§6.市原の郷土史72.海辺の争い(後編)

 

Q.「海岸院」という院号は一体、何を意味しているのでしょう?

 

 

 「松ヶ島漁業史」(昭和51年 落合忠一)によりますと松ヶ島村は江戸時代の初め、寛永5年(1628)段階では17軒ほどの寒村でしたが徐々に新田開発が進み、元禄元年(1688)には45軒ほどとなっています。とはいえ肥料用の草刈り場に事欠き、沿岸で採取されていた「きさご」が耕作のために重要度を増していました。北青柳村が海浜部に長く伸びていて浜辺の狭い松ヶ島村は肥料確保に苦戦していたのです。

 きさごの採取などをめぐる浜辺のトラブルは既に八幡村と浜野村が元禄年間に「浦出入り」で訴訟沙汰に発展、享保2年(1717)には今津村と青柳村でも「浦出入り」が生じてしまい、度々負傷者が出る事態に発展していました。

 新田開発の進展にともなう人口増の裏で湾岸部の村々は肥料獲得を巡る熾烈な争いに否応なく巻き込まれていったのです。なお嘉永3年(1850)段階ですが、五井浦の幅は2,585間、青柳浦は約1200間、今津浦は550間に対して松ヶ島浦はわずか100間に過ぎません。

 松ヶ島村と隣接する青柳村との因縁の対決は享保8年(1723)の「浦出入り」から本格化します。争いは松ヶ島村が浦境を越えてきさごを採取したことがきっかけでした。幕府の裁定に持ち込まれ、「磯は村前、沖は入会」とされて松ヶ島の敗訴に終わります。

 二年後の享保10年(1725)、またもや浦境を巡って青柳村と紛争が起こり、松ヶ島が幕府に訴え出ました。このときは幕府によって両村の境界が引かれ、浜辺においては不利な立場に置かれてきた松ヶ島にとって一定の成果を上げる結果になりました。しかしその二年後、今度は五井村と浦境を巡る争いが生じます。境界に置かれた棒杭が腐り、境があやふやになっていたのが原因と見なされた結果、領主有馬氏の命令で新しい杭が建てられることになりました。

 青柳村との争いが再び激化したのは元文5年(1740)のこと。この前の年、松ヶ島側は悪水堀を青柳村側に掘りまげて自村の海岸部を拡張していました。その報復とばかりにきさご採取中の松ヶ島村民が青柳村民に襲われて負傷し、きさご札や採取道具を奪われた挙句に入会漁の差し止めを申し渡されたのです。

 再び幕府に訴え出た結果、以下のような示談が成立しています。

 

 青柳村はきさご札と道具を松ヶ島村に返却。

 松ヶ島村は堀を元に戻す。

 悪水堀に御定杭を建てる。

 

 ただし延享4年(1747)、養老川が川欠けし、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村を抜けて青柳との境あたり字塩場(現在のメガドンキの裏手)で海にそそぐことになります。このため御定杭の設置は遅れに遅れてようやく1751年、四番杭まで建てられました。その一方で養老川の流れが変わったことで次第に悪水堀の北側、字塩場地先に寄り洲が形成されていったのです(図参照:「松ヶ島漁業史」より)。

 

 

 天明2年(1782)、名主吉兵衛と組頭七郎左衛門は村の発展を支えるべく幕府に寄り洲などの開発を願い出ました。しかしこれまで対立を重ねてきた青柳村と松ヶ島の関係がまたこじれてしまうことを懸念した幕府は開発の願い出を却下します。

 天明4年(1784)、浜が無理なら沖を確保しようと考えた吉兵衛は悪水堀の沖方の塩浜開発を願い出ました。幕府はうやむやな姿勢をとり続けましたがやがて村請地(村の共有地)とすることで許可しました。吉兵衛らは早速、潮除け堤を築いて開発に乗り出しましたが高波によって幾度も堤が決壊してしまいます。

 天明9年(1788)、吉兵衛は防潮堤を官費で修築するよう幕府に訴え出て許可されます。開発された土地は村人に公平に割り当てられたため、村人の開墾も急ピッチで進められ、耕地は急速に拡大し、「新地」と呼ばれました。

 実は松ヶ島はしばらくの間「一給地」であり、天領として代官が支配していました。これに対して青柳は当時「二給地」であり、佐貫藩(富津)阿部因幡守の領分と旗本鈴木氏の領分に分かれていました。吉兵衛はこの点を利用し、私領に過ぎない青柳に比べて公儀の「御領」である松ヶ島は公儀がより重視すべき村であり、松ヶ島の権益拡大が幕府の収入増大にもつながると主張したようです。

 こうした主張が取り入れられ、沖方の塩浜開発や防潮堤修築の公費負担が実現したのだろうと落合忠一氏は推察しています。天明6年(1786)、松ヶ島も二給地となり、榊原氏の領地と代官地とに二分されましたが、それでも代官地、すなわち公儀の「御領」は一部存続していました。訴訟沙汰になったとき、松ヶ島の強みはそこにあったようです。

 吉兵衛や七郎左衛門(このとき彼も名主となっている)らの尽力によって寛政元年(1789)、「新地」の高入れが実現し、松ヶ島はさらなる発展の土台を築きます。この成果は「西の高入れ」と称されて松ヶ島の古文書に繰り返し取り上げられたといいます。

 検地の結果、「新地」の面積は36反余り、石高34斗近くに達しました。こうして村高が増えることは「小村」として隣村から格下扱いされてきた松ヶ島の成長ぶりを周囲に見せつけ、今までのように見下されなくなるとともに悲願であった海面権の拡大にもつながったようです。確かに海岸幅は埋め立て前が106間に過ぎなかったのに、埋め立て後は一時にすぎませんが195間に拡大しています。

 これは村民にとって快挙と言えたでしょう。実際、寛政10年(1798)には松ヶ島の村高は131石余りに達し、56軒、村人は269人を数えました(ただし新地そのものは相次ぐ暴風雨による高波で次第に縮小していき、最終的には三分の二程度になっていく。また海岸幅も100間程度に戻ってしまう)。

 しかし青柳村はこれを黙ってみてはいませんでした。「青柳は漁師で暮らし、松ヶ島は海岸がないので百姓で暮らす」という従来の考えから、海岸への進出を繰り返す松ヶ島への敵対心を募らせていたのです。

 享和2年(18025月、青柳村は五井村と共謀して松ヶ島浦として公認された場所に大木の杭を建てて松ヶ島の発展を阻止しようと企みました。いわゆる「棒杭事件」が幕を開けたのです。松ヶ島村民は激怒し、裁判費用は百姓らで賄うからと村役人に迫りました。

 吉兵衛と利右衛門(榊原領分の名主)らは早速、幕府に提訴します。吉兵衛はこのため6月に江戸に出て約70日間滞在し、心身共に激しく消耗してしまいました。8月には病のため評定所に赴くことができなくなり、しかもこれまでの再三にわたる裁判で家産はすっかり傾いていたのです。たとえ裁判費用を一般百姓が請け負うとなっていても有力百姓である名主や組頭はメンツにかけても自腹を切らないわけにはいかなかったのでしょう。また吉兵衛の治療費も相当かさんでいったようです。

 一方、青柳側も裁判は不利になるとの判断から病気を理由にお白洲を欠席。五井村は証拠の書類を提出できず、おとがめを受けるなど裁判の行方は混とんとしてきました。結局、奉行所は享保10年の裁許(大岡越前が関与)が既にあることを盾にとり、今更裁定の必要なしとして内済(示談)で解決せよとのお達し。

 示談の結果、11月に青柳が建てた棒杭は引き抜かれることになりました。以後、しばらく青柳村との対立は影を潜めていきます。落合氏は吉兵衛家の持ち高を10石前後と推定していますが、度重なった訴訟沙汰で持ちこたえられず、その後、家はすっかり没落してしまったと伝えます。

§6.市原の郷土史71.海辺の争い(前編)

 

 

 まずは以下の二つの資料を通じて市原の江戸時代における農業の概要をつかんでおきます。

 

1.「近世市原の農業生産について」深谷克己(早大教授):「地方史研究第16号」

  農業生産に関する近世の文献史料は市内では極めて少ない。今富村の千葉(根本)家の「慶長年中播種帳写」、「戌之年種之帳」(天和2年~明治10年)、不入斗村の名主鈴木家の日記帳(文政8年~)などはそうしたなかで極めて貴重な文献史料である。農書も市内ではまったく書かれておらず、県内でも香取郡松沢村の国学者で村役人だった宮負定雄の「農業要集」(文政9年…商品作物奨励)「草木選種録」(文政11年…海賊版が出るほどに売れたという)の二著が知られる程度に過ぎない。

 おそらく市内は商業的農業が比較的未成熟だったようだ。米以外の作物は大麦、小麦、粟、大豆、菜種、綿、芋、胡麻、大根、黍、稗、小豆などだが、米を除けば記録として表わされるほどの商品性は持たなかったという。麦、粟、稗、黍などは日用と「貯え」のために作っていた。いざという時に備えて富農はそれら雑穀を土蔵に貯え、小前は「箱蔵」(5~6石収納)に囲っておいた。加工作物(大豆、菜種…)ももっぱら自家用に回されていた。現金収入の途を確保して貨幣経済の進展に対応するには基本的に米の売却が重要であった。米の多品種栽培の実態(千葉家資料)は年貢米生産の域を越えて多種多様であったといえよう。

※宮負の「農業要集」では「厚利の物」として一つが稲とし、一反で15両以上の値になるとしている。

 また下総の地らしく二番目に「慈姑(くわい)」を挙げ、一反につき14・5両の売上になるとしてい

 る。なお綿は一反で34両ほどにもなるが近世の房総ではさほど栽培は普及していなかったようで、これ

 も自家用に回されていたようだ。

    肥料は人糞尿が近世に入って広く普及し、どの農家にも雪隠が置かれるようになった。また従来の刈

 敷も引き続き利用される他、灰肥、馬屋肥、きさご、干鰯なども用いられるように。特にきさごは市原

 特有の肥料として沿岸部中心に用いられていたと思われる。青柳、今津朝山などはきさごを採取して内

 陸部の農村に「きさご札」の数に応じて分け与えていたらしいが、もちろん無料で分けていたわけでは

 ない。海岸部ではきさごの採取が貴重な現金収入につながっていたようである。

 

2.「近世市原郡農村と貝肥採取―史料と考察」長島光二:「市原地方史研究第13号」

 近世、市内臨海部では田方肥料として小型の巻貝の一種「きさご」(「蚶子」「蚶」「細螺」「螺」などと表記。「きしゃご」と発音されることも)がよく利用されるようになった。「きさご」は養老川や村田川などの、淡水と海水の混じる河口部周辺でよく採れた。食用にもなるが、市内の史料ではもっぱら「田肥」として利用された。椎津、今津朝山、青柳、松ヶ島、玉崎新田、岩崎新田、五井、八幡、不入斗、永藤、深城、片又木、迎田、町田、平田、出津、飯沼で利用が確認できている。肥料としての効用は「干鰯」と同じで、田植え直前に施す、速効性肥料であった。

※同書の「近世市原の稲作生産と地主経営の展開―今富村千葉家を中心に―」(下重清)によると田一

 反につき「きさご」2~4駄と自給肥料20駄前後を併せ用いるのが平均らしい。自給肥料としては苅

 敷、土肥、厩肥、下肥などが用いられた。今富村には秣場が20町歩、百姓山が57町歩ほどあって苅敷

 は自給できた。また家数87軒で馬43頭所持しており、飼い馬の存在は「駄賃稼ぎ」と厩肥に役立って

 いた。

  青柳村では山稼ぎが皆無なので「浦稼ぎ」への依存度が高く、金肥として売ることも可能な「きさ

 ご」は重要な資源であった。このため海岸部で隣接する五井村と今津朝山村とは「浦境」や採取権を

 巡って神経質なやり取りが続いている。特に玉前新田や岩崎新田の成立によって競争が激化すると

 「きさご」などの用益をめぐる争論が多発し、幕府評定所に持ち込まれるケースもあった。きさごの

 採取権は「きさご札」「たぶ札」(「たぶ」とは採取に用いる道具のこと)と呼ばれる札が名主から

 配布されることで確保されたが、とりわけその枚数(一人一枚というわけではなかったため、名主の

 恣意的配分が疑惑や不満を招きがちであった)と配分をめぐって争論が頻発した。またこの札自体が

 売買の対象ともなっていった。

 

3.青柳vs.松ヶ島

 ・ 松ヶ島村草創期

 「松ヶ島漁業史」(昭和51年 落合忠一)によりますと戦国時代の末期に三河の浪人永井平馬らが養老川の氾濫原であった松ヶ島の開発に乗り込んできたようです。当時の松ヶ島は湿地帯と松の生えた低い砂丘とが入り混じる、人家の無い荒地でした。

 おそらく開拓者たちは青柳と隣接する一帯から開発を始めたと思われ、この辺りの小字地名を「切込」というそうです。彼らが屋敷を構えたのは村でも一番高い土地で「本郷」と呼ばれています。

 永井平馬はかつて戦国大名の今川義元」の家臣であったようですが、義元が1560年、桶狭間の戦いで織田信長に討たれて以降、今川家は急速に弱体化していきました。一方で徳川家康の勢力が三河の地に拡大していく中で、平馬はまだ若かったと見えて(おそらく20代)しばらく各地を流浪(備前に赴いたという)し、再仕官の道を探したと伝えます。

 斎藤道三に追われた美濃の土岐家及びその家臣団の一部が既に上総にたどり着いていたようで、もしかしたら彼らの伝手を頼りに房総まではるばるやってきたのかもしれません。松ヶ島の草分け百姓9人の内、美濃出身が2人いるのも偶然とは思えないのです。何はともあれ彼が最初に松ヶ島にやってきたのは1570年前後のことと思われます。

 天正8年(1580)に長南武田氏が松ヶ島を領地に取り込み、年貢を課すため家来を遣わし検地を施しました。飯沼龍昌寺の「御改松ヶ島村始り帳」には天正8413日に改めが行われたとあります。そこに以下の草分け百姓の名が記されています。

 

 切立開発人

   飯沼村出身 斎藤庄之介 国吉伝三郎

   浪人 戸田丹後(三河出身) 田中六太夫(出羽出身)

永井平馬(三河出身

   他 斎藤七之介(美濃出身)森平吉(美濃出身

     磯谷左五郎・国橋五郎兵衛・・・二人とも飯沼出身か?

 

 平馬は松ヶ島から一度去り、郷里三河の吉野郷(現宝飯郡御津町付近)に戻りましたが居場所を見つけられずに松ヶ島に復帰。しかし彼は故郷の名を忘れないために永井の姓から吉野に変えたといいます。ただ彼の子孫は幕末維新期になって吉野から旧姓の永井に戻しています。

 永井家の古文書にそれらのことが記されているのです。

 ※以下の史料の解読は辻井義輝先生によるものです。

 

 

 

 

・吉野常利墓偈(巻物)嘉永5年(1856

「上総の国の市原のこおり 松ヶ島といえる村の長を吉野宇右衛門常房という。そがとおつ親(みおや)永井平馬常利は三河の国の人なりしが、さるゆえやありけむ、此処にきて荊棘(けいちょく)を刈り葎蓬(むぐらよもぎ)を払い、かくれが営みしかば同じ心のやから慕いくる者少なからじ。かたみに田をつくり畠をつくり、いつしかかく村里とはなりぬ。後に常利、しばし同じ国、吉野といへる郷にうつりしが、年へてまた松ヶ島にたちかえり、かの吉野を苗字とせり。かくて八十(やそ)まり五年(いつとせ)までながらへ、寛永6年(1629102日、遂に終わりをよくせりとする。今の常房、八十まり一世(ひとせ)のむまたなり。世々この村長として上をうやまい、下をはごこみておこたらじ。これみなとおつ親ののこさる勲(いさおし)なれば子孫の末までもその恵みをつたえまりしとこたい、ことさらに石がみを営むとておのれにそのよし記しきをも にへよときこゆ。

 常房 こころざしをめで おもうままいなみもやらで

   島松の ときはかきはに あとたれし そのいさおしを 

     のこすいしふみ

 かくいけは嘉永5かへうの七月星まつる夕べ 従五位下源朝臣司直記す」

 

※「従五位下源朝臣司直」とは司直は成島司直(なるしまもとなお:17781862)のことで幕府奥儒

 者、歌人。東岳、花隠などと号す。1809年より林述斎の下で「徳川実紀」の編纂に携わり、嘉永2

 1849)に完成させる。朝野新聞などで文明開化を批判した成島柳北の祖父にあたる。

 

 

 

巻物には成島の吉野常利墓偈と同じ内容の漢文も存在し、書いたのは筒井政憲

 

 

 成島、筒井ともに市原の郷土史界隈ではビッグネームであり、永井家の交流の広さを伺いことが出来る。実は宇右衛門の父は眼医者として名を成し、江戸で活躍。その子も学者として江戸で活躍していたことが重要人物との交流の背景にあるだろう。

 

岸氏寿蔵碑

題額は梅澤典(江戸の著名な書家1797~1859)で文は深川元儁(上総出身の漢学者で平田篤胤に国学を学び、蘭学にも造詣があった。1810~1856)。

 

本文

岸光廣、号は一陽、貞吉と称す。上総国市原郡松島

邑長吉野宇右衛門常廣の二子なり。幼くして書を学び、あまねく名家をたたく(それぞれの道に通じた人の門下となる)。もって郷里の師、神谷善臣の家に寓す。善臣、文右衛門と称し、三河国大平の藩臣(大平藩は名奉行と謳われた大岡忠相を祖とする)なり。外桜田の邸に居り、もってその親族、よくその志に資する。梅澤先生において書を学び、韻学を赤城大澤先生において学ぶ。

学業、ますます進み、ついに岸素舩(そせん)の家に婿入りし、書学の師となる。京橋五郎兵衛新田(現八重洲二丁目付近)に住み、皆、その長寿たるを期するも、天知らず、その年を奪う。嘉永6年4月17日、28歳にして没す。岸氏は吉野氏の墓と牛込早稲田町長遠山正法寺に葬られる。一女あり。愛と言う名で三歳、その書学を受け継ぐことを願う。余、同郷であるとともに面識もあるため文を撰し、もって繋ぎ、銘にいわく

「弱冠にして名有り 学に勉め休まず 天その年を奪う 千歳愛を遺す」

 友人 巽齋梅澤敬之書

 門人 神谷悌蔵善功

 同  宇三郎

 岸氏民女

 吉野 相輔

  嘉永六年癸丑四月

 

※嘉永6年は1853年にあたり、ペリー艦隊が浦賀に来航した年でもある。

 

 

§6.市原市の郷土史70.ある兵士の死

 

 

松ヶ島涼風庵~戦没者一覧~

氏名

年月

場所

享年

吉川貞夫

1939年8月

ノモンハン

24才

永井栄吉

1946年2月

シベリア抑留

36才

落合建吾

1945年4月

ルソン島バギオ

27才

齋藤禧増次

1945年3月

硫黄島

37才

国吉吉二郎

1944年8月

ニューギニア

24才

齋藤春雄

1946年1月

中国湖南省

30才

齋藤重夫

1944年5月

ミレ島付近で負傷後

19才

永井 進

1944年9月

ニューギニア

24才

齋藤六雄

1944年11月

レイテ島

24才

和田 武

1945年7月

浜名湖で艦砲射撃により

21才

国吉松生

1944年7月

マリアナ方面

23才

国吉長吉

1939年6月

中国江蘇省

23才

齋藤久雄

1944年8月

中国湖南省

23才

※他に日露戦争での戦病死者が二人(齋藤久太:1904年8月、旅順・鶴岡政雄:1904

 年10月、広島で病死)

 

・永井進氏の遺品

 

 

 

 

 清中氏の長男で将来を嘱望されていた進氏は昭和19年9月に太平洋戦争の激戦地ニューギニアにおいてマラリアに罹り、24歳の若さで亡くなった。彼の遺品として姉崎農業実科学校卒業証書(昭和11年)、青年学校研修証(昭和16年)、青年学校時代の表彰状(昭和16年)、徴兵検査における「壮丁及父兄の心得」(昭和19年)、「メモ帳」等が残されている。そのすべては公開できないが、上官からの手紙や立派な追悼文から察するに彼が生前、上官から相当可愛がられ、その死が強く惜しまれていたことは容易に想像できる。

 

 

 

・ニューギニアでの戦い

 進氏が戦病死したニューギニアは「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたように太平洋戦争においては過酷を極めた激戦地の一つであった。島全体でおよそ20万の兵員が送られたが生還できたのは約2万名で一割程度に過ぎなかったという。「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木茂(本島に近いニューブリテン島ラバウル)や俳優の加東大介(本島)が出征した地でもある。東方には「餓島」といわれたガダルカナル島があり、大戦末期、南太平洋の島々の多くは地獄と化していった。

 島としてはグリーンランドにつぐ大きさで世界第二位。日本の2倍もの面積を誇るが4000~5000メートル級の山脈を除くと土地のほとんどは熱帯雨林か低湿地であり、人口密度は1平方キロメートルに2人程度。このため食料等を現地調達にたよる日本軍は食料不足とマラリア、デング熱、腸チフス、赤痢などの熱帯性感染症に悩まされた。耐えがたい飢餓にさらされた日本軍はネズミやヘビ、昆虫、雑草まで口にしたという。さらには原住民を殺して食べたとの証言もあった。実際に「原住民を殺して食べたら処刑する」旨の命令を出した部隊もあったらしい。

 

 連合軍はアメリカ軍、オーストラリア軍を主力とし、D.マッカーサー大将が指揮をとった。進氏の属した第18軍は、1943年2月末にラバウルから兵員7200名余りを載せ、輸送船8隻、駆逐艦8隻でニューギニアのラエに向かった。しかしダンピール海峡で空爆を受け、輸送船8隻、駆逐艦4隻が沈没し、兵員の半数(3600名)を失った。

 2400名はラバウルに帰着し、ニューギニアのラエに上陸したのはわずかに800名ほどという。1944年4月、ラエからセビックの低湿地帯を通過してウエワク方面に西進。7月アイタペ戦で1万名以上を失う。アイタペ戦はウエワクに集結していた3万5千余の将兵を養うだけの食料がなかった日本軍にとって「口減らし」の目的を持った絶望的な作戦であったという。進氏はこの年の9月30日、ウエワクの西、カラツプ付近でマラリアのため24歳で亡くなってしまった。

 マッカーサー司令官はフィリピン奪還を最優先し、ニューギニアに対しては主たるポイントのみを攻略する「飛び石作戦」をとったため、1945年になると陸上戦は沈静化していった。第18軍はウエワク周辺に取り残されたように散在して孤立したまま潜伏を続け、自給を余儀なくされた。このため戦闘は鳴りを潜めても病死、餓死するものが跡を絶たなかった。

 なお敗戦後の翌年9月、第18軍司令官安達二十三(はたぞう)中将は「10万余の枯骨を残して生還するあたわず」「人として堪え得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求」したことへの謝罪を記した遺書を残して自決している。

 

 

・色田久麿氏書翰:昭和21年2月(日付不明)

 まずはその要旨を以下に紹介する。ただし読みやすくするためカッパが多少、手を加えているので原文のままではない。また色田氏の体調が思わしくないためか、筆跡が少し乱れた箇所があり、字も小さく、一部判読に困難を覚えた。カッパが誤読している可能性もあるが、なにとぞご寛恕いただきたい。

 

 「・・・小生、進君の小隊長として3年半余りニューギニアにいた者です。今般、大命により敗戦の汚名を負いつつも復員致しました。大戦中は種々絶大なるご支援にも拘わらず何らのお役にも立たず帰還致し、恥ずかしくも申し訳ない限りです。今は病床に伏しているため(復員後)早速お手紙差し上げるべきでしたが(遺族の方々の)お嘆きを思うと何としても筆をとることができないまま今日に及びましたこと、幾重にも謝罪申し上げます。

 (ニューギニア遠征)部隊編成以来、小生のもと、伝染病が蔓延する地において勇猛果敢に任務を尽くしてくれた進君も昭和19年5月、最後の決戦、猛濠作戦に参加して以来体を痛め、病勢快方に向かわず、同年9月、マラリア再発致し、軍医、戦友の看護の甲斐なくついに30日、永眠されました。

 思えば残念で残念で涙が止めどなく流れます。殊に薬物が十分にあればこのような病気で死なずとも、と思えばなおさらのことであります。

 小生の病気は逐次、快方にむかいつつあり、この分では本月末には退院できるのではないかと思っております。退院次第、すぐに参上し、詳細をご報告かたがた墓参つかまつりたく存じております。まずは報告かたがたお詫びまで かくのごときに御座候・・・」

 

 生き残ってしまった者のぬぐいがたい罪悪感、しかも上官として部下を守り切れなかった不甲斐なさ、悔しさ・・・万感の思いがにじみ出てくる文面である。遺族だけが戦後、辛い年月を送ったわけでなかった。色田氏の戦後も過酷な日々があったに違いない。

 

 この手紙を読むと黒澤明監督の晩年のオムニバス映画「夢」(1990年公開)の中の「トンネル」と題したシーンが思い浮かぶ。

 

 一人生き残り復員した元小隊長が部下たちの遺族を訪ね回って歩く。その途次、彼は人気のない山道にさしかかるがトンネルの中から伝令犬が出てきてうなり声を発して威嚇してくる。追われるようにして入り込んだトンネルの暗がりの中を進む内に背後から行進する軍靴の音が響いてくる。

 出口付近で恐る恐る振り返ると部下の一人が立っている。彼は悲しげに尋ねる。隊長殿、私は本当に死んだんですか・・・

 彼の背後に戦地に残してきた隊員たちがズラリと全員整列している。顔が皆、異様に白い・・・

 

色田中尉の兄の手紙 要旨:昭和21年1月28日

※色田中尉は日本に帰国後、重病患者としてしばらくの間入院してしまったため、部下であった進氏の

 戦死を知らせる手紙を兄が代筆している。ただし久麿氏は翌月には書翰を清中氏に送っている。色田

 兄の手紙は他にも三通(昭和18年7月、昭和19年2月、昭和21年4月)残っている。

 

謹啓

・・・時候の挨拶 略・・・ニューギニア遠征部隊の動静を昭和19年4月に柚原中尉(戦時中から永井家と交流が有り、書翰が2通残っている)が戦況の不利を伝えて以来、音信不通となっていましたが、去る16日(昭和21年1月16日)、浦賀港に猛部隊の復員兵が到着。愚弟、たちまち国立病院に入院することになりましたが一週間後、面接の機会を得てようやく隊員の消息を聞き知ることができました。

 永井進上等兵は愚弟の従兵としてよくつくしてくれ、ことに昭和19年2月からのマダンよりウェワクへの転進では密林の中、約百里の行程、五十日近くを食糧不足に直面しながらも無事、ウェワクに到着できました。その後のアイタベ、ホーランディア作戦にも元気に参加していましたが、ついに心身疲弊の極地に達し、病魔に打ち勝てず、昭和19年9月30日、ウェワク付近の軍司令部が置かれた猛錦山において「戦病死あそばされ候。」本国との交通途絶既に一年、ようやく物資も欠乏の度を加え、軍医の手厚き看護もついに「病魔を克服しえざりしにこれある由に候。」

 万死に一生を得たる者、隊員中わずかに八名、当時の状況を上官が詳しくお知らせすべきところ、愚弟、中隊唯一の生存将校ではあるものの病床にあるため、私がご遺族への通知を依頼されました。ご令息を異郷の空に散らせ申し候事、言葉もなく、本来、直接お尋ねして申し上げるべき所、失礼ながら「書面にてお知らせ申し候。

 ここにつつしんで進殿のご冥福を祈り申し上げ候。」

敬具

  一月二十八日 

        色田中尉

           兄 色田(まさ)() 拝

 

 

ねがわくば来たり、饗けよ:色田中尉による進氏への追悼文

 

 

 

※以下、カッパが読みやすくするため、片仮名を平仮名に改めるなどの改変を加えている。従って原文

 とは若干異なる表記となっている。

 

謹んで故陸軍上等兵永井進君の英霊に告ぐ

 回顧するに昭和17年11月、第18軍司令部の編成せらるるや、君は多数先輩戦友中より特に選抜せられ、軍司令部管理部隷属衛兵勤務を命ぜらる。爾来(じらい:それ以後)、常に軍司令部と共に遠く南海に派遣、南太平洋作戦或いは猛濠作戦に従事し、激烈なる熱帯地方戦闘に参加し、その功少なからず。殊に勤務に際しては日夜精励、その職に尽瘁(じんすい:全力を投じて没頭すること)、常に身を挺して軍人たるの本領を発揮し、衆の模範たり。戦陣二カ年多く小官(=色田氏)の身辺に近く在りて事些細となく援助補佐せられ、小官の浅学短才にして過誤なく任務をまっとうし得たるは偏(ひとえ)に君が熱烈なる援助に負う所多大にして感謝に堪えざる所なり。

思うに大命(に)依(り)昭和19年1月、マダンより転進を命ぜらるるや、小隊員全員一致協力、胸を没する沼沢、橋なき激流を横断、昼なお暗き密林等、南海熱帯の瘴癘(しょうれい)の地(特殊な気候や風土によって起こる熱病などが発生する土地の事)にわずかに携行する糧秣(=食糧)をもって彷徨(ほうこう:さまよいあるくこと)一カ月余。万死一生を経、全員無事目的地に集結することを得。次期作戦に資する所多大なるものありしが、まったく本土と隔絶。補給の杜絶(=途絶)せる遠征軍に対する不利、漸次増加せられ、戦況の不利を招来し、君、また猛濠作戦に従軍し、激烈なる戦闘に身心の疲労はなはだしく、不幸病魔の犯す所となり、遂に再び起つあたわざるに至れり。

 今次帰還者、中隊員(平均150人ほどの部隊)中、わずかに8名を数うる状をもってして当時の状況を察し得べく、追憶するの情に堪えざるものあり。嗚呼、君の温和明朗にして正真誠実、誠に模範的なる人格は畏敬に無限の親しみに堪えず。当時の風貌、今なお彷彿として眼底にあり。しかるに今や南海の異境に散華し、再び声咳に接することあたわず。まことにまことに追憶の情切々として胸に迫るを覚ゆ。今、小官、敗戦の祖国にありて親しく君が生家を訪ね、君が復帰をひたすらに希望せん、親しくご両親に接し、ただただ感慨無量なるものあり。

 今や敗戦祖国の現状は荒廃の惨状、なかんずく、人心道義の頽廃(たいはい)、国をおおわしむるものあり。祖国平和日本の復興建設は君が熱烈なる精神と清純玉のごとき人格を継承してはじめてその完成を期し得らるべきを憶うとき、身は南海に埋むといえども君が精神は永遠に皇国護持の礎(いしずえ)として、はたまた祖国再建の柱石として生くるや必せり。君もって瞑せよ。

 ここにうやうやしく哀悼の意を表し、英魂を弔う。ねがわくば来たり、饗(う)けよ。

 

 昭和21年3月10日 第18軍管理部隷属衛兵

                     陸軍中尉 色田久麿

 

 

・U少佐の書翰:昭和19年6月22日

 達筆で読みにくいが前半は清中氏に対して過日、色田宅とU宅に訪問してくれたことへの感謝の言葉と伝聞ではあるが進氏がニューギニアにおいて元気で頑張っている様子等を伝えている。

 後半が興味深い内容。勝手ながら十円同封したので海苔を送ってほしい、なおシラスボシあるいは干物もできれば総計で10円の金額に収まるよう送ってほしい旨が記されている。さらに追伸でジャガイモ、大根、カブ、落花生も心当たりがあれば・・・とある。

 昭和19年6月ともなると食糧不足が東京ではかなり深刻となり、陸軍少佐という本来ならば恵まれた地位に有りながらもこれらの品々が手に入りにくくなっていたことが分かる。

 しかしここまでくるとプライドの高い軍人からすればかなり勇気の要る露骨な「おねだり」であろう。相手が親類ならともかく部下の家族に過ぎないのだからけっこう図々しい感じがしてしまう。

 上官がその地位、肩書きを利用して部下の親に「おねだり」している、と思われても仕方あるまい。たとえ代金のようなものを同封してあったとしても、どこかしら腑に落ちない感覚が残ってしまう。

 ただ戦後になって昭和21年、所属部隊の慰霊祭が行われた時にU氏が色田氏とともに将校として律儀にも参加していることを考えると、U氏、人としてそれほど悪い人ではなさそうであるが・・・

 

 

 

 

§6.市原市の郷土史69.家に不学の人なからしめん

 

 

・小学校の設置 永井家所蔵品より

 

~必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん~

「学事奨励に関する被仰出書」より

 

   明治5年(1872)に学制が導入され、寺子屋にかわって全国に小学校が設置されるようになった(計画では5万4000近くを予定。しかし明治8年段階で約2万4500校。なお現在は約2万校)。

   市原では明治6年に総社、分目、宮原、深城、廿五里(東泉寺を校舎)、五所、飯沼(龍昌寺を校舎)、島野(三光院を校舎)、椎津、姉崎、田中(今津朝山)、松崎、川在、牛久、皆吉、山小川、佐是、上高根、馬立、朝生原、大久保、月出、西飯給、田淵(…以上はすべて寺院を校舎とする)、高砂(江古田)、鶴舞西、石川、外部田、古敷屋(…以上は民家を校舎とする)、鶴舞東(旧庁舎を校舎とする)の30校が設けられている。翌明治7年は22校、明治8年に6校のペースで設置されていった。

   分目小学校は1873年段階で46人、飯沼小学校は54人、島野小学校は25人、田中小学校は64人といったように、校舎が手狭で授業料が高かったことと女子の入学者が少なかったために全体として少人数の学校が目立った。海浜部では田中小学校の64人が最大規模。最小規模は島野小学校で25人。

 なお市原全体では明治6年段階で最大規模を持つ小学校は鶴舞東小学校の177人。鶴舞西小学校の52人と合わせると鶴舞の教育熱の高さが突出していたことが分かる。小学校の就学率の高さにも「佐倉巡査に鶴舞教師」と言われたような、教育に重きを置く鶴舞藩の影響が顕著にみられる。

 全国の数値では明治8年段階で児童数146万人ほど、就学率は35.4%にとどまっていた。また全国の校舎の4割が寺院、3割が民家だったという(「我が国の学校教育制度の歴史について」国立教育政策研究所 平成24年)。全国と比べても市原は圧倒的に寺院が多いことになる。なお学制の下では下等4年(6~9歳)と上等4年(10~13歳)とに二分されていた。

 

 当初は寺院や民家を間借りし発足した小学校であるが、明治12年の教育令で学区制が廃止され、実態に合わせて町村を基礎に小学校の設置を進めることになった。また初等科3年、中等科3年、高等科2年とされ、初等科は義務化が目指された(ただし明治16年段階で就学率は53.1%に過ぎず)。このため1880年代になると各地の小学校は次第に校舎と校庭を持つ本格的な学校に移行し始める。結果的に学校の統廃合が急速に進められ、永井行蔵氏(謙太郎の三男)は飯沼、分目、海上と三つの学校を転々とすることになった。

 

 

 

 

卒業証書・修業証書一覧(永井家所蔵)

人物

内容

学校・学年

元号・日付

西暦

行蔵

進級

第4番学区飯沼小学校初等科第二期

明治17年4月16日

1884

進級

同中等第初期

明治20年3月21日

1887

進級

分目尋常高等小学校高等小学科第一年級

明治22年3月14日

1889

卒業

海上高等小学校第二年級

明治23年3月26日

1890

清中

進級

千種尋常高等小学校第一学年

明治37325

1904

進級

同第二学年

明治38325

1905

進級

同第三学年

明治39324

1906

卒業

千種尋常小学校卒業

明治40325

1907

卒業

千種尋常小学校卒業

明治43324

1910

三田重馬

進級

千種尋常小学校第一学年

明治41325

1908

進級

千種尋常小学校第四学年

明治44324

1911

ゑつ

進級

千種尋常高等小学校尋常小学校第二年

明治42325

1909

進級

同第五学年

明治45323

1912

卒業

尋常小学校卒業

大正2324

1913

卒業

同高等小学校卒業

大正4324

1915

八重

進級

千種尋常高等小学校尋常小学校第一学年

明治45323

1912

進級

同第二学年

大正2324

1913

卒業

同尋常小学校卒業

大正6324

1917

卒業

村立千種農業補習学校

大正9324

1920

卒業

姉崎農業実科学校卒業

昭和11324

1936

卒業

千種青年学校研究科

昭和16329

1941

 

 明治期は頻繁に小学区の見直しが繰り返されたのだろう。行蔵は小学校に通うわずかな間に飯沼、分目、海上の三つの小学校に通っている。最後の海上は自宅からかなり遠く、相当不便だったに違いない。 彼は大正15年2月17日に49歳で亡くなっている。また進の通った姉崎農業実家学校の校長森田喜一郎は姉崎イチジクを普及させる土台を築いた郷土の偉人。姉崎に彼の頌徳碑が建っている。

 「市原のあゆみ」(昭和48年)によると市原では明治6年から小学校が設置され、多くは寺院に置かれた。明治6年に設置された小学校は30校、内24校が寺院、5校が

民家、1校が旧県庁である。当時の小学校は試験に落第すると進級できず、3回進級できなければ退学させられたようである。このため進級ごとに校印の押された「進級証書」が卒業式の際に進級した生徒全員に渡されていた。

 千種地区周辺では小学校が設置されたのは廿五里、飯沼、島野、田中(今津朝山)でいずれも寺院。市原の小学生は明治6年当時で総勢1858人、うち女子はわずか451人であった。なお北五井小学校と南五井小学校は明治7年に設置されている。明治7年は市内で22校、明治8年には6校設立されている。寺院や民家に間借りした手狭で間に合わせに過ぎない当時の小学校の多くはやがて統廃合の対象となった

 千種尋常小学校(尋常科4年=義務教育、高等科4年)は明治20年(1887)、青柳小と田中小が合併して生まれた。初代校長の鮎川孝一郎は大正2年までの24年近く、校長にとどまっている。明治22年、町村制施行に伴って千種村が発足すると千種尋常小学校は千種甲尋常小学校(青柳、松ヶ島)と千種尋常小学校にいったん分かれた。

 明治25年(1892)、名称がそれぞれ千種東尋常小学校と千種南尋常小学校に変わるが、明治34年(1901)、東と南が廃されて青柳字天王前に千種尋常小学校が設置された。しかし校舎は青柳光明寺、正福寺と今津朝山能蔵院を利用。また児童数増加(この年486名)に伴い、明治37年には白塚徳蔵院に高等科2学級を移している。

 明治40年(1907)、義務教育年限が延長され、尋常科4年が6年となるとさらに児童数が増えた(この年579名)ため、明治42年、柏原持宝院も仮校舎とされた(結局、計5箇所の寺院に校舎が散在)。ついに明治43年(1910)、青柳天王前に新校舎着工の運びとなり、明治44年に完成したが2学級分の教室が不足していたため、正福寺の間借りは続いた。

 すべての児童を一か所に収容できたのは第2校舎が完成した大正5年(1916)のこと。しかも翌年の大暴風雨(「大正の大津波」と呼ばれ、東京湾東岸に大きな被害をもたらした。10月1日未明、台風と大潮がかさなり、高潮が発生。行徳などでは家屋が流失し、死者も出た)で早速、屋根瓦やガラス窓が破損。さらに大正12年(1923)には関東大震災で第一校舎が傾くなど甚大な被害をこうむった。

 なお千種尋常小学校は昭和10年(1935)に千種青年学校が併設された。昭和16年には千種国民学校と改称され、初等科6年と高等科2年、合わせて8年が義務教育化された。戦局が悪化した昭和19年(1944)、能蔵院に55名、持宝院に25名の集団疎開を迎える。昭和20年5月8日、蘇我以南の内房一帯にP51が来襲し、千種村では北青柳に爆弾が落とされた。この時、浜野の本行寺が焼け、五井や川在などでも銃撃を受け、死傷者が発生している(→五井龍善院の戦災地蔵尊、養老小学校の慰霊碑)。

 戦後、昭和22年に千種小学校と改称し、千種中学校が併設される。昭和30年に千種村は解体され、今津朝山、白塚、柏原は姉崎町に、松ヶ島、青柳は五井町に編入されていく。

 

 明治7年発足の青柳小学校(光明寺)と田中小学校が合併して明治20年に千種尋常小学校が成立。明治22年、松ヶ島に千種東小学校が設立されるが明治34年には統廃合されて千種尋常小学校に一本化される。一方、明治6年に発足した宮原小学校と分目小学校は明治24年、海上尋常小学校に統廃合されて現在地に移転している。

 行蔵氏は最初に通った飯沼小学校が明治22年に統廃合されてしまい(廿五里に東海尋常小学校成立)、次の分目小学校は明治24年にやはり統廃合されてしまった。せっかく近くにあった千種東尋常小学校にはなぜか通わず、最終的には松ヶ島からは一里余り離れている海上尋常小学校に通う憂き目にあっている。

※行蔵氏は大正15年、49歳で亡くなっている。養右衛門家に卒業証書や位牌があるので何らかの障害を

 持って生まれたのだろう。独身のまま家を出ることなく生涯を終えたようである。

 

 明治33年、小学校令が改正され、尋常小学校を4年に統一して義務化し、さらに授業料が無償化された。これにより就学率は急上昇して明治38年(1905)には95%を突破し、「国民皆学」の掛け声は30年余りを要してようやく実現されつつあった。しかしそれは「富国強兵」のスローガンを全国民に浸透させることにもつながった。

明治19年に教科書検定制度が導入され、明治23年の教育勅語を挟み明治36年には国定教科書制度が確立する。この後、「立身出世」の夢にあおられて帝国臣民は一体どこに向かって歩かされていくのか・・・

 

 

永井八重「12歳の宿題」

 

 

 

 これは八重が大正5年(1916)の12歳の秋、9月から10月にかけて学校の宿題として教科書の一部を毎日、少しずつ書き写したものの一部である。その都度、日付と天候、そして永井八重の名が記されている。実に丁寧な書きぶりで驚かされる。小学校時代、精勤賞や優等賞を総なめしていた八重の優秀さ、真面目さがしのばれる遺品である。

 14枚が残存しているが、本来はすぐにでも捨てられてしまうはずの小学校での宿題がなぜ、こうして残されているのだろう。

 

 

 実はこれは「大正拾年度金銭出納簿十一月起」と題した横帳の裏紙なのである。出納簿を書いたのはおそらく八重の兄、清中氏。謙太郎が大正7年に亡くなっていて、清中氏の父親信太郎は若くしてとっくに亡くなっているのでまだ若かった清中氏が永井家の当主となり、この横帳を記載したに違いあるまい。

 

※八重の葬式控え帳より

 この控え帳によると八重は大正10年(1921)10月10日午後十一時半、東京の慈恵会病院で息を引き取っている。遺体は早くも翌日、千葉で荼毘に付され、12日に葬式が行われた。病名は記載されていない。小学校時代、毎年のように精勤賞を受けてきた八重がわずか17歳の若さで慈恵会病院において亡くなった・・・翌日、直ちに荼毘に付されたことを考え合わせると伝染病感染による急死が疑われよう。腸チフスや赤痢、コレラ、あるいは当時、世界中に猛威を振るっていたインフルエンザあたりか。葬式等の陣頭指揮にあたったのは永井楊蔵(新宅)氏のようで控え帳の書体は八重の兄清中氏のものとは異なっている。この前後から養右衛門家の家運が急速に傾いていく印象を強く受ける。

 

 では兄、清中氏はなぜ妹八重の小学校時代の宿題用紙を裏にして出納簿を作成したのだろう。しかも5年も前に八重が書いたもの・・・墨は裏側にも浸透してしまい、読みにくくなるのだから、出納簿には新品の紙を使えばいいはずなのに、なぜ?

 八重は大正10年(1921)10月11日、17歳の若さで亡くなっている。幼くして父を失い、自慢の妹だった八重もまた突然の死を迎えてしまった。清中氏の喪失感は大きかったに違いない。彼は妹の遺品を整理する時にこれを見つけ、捨てるに忍びなかったのだろう。この出納簿は妹が亡くなった翌月の11月から記載されている。

 たかが小学校時代の宿題である。兄が生きている間保管できたとしても子孫はどうか。兄が妹の形見の品として末永く残したいと思うなら、保管期間の長い出納簿に再利用する・・・ということは十分、考えられるだろう。

 

 清中氏は敗戦後、農地改革に加えて積もり積もった借金苦の中で次々と田畑を手放し、寂しい晩年を迎えることとなる。

 

§6.市原市の郷土史68.

消防組の行方:市原市松ヶ島永井家所蔵品より

 

 総務省消防庁の「消防団の歴史」によると享保の改革で設けられた江戸の町火消は明治維新後、東京府に移管された形を取っている。このため東京府は明治3年(1870)に消防局を設置することになった。しかしたちまち消防事務が内務省に移されたため、東京府内の消防も明治7年(1874)に新設された東京警視庁に移されている。警視庁は同年、「消防章程」を定めて旧来の「鳶人足」の捉え方を刷新し、消防の近代化を図った。消防章程では細かく規則を設けて手当てや補償、進退賞罰などを明らかにし、近代的な消防士としての在り方を初めて示したのである。

 1874年、「消防章程」が制定されると共にフランスからイギリス製の腕用ポンプなどを輸入して機械化を図った。また1880年には長年の消防組の習慣の改善をねらいとして,軍隊式消防隊を組織するために東京警視庁は消防専門職員である消火卒を300人募集している。しかしこうした近代化の動きは東京などに限られ、地方は相変わらず火消人足のままだった。

 そもそも全国的には公設の消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組に過ぎなかった。そこで政府は明治27年(1894)、消防組規則を勅令で定め、消防組を府県知事の管掌として全国的な統一を図った。すなわち府県知事(東京府では警視総監)が消防組を設置し、府県警察部(東京府では警視庁)が指揮監督するものとした。また消防組員の階級は「組頭」「小頭」「消防手」の三階級制とし、消防費用は市町村の負担であった。

 地方によっては消防組の設立が進まずにしばらく停滞していたようだが、大正時代になると警察署の積極的な働きかけなどで大正末には消防組の数は飛躍的に増大したという。

 

 

 

 

 

松ヶ島消防団組織規約:明治42年

第1条:本区は本区民をもって消防団を組織す。

第2条:消防団員は17歳より40歳までをもって団員とす。ただし団員を欠きたる者は 

 戸別一人必ず参集するものとす。

第3条:40歳以上の者は団員を補助し、あるいは自区の守衛にあたるものとす。ただ

 し補助員は区長の指揮に従い、活動するものとす。

第4条:団員中より団長・副団長を互選す。ただし任期は満一か年とす。

第5条:副団長は団長支障あるときは団長に代わり、すべての団員を指揮監督するもの

 とす。

第6条:器械掛り8名を置く。

 (イ)器械主任  2名

 (ロ)筒さき    2名

 (ハ)梯子     2名

 (ニ)高張     2名

 ただし任期は満一か年とす。

第7条:消防器は団長の指揮に基づき、甚だ充分保護し置くこと。

第8条:消防器保管場は平素、みだりに開閉せざること。

第9条:器械は10、11、12、1、2、の五か月間は毎月一面づつ修繕を加え置くこと。

第10条:自区あるいは隣区に火災ある時は乱鐘をもって報ずること。ただし遠方と認

 むるときは二鐘を報ず。

第11条:出発は団員一同整列の上、団長指揮のもとに出発するものとす。ただし急速

 を要するときは団長の意見により、臨機の処置に出ずるものとす。

第12条:団員は申すに及ばず、団外員として理由なく参集せざるときは二十銭の過怠

 金を徴集す。ただし参・不参は出発までに団長へ必ず通知するものとす。万一、通

 知を誤るときは理由の有る無しにかかわらず、過怠金を徴集す。

第13条:理由としては他出、疾病に限るものとす。

第14条:団員にして一回過怠金を徴集せられ、第二回に及ぶときは金一円を徴集す。

 もし三回以上は団員の決議により一区の交際を謝絶す。

第15条:およそ火災を発見したるときは常番をもって各自を呼び起こし、その当時に

 限り、番人は鈴鐘を用ゆること。

第16条:器械洗浄は二組の人員をもって輪番に施行するものとす。ただし一回は出戸

 町より他は順次。

第17条:第16条に違反するときは第14条に照らし過怠金を徴集す。

第18条:火災当時の費用は区長並びに団長交渉の上、その時々各戸に賦課するものと

 す。

第19条:過怠金はその時々貯金し置き、火災に関する予備費に充つるものとす。

第20条:団員はすべて前条項に基づき団長の指揮に応じ活動するものとす。

第21条:団員出火の際、不慮の災害に罹りたる者あるときは区会の決議を経て相当の

 手当てを支給するものとす。

第22条:現場にて理由なく団長の指揮に応ぜざる者あるときは帰区の上、団長・団員

 に報告し、団員の協議により相当の処罰を与ふるものとす。

団長   永井揚造 ※謙太郎の弟で養右衛門家から分家し永井家新宅の初代

副団長  永井 保 ※永井家本家(七郎左衛門家)

機械主任 国吉周次

機械主任 国吉吉平

筒先掛り 斎藤久次郎

筒先掛り 国吉 清 ※消防組団長小頭選挙結果

高張掛り 斎藤喜十郎

高張掛り 国吉多三郎

梯子掛り 国吉房蔵

梯子掛り 斎藤廣二

 

解説

 以下、消防団員57名の名前が列挙されている。さらに消防団外員19人の名前も列挙されている。名前を挙げた消防団の幹部クラスは永井、国吉、斎藤の名字に限られている。彼らはいずれも松ヶ島村の開発に従事した、いわゆる「草分け百姓」の子孫ばかりで、当時も村内では有力な家柄であったと思われる。

 全国に消防組が設置されていったのは1894年からのことであるが、市原のように実際には設置が遅れる地域も多かった。1909年2月、松ヶ島区の消防組が整備されたが、姉崎に設置されるのは10月のこと。翌1910年、市西、五井、牛久に消防組設置。1911年には養老、鶴舞、東海に設置されている。

 おそらく市原郡では先駆けて設置された松ヶ島消防組の規則や組織、会計のあり方が後続の消防組結成時に模範とされ、大いに参考とされたことであろう。なお1912年には松ヶ島消防組の上部組織として千種村消防組が設置され、松ヶ島の組織は「千種村第一部消防組」という名称となった。

 

 

 松ヶ島消防団の初代団長永井楊蔵氏は千種村村長であった謙太郎氏の末弟で、新宅(養右衛門家の新宅)の初代にあたる。松ヶ島消防団発足時の幹部を永井一族の二人が団長及び副団長を務めているということは、消防団設立に関して当時、千種村村長だった永井謙太郎氏の強力な働きかけがあったことを想像させる。消防組関係資料が永井家に数多く伝わっていたのも消防団発足時のこうした経緯があったからであろう。なお永井本家(七郎左衛門家)の跡地には現在、松ヶ島公民館と五井消防団の第十一支部が置かれている。

 

 

解説

 国吉四郎氏と齋藤嘉喜氏の二人が八幡警察署から千種村の消防手に任命されたことを示す。千種村消防組は八幡警察署の管轄に置かれていたことが分かる。個人的に注目するのは元号が大正に変わってから一ヶ月ほどしかたっていないため、「明治」と印字された箇所の上から「大正」印が捺されている点。実はこの年の7月29日に明治天皇が亡くなったばかり。「明治」と印字されたお役所の用紙がこの当時大量に残っていたはずである。昭和から平成に変わった直後の官公署における混乱ぶりと押印の煩雑さを思い出してしまった。もちろん、現在も平成から令和への変更のため、高校では調査書や指導要録等の元号の箇所で訂正印と「令和」印が大活躍していた。

 またこの任命書が今は懐かしいガリ版刷りであることにも注目したい。謄写版はかの発明王エジソンが1893年頃に発明したミメオグラフを日本人の発明家が改良して明治27年(1894)に発売されたものが原型となるという。印刷紙を鉄筆で記すときに「ガリガリ」と音をたてることから通称「ガリ版」と呼ばれ、安価で簡便な印刷方法として広く企業や学校などの官公署に普及していた。日本では何と1980年代まで利用され続けていたらしい。個人的には50年ほど前、五井小学校6年の時に学校の印刷機の具合が悪いので五井中学校まで行かされて確か交通安全員会関係の印刷物をガリ版で印刷した記憶が残っている。

 

 

火防組合設置届及び火防組合規約:大正2年(1913)8月

 千種村第一部消防組 火防組合設置届

 一組合の名称 市原郡千種村松ヶ島火防組合

 一組合の区域 市原郡千種村松ヶ島一円

 一組合員数  六十人

 一組合の役員

   組合長 和田三郎 副組合長 齋藤亮

   幹事 国吉清 積田恭

 一組合の事務所 市原郡千種村松ヶ島

  右火防組合を設置候については火防取締規則第五十条により別紙規約書相添えこ

  の段及びお届け候なり

   市原郡千種村松ヶ島二百一番地

   大正二年八月七日  右火防組合長 和田三郎

   八幡警察署長 警部 足立淳之助殿

火防組合規約

第一条 本組合は組合員共同して明治四十二年十一月千葉県諭告第二号及び火防取締

 規則を実行し火災を予防するをもって目的とす

第二条 本組合は現住の戸主に代わるべきものをもってこれを組織す

第三条 本組合は千種村大字松ヶ島の区域によるものとす

第四条 本組合は千種松ヶ島火防組合と称す

第五条 本組合事務所を千種村松ヶ島    番地に置く

第六条 本組合に左の役員を置く

 組合長一名 副組合長一名 幹事二名

 前項の役員は組合員においてこれを選挙しその任期は二カ年とす

第七条 組合長はその組合において第一条の目的を達するに必要なる勧誘をなすもの

 とす

 

 以下、省略します。

 

火防取締規則 千種村第一部消防組 大正二年(1913)八月

 火防取締規則

第一条 家屋または建物の屋根は瓦石金属その他不燃質の物をもって覆葺すべし

第二条 覆葺をなさんとする者は左の事項を具し工事着手前所属警察官署に届け出づ

 べし(ママ)

一 住所氏名 二 建物の位置 三 建物の種類及び新築・改築・増築または屋根の

 改葺の区別 四 覆葺すべき屋根の面積 五 屋根に用うる不燃質物の種類 六 

 工事期間

 前項の届出をなしたる者その工事を竣(おわ)りたる時は五日以内に所轄警察官署に届出て屋根の検査を受くべし

 

 以下、省略します。

 

 

 

 

 

 ガリ版刷りのプリント4枚からなる。誤字がいくつか見られ、朱で訂正されている。おそらく上からの指示を受けて急いで印刷されたのだろう。戦時中の粗末な印刷物は

捨てられることが多いと思われ、これも80年以上の歳月を生き残った貴重な資料の一つ。内容から見てまだ本格的な空襲が始まっていない時期のものであろう。

 もしかしたら昭和8年(1933)に行われた「関東防空大演習」の際のものかもしれない。昭和14年(1939)に「警防団令」によって消防組は警防団へと改称されており、このプリントではまだ「消防組」の名称が使われている。従って少なくとも昭和14年以前のものであると推察される。

 

1.帝都(東京)防空の重要地帯として我が千葉県は地理的に見てまさに第一線にある。敵国が帝都・横浜・横須賀を上空より襲撃するには第一に本県の片貝、第二に銚子、第三が木更津より襲来するとのことである。従って本村はこれが対策として村民一致、常に防空の訓練統制を怠らず、一朝有事の際に機敏に事態を処理しなければならない。本村の防空施設は積極的方法と消極的方法との二つに区分する。図に表すと左(略)のごとし。

 

2.役場

 村長は防空委員長、助役は防空副委員長、兵事主任(は)防空主任となり、各書記は係員となり、警察より空襲の通報あれば警鐘を打ち各部落に急報す。

 備考 委員長・副委員長は各委員と連絡をとり村内各部落の巡視をなす。

3.小学校

イ.児童に防空に関する知識を教え、平素防空その他の訓練を重ねて国民防空の完備を

 期するは焦眉の急務なることを常に講演せしむ。

ロ.尋常5年以上の小学生をして少年防空隊を組織し、少年防空監視員となり、夜は9時

 頃まで灯火管制等に従事せしむ。

4.区長   その部落の防空主任となる

 その区における防空主任となり在郷軍人団、消防組、青年団、女子青年団、防空少年団を指揮して防空監視、灯火管制、防火救護、防毒警護 その他の監督をなす。

5.在郷軍人   警護班 駐在巡査主任となる

 在郷軍人は千種村駐在とともになって活動する。

 灯火管制が行われ、村内は闇となり、この際暗夜を利用する不逞の徒が種々の不祥事を計画実行なし、各種の犯罪行為がややもすると行われると村民が不安と恐怖にかられ、秩序が乱れがちになるを取り締まる。その他流言蜚語を役場は警察にその真否を確かめ、いやしくも何ら根拠なき宣伝等に迷わされぬよう、厳重に取り締まる。

備考 分会長・副分会長は委員長とともに各部落を巡視す。

6.消防組    防火班灯火管制をつかさどる。

 消防組は出動準備をなし、もし爆弾を投下せられ、火災起こらばこれが防火に従事し、また在郷軍人と協力して灯火管制を実施する。灯火管制を警戒管制と非常管制とに区分する。

警戒管制   いやしくも上空に対し発見せらるべしと認むる光は厳重に遮蔽隠蔽を

 命じ、取り締まる。

非常管制   敵機来襲の通報とともに灯火の消滅または遮蔽隠蔽を強制す。

7.青年団    救護防毒班となる

 青年団を救護班、防毒班との二つに区分する。

イ.救護班

 空襲により建築物が破壊されて火災が起こり、そのうえ毒ガス等を投下され、そのため死傷者や染毒者を現地で応急手当をする。また救護所へ運搬する。あるいは罹災者を救い出す等の重要なる任務に従事する。

ロ.防毒班

 防毒班は各受持ち区域を巡回してガス攻撃を受けたるときは迅速に警鐘をもって村内に知らせ、一般通行人を散毒地の風上か一定の避難所に避難させる。しかして村民をして勝手に行動をせざるよう、安全なる場所に避難せしむ。

8.女子青年団   治療班となる

 救護班により運搬せられたる患者看護および家族との応対または外部との交渉その他部内各種の雑用等の作業に従事する。

注意

 救護所は空襲に対し、できうるだけ安全なる所に設け、かつ小さくてもよいから数か所に設ける。

9.漁業組合

 空襲の報あらば警鐘を打ち鳴らし漁船に通報して灯火を消さしむ。

10.本村の国民防空について

 本村において非常変災に備ふるため、千種村防護団を組織し、村長は千種防護団長となり、千葉連隊区司令官、千葉県警察部長を顧問となし、各区に防護支団を設け、区長はその支団長となり、団員に在郷軍人、男女青年団、消防組、少年団をもって組織し、各団は警護班、防火班、救護防毒班、監視哨班、治療班の五班に編成し、各その任務を担い防空上の知識を研究普及し、かつ実際的訓練を積んで有事の際、各当面の防空に当たる。

 実際的訓練には毎年3月10日、陸軍記念日に防空演習を施行し千葉連隊区司令官を招請して防毒治療その他の講習会を開催して男女青年団を訓練す。

 

 

 戦時中になると国家総動員体制のもと、軍部はこうした防空演習、防火演習(バケツリレー等)、防空壕への退避訓練等を繰り返すことでかつては村々の自治的な組織でもあった消防団を警察や在郷軍人会などを通じて強い統制下に置き、先々本土決戦に備えた非常時の軍事力としても組み込もうとしていたようである。

 昭和8年(1933)に実施された「関東防空大演習」に対して桐生悠々(1873~1941)は主筆を務めていた信濃毎日新聞の社説(1933年8月11日)において既に以下のような批判を加えていた。

 「・・・将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返される可能性がある。
 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである・・・」

 

 この指摘は1945年の東京大空襲(皮肉にも陸軍記念日の3月10日)を頂点とした12年後の悲劇を予言したかのような、先見の明に満ちた内容であった。しかしこれに反発した長野県の在郷軍人会らが信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、桐生は9月に退社のやむなきに至っている。その後、桐生はこれにも屈せず、「他山の石」などを通じて日本の軍国路線を批判し続け、太平洋戦争開戦の直前に以下の言葉を残して喉頭がんで死去する。

・・・さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が(中略)時たまたま小生の痼疾(こしつ:持病のこと)咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。

昭和十六年九月 日 他山の石発行者 桐生政次

 

 

 

 

 

 

 永井家所蔵の消防組関係資料には明治末期の消防組結成時における規約や備品購入記録など、現在の消防団の原点となる記録が含まれる。大正時代には規約がさらに整備され、消火活動だけではなく、防火活動にも力を入れるようになっている。また大正デモクラシーの時代らしく、消防組の役員は選挙で決められていたことも分かる。

 しかし昭和に入り、国全体に戦時色が強まると消防組の自治的組織としての性格は急速に薄れていき、上意下達を旨とする軍隊的な組織に変質していく。

 ガリ版刷りの「千種村防空演習実施計画」には毒ガス弾の攻撃に備えた訓練も含まれており、地域の消防組織が国家的統制を強く受けて国家総動員体制下に組み込まれていく様子が見て取れる点で、極めて貴重な資料であろう。

 

 

 

 

67.松方財政と農村

松ヶ島永井家の資料より

松ヶ島地区の資料を所蔵する永井家(1960年代末)

 

 今回は市原市松ヶ島地区の旧家に残されている資料から松方財政期を中心とした農村の動きを、地主制の進展と徴兵制の実際の二つの観点に絞って概観していきます。

 

・地主制の進展

 まずは地主への田畑の集積具合を当時の地券(裏側)の記録から探ってみます。永井家は江戸時代から名主を歴任したこともある旧家で、幕末には質屋も営んでおり、土地や金銭の貸借関係の文書がわずかながら残されています。

 松方財政期の地券を見ることで土地所有の変化が分かり、1880年代、地主制の進展が見られたことが確認できます。ただし永井家は合計しても数㌶程度の田畑しか集積しておらず、他の地方と比べると地主としては零細と言えるでしょう。

 一方で漁業や水運で栄えてきた北青柳の小農は松方デフレの影響とイワシ漁の不振が加わり、小作農に転落するケースが目立ってきます。松ヶ島を含めて中には家屋敷まで手放すケースも散見されます。

 

  ※表はカッパが永井家所有の地券の記録から作成したもの。

 

 

・徴兵制の実際

 

 

・徴兵関係文書

 

 

松ヶ島から徴兵検査の行われる鶴舞までの「里程表」を提出させる念の入れよう。

 

 

 

・徴兵逃れの試み

 

 まず、高齢者の戸主宅に養子入り

 

 さらに上級学校への進学を試みる

 

 しかし東京外国語学校をやめてしまった荘三郎に官憲の追及の手が…言い訳に苦しむ兄の謙太郎、ついに神頼み、運頼み…

 

 

 

・息子信太郎の徴兵忌避の試み

 

それでも最後まで信太郎の徴兵忌避に全力を尽くす

 

兄として、父として徴兵に反発する謙太郎の動き

 

なぜか、この一枚だけ、新聞が残されている。残したのは謙太郎の意志が強く働いているはず。謙太郎の、永井家の資料を保管し、子孫へ伝えようとの思いは強かった。

 

 徴兵を巡って高まっていた謙太郎の厭戦気分が一気に変化したのは、当時の多くの日本人と同様、日清戦争、日露戦争の連勝による大国気分の高揚だったようだ。それを物語るのが以前にも紹介した日露戦争直に撮影されたと思われる一枚の写真。

 

 

§6.市原市の郷土史66.古墳と万葉集

阿須波神社:297号線側から来るとどこに神社があるのか、分かりにくい

 

「房総と万葉」(加倉井 只志 千葉日報社 1977)より、市原の部分を抜粋してご紹介いたします。

 

 「万葉集」には房総の歌として東歌(巻14)と防人歌(巻20)がまず挙げられる。さらに髙橋虫麻呂(巻9)や山部赤人(巻3)の作品がある(これは略)。

 

 景行天皇(第12代)の40年(西暦150年前後)のこと。東夷が頻りに背くので日本武尊が吉備武彦と大伴武日連を従者として東征することになった。尊は伊勢神宮で倭比売命から天叢雲剣などをもらい、相模では国造に騙されて焼き殺されそうになったりした(このとき尊はもらった剣で草を薙ぎ、窮地を脱したのでやがて剣は「草薙剣」と呼ばれるように)。

 逆に火打ち石で火を放ち、国造らを焼き滅ぼしたため、「焼津」という地名が生まれた。さらに相模から走水の海(浦賀水道あたり)を渡ろうとしたが海の神が波を立てて船が前に進まずに立ち往生してしまった。そこで妃の弟橘比売命が入水して海の神の怒りを鎮め、命らは無事に総国に渡る事が出来た

 そのときに弟橘比売命が歌った歌…

 

「さねさし 相武の小野の 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

 

※「古事記」での記述

  日本武尊が東征の折、相模から走水の海を渡って房総へ赴こうとしたところ海が

 荒れに荒れて、舟に乗った一行は進退窮まってしまった。そこで日本武尊の妻、弟

 橘姫は海の神を慰めるために身代わりとなって入水し、無事に一行を房総の地に到

 達させたという。「古事記」には弟橘姫の櫛が海辺に漂着し、それを祀ったことが

 記されている。

  日本武尊は第12代景行天皇の三男として生まれたが、父の言いつけを破った一つ

 上の兄をつかみ潰して手と足を引きちぎり、薦に包んで投げ捨ててしまったという

 くらい、怪力の持ち主であったという。父である景行天皇は自分の子でありながら

 その猛々しい心に恐れを抱き、日本武尊に休む間も与えず、大和政権の支配拡大の

 ために戦の旅を続けさせたことになっている。東征の帰途、彼は結局、大和に帰り

 着く直前で病に倒れ、伊勢で亡くなった。その魂は白鳥となって天にかけ上ったと

 いう。

  房総における日本武尊の伝説は以下のように内房を中心に分布している(「千葉

 県史」より)。富津市西大和田には漂着した弟橘姫の櫛を祀る吾妻神社がある。そ

 の地の伝承では吾妻の名は日本武尊が当地を来訪した際、「ああ、吾が妻よ」と嘆

 じたことによるという。木更津市吾妻にも弟橘姫の袖を祀ったと伝える吾妻神社が

 ある。また尊が近くの太田山から走水の海を望見し、姫を慕うあまり、当地を去り

 がたくなった。そこから「君去らず」という地名が生じ、木更津と記すようになっ

 たとも伝える。こうした伝承はおおむね記紀の記述に沿って成立したことがうかが

 える。ただし「吾妻」という言葉は尊が足柄の峠で三度「吾妻はや」と嘆いたこと

 によると「古事記」では記している。

  このほか富津や木更津には尊が鹿野山に向かい、鬼を討とうとした伝承が残され

 ている。富津の鬼泪(きなだ)山は尊の武威に恐れおののいた鬼が涙を流して許し

 を請うた山だという。茂原市真名(まんな)ではこの地を通過した尊が道のほとり

 の清水を飲み、「天の真名井」と名付けたことが地名の由来とされている。また茂

 原市本納では尊が東方に飛んでいく白鳥を見て、その止まった地に弟橘姫を祀った

 橘神社を創建したという。

  下総では船橋周辺に尊の伝承が多く残されている。木更津に上陸した尊はそこに

 行宮(あんぐう)をつくり、葛飾野の敵と戦ったが、相手は容易に服従しなかっ

 た。しかも日照りが続き、苦戦したため、尊は雨乞いの儀式を行い、雨を降らせて

 敵を退散させた。ところが雨は降り続き、ついに洪水となって尊一行は行宮に帰れ

 なくなってしまった。そこで尊は舟を並べて橋をつくることを思いつき、無事に行

 宮に帰りついたという。これが船橋という地名の由来であるとされる。ただ「古事

 記」では房総に渡った尊が弟橘姫の櫛を祀った後のことは「あらぶるえびすどもを

 屈服させ、あらぶる神々を平らげて東の果てをきわめた」と簡潔に記しているのみ

 である。おそらく房総の人々は誰もがこの古事記の簡潔な記述に飽き足らず、悲劇

 の英雄日本武尊のイメージを膨らませて地元の地名や神社の由来を語ろうとしたの

 だろう。

 

 東歌は総数230首。上総、下総、常陸、信濃、遠江、駿河、伊豆、相模、上野、下野、陸奥十一か国。巻頭の歌は・・・

 

 「夏麻(なつそ)ひく 海上潟の沖つ渚(す)に船はとどめむ さ夜ふけにけり」

 

 加倉井氏は海上の洲を今の谷島、島野あたりに地名と地形から想定している。

大意「この辺りが海上郡の、遠浅の海の沖であろう。この沖の洲に船を泊めようかな。夜が更けてしまったから」

 作者は不詳。巻7の「夏麻ひく 海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど 君は音もせず」(1176)と類似している。

 

 加倉井氏はこの二つの歌に対して「類句を組み合わせて、次から次へと歌を作り替えていくところに民謡らしい、軽みとペーソスがあるのである。ところが、歌垣といわれたり、「かがい」といわれている場所で、夜中、多くの男女が解放感を味わいつつ、踊りながら歌い合うという言葉の磨き合いを経ているので、大変調子がよく滑らかである。しかも昼間、個々の口からは言えないことを、篝火の暗い照明の中で大勢に混じってなら、思い切って何でも言えたということもあって、庶民の生活や感情が、素朴な言語で表現されているという長所を持っている。(宮廷に入って「大歌」となった時に、正調化されたことを忘れてはいけない…)」(P.29)という大変興味深い、解説を加えている。

 

 防人(さきもり)の歌として取り上げられた巻20の100余首は天平2年(730)から天平勝宝7年(755)の間、防人に東国の兵士を充てていた期間に作られた歌。採録されたのは天平勝宝7年の2月。

 大伴家持は兵部省の役人(少輔)として防人の輸送計画に携わっていたようである。難波から船出するまでの18日間、千人ほどの兵隊たちから100首余りが集められたと考えられる。上総出身者だけでおそらく100人ほどいたと思われる。当時の上総国守は万葉歌人で知られる大伴旅人の弟稲君(公)で彼もまた歌人として知られていた。彼は家持の叔父にあたり、おそらく防人歌の採録には家持と稲君の二人が大きな役割を果たしたに違いない。また家持と幼馴染の大原真人今城も上総大掾であり、しかも上京していて家持に会うため、難波に出向いていた。今城も9首、万葉集に歌が載せられており、上総国庁には歌の作れる官人が多かっただろう。防人らの歌を筆録した茨田(うまだ)連沙弥麻呂という地元出身の少目もそれなりに歌の心得があったに違いない。

※なお宝亀5年(774)、家持も上総国守となっている(左京大夫兼任)。

※房総は5~6千年前の縄文海進期、複雑な入江に富むリアス海岸を各地に形成し、

 辺を眼下に臨む台地の縁辺には数多くの貝塚が築かれた(市内の菊間、国分寺台、

 市原、姉崎、佐是等ではこうした地域に環濠集落が営まれ、やがて古墳が築かれ、

 神社が設けられ、中世には城郭が築かれることもあった。いわゆる遺跡のホットス

 ポットになっているのが台地の縁辺)。

  市原市北部の沖積平野部は当時、ほとんどが海であったと思われる。しかし現在

 の状況からも分かるように複雑な入江を有していたとはいえ、かなりの領域が遠浅

 の海であったはず。したがって現在、沖積平野である場所でも微高地には稀だが貝

 塚が築かれたケースがあり(京葉高校近くの野毛法泉寺墓地等)、沖積平野部のす

 べてが海底に没していたわけではない。

  また郷土史家の高橋在久氏が指摘するように当時の海岸線からやや沖合に川など

 からの土砂が次第に堆積し、海退期(4500年前~)には「沖つ洲」が形成されてい

 ったようである。この洲によって海上潟(うなかみがた)が姉崎に形成され、古代

 においてもしばらくその景観が残されていたと考えられ、前述したように「万葉

 集」には海上潟を詠んだ歌二首が残されている。

  同じく高橋氏は市内では珍しく平野部に築かれた二子塚古墳(全長110mの前方

 後円墳で千葉県では9番目の大きさ)が、浅瀬に乗り上げることを避けるべく沖で潮

 待ちする船のランドマークとしても機能していたと考えている(「房総遺産」高橋

 在久 岩田書院 2004)。

  こうした洲の一部は寒冷化によって海進期が終わり、海退期が始まると一部が帯

 状の微高地になったと考えられる。発掘調査の報告書では砂堆列などと記される微

 高地がほぼ現在のJR内房線の線路に沿って五井と八幡との間をときおり小河川に

 よって寸断されながらも続いている。この平野部における帯状の微高地は古代、東

 海道として利用されていたのでは…という推測がある。実際、この微高地には小規

 模ながら古墳が点在していることが近年、確認されつつあるなおこの地の小規模古墳

 の多くは後世、村落の形成によって破壊されたと思われるが、一部は三山塚や富士塚などに転用され

 て改変されつつ残存していることが発掘調査で解明されてきている)。

 

 東海道は771年までは相模から海路、上総にきて下総、常陸方面に伸びていたが、武蔵の開発が進んだこともあり、やがて陸路、相模から武蔵へと抜けるようになる。

 

「庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに(4350)」

 大意「庭の真ん中に阿須波の神を祭ると、細葉の枝をさして神蘺(ひもろぎ)を作り、私は潔斎してあなたが無事帰ってこられるまで待っています」

 

阿須波神社にある万葉歌碑

 

 作者は若麻績部諸人(わかおみべのもろひと)で帳の丁(よぼろ)。軍団のなかで文書作成に当たった教養のある人物であったと思われる。阿須波の神は古事記の出雲伝に大年神(スサノオの子)の子とある。延喜式神名帳には越前国足羽郡に足羽神社がある。越前で祀られていた神が上総に招かれた背景は知る由もない。

千葉市生実の地名は渡来人系の麻績(おみ)一族が住みついたことに由来するとの

 説あり。「若」は別れ出た一族のことを指すらしく、本来は生実の豪族であった一

 族の中から市原に進出し、分家した先祖がいたことを示すのかもしれない。

※福井県足羽(あすわ)神社の主祭神は第26代継体天皇である。継体天皇が越前にい

 た時に足羽山に祀った大宮地之神の異称が阿須波神で建設工事や旅の安全を図る

 された。

 

 

「蘆垣の隈処に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ(4357)」

 大意「蘆垣の曲がり角のところに立って、妻が袖さえも濡れるほどに泣いたことが思い出される」

 

 作者は上丁(かみのよぼろ)刑部直千国で市原郡出身。市原郡は海部(あまべ)、江田、湿津(うるいつ)、山田、菓麻(くくま)、市原の六地区に分かれていた。

 「蘆垣」からみて水辺のある集落の出身であろうか。

 

刑部氏と稲荷台1号墳(山田橋)出土鉄剣銘:1988年に日本最古の銘文入り鉄剣

 (推定73cm)が解読(発掘は1976年)されて話題を集めた。5世紀から7世紀に

 かけて造られた稲荷台古墳群(12基余り)中、鉄剣が出土した1号墳は最大の円墳

 で直径27m、高さ2.23m。鉄剣は銀象嵌で銘文が刻まれ、エックス線照射で以下の

 ように解読されている。

  表「王□□ヲ賜フ 敬ンデ□ゼヨ」

  裏「此ノ廷□ハ□□□」

  ほかに出土品は短甲、鉄鏃など被葬者が武人的存在であったことをうかがわせる

 ものが目立った。銘文中の「王」は5世紀中頃という時期からみて允恭(いんぎょ

 う)天皇(倭の五王「讃・珍・済・興・武」のうち済に比定)ではないかとみる学

 者(前之園亮一氏)もいる。

  前之園氏によると允恭天皇の皇后は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)であ

 り、その名代(なしろ)の民に刑部がいたが、市原には「万葉集」等で刑部の名が4

 人ほど記されているらしい。

  また刑部という地名がやや内陸部に入ったところにあり、長柄にも刑部という地

 名があるので広範囲に名代の民が割り当てられていたのかもしれない。

  なお刑部(市原市)の場所は外房に流れ出る一宮川の源流部にあたり、稲荷台か

 ら10km弱の所である。稲荷台古墳群は養老川と村田川に挟まれた台地上に位置し

 て東京湾に臨む見晴らしのよい位置にある。水運を考えてみれば東京湾へは二つの

 川が注ぎ、わずか10km移動すれば外房にも出られる川にたどり着くという。

  まさに稲荷台の立地は前之園氏が指摘するように房総支配における要ともいって

 よいほど重要ポイントだったのかもしれない。一宮川の流域には伊甚屯倉(いじみ

 のみやけ)が設置されていること、東国では稀な海部(あまべ)郷(→海士有木)

 が養老川中流域に設置されていることを考え合わせると一宮川と養老川を結ぶライ

 ンは大和政権側にきっちりと押さえられているようでもある。

  が、何はともあれ以上の点から前之園氏は稲荷台1号墳の被葬者(2人)が武人と

 して皇后の住む忍坂宮の警備に当たった人物ではないかと推察できるという。

 

 

上海上国造と海上潟・海部郷について:前之園亮一(平成17年度歴史散歩資料「市原市五井姉崎地区の遺跡と文化財」所収)より

 

 

 養老川から姉崎にかけての地域は古代、海上(うなかみ)と称されていた。4世紀の海上は姉崎古墳群に見られるように県内では突出した重要な地位を占めていた。4世紀においては天神山古墳(130m)が県内最大で、今富塚山古墳(110m)が2位、釈迦山古墳が5位となる。上海上国造は大和政権と密接な関係を保ちつつ、古墳時代前半、房総の地に君臨していたようである。

 海上が房総の中心的役割を担えた背景に養老川流域の高い農業生産力や海部(あまべ)を擁して水上交通を掌握していた点、中央との太いつながり…などが考えられる。万葉集巻14の東歌筆頭に挙げられた「夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり」(3348)は港として海上潟が関東では夙に有名であったことを裏付けよう。

 5世紀前半に築かれた二子塚古墳(後円部の高さは10m近く)は海上潟の港の位置の目安ともなって洋上の船を導いていたようである。また海上潟に入港すると船上の人々は台地上(標高28m)の天神山古墳(後円部の高さ14m。4世紀中頃)を見上げて上海上国造の勢威に一層目を見張ったのだろう。

 上海上国造の祖先は古事記や国造本紀では天皇家と同様、天照大神の子孫であり、武蔵国造と同様の先祖という。実際、天皇家の信任篤く、「舎人(とねり)」と呼ばれる天皇の親衛隊的な職務に就くことも多かったようだ。「続日本紀」に檜前(ひのくま)舎人直建麻呂という人物が出てくる。檜前は明日香村の地名で530年頃に宣化天皇の宮を警護した舎人に対し、「檜前舎人(ひのくまのとねり)」という名称がついた。

 宮を守る舎人となることは地方豪族にとって大変名誉なことであったので「檜前舎人」を氏名としたのだろう。同じ名前は遠江、駿河、武蔵にしか存在しない。関東では上海上国造と武蔵国造だけであり、4世紀から5世紀にかけて関東では名門中の名門豪族であったと考えられる

 檜前姓は白潟郷(台東区浅草周辺)と海上郷に存在しており、双方を行き来する水上交通路があったと考えられる。実際、房州石は後期古墳時代、埼玉県行田市の将軍山古墳、東京都赤羽古墳群3号墳、葛飾区柴又八幡神社古墳、市川市法皇塚古墳に用いられている

 さらに海部郷は駿河以東の東海道、関東では市原郡のみに存在(海士有木周辺と推定)している。遠江以西では海部郷が合わせて17カ郷も存在することを考えると大和政権において海上の地域は極めて重要な地域であったことが伺える。なお現在の海士有木は養老川河口から7㎞も上流に位置するが、これは上海上国造が河川交通にも関与したせいであろうか。

 とすれば3世紀に遡る神門古墳群の被葬者も上海上国造一族と関係が深かったのかもしれない。神門古墳群からは東海近畿系の土器が出土しており、海、川の水上交通路を通じてもたらされたと考えられるからである。さらに神門古墳群近くの国史現在社である前廣神社は海部郷に属していた可能性がある。

 しかし上海上国造の海部郷と養老川の支配権は5世紀末から6世紀初頭にかけて大和政権に奪われてしまったようである。伊甚屯倉の設置と時を同じくして姉崎古墳群に築かれる古墳の規模は縮小していく。5世紀前半の二子塚古墳を最後に100m級の古墳は築かれなくなった

上海上国造一族と同祖の国造は「古事記」によると出雲、武蔵、下海上、伊甚(現

 在の夷隅)、遠江。「国造本紀」によると菊間、武蔵、相模などとなる。

66.上総国分寺(後編)

 

 

 

阿形像」(右)は13世紀末から14世紀前半

 

 薬師堂(厨子とともに享保元年=1716完成。市指定文化財):寺伝によると僧快応が元禄年間、寺の荒廃ぶりに一念発起して薬師堂の建立を思い立ち、浄財を集めて完成させたという。平成の修理の際に「快応」の墨書発見。五井村の半三郎、総社の小三郎、有吉の伝三郎など大工の名も確認。

 

 

かつては塔の礎石周辺にこのような布目瓦の破片が沢山、落ちていた。

 

「将門塔」宝篋印塔(応安5年=1372)

 もとは菊間の新皇塚古墳の墳丘上にあり言い伝えでは将門の墓とされていた。北朝の年号が使われている貴重なもの。市の指定文化財。

 

   札所塔:天明3年(1783)「八十番」       馬頭観音道標:天明2年(1782)

現在は真言宗豊山派の寺院で新四国八十八か所の       「右国分寺道、左八幡の道」

「八十番」札所

 

 

               角柱宝塔型宝篋印塔:明和5年(1768)                

                   石工 八幡町瓜本権八 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

§6.市原市の郷土史65上総国分寺(前編)

主要伽藍の跡地はいずれも国の史跡

 

 全国に遺跡として残る国分寺、国分尼寺は737年(天平9年)の天然痘の大流行や740年(天平12年)の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などに対して世の乱れを案じた(しょう)()天皇が741年(天平13年)、いわゆる「国分寺建立(こんりゅう)(みことのり)」を出して仏教の力で国家鎮護(ちんご)を図ろうとしたことにより創建(そうけん)された寺院であります。

※国分尼寺の創建は光明皇后の存在が大きいようだ。また僧寺の立地は俗臭の漂う生活の場から離れ、

 かつ不便でない場所を選ぶよう指示されていた。実際、国分寺以前の遺跡が寺域ではほとんど見られ

 ない。なお神門(ごうど)古墳群を回避するよう伽藍配置されており、当古墳が極めて重要な聖域で

 あったようである。

 

 聖武天皇はさらに743年、「大仏造立の詔」を出していわゆる「奈良の大仏」が造られることになります。この大仏(正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ))は結局、東大寺の本尊として752年に完成します。そして東大寺は全国の国分寺を束ねる総国分寺とされました。

※なお市原の初期寺院は7世紀末から造営され、7世紀中頃から始まる上野、下野、武蔵よりやや遅れ

 た。郡寺(ぐんでら)として郡司層が造営したものと考えられる。創建が7世紀末と思われる今富廃

 寺、二日市場廃寺、光善寺廃寺は蘇我倉山田石川麻呂の創建した山田寺の系列に属する瓦が見つかっ

 ている。他に国分寺に先立つ寺院跡は武士廃寺、菊間廃寺がある。この時期に寺院の創建が房総に見

 られる背景として、律令の整備や地方豪族の再編、仏教の普及が進んだことが考えられている。

 

 全国六十余州の国司(こくし)達に国分寺、国分尼寺の建立(こんりゅう)が命ぜられましたが、当初は命令に反してその造営はやや停滞気味であったそうです。政府は国司()の怠慢を叱り、郡司(ぐんじ)の協力を求める命令を出すなど、国分寺、国分尼寺の整備に努めました。

※天平19年(747)以前に建てられたものは掘立柱で瓦ぶきではなく仮設的なものだ

 ったようだが、この時の督促以降、本格的な造りとなっている。なお国分寺造営の

 ため北の方から幅3メートルほどの側溝を持つ道路が造られた。伽藍の完成とともに

 廃絶している。

 

 その結果、多くの国では760年代に入ってからほぼ伽藍(がらん)の完成をみたといわれます。寺院は国府(こくふ)の近くに建立される事が多かったようです。建ち並ぶ国衙(こくが)の施設群とともに創建(そうけん)当初は丹塗りの伽藍が周囲を圧倒するほどの威容を誇っていたに違いありません。特に上総国分寺は武蔵(むさし)国分寺に次ぐ寺域の広さ(約12万平方メートル=12町歩(ちょうぶ))で、尼寺にいたっては全国一の広さ(約11万平方メートル=11町歩)といいます。

 都から遠く離れた地であるにもかかわらず、このように突出した寺域(じいき)の広大さをみますと、当時東国経営に腐心していた朝廷にとって上総(かずさ)国がいかに重要だったかが偲ばれます。

 なお上総国分寺の七重塔は高さ60メートル前後と推定され、市庁舎よりも高かったと思われます。台地上に突如出現したこの高層建築を当時の人々がどのような思いを抱いて仰ぎ見たのか…律令(りつりょう)国家の威光にひれ伏す思いだったのか、それとも…何はともあれ、かなり遠くからでも塔は見えたはずです。

※伽藍の外側には役所的な建物と造営に関わる人々の集落が存在。なお国分寺の本格的な発掘調査は早

 稲田の滝口宏教授を団長とする調査団により昭和41年(1966)から始まった。その後も国分寺台土

 地区画整備事業にともなう発掘調査が同じく滝口教授を団長にして昭和49年度から58年度まで9カ年

 にわたって計10回、延べ7万㎡近くに施された。中心伽藍地以外での本格的な調査によって寺院地の

 全貌がおおむね明らかになったのは上総国分寺、国分尼寺が唯一である。これにより政所院などの寺

 務施設も確認され、国分寺国分尼寺の解明が一気に進むなど画期的な成果を上げた。なお発掘調査報

 告書は2009年、「上総国分僧寺跡Ⅰ」が出されている。また1991年から1992年にかけて市原市

 文化財センターによって中心伽藍の西側の発掘が行われ、西門跡が発見されている。

 

 826年以降、上総は常陸(ひたち)上野(こうずけ)とともに親王が国司を務める「親王任国」となり、実質的な長官は(すけ)となりました。「更級(さらしな)日記」で有名な菅原(すがわらの)孝標(たかすえ)娘の父、孝標は上総(かずさの)(すけ)として4年間、上総の国府に赴任していました。

 なお上総(かずさの)(かみ)として有名な人は百済王敬福、石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)大伴家持(おおとものやかもち)などです。また孝標以外で有名な上総介は平高望(たかもち)、上総介広常、織田信長がいます。

 ただし織田信長の時代には既に律令体制が完全に形骸化し、朝廷の官職は多くの場合、ただの肩書に過ぎなくなっていたので、実際には信長は上総に着任していません。ついでに上総国の守護となった有名人として挙げられるのがバサラ大名の代表格の高師直(こうのもろなお)、佐々木道誉です。

 

 房総は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝説からも伺えるように大和(やまと)政権の東国経営の要として古くから重視されてきました。国分寺跡近くの神門(ごうど)古墳は3世紀中頃に築造された東日本では最古級の古墳であります(その近くには国分寺の(かわら)を焼いた神門瓦窯跡も見つかっております)。国分尼寺の近くには5世紀中頃に作られたとされる(いな)荷台(りだい)古墳があります。そこで出土した「(おう)()」銘鉄剣もこの地と中央との深いつながりを物語るものでしょう。

 

※神門(ごうど)古墳群3,4,5号墳(惣社):上の写真は5号墳

 場所は雷電池を見下ろす岡の上。1988年3月、考古学会を騒然とさせた発掘調査が発表された。3世 

 紀中ごろに築かれたもので前方後円墳のごく初期の形式(「イチジク形」)を示すものではないかと

 騒がれ、古墳時代の始まりを半世紀早める必要性を感じさせた古墳である。つまり邪馬台国の女王卑

 弥呼が亡くなった頃とほぼ変わらないタイミングで造られた、東国では最古級の古墳一つとされるも

 のとなる。

  以下、その概要を表記してみた。

 

3号墳

4号墳

5号墳

全長

47.5m

49m

38.5m

高さ

3.1m

3.35m

3.2m

出土物

ヤリガンナ1

槍1

管玉10

ガラス玉103

鉄鏃41

ヤリガンナ1

槍1

管玉73

ガラス玉420

鉄鏃2

ガラス玉6

 他に土器(近畿、東海西部の系統に属す)が多数出土している。房総は大和政権にとって東国支配の橋頭堡であったと考えられており、全国に設置された国造約120箇所のうち、房総には11箇所も置かれていた。神門古墳群の古さから考えると、3世紀中頃にはここ市原で早くも畿内勢力の影響があったことが推察できる。残念ながら現在は宅地造成によって破壊され、5号墳のみが形をとどめている。

 本来ならば国分寺の境内の一画に位置するが、ここを避けるようにして伽藍が配置されており、この古墳の被葬者が8世紀の為政者にとっても重要な人物だった可能性があるだろう。また日本武尊の東征伝説がただの作り話ではなく、何らかの事実、出来事を踏まえて創作されたものと推理できるかもしれない。

 

 当時の僧は(あま)も含めて今でいえば国家公務員のような存在であり、国分寺、国分尼寺(にじ)は個人の救済を目指すものではなく、あくまで国家の安泰(あんたい)と繁栄を祈願する、国家施設でありました。

 国分寺は正式には「(こん)光明(こうみょう)四天王(してんのう)護国之寺(ごこくのてら)」と呼ばれ、専ら「護国」を任務としたのです(国分尼寺は「法華(ほっけ)滅罪之寺(めつざいのてら)」)。僧寺は20人、尼寺は10人の定員(僧尼令)。僧尼らは飲酒、肉食、賭博などが禁じられ、禁欲的な生活を営んでおりました。

 

 国分寺は9世紀中頃に多くが焼失してしまったようです(約9千箱分の瓦が廃棄されていた)。瓦には発泡していたり、高温で変形したものが混じり、多量の焼土、灰、炭化物も見つかっています。大型の釘は廃材として捨てられた建築材が木だけ腐り、100点近く見つかっています。

 政所院はまだ健在であったようでその後、掘立柱で桧皮葺、板葺の伽藍は再建されたようです。しかし9世紀後半、政所院が衰退し、国司も国分寺の営善を怠るようになったと思われます。寺院地も保全できなくなり、竪穴住居の侵入を許すようになった痕跡がみられます。しかも11世紀中頃、またもや焼失の憂き目にと思われます(…1028年、平忠常の乱で上総国荒廃)。

 

 ただ源頼朝は南都復興とともに諸国の国分寺等の修復も進めました。頼朝の知行国であった上総でも約93メートル四方の館が寺院地に設置され、一定規模の伽藍が復興されたようです。寺田として40~50町歩を所持し、経営基盤にしていたようですが、その多くは国衙領と思われ、寺の復興は国衙が担っていたようです。

 ただしこれも幕府滅亡後の14世紀後半には館が衰退し、寺田は地頭の横領、侵略に晒されていったようで、国衙の衰退とともに国分寺は荒廃していったと思わます。

 当時の名残はもしも国分寺伝来のものとすれば13~14世紀に造られたと考えられる仁王像「阿形像」に見られます(吽形は寛政12年=1800年)。この像から一部の堂宇はしばらく存続できていたことも推測されます。

 

 元禄時代、真言宗の快応の勧進で復興が始まり、薬師堂は正徳6年(1716年)、完成。以後、真言宗豊山派、村上観音寺の末寺として寺請制度の下、惣社村に根付き、新四国八十八番の札所として現在まで存続してきました。

 

その7.学校問題アレコレ

千葉県の令和元年度学校基本調査結果より

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

教員の精神疾患による休職・病休は依然として多く、20代30代で増加:背景になに

 がある? 妹尾昌俊教育研究家、学校・行政向けアドバイザー

 YAHOO!ニュース JAPAN 2021/12/22(水) 15:00

精神疾患による休職者増加中、教員の復職支援や学校現場でのメンタル対策の手引

    を文科省作成 読売新聞 2025/06/02 15:00

 教師の負担軽減を進めてきたと文科省は再三、言い訳ばかりしてきたが、現場の負担が決して軽くなってはいないことをこの記事は示しているだろう。

 

 以下は千葉県の統計から読み取れることではあるが、日本全体の人口動態を踏まえれば他の多くの都道府県でも似たような問題を抱えていると思われる。

 これから指摘することは千葉県の学校現場におられる方ならば敢えて統計を示すまでもなく、周知されている事柄であろう。ただ現在の若手教員と学校現場が直面している困難をクッキリと浮かび上がらせるためにも、念のためデータを用いて概観してみよう。

 なお学校基本調査は3年おきに行われる全国調査なので直近のデータは令和元年度のものとなることを予めご理解いただきたい。

 

 

 2019年段階で千葉県の公立高等学校の教員は半数が50代以上という超高齢化に直面していることが分かる。また学校現場にとって最も深刻な問題点は学校運営の中核を担うべき40代の教員(緑色のゾーン)が急激に減少してしまっていること。平成19年度に比べると令和元年度は4分の1以下まで激減している。40代と言えば既にそれなりの経験を重ね、かつ体力、精神力もまだ十分に残っている、いわゆる「脂がのっている」世代に該当しよう。

 今、若手教員にとって頼りがいのあるリーダー的存在となるべき40代の急激な減少は千葉県の学校現場に様々な局面で深刻なダメージを与えつつあるのではないだろうか。本来は主に40代が務めるのが妥当な主任、指導主事を、まだ経験の浅い20代の若手教師に務めさせている学校は県内に数多く存在しているに違いない。

 高校ほど年齢間の極端なアンバランスは見られないものの、中学校でも40代の減少は現場の困難度を大きく高めてしまっているようである。

 

 

 このアンバランスさを性別の観点を加えて人口ピラミッド風に表したものが上のグラフである。左側が公立中学校、右側が公立高等学校の教員の性別(それぞれ左が男性、右が女性)及び年齢階層別教員数を示している。

 高校の場合には中学校以上に性別のアンバランス(女性教員の少なさ)が目立ち、それが比較的若い世代においても十分に解消されていない、という残念な現実が見てとれる。千葉県の高校教育界での大問題としてこの件も追加すべきだろう。

 男女共同参画社会の実現を目指してこれまで繰り返し上から目線で掛け声をかけてきた千葉県の、高校における無様な現状がこのグラフによって明らかとなっている。おそらく性別面での教員数のアンバランスは部活動指導の外部委託がさらなる前進を見ない限り、改善されることはないだろう。

 何はともあれ千葉県の場合、教員の年齢別、性別構成での大きな偏りによって生じている問題はとりわけ高校において顕著なのである。

 

 40代の教員が少ないという年齢構成の歪みは初任教員の指導にも甚大な影響を及ぼすだろう。面白くて分かりやすく、生徒達の印象に残る社会科の授業を創り出す事は極めて難しく、授業準備には相当の手間暇がかかる。当然、若手教師にとって先輩教師のアドバイスは大いに参考となるだろう。特に沢山の生徒達から絶大な支持を集めている熟練教師の授業内容や手法は見逃せまい。脂がのった40代教師の授業には参考とすべき要素が多いはずである。

 しかし40代が少ない千葉県の高校現場では授業見学に価する先輩教師が実数としてかつてより少なくなっていることは間違いない。自分の親世代同然の50代教員の老練(老獪?)な授業がどこまで若手教師のお手本となれるのか・・・もちろん人によりけりだが、やはりIT化の波に乗り遅れがちな50代教師に過度な期待は出来ないと考えるべきだろう。

 

 生徒数が多かった30年ほど前までは千葉県内都市部の多くの高校が一学年10クラス程度の学年規模であった。学校内の社会科の教員数は一学年のクラス数とほぼ同じだったので新米教師は10名近くの先輩教師から多方面にわたるアドバイスや教材、プリントなどをいただくことが出来た。

 しかも年齢構成のバランスが比較的とれていたので、多くの高校では新米教師が孤立してしまうことなど起こり得なかったのである。

 ところが現在は少子化の進展によって多くの高校が一学年4~5クラス程度の規模に縮小している。つまり校内での同じ教科の教員数がほぼ半減している。加えて40代教師の激減である。千葉県内の高校では若手教師が授業以外でも孤立しがちとなり、様々な場面で孤軍奮闘を迫られているに違いない。

参考動画

【ふきこぼれ教員】「残業が200時間超」前年度踏襲に葛藤熱意の温度差で職員

 室で浮いて退職も?辞めない環境づくりとは|アベヒル

 ABEMAニュース【公式】 2025/04/11 15:37

 教師たちの年齢構成におけるアンバランスについて指摘されることはこれまで余り無かったように感じる。中室氏の慧眼に感謝したい。

 

 近年、初任教師には初任研の指導員として校内でベテラン教師が一人割りあてられている。私も一度、その任に就いたことがあるが、経験上、これで十分とは言いがたい。もちろんそうしたマンツーマンの指導場面もあって良いのだが、かつてのように多様な先輩教師に囲まれて多様な刺激を受ける方がはるかに現場の実態に密着でき、豊かな経験を積めるのではあるまいか。

 指導が難しい高校では生徒指導上、教科準備室よりも学年室や大職員室に常駐する時間が長い。千葉県内の高校の少なくとも三分の一程度は教科準備室よりも学年室や大職員室が教師の居場所として重視されるだろう。学校によっては教科準備室がただの物置になっているような高校さえある。

 そのような高校に採用されてしまった初任教師は先輩教師から授業に関する温かい助言を受ける機会がどうしても少なくなり、授業の成立に一層大きな困難を覚えるに違いない。

 

 教員の精神疾患による休職・病休は依然として多く、20代30代で増加している背景に何があるのか…おそらく千葉県の場合には上記のような問題が背景にあることが予想されよう。

 

 年齢階層別教員数の「フタコブラクダ」状態はどうみてもすぐには解消できない。したがってこのまま「学校のブラック化」が放置されれば、千葉県の公立高校は遅かれ早かれ、地滑り的崩壊の危機を迎えてしまうのかもしれない。

 千件近くに達した2022年度高校入試の採点ミス問題を考えた時、千葉県の場合、事態は相当、切迫してきていると私は考えるが、いかがか?

 

 「学校のブラック化」の一刻も早い解決を!

 

参考記事

「忙しいはありがたい」? 新採用教員にブラック職場「肯定」冊子 千葉県総合

 教育センター 東京新聞 2023年3月20日

 千葉県の学校教育と教育行政がいかにダメなものかをこれだけ堂々と発信してしまって良いのだろうか?通常はタダで済まされないような暴言に等しい内容であろう。これからの千葉県の学校の大躍進を願うばかりである。

教員未配置が深刻、過去最多の449人 過重勤務・自習授業増

   朝日新聞社 によるストーリー 2024.3.30

 千葉県の公教育の土台が予想通りに崩れつつあるようだ。

独自に高校無償化の大阪府、私立志向強まり公立半数が定員割れ…「このままでは

 統廃合の可能性」 読売新聞 によるストーリー 2024.7.2

 大阪府では今後も高校教育の民営化が進み、府立高校の多くは統廃合の対象とされていくであろう。公立高校の自主的な取り組みを通じて教育改革を期待するのはもはや辞めにし、以前から競争にもまれてそれぞれが経営努力を強いられてきた私立高校の側に改革を期待する方が確かに現実的であり、得策である。私立高校の方がより多様化、個性化の要望に応えられる柔軟性を持っているのに対して、文科省の画一的な強いくびきに縛られている公立高校の側はそれぞれ独自の改革を求められても、期待に沿える学校はごく一部にとどまる。公教育民営化の舞台がまずは高校を中心に回っていく…この流れは今後、東京都と大阪府を先頭にしてさらに先鋭化していく可能性が高くなってきたと考えるが、いかがか。

埼玉県立高校共学化問題大詰め 別学は差別的か、意見聴取ではほぼ「反対」

 産経新聞 2024.3.21

 この問題は授業で討論させると面白いだろう。生徒たちから沢山の意見が出てくるに違いない。アンケートもとってみたい。おそらく浦和高校などと違った意見が大勢を占めるかもしれない。

 男女別学は「アパルトヘイト」と同種の効果をもって性差別を助長しかねない危険性を持つと私は考えるが、いかがだろう。特にこれを公立学校で認めていることは好ましくないように感じている。

 実は千葉県の場合、高校の校長に男性が極めて多く、教科は体育科でしかも柔道や剣道の専門家が妙に目立つ、という印象、「偏見」が私にはある。もちろんこれは個人的な印象論に過ぎず、どう見てもエビデンスに欠ける認識である。

 そこで実際にはどうなのか、ここ10年間の校長や教頭の性別割合、出身教科等を調べたくなる。しかし、ネットで教育委員会のホームページからこのデータを簡単に調べられるのだろうか…仮にすぐにでも調べられるのであるならば、私たちの知る権利はかなり保障されていると言えるだろう。しかし県教委に対して面倒な手続きを要する資料の公開請求をしなければデータが得られない…などとなると、やはり、県教委にはサービス精神が足りていない、いや、何がしかの隠蔽体質が疑われるような閉鎖性があるとみて間違いないだろう。今時、市民がこの程度の資料すら簡単に手に入れられないという事は千葉県の教育行政が時代の進展に後れをとり、情報公開をサボっていると市民から批判されても仕方ないと思うのだが、いかがだろう。

 高校の管理職、教育委員会に大きな性差があるとすれば、これは大きな差別問題として糾弾されるべきであるのは論を待たない。また管理職に教科や専門において大きな偏りがあるとすれば、これもまた人事面で大きな差別的待遇が見られる、として厳しく糾弾されなければなるまい。以上のようなことをそれなりの根拠をもって主張するのがマスコミと市民の義務ではないのか。

 千葉県にも県立の女子高校がいくつか存在している。その多くは古い歴史を持っている。戦前の差別的で国家主義的な体質が男女別学のシステムの中にこっそりと温存されているとしたら、いかがだろう。こうした疑いを持たれぬよう、埼玉県や千葉県の県教委はしっかりと情報公開していただきたいものである。

 生徒たちのアンケート結果をもって男女別学を維持する、という結論は時期尚早に過ぎる。そもそもが生徒たちに対してアンケートの前に判断材料を十分に提示できていないのに、いきなり男女別学の是非を問うこと自体、乱暴な話なのだ。この件を粗雑な印象論で片づけてしまうようでは先が思いやられる。

内申書から「出欠記録」削除の動き 背景にヤングケアラーの存在も

 毎日新聞 によるストーリー 2024.7.2

 非常に興味深いニュースであり、生徒たちの関心も強い内容だろう。ただし…名古屋大大学院の石井拓児教授(教育行政)は「そもそもこれまで、学校を休まず頑張ったということが入試の評価対象になっていたのでしょうか」と疑問を投げかける…という箇所には驚きを禁じ得ない。千葉県の教育困難校では内申点の中で部活動以外では最も重視されていた項目であり、特に皆勤賞、それも三か年の皆勤賞をとった場合はほぼボーナス点のような加点がなされていた。

 不登校だった生徒を数多く入学させていた定時制午後部ではどんなに欠席数が多くともほとんどの場合、減点の対象とはしてこなかったが、普通科の全日制では欠席数の多さは当然、合否に大きく関わってくる評価ポイントの一つであった。千葉県と肩を並べてきた横綱級の管理主義教育で知られた愛知県が、児童生徒の日常を管理するための重要な武器となる出席数の記録を一度たりとも軽視してきたはずがないと信じ込んできたのだが…大学の先生とあろうお人が、まさか地元愛知県の教育事情をご存じないとは思えない。私の勘違いであれば良いのだが…

 「出欠記録」削除の動きは岐阜県のことなので隣接してはいてもそれが愛知県の管理主義的教育を変えうるほどのインパクトがあるかどうかは分からない。

 東京都でどれほど学校教育におけるうらやましいほどの試みが過去なされてきていても、隣接する千葉県ではこれといった斬新な試みは全くと言って良いほど見られないままである。学校を巡る不祥事が千葉県と同様に数多く見られる愛知県でも、岐阜県のユニークな試みがプラスの影響を及ぼすとは考えにくい。

 今後とも不登校対策に熱心な岐阜県での取り組みを注視していきたい。