§6.市原の郷土史71.海辺の争い(前編)

 

 

 まずは以下の二つの資料を通じて市原の江戸時代における農業の概要をつかんでおきます。

 

1.「近世市原の農業生産について」深谷克己(早大教授):「地方史研究第16号」

  農業生産に関する近世の文献史料は市内では極めて少ない。今富村の千葉(根本)家の「慶長年中播種帳写」、「戌之年種之帳」(天和2年~明治10年)、不入斗村の名主鈴木家の日記帳(文政8年~)などはそうしたなかで極めて貴重な文献史料である。農書も市内ではまったく書かれておらず、県内でも香取郡松沢村の国学者で村役人だった宮負定雄の「農業要集」(文政9年…商品作物奨励)「草木選種録」(文政11年…海賊版が出るほどに売れたという)の二著が知られる程度に過ぎない。

 おそらく市内は商業的農業が比較的未成熟だったようだ。米以外の作物は大麦、小麦、粟、大豆、菜種、綿、芋、胡麻、大根、黍、稗、小豆などだが、米を除けば記録として表わされるほどの商品性は持たなかったという。麦、粟、稗、黍などは日用と「貯え」のために作っていた。いざという時に備えて富農はそれら雑穀を土蔵に貯え、小前は「箱蔵」(5~6石収納)に囲っておいた。加工作物(大豆、菜種…)ももっぱら自家用に回されていた。現金収入の途を確保して貨幣経済の進展に対応するには基本的に米の売却が重要であった。米の多品種栽培の実態(千葉家資料)は年貢米生産の域を越えて多種多様であったといえよう。

※宮負の「農業要集」では「厚利の物」として一つが稲とし、一反で15両以上の値になるとしている。

 また下総の地らしく二番目に「慈姑(くわい)」を挙げ、一反につき14・5両の売上になるとしてい

 る。なお綿は一反で34両ほどにもなるが近世の房総ではさほど栽培は普及していなかったようで、これ

 も自家用に回されていたようだ。

    肥料は人糞尿が近世に入って広く普及し、どの農家にも雪隠が置かれるようになった。また従来の刈

 敷も引き続き利用される他、灰肥、馬屋肥、きさご、干鰯なども用いられるように。特にきさごは市原

 特有の肥料として沿岸部中心に用いられていたと思われる。青柳、今津朝山などはきさごを採取して内

 陸部の農村に「きさご札」の数に応じて分け与えていたらしいが、もちろん無料で分けていたわけでは

 ない。海岸部ではきさごの採取が貴重な現金収入につながっていたようである。

 

2.「近世市原郡農村と貝肥採取―史料と考察」長島光二:「市原地方史研究第13号」

 近世、市内臨海部では田方肥料として小型の巻貝の一種「きさご」(「蚶子」「蚶」「細螺」「螺」などと表記。「きしゃご」と発音されることも)がよく利用されるようになった。「きさご」は養老川や村田川などの、淡水と海水の混じる河口部周辺でよく採れた。食用にもなるが、市内の史料ではもっぱら「田肥」として利用された。椎津、今津朝山、青柳、松ヶ島、玉崎新田、岩崎新田、五井、八幡、不入斗、永藤、深城、片又木、迎田、町田、平田、出津、飯沼で利用が確認できている。肥料としての効用は「干鰯」と同じで、田植え直前に施す、速効性肥料であった。

※同書の「近世市原の稲作生産と地主経営の展開―今富村千葉家を中心に―」(下重清)によると田一

 反につき「きさご」2~4駄と自給肥料20駄前後を併せ用いるのが平均らしい。自給肥料としては苅

 敷、土肥、厩肥、下肥などが用いられた。今富村には秣場が20町歩、百姓山が57町歩ほどあって苅敷

 は自給できた。また家数87軒で馬43頭所持しており、飼い馬の存在は「駄賃稼ぎ」と厩肥に役立って

 いた。

  青柳村では山稼ぎが皆無なので「浦稼ぎ」への依存度が高く、金肥として売ることも可能な「きさ

 ご」は重要な資源であった。このため海岸部で隣接する五井村と今津朝山村とは「浦境」や採取権を

 巡って神経質なやり取りが続いている。特に玉前新田や岩崎新田の成立によって競争が激化すると

 「きさご」などの用益をめぐる争論が多発し、幕府評定所に持ち込まれるケースもあった。きさごの

 採取権は「きさご札」「たぶ札」(「たぶ」とは採取に用いる道具のこと)と呼ばれる札が名主から

 配布されることで確保されたが、とりわけその枚数(一人一枚というわけではなかったため、名主の

 恣意的配分が疑惑や不満を招きがちであった)と配分をめぐって争論が頻発した。またこの札自体が

 売買の対象ともなっていった。

 

3.青柳vs.松ヶ島

 ・ 松ヶ島村草創期

 「松ヶ島漁業史」(昭和51年 落合忠一)によりますと戦国時代の末期に三河の浪人永井平馬らが養老川の氾濫原であった松ヶ島の開発に乗り込んできたようです。当時の松ヶ島は湿地帯と松の生えた低い砂丘とが入り混じる、人家の無い荒地でした。

 おそらく開拓者たちは青柳と隣接する一帯から開発を始めたと思われ、この辺りの小字地名を「切込」というそうです。彼らが屋敷を構えたのは村でも一番高い土地で「本郷」と呼ばれています。

 永井平馬はかつて戦国大名の今川義元」の家臣であったようですが、義元が1560年、桶狭間の戦いで織田信長に討たれて以降、今川家は急速に弱体化していきました。一方で徳川家康の勢力が三河の地に拡大していく中で、平馬はまだ若かったと見えて(おそらく20代)しばらく各地を流浪(備前に赴いたという)し、再仕官の道を探したと伝えます。

 斎藤道三に追われた美濃の土岐家及びその家臣団の一部が既に上総にたどり着いていたようで、もしかしたら彼らの伝手を頼りに房総まではるばるやってきたのかもしれません。松ヶ島の草分け百姓9人の内、美濃出身が2人いるのも偶然とは思えないのです。何はともあれ彼が最初に松ヶ島にやってきたのは1570年前後のことと思われます。

 天正8年(1580)に長南武田氏が松ヶ島を領地に取り込み、年貢を課すため家来を遣わし検地を施しました。飯沼龍昌寺の「御改松ヶ島村始り帳」には天正8413日に改めが行われたとあります。そこに以下の草分け百姓の名が記されています。

 

 切立開発人

   飯沼村出身 斎藤庄之介 国吉伝三郎

   浪人 戸田丹後(三河出身) 田中六太夫(出羽出身)

永井平馬(三河出身

   他 斎藤七之介(美濃出身)森平吉(美濃出身

     磯谷左五郎・国橋五郎兵衛・・・二人とも飯沼出身か?

 

 平馬は松ヶ島から一度去り、郷里三河の吉野郷(現宝飯郡御津町付近)に戻りましたが居場所を見つけられずに松ヶ島に復帰。しかし彼は故郷の名を忘れないために永井の姓から吉野に変えたといいます。ただ彼の子孫は幕末維新期になって吉野から旧姓の永井に戻しています。

 永井家の古文書にそれらのことが記されているのです。

 ※以下の史料の解読は辻井義輝先生によるものです。

 

 

 

 

・吉野常利墓偈(巻物)嘉永5年(1856

「上総の国の市原のこおり 松ヶ島といえる村の長を吉野宇右衛門常房という。そがとおつ親(みおや)永井平馬常利は三河の国の人なりしが、さるゆえやありけむ、此処にきて荊棘(けいちょく)を刈り葎蓬(むぐらよもぎ)を払い、かくれが営みしかば同じ心のやから慕いくる者少なからじ。かたみに田をつくり畠をつくり、いつしかかく村里とはなりぬ。後に常利、しばし同じ国、吉野といへる郷にうつりしが、年へてまた松ヶ島にたちかえり、かの吉野を苗字とせり。かくて八十(やそ)まり五年(いつとせ)までながらへ、寛永6年(1629102日、遂に終わりをよくせりとする。今の常房、八十まり一世(ひとせ)のむまたなり。世々この村長として上をうやまい、下をはごこみておこたらじ。これみなとおつ親ののこさる勲(いさおし)なれば子孫の末までもその恵みをつたえまりしとこたい、ことさらに石がみを営むとておのれにそのよし記しきをも にへよときこゆ。

 常房 こころざしをめで おもうままいなみもやらで

   島松の ときはかきはに あとたれし そのいさおしを 

     のこすいしふみ

 かくいけは嘉永5かへうの七月星まつる夕べ 従五位下源朝臣司直記す」

 

※「従五位下源朝臣司直」とは司直は成島司直(なるしまもとなお:17781862)のことで幕府奥儒

 者、歌人。東岳、花隠などと号す。1809年より林述斎の下で「徳川実紀」の編纂に携わり、嘉永2

 1849)に完成させる。朝野新聞などで文明開化を批判した成島柳北の祖父にあたる。

 

 

 

巻物には成島の吉野常利墓偈と同じ内容の漢文も存在し、書いたのは筒井政憲

 

 

 成島、筒井ともに市原の郷土史界隈ではビッグネームであり、永井家の交流の広さを伺いことが出来る。実は宇右衛門の父は眼医者として名を成し、江戸で活躍。その子も学者として江戸で活躍していたことが重要人物との交流の背景にあるだろう。

 

岸氏寿蔵碑

題額は梅澤典(江戸の著名な書家1797~1859)で文は深川元儁(上総出身の漢学者で平田篤胤に国学を学び、蘭学にも造詣があった。1810~1856)。

 

本文

岸光廣、号は一陽、貞吉と称す。上総国市原郡松島

邑長吉野宇右衛門常廣の二子なり。幼くして書を学び、あまねく名家をたたく(それぞれの道に通じた人の門下となる)。もって郷里の師、神谷善臣の家に寓す。善臣、文右衛門と称し、三河国大平の藩臣(大平藩は名奉行と謳われた大岡忠相を祖とする)なり。外桜田の邸に居り、もってその親族、よくその志に資する。梅澤先生において書を学び、韻学を赤城大澤先生において学ぶ。

学業、ますます進み、ついに岸素舩(そせん)の家に婿入りし、書学の師となる。京橋五郎兵衛新田(現八重洲二丁目付近)に住み、皆、その長寿たるを期するも、天知らず、その年を奪う。嘉永6年4月17日、28歳にして没す。岸氏は吉野氏の墓と牛込早稲田町長遠山正法寺に葬られる。一女あり。愛と言う名で三歳、その書学を受け継ぐことを願う。余、同郷であるとともに面識もあるため文を撰し、もって繋ぎ、銘にいわく

「弱冠にして名有り 学に勉め休まず 天その年を奪う 千歳愛を遺す」

 友人 巽齋梅澤敬之書

 門人 神谷悌蔵善功

 同  宇三郎

 岸氏民女

 吉野 相輔

  嘉永六年癸丑四月

 

※嘉永6年は1853年にあたり、ペリー艦隊が浦賀に来航した年でもある。