§6.市原市の郷土史70.ある兵士の死

 

 

松ヶ島涼風庵~戦没者一覧~

氏名

年月

場所

享年

吉川貞夫

1939年8月

ノモンハン

24才

永井栄吉

1946年2月

シベリア抑留

36才

落合建吾

1945年4月

ルソン島バギオ

27才

齋藤禧増次

1945年3月

硫黄島

37才

国吉吉二郎

1944年8月

ニューギニア

24才

齋藤春雄

1946年1月

中国湖南省

30才

齋藤重夫

1944年5月

ミレ島付近で負傷後

19才

永井 進

1944年9月

ニューギニア

24才

齋藤六雄

1944年11月

レイテ島

24才

和田 武

1945年7月

浜名湖で艦砲射撃により

21才

国吉松生

1944年7月

マリアナ方面

23才

国吉長吉

1939年6月

中国江蘇省

23才

齋藤久雄

1944年8月

中国湖南省

23才

※他に日露戦争での戦病死者が二人(齋藤久太:1904年8月、旅順・鶴岡政雄:1904

 年10月、広島で病死)

 

・永井進氏の遺品

 

 

 

 

 清中氏の長男で将来を嘱望されていた進氏は昭和19年9月に太平洋戦争の激戦地ニューギニアにおいてマラリアに罹り、24歳の若さで亡くなった。彼の遺品として姉崎農業実科学校卒業証書(昭和11年)、青年学校研修証(昭和16年)、青年学校時代の表彰状(昭和16年)、徴兵検査における「壮丁及父兄の心得」(昭和19年)、「メモ帳」等が残されている。そのすべては公開できないが、上官からの手紙や立派な追悼文から察するに彼が生前、上官から相当可愛がられ、その死が強く惜しまれていたことは容易に想像できる。

 

 

 

・ニューギニアでの戦い

 進氏が戦病死したニューギニアは「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたように太平洋戦争においては過酷を極めた激戦地の一つであった。島全体でおよそ20万の兵員が送られたが生還できたのは約2万名で一割程度に過ぎなかったという。「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木茂(本島に近いニューブリテン島ラバウル)や俳優の加東大介(本島)が出征した地でもある。東方には「餓島」といわれたガダルカナル島があり、大戦末期、南太平洋の島々の多くは地獄と化していった。

 島としてはグリーンランドにつぐ大きさで世界第二位。日本の2倍もの面積を誇るが4000~5000メートル級の山脈を除くと土地のほとんどは熱帯雨林か低湿地であり、人口密度は1平方キロメートルに2人程度。このため食料等を現地調達にたよる日本軍は食料不足とマラリア、デング熱、腸チフス、赤痢などの熱帯性感染症に悩まされた。耐えがたい飢餓にさらされた日本軍はネズミやヘビ、昆虫、雑草まで口にしたという。さらには原住民を殺して食べたとの証言もあった。実際に「原住民を殺して食べたら処刑する」旨の命令を出した部隊もあったらしい。

 

 連合軍はアメリカ軍、オーストラリア軍を主力とし、D.マッカーサー大将が指揮をとった。進氏の属した第18軍は、1943年2月末にラバウルから兵員7200名余りを載せ、輸送船8隻、駆逐艦8隻でニューギニアのラエに向かった。しかしダンピール海峡で空爆を受け、輸送船8隻、駆逐艦4隻が沈没し、兵員の半数(3600名)を失った。

 2400名はラバウルに帰着し、ニューギニアのラエに上陸したのはわずかに800名ほどという。1944年4月、ラエからセビックの低湿地帯を通過してウエワク方面に西進。7月アイタペ戦で1万名以上を失う。アイタペ戦はウエワクに集結していた3万5千余の将兵を養うだけの食料がなかった日本軍にとって「口減らし」の目的を持った絶望的な作戦であったという。進氏はこの年の9月30日、ウエワクの西、カラツプ付近でマラリアのため24歳で亡くなってしまった。

 マッカーサー司令官はフィリピン奪還を最優先し、ニューギニアに対しては主たるポイントのみを攻略する「飛び石作戦」をとったため、1945年になると陸上戦は沈静化していった。第18軍はウエワク周辺に取り残されたように散在して孤立したまま潜伏を続け、自給を余儀なくされた。このため戦闘は鳴りを潜めても病死、餓死するものが跡を絶たなかった。

 なお敗戦後の翌年9月、第18軍司令官安達二十三(はたぞう)中将は「10万余の枯骨を残して生還するあたわず」「人として堪え得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求」したことへの謝罪を記した遺書を残して自決している。

 

 

・色田久麿氏書翰:昭和21年2月(日付不明)

 まずはその要旨を以下に紹介する。ただし読みやすくするためカッパが多少、手を加えているので原文のままではない。また色田氏の体調が思わしくないためか、筆跡が少し乱れた箇所があり、字も小さく、一部判読に困難を覚えた。カッパが誤読している可能性もあるが、なにとぞご寛恕いただきたい。

 

 「・・・小生、進君の小隊長として3年半余りニューギニアにいた者です。今般、大命により敗戦の汚名を負いつつも復員致しました。大戦中は種々絶大なるご支援にも拘わらず何らのお役にも立たず帰還致し、恥ずかしくも申し訳ない限りです。今は病床に伏しているため(復員後)早速お手紙差し上げるべきでしたが(遺族の方々の)お嘆きを思うと何としても筆をとることができないまま今日に及びましたこと、幾重にも謝罪申し上げます。

 (ニューギニア遠征)部隊編成以来、小生のもと、伝染病が蔓延する地において勇猛果敢に任務を尽くしてくれた進君も昭和19年5月、最後の決戦、猛濠作戦に参加して以来体を痛め、病勢快方に向かわず、同年9月、マラリア再発致し、軍医、戦友の看護の甲斐なくついに30日、永眠されました。

 思えば残念で残念で涙が止めどなく流れます。殊に薬物が十分にあればこのような病気で死なずとも、と思えばなおさらのことであります。

 小生の病気は逐次、快方にむかいつつあり、この分では本月末には退院できるのではないかと思っております。退院次第、すぐに参上し、詳細をご報告かたがた墓参つかまつりたく存じております。まずは報告かたがたお詫びまで かくのごときに御座候・・・」

 

 生き残ってしまった者のぬぐいがたい罪悪感、しかも上官として部下を守り切れなかった不甲斐なさ、悔しさ・・・万感の思いがにじみ出てくる文面である。遺族だけが戦後、辛い年月を送ったわけでなかった。色田氏の戦後も過酷な日々があったに違いない。

 

 この手紙を読むと黒澤明監督の晩年のオムニバス映画「夢」(1990年公開)の中の「トンネル」と題したシーンが思い浮かぶ。

 

 一人生き残り復員した元小隊長が部下たちの遺族を訪ね回って歩く。その途次、彼は人気のない山道にさしかかるがトンネルの中から伝令犬が出てきてうなり声を発して威嚇してくる。追われるようにして入り込んだトンネルの暗がりの中を進む内に背後から行進する軍靴の音が響いてくる。

 出口付近で恐る恐る振り返ると部下の一人が立っている。彼は悲しげに尋ねる。隊長殿、私は本当に死んだんですか・・・

 彼の背後に戦地に残してきた隊員たちがズラリと全員整列している。顔が皆、異様に白い・・・

 

色田中尉の兄の手紙 要旨:昭和21年1月28日

※色田中尉は日本に帰国後、重病患者としてしばらくの間入院してしまったため、部下であった進氏の

 戦死を知らせる手紙を兄が代筆している。ただし久麿氏は翌月には書翰を清中氏に送っている。色田

 兄の手紙は他にも三通(昭和18年7月、昭和19年2月、昭和21年4月)残っている。

 

謹啓

・・・時候の挨拶 略・・・ニューギニア遠征部隊の動静を昭和19年4月に柚原中尉(戦時中から永井家と交流が有り、書翰が2通残っている)が戦況の不利を伝えて以来、音信不通となっていましたが、去る16日(昭和21年1月16日)、浦賀港に猛部隊の復員兵が到着。愚弟、たちまち国立病院に入院することになりましたが一週間後、面接の機会を得てようやく隊員の消息を聞き知ることができました。

 永井進上等兵は愚弟の従兵としてよくつくしてくれ、ことに昭和19年2月からのマダンよりウェワクへの転進では密林の中、約百里の行程、五十日近くを食糧不足に直面しながらも無事、ウェワクに到着できました。その後のアイタベ、ホーランディア作戦にも元気に参加していましたが、ついに心身疲弊の極地に達し、病魔に打ち勝てず、昭和19年9月30日、ウェワク付近の軍司令部が置かれた猛錦山において「戦病死あそばされ候。」本国との交通途絶既に一年、ようやく物資も欠乏の度を加え、軍医の手厚き看護もついに「病魔を克服しえざりしにこれある由に候。」

 万死に一生を得たる者、隊員中わずかに八名、当時の状況を上官が詳しくお知らせすべきところ、愚弟、中隊唯一の生存将校ではあるものの病床にあるため、私がご遺族への通知を依頼されました。ご令息を異郷の空に散らせ申し候事、言葉もなく、本来、直接お尋ねして申し上げるべき所、失礼ながら「書面にてお知らせ申し候。

 ここにつつしんで進殿のご冥福を祈り申し上げ候。」

敬具

  一月二十八日 

        色田中尉

           兄 色田(まさ)() 拝

 

 

ねがわくば来たり、饗けよ:色田中尉による進氏への追悼文

 

 

 

※以下、カッパが読みやすくするため、片仮名を平仮名に改めるなどの改変を加えている。従って原文

 とは若干異なる表記となっている。

 

謹んで故陸軍上等兵永井進君の英霊に告ぐ

 回顧するに昭和17年11月、第18軍司令部の編成せらるるや、君は多数先輩戦友中より特に選抜せられ、軍司令部管理部隷属衛兵勤務を命ぜらる。爾来(じらい:それ以後)、常に軍司令部と共に遠く南海に派遣、南太平洋作戦或いは猛濠作戦に従事し、激烈なる熱帯地方戦闘に参加し、その功少なからず。殊に勤務に際しては日夜精励、その職に尽瘁(じんすい:全力を投じて没頭すること)、常に身を挺して軍人たるの本領を発揮し、衆の模範たり。戦陣二カ年多く小官(=色田氏)の身辺に近く在りて事些細となく援助補佐せられ、小官の浅学短才にして過誤なく任務をまっとうし得たるは偏(ひとえ)に君が熱烈なる援助に負う所多大にして感謝に堪えざる所なり。

思うに大命(に)依(り)昭和19年1月、マダンより転進を命ぜらるるや、小隊員全員一致協力、胸を没する沼沢、橋なき激流を横断、昼なお暗き密林等、南海熱帯の瘴癘(しょうれい)の地(特殊な気候や風土によって起こる熱病などが発生する土地の事)にわずかに携行する糧秣(=食糧)をもって彷徨(ほうこう:さまよいあるくこと)一カ月余。万死一生を経、全員無事目的地に集結することを得。次期作戦に資する所多大なるものありしが、まったく本土と隔絶。補給の杜絶(=途絶)せる遠征軍に対する不利、漸次増加せられ、戦況の不利を招来し、君、また猛濠作戦に従軍し、激烈なる戦闘に身心の疲労はなはだしく、不幸病魔の犯す所となり、遂に再び起つあたわざるに至れり。

 今次帰還者、中隊員(平均150人ほどの部隊)中、わずかに8名を数うる状をもってして当時の状況を察し得べく、追憶するの情に堪えざるものあり。嗚呼、君の温和明朗にして正真誠実、誠に模範的なる人格は畏敬に無限の親しみに堪えず。当時の風貌、今なお彷彿として眼底にあり。しかるに今や南海の異境に散華し、再び声咳に接することあたわず。まことにまことに追憶の情切々として胸に迫るを覚ゆ。今、小官、敗戦の祖国にありて親しく君が生家を訪ね、君が復帰をひたすらに希望せん、親しくご両親に接し、ただただ感慨無量なるものあり。

 今や敗戦祖国の現状は荒廃の惨状、なかんずく、人心道義の頽廃(たいはい)、国をおおわしむるものあり。祖国平和日本の復興建設は君が熱烈なる精神と清純玉のごとき人格を継承してはじめてその完成を期し得らるべきを憶うとき、身は南海に埋むといえども君が精神は永遠に皇国護持の礎(いしずえ)として、はたまた祖国再建の柱石として生くるや必せり。君もって瞑せよ。

 ここにうやうやしく哀悼の意を表し、英魂を弔う。ねがわくば来たり、饗(う)けよ。

 

 昭和21年3月10日 第18軍管理部隷属衛兵

                     陸軍中尉 色田久麿

 

 

・U少佐の書翰:昭和19年6月22日

 達筆で読みにくいが前半は清中氏に対して過日、色田宅とU宅に訪問してくれたことへの感謝の言葉と伝聞ではあるが進氏がニューギニアにおいて元気で頑張っている様子等を伝えている。

 後半が興味深い内容。勝手ながら十円同封したので海苔を送ってほしい、なおシラスボシあるいは干物もできれば総計で10円の金額に収まるよう送ってほしい旨が記されている。さらに追伸でジャガイモ、大根、カブ、落花生も心当たりがあれば・・・とある。

 昭和19年6月ともなると食糧不足が東京ではかなり深刻となり、陸軍少佐という本来ならば恵まれた地位に有りながらもこれらの品々が手に入りにくくなっていたことが分かる。

 しかしここまでくるとプライドの高い軍人からすればかなり勇気の要る露骨な「おねだり」であろう。相手が親類ならともかく部下の家族に過ぎないのだからけっこう図々しい感じがしてしまう。

 上官がその地位、肩書きを利用して部下の親に「おねだり」している、と思われても仕方あるまい。たとえ代金のようなものを同封してあったとしても、どこかしら腑に落ちない感覚が残ってしまう。

 ただ戦後になって昭和21年、所属部隊の慰霊祭が行われた時にU氏が色田氏とともに将校として律儀にも参加していることを考えると、U氏、人としてそれほど悪い人ではなさそうであるが・・・