§6.市原市の郷土史69.家に不学の人なからしめん

 

 

・小学校の設置 永井家所蔵品より

 

~必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん~

「学事奨励に関する被仰出書」より

 

   明治5年(1872)に学制が導入され、寺子屋にかわって全国に小学校が設置されるようになった(計画では5万4000近くを予定。しかし明治8年段階で約2万4500校。なお現在は約2万校)。

   市原では明治6年に総社、分目、宮原、深城、廿五里(東泉寺を校舎)、五所、飯沼(龍昌寺を校舎)、島野(三光院を校舎)、椎津、姉崎、田中(今津朝山)、松崎、川在、牛久、皆吉、山小川、佐是、上高根、馬立、朝生原、大久保、月出、西飯給、田淵(…以上はすべて寺院を校舎とする)、高砂(江古田)、鶴舞西、石川、外部田、古敷屋(…以上は民家を校舎とする)、鶴舞東(旧庁舎を校舎とする)の30校が設けられている。翌明治7年は22校、明治8年に6校のペースで設置されていった。

   分目小学校は1873年段階で46人、飯沼小学校は54人、島野小学校は25人、田中小学校は64人といったように、校舎が手狭で授業料が高かったことと女子の入学者が少なかったために全体として少人数の学校が目立った。海浜部では田中小学校の64人が最大規模。最小規模は島野小学校で25人。

 なお市原全体では明治6年段階で最大規模を持つ小学校は鶴舞東小学校の177人。鶴舞西小学校の52人と合わせると鶴舞の教育熱の高さが突出していたことが分かる。小学校の就学率の高さにも「佐倉巡査に鶴舞教師」と言われたような、教育に重きを置く鶴舞藩の影響が顕著にみられる。

 全国の数値では明治8年段階で児童数146万人ほど、就学率は35.4%にとどまっていた。また全国の校舎の4割が寺院、3割が民家だったという(「我が国の学校教育制度の歴史について」国立教育政策研究所 平成24年)。全国と比べても市原は圧倒的に寺院が多いことになる。なお学制の下では下等4年(6~9歳)と上等4年(10~13歳)とに二分されていた。

 

 当初は寺院や民家を間借りし発足した小学校であるが、明治12年の教育令で学区制が廃止され、実態に合わせて町村を基礎に小学校の設置を進めることになった。また初等科3年、中等科3年、高等科2年とされ、初等科は義務化が目指された(ただし明治16年段階で就学率は53.1%に過ぎず)。このため1880年代になると各地の小学校は次第に校舎と校庭を持つ本格的な学校に移行し始める。結果的に学校の統廃合が急速に進められ、永井行蔵氏(謙太郎の三男)は飯沼、分目、海上と三つの学校を転々とすることになった。

 

 

 

 

卒業証書・修業証書一覧(永井家所蔵)

人物

内容

学校・学年

元号・日付

西暦

行蔵

進級

第4番学区飯沼小学校初等科第二期

明治17年4月16日

1884

進級

同中等第初期

明治20年3月21日

1887

進級

分目尋常高等小学校高等小学科第一年級

明治22年3月14日

1889

卒業

海上高等小学校第二年級

明治23年3月26日

1890

清中

進級

千種尋常高等小学校第一学年

明治37325

1904

進級

同第二学年

明治38325

1905

進級

同第三学年

明治39324

1906

卒業

千種尋常小学校卒業

明治40325

1907

卒業

千種尋常小学校卒業

明治43324

1910

三田重馬

進級

千種尋常小学校第一学年

明治41325

1908

進級

千種尋常小学校第四学年

明治44324

1911

ゑつ

進級

千種尋常高等小学校尋常小学校第二年

明治42325

1909

進級

同第五学年

明治45323

1912

卒業

尋常小学校卒業

大正2324

1913

卒業

同高等小学校卒業

大正4324

1915

八重

進級

千種尋常高等小学校尋常小学校第一学年

明治45323

1912

進級

同第二学年

大正2324

1913

卒業

同尋常小学校卒業

大正6324

1917

卒業

村立千種農業補習学校

大正9324

1920

卒業

姉崎農業実科学校卒業

昭和11324

1936

卒業

千種青年学校研究科

昭和16329

1941

 

 明治期は頻繁に小学区の見直しが繰り返されたのだろう。行蔵は小学校に通うわずかな間に飯沼、分目、海上の三つの小学校に通っている。最後の海上は自宅からかなり遠く、相当不便だったに違いない。 彼は大正15年2月17日に49歳で亡くなっている。また進の通った姉崎農業実家学校の校長森田喜一郎は姉崎イチジクを普及させる土台を築いた郷土の偉人。姉崎に彼の頌徳碑が建っている。

 「市原のあゆみ」(昭和48年)によると市原では明治6年から小学校が設置され、多くは寺院に置かれた。明治6年に設置された小学校は30校、内24校が寺院、5校が

民家、1校が旧県庁である。当時の小学校は試験に落第すると進級できず、3回進級できなければ退学させられたようである。このため進級ごとに校印の押された「進級証書」が卒業式の際に進級した生徒全員に渡されていた。

 千種地区周辺では小学校が設置されたのは廿五里、飯沼、島野、田中(今津朝山)でいずれも寺院。市原の小学生は明治6年当時で総勢1858人、うち女子はわずか451人であった。なお北五井小学校と南五井小学校は明治7年に設置されている。明治7年は市内で22校、明治8年には6校設立されている。寺院や民家に間借りした手狭で間に合わせに過ぎない当時の小学校の多くはやがて統廃合の対象となった

 千種尋常小学校(尋常科4年=義務教育、高等科4年)は明治20年(1887)、青柳小と田中小が合併して生まれた。初代校長の鮎川孝一郎は大正2年までの24年近く、校長にとどまっている。明治22年、町村制施行に伴って千種村が発足すると千種尋常小学校は千種甲尋常小学校(青柳、松ヶ島)と千種尋常小学校にいったん分かれた。

 明治25年(1892)、名称がそれぞれ千種東尋常小学校と千種南尋常小学校に変わるが、明治34年(1901)、東と南が廃されて青柳字天王前に千種尋常小学校が設置された。しかし校舎は青柳光明寺、正福寺と今津朝山能蔵院を利用。また児童数増加(この年486名)に伴い、明治37年には白塚徳蔵院に高等科2学級を移している。

 明治40年(1907)、義務教育年限が延長され、尋常科4年が6年となるとさらに児童数が増えた(この年579名)ため、明治42年、柏原持宝院も仮校舎とされた(結局、計5箇所の寺院に校舎が散在)。ついに明治43年(1910)、青柳天王前に新校舎着工の運びとなり、明治44年に完成したが2学級分の教室が不足していたため、正福寺の間借りは続いた。

 すべての児童を一か所に収容できたのは第2校舎が完成した大正5年(1916)のこと。しかも翌年の大暴風雨(「大正の大津波」と呼ばれ、東京湾東岸に大きな被害をもたらした。10月1日未明、台風と大潮がかさなり、高潮が発生。行徳などでは家屋が流失し、死者も出た)で早速、屋根瓦やガラス窓が破損。さらに大正12年(1923)には関東大震災で第一校舎が傾くなど甚大な被害をこうむった。

 なお千種尋常小学校は昭和10年(1935)に千種青年学校が併設された。昭和16年には千種国民学校と改称され、初等科6年と高等科2年、合わせて8年が義務教育化された。戦局が悪化した昭和19年(1944)、能蔵院に55名、持宝院に25名の集団疎開を迎える。昭和20年5月8日、蘇我以南の内房一帯にP51が来襲し、千種村では北青柳に爆弾が落とされた。この時、浜野の本行寺が焼け、五井や川在などでも銃撃を受け、死傷者が発生している(→五井龍善院の戦災地蔵尊、養老小学校の慰霊碑)。

 戦後、昭和22年に千種小学校と改称し、千種中学校が併設される。昭和30年に千種村は解体され、今津朝山、白塚、柏原は姉崎町に、松ヶ島、青柳は五井町に編入されていく。

 

 明治7年発足の青柳小学校(光明寺)と田中小学校が合併して明治20年に千種尋常小学校が成立。明治22年、松ヶ島に千種東小学校が設立されるが明治34年には統廃合されて千種尋常小学校に一本化される。一方、明治6年に発足した宮原小学校と分目小学校は明治24年、海上尋常小学校に統廃合されて現在地に移転している。

 行蔵氏は最初に通った飯沼小学校が明治22年に統廃合されてしまい(廿五里に東海尋常小学校成立)、次の分目小学校は明治24年にやはり統廃合されてしまった。せっかく近くにあった千種東尋常小学校にはなぜか通わず、最終的には松ヶ島からは一里余り離れている海上尋常小学校に通う憂き目にあっている。

※行蔵氏は大正15年、49歳で亡くなっている。養右衛門家に卒業証書や位牌があるので何らかの障害を

 持って生まれたのだろう。独身のまま家を出ることなく生涯を終えたようである。

 

 明治33年、小学校令が改正され、尋常小学校を4年に統一して義務化し、さらに授業料が無償化された。これにより就学率は急上昇して明治38年(1905)には95%を突破し、「国民皆学」の掛け声は30年余りを要してようやく実現されつつあった。しかしそれは「富国強兵」のスローガンを全国民に浸透させることにもつながった。

明治19年に教科書検定制度が導入され、明治23年の教育勅語を挟み明治36年には国定教科書制度が確立する。この後、「立身出世」の夢にあおられて帝国臣民は一体どこに向かって歩かされていくのか・・・

 

 

永井八重「12歳の宿題」

 

 

 

 これは八重が大正5年(1916)の12歳の秋、9月から10月にかけて学校の宿題として教科書の一部を毎日、少しずつ書き写したものの一部である。その都度、日付と天候、そして永井八重の名が記されている。実に丁寧な書きぶりで驚かされる。小学校時代、精勤賞や優等賞を総なめしていた八重の優秀さ、真面目さがしのばれる遺品である。

 14枚が残存しているが、本来はすぐにでも捨てられてしまうはずの小学校での宿題がなぜ、こうして残されているのだろう。

 

 

 実はこれは「大正拾年度金銭出納簿十一月起」と題した横帳の裏紙なのである。出納簿を書いたのはおそらく八重の兄、清中氏。謙太郎が大正7年に亡くなっていて、清中氏の父親信太郎は若くしてとっくに亡くなっているのでまだ若かった清中氏が永井家の当主となり、この横帳を記載したに違いあるまい。

 

※八重の葬式控え帳より

 この控え帳によると八重は大正10年(1921)10月10日午後十一時半、東京の慈恵会病院で息を引き取っている。遺体は早くも翌日、千葉で荼毘に付され、12日に葬式が行われた。病名は記載されていない。小学校時代、毎年のように精勤賞を受けてきた八重がわずか17歳の若さで慈恵会病院において亡くなった・・・翌日、直ちに荼毘に付されたことを考え合わせると伝染病感染による急死が疑われよう。腸チフスや赤痢、コレラ、あるいは当時、世界中に猛威を振るっていたインフルエンザあたりか。葬式等の陣頭指揮にあたったのは永井楊蔵(新宅)氏のようで控え帳の書体は八重の兄清中氏のものとは異なっている。この前後から養右衛門家の家運が急速に傾いていく印象を強く受ける。

 

 では兄、清中氏はなぜ妹八重の小学校時代の宿題用紙を裏にして出納簿を作成したのだろう。しかも5年も前に八重が書いたもの・・・墨は裏側にも浸透してしまい、読みにくくなるのだから、出納簿には新品の紙を使えばいいはずなのに、なぜ?

 八重は大正10年(1921)10月11日、17歳の若さで亡くなっている。幼くして父を失い、自慢の妹だった八重もまた突然の死を迎えてしまった。清中氏の喪失感は大きかったに違いない。彼は妹の遺品を整理する時にこれを見つけ、捨てるに忍びなかったのだろう。この出納簿は妹が亡くなった翌月の11月から記載されている。

 たかが小学校時代の宿題である。兄が生きている間保管できたとしても子孫はどうか。兄が妹の形見の品として末永く残したいと思うなら、保管期間の長い出納簿に再利用する・・・ということは十分、考えられるだろう。

 

 清中氏は敗戦後、農地改革に加えて積もり積もった借金苦の中で次々と田畑を手放し、寂しい晩年を迎えることとなる。