§6.市原市の郷土史65上総国分寺(前編)
主要伽藍の跡地はいずれも国の史跡
全国に遺跡として残る国分寺、国分尼寺は737年(天平9年)の天然痘の大流行や740年(天平12年)の藤原広嗣の乱などに対して世の乱れを案じた聖武天皇が741年(天平13年)、いわゆる「国分寺建立の詔」を出して仏教の力で国家鎮護を図ろうとしたことにより創建された寺院であります。
※国分尼寺の創建は光明皇后の存在が大きいようだ。また僧寺の立地は俗臭の漂う生活の場から離れ、
かつ不便でない場所を選ぶよう指示されていた。実際、国分寺以前の遺跡が寺域ではほとんど見られ
ない。なお神門(ごうど)古墳群を回避するよう伽藍配置されており、当古墳が極めて重要な聖域で
あったようである。
聖武天皇はさらに743年、「大仏造立の詔」を出していわゆる「奈良の大仏」が造られることになります。この大仏(正式には盧舎那仏)は結局、東大寺の本尊として752年に完成します。そして東大寺は全国の国分寺を束ねる総国分寺とされました。
※なお市原の初期寺院は7世紀末から造営され、7世紀中頃から始まる上野、下野、武蔵よりやや遅れ
た。郡寺(ぐんでら)として郡司層が造営したものと考えられる。創建が7世紀末と思われる今富廃
寺、二日市場廃寺、光善寺廃寺は蘇我倉山田石川麻呂の創建した山田寺の系列に属する瓦が見つかっ
ている。他に国分寺に先立つ寺院跡は武士廃寺、菊間廃寺がある。この時期に寺院の創建が房総に見
られる背景として、律令の整備や地方豪族の再編、仏教の普及が進んだことが考えられている。
全国六十余州の国司達に国分寺、国分尼寺の建立が命ぜられましたが、当初は命令に反してその造営はやや停滞気味であったそうです。政府は国司の怠慢を叱り、郡司の協力を求める命令を出すなど、国分寺、国分尼寺の整備に努めました。
※天平19年(747)以前に建てられたものは掘立柱で瓦ぶきではなく仮設的なものだ
ったようだが、この時の督促以降、本格的な造りとなっている。なお国分寺造営の
ため北の方から幅3メートルほどの側溝を持つ道路が造られた。伽藍の完成とともに
廃絶している。
その結果、多くの国では760年代に入ってからほぼ伽藍の完成をみたといわれます。寺院は国府の近くに建立される事が多かったようです。建ち並ぶ国衙の施設群とともに創建当初は丹塗りの伽藍が周囲を圧倒するほどの威容を誇っていたに違いありません。特に上総国分寺は武蔵国分寺に次ぐ寺域の広さ(約12万平方メートル=12町歩)で、尼寺にいたっては全国一の広さ(約11万平方メートル=11町歩)といいます。
都から遠く離れた地であるにもかかわらず、このように突出した寺域の広大さをみますと、当時東国経営に腐心していた朝廷にとって上総国がいかに重要だったかが偲ばれます。
なお上総国分寺の七重塔は高さ60メートル前後と推定され、市庁舎よりも高かったと思われます。台地上に突如出現したこの高層建築を当時の人々がどのような思いを抱いて仰ぎ見たのか…律令国家の威光にひれ伏す思いだったのか、それとも…何はともあれ、かなり遠くからでも塔は見えたはずです。
※伽藍の外側には役所的な建物と造営に関わる人々の集落が存在。なお国分寺の本格的な発掘調査は早
稲田の滝口宏教授を団長とする調査団により昭和41年(1966)から始まった。その後も国分寺台土
地区画整備事業にともなう発掘調査が同じく滝口教授を団長にして昭和49年度から58年度まで9カ年
にわたって計10回、延べ7万㎡近くに施された。中心伽藍地以外での本格的な調査によって寺院地の
全貌がおおむね明らかになったのは上総国分寺、国分尼寺が唯一である。これにより政所院などの寺
務施設も確認され、国分寺国分尼寺の解明が一気に進むなど画期的な成果を上げた。なお発掘調査報
告書は2009年、「上総国分僧寺跡Ⅰ」が出されている。また1991年から1992年にかけて市原市
文化財センターによって中心伽藍の西側の発掘が行われ、西門跡が発見されている。
826年以降、上総は常陸、上野とともに親王が国司を務める「親王任国」となり、実質的な長官は介となりました。「更級日記」で有名な菅原孝標娘の父、孝標は上総介として4年間、上総の国府に赴任していました。
なお上総守として有名な人は百済王敬福、石上宅嗣、大伴家持などです。また孝標以外で有名な上総介は平高望、上総介広常、織田信長がいます。
ただし織田信長の時代には既に律令体制が完全に形骸化し、朝廷の官職は多くの場合、ただの肩書に過ぎなくなっていたので、実際には信長は上総に着任していません。ついでに上総国の守護となった有名人として挙げられるのがバサラ大名の代表格の高師直、佐々木道誉です。
房総は日本武尊の東征伝説からも伺えるように大和政権の東国経営の要として古くから重視されてきました。国分寺跡近くの神門古墳は3世紀中頃に築造された東日本では最古級の古墳であります(その近くには国分寺の瓦を焼いた神門瓦窯跡も見つかっております)。国分尼寺の近くには5世紀中頃に作られたとされる稲荷台古墳があります。そこで出土した「王賜」銘鉄剣もこの地と中央との深いつながりを物語るものでしょう。
※神門(ごうど)古墳群3,4,5号墳(惣社):上の写真は5号墳
場所は雷電池を見下ろす岡の上。1988年3月、考古学会を騒然とさせた発掘調査が発表された。3世
紀中ごろに築かれたもので前方後円墳のごく初期の形式(「イチジク形」)を示すものではないかと
騒がれ、古墳時代の始まりを半世紀早める必要性を感じさせた古墳である。つまり邪馬台国の女王卑
弥呼が亡くなった頃とほぼ変わらないタイミングで造られた、東国では最古級の古墳一つとされるも
のとなる。
以下、その概要を表記してみた。
|
3号墳 |
4号墳 |
5号墳 |
全長 |
47.5m |
49m |
38.5m |
高さ |
3.1m |
3.35m |
3.2m |
出土物 |
ヤリガンナ1 槍1 管玉10 ガラス玉103 |
鉄鏃41 ヤリガンナ1 槍1 管玉73 ガラス玉420 |
鉄鏃2 ガラス玉6 |
他に土器(近畿、東海西部の系統に属す)が多数出土している。房総は大和政権にとって東国支配の橋頭堡であったと考えられており、全国に設置された国造約120箇所のうち、房総には11箇所も置かれていた。神門古墳群の古さから考えると、3世紀中頃にはここ市原で早くも畿内勢力の影響があったことが推察できる。残念ながら現在は宅地造成によって破壊され、5号墳のみが形をとどめている。
本来ならば国分寺の境内の一画に位置するが、ここを避けるようにして伽藍が配置されており、この古墳の被葬者が8世紀の為政者にとっても重要な人物だった可能性があるだろう。また日本武尊の東征伝説がただの作り話ではなく、何らかの事実、出来事を踏まえて創作されたものと推理できるかもしれない。
当時の僧は尼も含めて今でいえば国家公務員のような存在であり、国分寺、国分尼寺は個人の救済を目指すものではなく、あくまで国家の安泰と繁栄を祈願する、国家施設でありました。
国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」と呼ばれ、専ら「護国」を任務としたのです(国分尼寺は「法華滅罪之寺」)。僧寺は20人、尼寺は10人の定員(僧尼令)。僧尼らは飲酒、肉食、賭博などが禁じられ、禁欲的な生活を営んでおりました。
国分寺は9世紀中頃に多くが焼失してしまったようです(約9千箱分の瓦が廃棄されていた)。瓦には発泡していたり、高温で変形したものが混じり、多量の焼土、灰、炭化物も見つかっています。大型の釘は廃材として捨てられた建築材が木だけ腐り、100点近く見つかっています。
政所院はまだ健在であったようでその後、掘立柱で桧皮葺、板葺の伽藍は再建されたようです。しかし9世紀後半、政所院が衰退し、国司も国分寺の営善を怠るようになったと思われます。寺院地も保全できなくなり、竪穴住居の侵入を許すようになった痕跡がみられます。しかも11世紀中頃、またもや焼失の憂き目にと思われます(…1028年、平忠常の乱で上総国荒廃)。
ただ源頼朝は南都復興とともに諸国の国分寺等の修復も進めました。頼朝の知行国であった上総でも約93メートル四方の館が寺院地に設置され、一定規模の伽藍が復興されたようです。寺田として40~50町歩を所持し、経営基盤にしていたようですが、その多くは国衙領と思われ、寺の復興は国衙が担っていたようです。
ただしこれも幕府滅亡後の14世紀後半には館が衰退し、寺田は地頭の横領、侵略に晒されていったようで、国衙の衰退とともに国分寺は荒廃していったと思わます。
当時の名残はもしも国分寺伝来のものとすれば13~14世紀に造られたと考えられる仁王像「阿形像」に見られます(吽形は寛政12年=1800年)。この像から一部の堂宇はしばらく存続できていたことも推測されます。
元禄時代、真言宗の快応の勧進で復興が始まり、薬師堂は正徳6年(1716年)、完成。以後、真言宗豊山派、村上観音寺の末寺として寺請制度の下、惣社村に根付き、新四国八十八番の札所として現在まで存続してきました。