特色化が実際にもたらしたものといえば、多くの高校が個性の欠片すら感じさせないほどに同じ戦略をとり始めたという予想外(?)の皮肉な事態であった。学力中位層や下位層に属するほとんどの高校が足並みをそろえて「特色化選抜」での部活動推薦枠を拡大していき、有望部員を出来だけ早く、数多く入学、入部させることで各種大会の上位校に名を連ね、高校の名を広く売り出す宣伝材料にしようとする巨大なうねりが生まれていったのである。

 

 確かに少子化の中で高校入学者数は減少に転じていき、突出した進学校を除けば多くの高校は入試倍率の低下による学校の「荒れ」や大幅な定員割れを恐れていた。したがって受験生の「分捕り合戦」よろしく、部活動の実績作りに専念する一方で、部活動推薦枠の拡大に多くの高校が走ってしまうのは、今になって冷静に考えれば当然の帰結だった。

 それが結果的には中学生に対する勧誘競争の激化、優秀な選手の「青田買い」争いと入試における部活動枠の設定や採点基準(部活推薦枠と一般推薦枠との加点面での格差)への疑惑を生み出し、高校入試における公正さと高校での学力軽視への疑念さえ、生じさせてしまった。

※2022年度の千葉県公立高校入試で採点ミスが千件近く発生した背景には、もちろん学校のブラック化

 があるだろう。多忙を極めた中での不注意、ミスの多発、という側面が圧倒的に大きいことは疑いよ

 うがない。

  しかしそれに加えて、当時、特色選抜において特に蔓延していた学力テストの得点を軽視する流れ

 が大勢の教師たちの記憶に強く残存していた…実はそのことが採点ミスの多発に少しばかり絡んでい

 るのではあるまいか…と私は感じている。いかがだろう。

 

 さらには部活動の過熱によって「学校のブラック化」が加速し、教師たちの疲弊を招くとともに、教育の根幹であるべき肝心の授業が空洞化していくという、本末転倒の悲劇的事態をも招いてしまった。

 

 当然、部活動の過熱化は勝利至上主義と強く固く結びつき、体罰や暴言をはびこらせ、管理主義を推し進めてブラック校則を生み出し、強圧的な生徒指導を長らく支え続ける流れを作り出していた。

 

 違うだろうか?

 

 当時、特に売名行為に露骨だったt千葉県のとある県立高校では数々の部活動の大会実績の垂れ幕に加え、「生徒棟全館、冷房完備!」などと謳った気色悪い垂れ幕を恥ずかしげも無く校舎から垂らし続けていた。

 

 ネオリベに屈して生徒、保護者の人気取りに汲々とし、競争主義の喧騒と商品化の波に公立学校が丸ごと押し流されることは二度とあってはなるまい。

 

 真っ先に尊重されるべきはかつて一度たりとも正面において議論されてこなかった生徒、教師の個性、多様性、人権であった。しかし一番肝心なその部分をまたもや素通りし、学校全体の集団主義的個性化を高校は目指してしまった。このため学校の特色化、個性化はかえって復古的で全体主義的な同調圧力を強め、部活動の過熱を通じて教師や生徒の個性、多様性、人権を踏みにじる方向へと機能していった。

 学校カースト制の成立に伴うイジメや不登校の増加の背景に何があったのか、私たちはもう一度、振り返って考えた方が良いのではあるまいか。

 

 日本全体で「失われた30年」という表現があるが、この20数年間はまさに高校教育にとって「進歩」とは真逆の方向へ向かって一斉に悲惨極まりない退歩、退化を繰り返した暗黒時代であり、「復古」の時代だったとハッキリ総括したほうが良いとさえカッパは考えている。

 そしてこうした問題だらけの日本の学校教育が日本の経済や政治の停滞をも招き、もはや取り戻すことの出来ない「失われた30年」の大きな一因をなしてきた、と考えるべきだろう。

 

 いわゆる「教育改革」とお上から称されてきたこれまでの文教政策を皆さんはどのように評価されていらっしゃるだろう?

 

※参考記事

なぜ日本からブラック校則はなくならないのか…校則は憲法より上位の存在、その

 校則の権限は校長に絶対的に委ねられている現状 集英社オンライン 2024.5.26

 ブラック校則残存の歴史的背景を知るにはもってこいの記事で、生徒たちにとっても大いに参考となるはず。子どもの権利条約の批准が日本が世界で158番目であったように、日本の学校教育は子どもの自主性を抑圧し、管理することに特化してきた傾向があるのは否めない。また教師自身の自主性も児童生徒と同様に厳しく否定されてきた。

 GHQの指導で職員会議に生徒代表が参加できていた時代は遠く過ぎ去ってしまった。今や職員会議は形式的な審議以外は連絡事項ばかりで校長の独断がはびこっている。これで教師たちに自主性や創意工夫の芽は育つはずがない。職員会議でほぼ全職員の賛成を得て決定していた事案が校長1人の判断で覆されてしまった経験を持つ教師は千葉県の場合、おそらく少なくあるまい。どの学校を問わずとも否応なく職員会議には無力感が蔓延し、会議を早く終わらせることが目的化している学校が多いはず。

 ただし「ゼロ・トレランス」という、生徒に妥協しない生徒指導のあり方は必ずしも否定的文脈のみで語られるべきではないと思う。個人的な経験ではあるが、学校秩序がほぼ崩壊し、生徒指導を放棄してしまったような学校に数年間私はいたことがある。そこでは授業を妨害する生徒が校内外を問わずに自由を謳歌し、器物破損や盗難、暴力、イジメがはびこり、授業中に火災報知器が鳴り響く現状があった。校内を巡回するとほとんどの消火器のピンが抜かれていて消火器自体も二階から投げ捨てられる、トイレのドアが二階から教師めがけて投げ捨てられる、職員室や教科準備室の物品が中庭に投げ捨てられる、退職まじかの教師が授業を成り立たせることが出来ずに早期退職を迫られる…しかし何があっても教師たちは教科準備室に閉じこもったまま、組織的対応の動きはあまり見られなかった。

 何とその高校は退学者数を劇的に減らしたことで文科省から表彰されたことを自慢にしている高校でもあった(年間の退学者数100人越えから20人台にまで激減)。しかしそれはあくまでも生徒指導をひたすら後退させることで実現された退学者数の減少に過ぎず、学校の内実は恐ろしいほどに空虚なものであった。個別対応を原則とする「カウンセリングマインド」が吹聴されていたが、集団的な秩序の崩壊に対して「カウンセリングマインド」だけで個々人の教師が対処することの無謀さを咎める者はいなかった。もちろん管理職の無知無能さは言うまでもない。

 しかもその高校は運動部が活発で、多くの生徒をスポーツ推薦によって遠方の中学校からも入学させ、定員割れをかろうじて防ぎつつ同時に運動部の実績を上げようという戦略を取っていた。しかし組織的な生徒指導を放棄した中での、そうした戦略は否応なく授業を軽視する風潮を教師と生徒とに蔓延させ、授業中の問題行動の頻発を招いていた。とりわけスポーツ推薦で入学してきた生徒の多いクラスでは一定数の生徒たちによる手が付けられないほどの傍若無人ぶりが随所で頻発していたのである。

 こうした高校ではある程度までの秩序を回復させることが何よりも優先されるべきだろう。個々の教員の個別対応には大きな限界がある。大人しくて真面目な生徒たちを徒に怯えさせて次々と不登校に追い込むような無政府状態だけは絶対に許容できない、と教師たちが考えるならばどうしても学年や生徒指導部による、統一的で組織的対応が不可欠となるはず。その際、「ゼロ・トレランス」の方針が暫定的にとられるのは学校の現状や教師たちの実力から見てもやむをえまい。

 もちろん、生徒たちの状況が一定程度、落ち着いた段階に到達できれば、当然のことながら生徒の自主性を育む、民主的指導を取り入れていく必要がいずれ生じてくるだろう。それぞれの学校の、時々の状況に応じて生徒指導の方針に多少の差異が生じてしまうのは仕方のないことだと考えるが、いかがか。

 むしろ全国一律に「生徒の自主性を尊重せよ」、「カウンセリングマインドを持って生徒に臨むべし」などといった、時流に乗っただけの表層的掛け声でひたすら学校現場を混乱させてきた、これまでの教育行政のあり方自体を根底から見直すべきだろう。教師の自主性をさんざん踏みにじってきた管理主義的な教育行政への反省がまったく見られない現在の文科省に生徒の自主性の尊重を説く資格など一片たりともあろうはずがない。厚顔無恥にもほどがあろう。

 ブラック校則などに関するマスコミの表層的な報道もまた、個々の学校現場の実情に寄り添う姿勢がイマイチ感じられず、非常に残念である。せめて学校自体がひどくブラック化、ブラックボックス化してきたことを前提に、より現場の実態に深く踏み込んだ報道を心がけていただきたい…がおそらく無理だろう。もうマスコミに期待するのはやめた方が良い。守秘義務の厚いベールを破ってでも学校現場からの、生の発信がいよいよ必要となっていると考えるが、いかがだろう。確かにこのブログも、そうした思いから発せられているのではあるが、元教師ではなく現役の教師の発信力こそが強く問われているのではあるまいか…

大阪で私立高校ブーム、専願者が20年間で初めて3割突破 授業料完全無償化で選択

   に幅 産経新聞 2024.6.19

   大阪における高校の授業料無償化が私立高校の躍進を招くことは予想されていた。この記事では私立の長所と公立の短所がよく整理されていて分かりやすい。公立高校が学校の独自性、個性を強め、多様化していくことへの限界が公立と私立との教員採用のあり方の違いからも説明されていて納得できる。

 今後の高校教育改革の先端を担うのは大胆な試みを行うことの出来る私立高校であると予想できるが、だからといって公立高校の改革が不必要だということにはならないだろう。県教委、文科省自体の改革と公教育のあり方の根本的な見直しは今後とも断行しなければなるまい。