§6.市原市の郷土史68.

消防組の行方:市原市松ヶ島永井家所蔵品より

 

 総務省消防庁の「消防団の歴史」によると享保の改革で設けられた江戸の町火消は明治維新後、東京府に移管された形を取っている。このため東京府は明治3年(1870)に消防局を設置することになった。しかしたちまち消防事務が内務省に移されたため、東京府内の消防も明治7年(1874)に新設された東京警視庁に移されている。警視庁は同年、「消防章程」を定めて旧来の「鳶人足」の捉え方を刷新し、消防の近代化を図った。消防章程では細かく規則を設けて手当てや補償、進退賞罰などを明らかにし、近代的な消防士としての在り方を初めて示したのである。

 1874年、「消防章程」が制定されると共にフランスからイギリス製の腕用ポンプなどを輸入して機械化を図った。また1880年には長年の消防組の習慣の改善をねらいとして,軍隊式消防隊を組織するために東京警視庁は消防専門職員である消火卒を300人募集している。しかしこうした近代化の動きは東京などに限られ、地方は相変わらず火消人足のままだった。

 そもそも全国的には公設の消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組に過ぎなかった。そこで政府は明治27年(1894)、消防組規則を勅令で定め、消防組を府県知事の管掌として全国的な統一を図った。すなわち府県知事(東京府では警視総監)が消防組を設置し、府県警察部(東京府では警視庁)が指揮監督するものとした。また消防組員の階級は「組頭」「小頭」「消防手」の三階級制とし、消防費用は市町村の負担であった。

 地方によっては消防組の設立が進まずにしばらく停滞していたようだが、大正時代になると警察署の積極的な働きかけなどで大正末には消防組の数は飛躍的に増大したという。

 

 

 

 

 

松ヶ島消防団組織規約:明治42年

第1条:本区は本区民をもって消防団を組織す。

第2条:消防団員は17歳より40歳までをもって団員とす。ただし団員を欠きたる者は 

 戸別一人必ず参集するものとす。

第3条:40歳以上の者は団員を補助し、あるいは自区の守衛にあたるものとす。ただ

 し補助員は区長の指揮に従い、活動するものとす。

第4条:団員中より団長・副団長を互選す。ただし任期は満一か年とす。

第5条:副団長は団長支障あるときは団長に代わり、すべての団員を指揮監督するもの

 とす。

第6条:器械掛り8名を置く。

 (イ)器械主任  2名

 (ロ)筒さき    2名

 (ハ)梯子     2名

 (ニ)高張     2名

 ただし任期は満一か年とす。

第7条:消防器は団長の指揮に基づき、甚だ充分保護し置くこと。

第8条:消防器保管場は平素、みだりに開閉せざること。

第9条:器械は10、11、12、1、2、の五か月間は毎月一面づつ修繕を加え置くこと。

第10条:自区あるいは隣区に火災ある時は乱鐘をもって報ずること。ただし遠方と認

 むるときは二鐘を報ず。

第11条:出発は団員一同整列の上、団長指揮のもとに出発するものとす。ただし急速

 を要するときは団長の意見により、臨機の処置に出ずるものとす。

第12条:団員は申すに及ばず、団外員として理由なく参集せざるときは二十銭の過怠

 金を徴集す。ただし参・不参は出発までに団長へ必ず通知するものとす。万一、通

 知を誤るときは理由の有る無しにかかわらず、過怠金を徴集す。

第13条:理由としては他出、疾病に限るものとす。

第14条:団員にして一回過怠金を徴集せられ、第二回に及ぶときは金一円を徴集す。

 もし三回以上は団員の決議により一区の交際を謝絶す。

第15条:およそ火災を発見したるときは常番をもって各自を呼び起こし、その当時に

 限り、番人は鈴鐘を用ゆること。

第16条:器械洗浄は二組の人員をもって輪番に施行するものとす。ただし一回は出戸

 町より他は順次。

第17条:第16条に違反するときは第14条に照らし過怠金を徴集す。

第18条:火災当時の費用は区長並びに団長交渉の上、その時々各戸に賦課するものと

 す。

第19条:過怠金はその時々貯金し置き、火災に関する予備費に充つるものとす。

第20条:団員はすべて前条項に基づき団長の指揮に応じ活動するものとす。

第21条:団員出火の際、不慮の災害に罹りたる者あるときは区会の決議を経て相当の

 手当てを支給するものとす。

第22条:現場にて理由なく団長の指揮に応ぜざる者あるときは帰区の上、団長・団員

 に報告し、団員の協議により相当の処罰を与ふるものとす。

団長   永井揚造 ※謙太郎の弟で養右衛門家から分家し永井家新宅の初代

副団長  永井 保 ※永井家本家(七郎左衛門家)

機械主任 国吉周次

機械主任 国吉吉平

筒先掛り 斎藤久次郎

筒先掛り 国吉 清 ※消防組団長小頭選挙結果

高張掛り 斎藤喜十郎

高張掛り 国吉多三郎

梯子掛り 国吉房蔵

梯子掛り 斎藤廣二

 

解説

 以下、消防団員57名の名前が列挙されている。さらに消防団外員19人の名前も列挙されている。名前を挙げた消防団の幹部クラスは永井、国吉、斎藤の名字に限られている。彼らはいずれも松ヶ島村の開発に従事した、いわゆる「草分け百姓」の子孫ばかりで、当時も村内では有力な家柄であったと思われる。

 全国に消防組が設置されていったのは1894年からのことであるが、市原のように実際には設置が遅れる地域も多かった。1909年2月、松ヶ島区の消防組が整備されたが、姉崎に設置されるのは10月のこと。翌1910年、市西、五井、牛久に消防組設置。1911年には養老、鶴舞、東海に設置されている。

 おそらく市原郡では先駆けて設置された松ヶ島消防組の規則や組織、会計のあり方が後続の消防組結成時に模範とされ、大いに参考とされたことであろう。なお1912年には松ヶ島消防組の上部組織として千種村消防組が設置され、松ヶ島の組織は「千種村第一部消防組」という名称となった。

 

 

 松ヶ島消防団の初代団長永井楊蔵氏は千種村村長であった謙太郎氏の末弟で、新宅(養右衛門家の新宅)の初代にあたる。松ヶ島消防団発足時の幹部を永井一族の二人が団長及び副団長を務めているということは、消防団設立に関して当時、千種村村長だった永井謙太郎氏の強力な働きかけがあったことを想像させる。消防組関係資料が永井家に数多く伝わっていたのも消防団発足時のこうした経緯があったからであろう。なお永井本家(七郎左衛門家)の跡地には現在、松ヶ島公民館と五井消防団の第十一支部が置かれている。

 

 

解説

 国吉四郎氏と齋藤嘉喜氏の二人が八幡警察署から千種村の消防手に任命されたことを示す。千種村消防組は八幡警察署の管轄に置かれていたことが分かる。個人的に注目するのは元号が大正に変わってから一ヶ月ほどしかたっていないため、「明治」と印字された箇所の上から「大正」印が捺されている点。実はこの年の7月29日に明治天皇が亡くなったばかり。「明治」と印字されたお役所の用紙がこの当時大量に残っていたはずである。昭和から平成に変わった直後の官公署における混乱ぶりと押印の煩雑さを思い出してしまった。もちろん、現在も平成から令和への変更のため、高校では調査書や指導要録等の元号の箇所で訂正印と「令和」印が大活躍していた。

 またこの任命書が今は懐かしいガリ版刷りであることにも注目したい。謄写版はかの発明王エジソンが1893年頃に発明したミメオグラフを日本人の発明家が改良して明治27年(1894)に発売されたものが原型となるという。印刷紙を鉄筆で記すときに「ガリガリ」と音をたてることから通称「ガリ版」と呼ばれ、安価で簡便な印刷方法として広く企業や学校などの官公署に普及していた。日本では何と1980年代まで利用され続けていたらしい。個人的には50年ほど前、五井小学校6年の時に学校の印刷機の具合が悪いので五井中学校まで行かされて確か交通安全員会関係の印刷物をガリ版で印刷した記憶が残っている。

 

 

火防組合設置届及び火防組合規約:大正2年(1913)8月

 千種村第一部消防組 火防組合設置届

 一組合の名称 市原郡千種村松ヶ島火防組合

 一組合の区域 市原郡千種村松ヶ島一円

 一組合員数  六十人

 一組合の役員

   組合長 和田三郎 副組合長 齋藤亮

   幹事 国吉清 積田恭

 一組合の事務所 市原郡千種村松ヶ島

  右火防組合を設置候については火防取締規則第五十条により別紙規約書相添えこ

  の段及びお届け候なり

   市原郡千種村松ヶ島二百一番地

   大正二年八月七日  右火防組合長 和田三郎

   八幡警察署長 警部 足立淳之助殿

火防組合規約

第一条 本組合は組合員共同して明治四十二年十一月千葉県諭告第二号及び火防取締

 規則を実行し火災を予防するをもって目的とす

第二条 本組合は現住の戸主に代わるべきものをもってこれを組織す

第三条 本組合は千種村大字松ヶ島の区域によるものとす

第四条 本組合は千種松ヶ島火防組合と称す

第五条 本組合事務所を千種村松ヶ島    番地に置く

第六条 本組合に左の役員を置く

 組合長一名 副組合長一名 幹事二名

 前項の役員は組合員においてこれを選挙しその任期は二カ年とす

第七条 組合長はその組合において第一条の目的を達するに必要なる勧誘をなすもの

 とす

 

 以下、省略します。

 

火防取締規則 千種村第一部消防組 大正二年(1913)八月

 火防取締規則

第一条 家屋または建物の屋根は瓦石金属その他不燃質の物をもって覆葺すべし

第二条 覆葺をなさんとする者は左の事項を具し工事着手前所属警察官署に届け出づ

 べし(ママ)

一 住所氏名 二 建物の位置 三 建物の種類及び新築・改築・増築または屋根の

 改葺の区別 四 覆葺すべき屋根の面積 五 屋根に用うる不燃質物の種類 六 

 工事期間

 前項の届出をなしたる者その工事を竣(おわ)りたる時は五日以内に所轄警察官署に届出て屋根の検査を受くべし

 

 以下、省略します。

 

 

 

 

 

 ガリ版刷りのプリント4枚からなる。誤字がいくつか見られ、朱で訂正されている。おそらく上からの指示を受けて急いで印刷されたのだろう。戦時中の粗末な印刷物は

捨てられることが多いと思われ、これも80年以上の歳月を生き残った貴重な資料の一つ。内容から見てまだ本格的な空襲が始まっていない時期のものであろう。

 もしかしたら昭和8年(1933)に行われた「関東防空大演習」の際のものかもしれない。昭和14年(1939)に「警防団令」によって消防組は警防団へと改称されており、このプリントではまだ「消防組」の名称が使われている。従って少なくとも昭和14年以前のものであると推察される。

 

1.帝都(東京)防空の重要地帯として我が千葉県は地理的に見てまさに第一線にある。敵国が帝都・横浜・横須賀を上空より襲撃するには第一に本県の片貝、第二に銚子、第三が木更津より襲来するとのことである。従って本村はこれが対策として村民一致、常に防空の訓練統制を怠らず、一朝有事の際に機敏に事態を処理しなければならない。本村の防空施設は積極的方法と消極的方法との二つに区分する。図に表すと左(略)のごとし。

 

2.役場

 村長は防空委員長、助役は防空副委員長、兵事主任(は)防空主任となり、各書記は係員となり、警察より空襲の通報あれば警鐘を打ち各部落に急報す。

 備考 委員長・副委員長は各委員と連絡をとり村内各部落の巡視をなす。

3.小学校

イ.児童に防空に関する知識を教え、平素防空その他の訓練を重ねて国民防空の完備を

 期するは焦眉の急務なることを常に講演せしむ。

ロ.尋常5年以上の小学生をして少年防空隊を組織し、少年防空監視員となり、夜は9時

 頃まで灯火管制等に従事せしむ。

4.区長   その部落の防空主任となる

 その区における防空主任となり在郷軍人団、消防組、青年団、女子青年団、防空少年団を指揮して防空監視、灯火管制、防火救護、防毒警護 その他の監督をなす。

5.在郷軍人   警護班 駐在巡査主任となる

 在郷軍人は千種村駐在とともになって活動する。

 灯火管制が行われ、村内は闇となり、この際暗夜を利用する不逞の徒が種々の不祥事を計画実行なし、各種の犯罪行為がややもすると行われると村民が不安と恐怖にかられ、秩序が乱れがちになるを取り締まる。その他流言蜚語を役場は警察にその真否を確かめ、いやしくも何ら根拠なき宣伝等に迷わされぬよう、厳重に取り締まる。

備考 分会長・副分会長は委員長とともに各部落を巡視す。

6.消防組    防火班灯火管制をつかさどる。

 消防組は出動準備をなし、もし爆弾を投下せられ、火災起こらばこれが防火に従事し、また在郷軍人と協力して灯火管制を実施する。灯火管制を警戒管制と非常管制とに区分する。

警戒管制   いやしくも上空に対し発見せらるべしと認むる光は厳重に遮蔽隠蔽を

 命じ、取り締まる。

非常管制   敵機来襲の通報とともに灯火の消滅または遮蔽隠蔽を強制す。

7.青年団    救護防毒班となる

 青年団を救護班、防毒班との二つに区分する。

イ.救護班

 空襲により建築物が破壊されて火災が起こり、そのうえ毒ガス等を投下され、そのため死傷者や染毒者を現地で応急手当をする。また救護所へ運搬する。あるいは罹災者を救い出す等の重要なる任務に従事する。

ロ.防毒班

 防毒班は各受持ち区域を巡回してガス攻撃を受けたるときは迅速に警鐘をもって村内に知らせ、一般通行人を散毒地の風上か一定の避難所に避難させる。しかして村民をして勝手に行動をせざるよう、安全なる場所に避難せしむ。

8.女子青年団   治療班となる

 救護班により運搬せられたる患者看護および家族との応対または外部との交渉その他部内各種の雑用等の作業に従事する。

注意

 救護所は空襲に対し、できうるだけ安全なる所に設け、かつ小さくてもよいから数か所に設ける。

9.漁業組合

 空襲の報あらば警鐘を打ち鳴らし漁船に通報して灯火を消さしむ。

10.本村の国民防空について

 本村において非常変災に備ふるため、千種村防護団を組織し、村長は千種防護団長となり、千葉連隊区司令官、千葉県警察部長を顧問となし、各区に防護支団を設け、区長はその支団長となり、団員に在郷軍人、男女青年団、消防組、少年団をもって組織し、各団は警護班、防火班、救護防毒班、監視哨班、治療班の五班に編成し、各その任務を担い防空上の知識を研究普及し、かつ実際的訓練を積んで有事の際、各当面の防空に当たる。

 実際的訓練には毎年3月10日、陸軍記念日に防空演習を施行し千葉連隊区司令官を招請して防毒治療その他の講習会を開催して男女青年団を訓練す。

 

 

 戦時中になると国家総動員体制のもと、軍部はこうした防空演習、防火演習(バケツリレー等)、防空壕への退避訓練等を繰り返すことでかつては村々の自治的な組織でもあった消防団を警察や在郷軍人会などを通じて強い統制下に置き、先々本土決戦に備えた非常時の軍事力としても組み込もうとしていたようである。

 昭和8年(1933)に実施された「関東防空大演習」に対して桐生悠々(1873~1941)は主筆を務めていた信濃毎日新聞の社説(1933年8月11日)において既に以下のような批判を加えていた。

 「・・・将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返される可能性がある。
 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである・・・」

 

 この指摘は1945年の東京大空襲(皮肉にも陸軍記念日の3月10日)を頂点とした12年後の悲劇を予言したかのような、先見の明に満ちた内容であった。しかしこれに反発した長野県の在郷軍人会らが信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、桐生は9月に退社のやむなきに至っている。その後、桐生はこれにも屈せず、「他山の石」などを通じて日本の軍国路線を批判し続け、太平洋戦争開戦の直前に以下の言葉を残して喉頭がんで死去する。

・・・さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が(中略)時たまたま小生の痼疾(こしつ:持病のこと)咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。

昭和十六年九月 日 他山の石発行者 桐生政次

 

 

 

 

 

 

 永井家所蔵の消防組関係資料には明治末期の消防組結成時における規約や備品購入記録など、現在の消防団の原点となる記録が含まれる。大正時代には規約がさらに整備され、消火活動だけではなく、防火活動にも力を入れるようになっている。また大正デモクラシーの時代らしく、消防組の役員は選挙で決められていたことも分かる。

 しかし昭和に入り、国全体に戦時色が強まると消防組の自治的組織としての性格は急速に薄れていき、上意下達を旨とする軍隊的な組織に変質していく。

 ガリ版刷りの「千種村防空演習実施計画」には毒ガス弾の攻撃に備えた訓練も含まれており、地域の消防組織が国家的統制を強く受けて国家総動員体制下に組み込まれていく様子が見て取れる点で、極めて貴重な資料であろう。