§6.市原市の郷土史66.古墳と万葉集

阿須波神社:297号線側から来るとどこに神社があるのか、分かりにくい

 

「房総と万葉」(加倉井 只志 千葉日報社 1977)より、市原の部分を抜粋してご紹介いたします。

 

 「万葉集」には房総の歌として東歌(巻14)と防人歌(巻20)がまず挙げられる。さらに髙橋虫麻呂(巻9)や山部赤人(巻3)の作品がある(これは略)。

 

 景行天皇(第12代)の40年(西暦150年前後)のこと。東夷が頻りに背くので日本武尊が吉備武彦と大伴武日連を従者として東征することになった。尊は伊勢神宮で倭比売命から天叢雲剣などをもらい、相模では国造に騙されて焼き殺されそうになったりした(このとき尊はもらった剣で草を薙ぎ、窮地を脱したのでやがて剣は「草薙剣」と呼ばれるように)。

 逆に火打ち石で火を放ち、国造らを焼き滅ぼしたため、「焼津」という地名が生まれた。さらに相模から走水の海(浦賀水道あたり)を渡ろうとしたが海の神が波を立てて船が前に進まずに立ち往生してしまった。そこで妃の弟橘比売命が入水して海の神の怒りを鎮め、命らは無事に総国に渡る事が出来た

 そのときに弟橘比売命が歌った歌…

 

「さねさし 相武の小野の 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

 

※「古事記」での記述

  日本武尊が東征の折、相模から走水の海を渡って房総へ赴こうとしたところ海が

 荒れに荒れて、舟に乗った一行は進退窮まってしまった。そこで日本武尊の妻、弟

 橘姫は海の神を慰めるために身代わりとなって入水し、無事に一行を房総の地に到

 達させたという。「古事記」には弟橘姫の櫛が海辺に漂着し、それを祀ったことが

 記されている。

  日本武尊は第12代景行天皇の三男として生まれたが、父の言いつけを破った一つ

 上の兄をつかみ潰して手と足を引きちぎり、薦に包んで投げ捨ててしまったという

 くらい、怪力の持ち主であったという。父である景行天皇は自分の子でありながら

 その猛々しい心に恐れを抱き、日本武尊に休む間も与えず、大和政権の支配拡大の

 ために戦の旅を続けさせたことになっている。東征の帰途、彼は結局、大和に帰り

 着く直前で病に倒れ、伊勢で亡くなった。その魂は白鳥となって天にかけ上ったと

 いう。

  房総における日本武尊の伝説は以下のように内房を中心に分布している(「千葉

 県史」より)。富津市西大和田には漂着した弟橘姫の櫛を祀る吾妻神社がある。そ

 の地の伝承では吾妻の名は日本武尊が当地を来訪した際、「ああ、吾が妻よ」と嘆

 じたことによるという。木更津市吾妻にも弟橘姫の袖を祀ったと伝える吾妻神社が

 ある。また尊が近くの太田山から走水の海を望見し、姫を慕うあまり、当地を去り

 がたくなった。そこから「君去らず」という地名が生じ、木更津と記すようになっ

 たとも伝える。こうした伝承はおおむね記紀の記述に沿って成立したことがうかが

 える。ただし「吾妻」という言葉は尊が足柄の峠で三度「吾妻はや」と嘆いたこと

 によると「古事記」では記している。

  このほか富津や木更津には尊が鹿野山に向かい、鬼を討とうとした伝承が残され

 ている。富津の鬼泪(きなだ)山は尊の武威に恐れおののいた鬼が涙を流して許し

 を請うた山だという。茂原市真名(まんな)ではこの地を通過した尊が道のほとり

 の清水を飲み、「天の真名井」と名付けたことが地名の由来とされている。また茂

 原市本納では尊が東方に飛んでいく白鳥を見て、その止まった地に弟橘姫を祀った

 橘神社を創建したという。

  下総では船橋周辺に尊の伝承が多く残されている。木更津に上陸した尊はそこに

 行宮(あんぐう)をつくり、葛飾野の敵と戦ったが、相手は容易に服従しなかっ

 た。しかも日照りが続き、苦戦したため、尊は雨乞いの儀式を行い、雨を降らせて

 敵を退散させた。ところが雨は降り続き、ついに洪水となって尊一行は行宮に帰れ

 なくなってしまった。そこで尊は舟を並べて橋をつくることを思いつき、無事に行

 宮に帰りついたという。これが船橋という地名の由来であるとされる。ただ「古事

 記」では房総に渡った尊が弟橘姫の櫛を祀った後のことは「あらぶるえびすどもを

 屈服させ、あらぶる神々を平らげて東の果てをきわめた」と簡潔に記しているのみ

 である。おそらく房総の人々は誰もがこの古事記の簡潔な記述に飽き足らず、悲劇

 の英雄日本武尊のイメージを膨らませて地元の地名や神社の由来を語ろうとしたの

 だろう。

 

 東歌は総数230首。上総、下総、常陸、信濃、遠江、駿河、伊豆、相模、上野、下野、陸奥十一か国。巻頭の歌は・・・

 

 「夏麻(なつそ)ひく 海上潟の沖つ渚(す)に船はとどめむ さ夜ふけにけり」

 

 加倉井氏は海上の洲を今の谷島、島野あたりに地名と地形から想定している。

大意「この辺りが海上郡の、遠浅の海の沖であろう。この沖の洲に船を泊めようかな。夜が更けてしまったから」

 作者は不詳。巻7の「夏麻ひく 海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど 君は音もせず」(1176)と類似している。

 

 加倉井氏はこの二つの歌に対して「類句を組み合わせて、次から次へと歌を作り替えていくところに民謡らしい、軽みとペーソスがあるのである。ところが、歌垣といわれたり、「かがい」といわれている場所で、夜中、多くの男女が解放感を味わいつつ、踊りながら歌い合うという言葉の磨き合いを経ているので、大変調子がよく滑らかである。しかも昼間、個々の口からは言えないことを、篝火の暗い照明の中で大勢に混じってなら、思い切って何でも言えたということもあって、庶民の生活や感情が、素朴な言語で表現されているという長所を持っている。(宮廷に入って「大歌」となった時に、正調化されたことを忘れてはいけない…)」(P.29)という大変興味深い、解説を加えている。

 

 防人(さきもり)の歌として取り上げられた巻20の100余首は天平2年(730)から天平勝宝7年(755)の間、防人に東国の兵士を充てていた期間に作られた歌。採録されたのは天平勝宝7年の2月。

 大伴家持は兵部省の役人(少輔)として防人の輸送計画に携わっていたようである。難波から船出するまでの18日間、千人ほどの兵隊たちから100首余りが集められたと考えられる。上総出身者だけでおそらく100人ほどいたと思われる。当時の上総国守は万葉歌人で知られる大伴旅人の弟稲君(公)で彼もまた歌人として知られていた。彼は家持の叔父にあたり、おそらく防人歌の採録には家持と稲君の二人が大きな役割を果たしたに違いない。また家持と幼馴染の大原真人今城も上総大掾であり、しかも上京していて家持に会うため、難波に出向いていた。今城も9首、万葉集に歌が載せられており、上総国庁には歌の作れる官人が多かっただろう。防人らの歌を筆録した茨田(うまだ)連沙弥麻呂という地元出身の少目もそれなりに歌の心得があったに違いない。

※なお宝亀5年(774)、家持も上総国守となっている(左京大夫兼任)。

※房総は5~6千年前の縄文海進期、複雑な入江に富むリアス海岸を各地に形成し、

 辺を眼下に臨む台地の縁辺には数多くの貝塚が築かれた(市内の菊間、国分寺台、

 市原、姉崎、佐是等ではこうした地域に環濠集落が営まれ、やがて古墳が築かれ、

 神社が設けられ、中世には城郭が築かれることもあった。いわゆる遺跡のホットス

 ポットになっているのが台地の縁辺)。

  市原市北部の沖積平野部は当時、ほとんどが海であったと思われる。しかし現在

 の状況からも分かるように複雑な入江を有していたとはいえ、かなりの領域が遠浅

 の海であったはず。したがって現在、沖積平野である場所でも微高地には稀だが貝

 塚が築かれたケースがあり(京葉高校近くの野毛法泉寺墓地等)、沖積平野部のす

 べてが海底に没していたわけではない。

  また郷土史家の高橋在久氏が指摘するように当時の海岸線からやや沖合に川など

 からの土砂が次第に堆積し、海退期(4500年前~)には「沖つ洲」が形成されてい

 ったようである。この洲によって海上潟(うなかみがた)が姉崎に形成され、古代

 においてもしばらくその景観が残されていたと考えられ、前述したように「万葉

 集」には海上潟を詠んだ歌二首が残されている。

  同じく高橋氏は市内では珍しく平野部に築かれた二子塚古墳(全長110mの前方

 後円墳で千葉県では9番目の大きさ)が、浅瀬に乗り上げることを避けるべく沖で潮

 待ちする船のランドマークとしても機能していたと考えている(「房総遺産」高橋

 在久 岩田書院 2004)。

  こうした洲の一部は寒冷化によって海進期が終わり、海退期が始まると一部が帯

 状の微高地になったと考えられる。発掘調査の報告書では砂堆列などと記される微

 高地がほぼ現在のJR内房線の線路に沿って五井と八幡との間をときおり小河川に

 よって寸断されながらも続いている。この平野部における帯状の微高地は古代、東

 海道として利用されていたのでは…という推測がある。実際、この微高地には小規

 模ながら古墳が点在していることが近年、確認されつつあるなおこの地の小規模古墳

 の多くは後世、村落の形成によって破壊されたと思われるが、一部は三山塚や富士塚などに転用され

 て改変されつつ残存していることが発掘調査で解明されてきている)。

 

 東海道は771年までは相模から海路、上総にきて下総、常陸方面に伸びていたが、武蔵の開発が進んだこともあり、やがて陸路、相模から武蔵へと抜けるようになる。

 

「庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに(4350)」

 大意「庭の真ん中に阿須波の神を祭ると、細葉の枝をさして神蘺(ひもろぎ)を作り、私は潔斎してあなたが無事帰ってこられるまで待っています」

 

阿須波神社にある万葉歌碑

 

 作者は若麻績部諸人(わかおみべのもろひと)で帳の丁(よぼろ)。軍団のなかで文書作成に当たった教養のある人物であったと思われる。阿須波の神は古事記の出雲伝に大年神(スサノオの子)の子とある。延喜式神名帳には越前国足羽郡に足羽神社がある。越前で祀られていた神が上総に招かれた背景は知る由もない。

千葉市生実の地名は渡来人系の麻績(おみ)一族が住みついたことに由来するとの

 説あり。「若」は別れ出た一族のことを指すらしく、本来は生実の豪族であった一

 族の中から市原に進出し、分家した先祖がいたことを示すのかもしれない。

※福井県足羽(あすわ)神社の主祭神は第26代継体天皇である。継体天皇が越前にい

 た時に足羽山に祀った大宮地之神の異称が阿須波神で建設工事や旅の安全を図る

 された。

 

 

「蘆垣の隈処に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ(4357)」

 大意「蘆垣の曲がり角のところに立って、妻が袖さえも濡れるほどに泣いたことが思い出される」

 

 作者は上丁(かみのよぼろ)刑部直千国で市原郡出身。市原郡は海部(あまべ)、江田、湿津(うるいつ)、山田、菓麻(くくま)、市原の六地区に分かれていた。

 「蘆垣」からみて水辺のある集落の出身であろうか。

 

刑部氏と稲荷台1号墳(山田橋)出土鉄剣銘:1988年に日本最古の銘文入り鉄剣

 (推定73cm)が解読(発掘は1976年)されて話題を集めた。5世紀から7世紀に

 かけて造られた稲荷台古墳群(12基余り)中、鉄剣が出土した1号墳は最大の円墳

 で直径27m、高さ2.23m。鉄剣は銀象嵌で銘文が刻まれ、エックス線照射で以下の

 ように解読されている。

  表「王□□ヲ賜フ 敬ンデ□ゼヨ」

  裏「此ノ廷□ハ□□□」

  ほかに出土品は短甲、鉄鏃など被葬者が武人的存在であったことをうかがわせる

 ものが目立った。銘文中の「王」は5世紀中頃という時期からみて允恭(いんぎょ

 う)天皇(倭の五王「讃・珍・済・興・武」のうち済に比定)ではないかとみる学

 者(前之園亮一氏)もいる。

  前之園氏によると允恭天皇の皇后は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)であ

 り、その名代(なしろ)の民に刑部がいたが、市原には「万葉集」等で刑部の名が4

 人ほど記されているらしい。

  また刑部という地名がやや内陸部に入ったところにあり、長柄にも刑部という地

 名があるので広範囲に名代の民が割り当てられていたのかもしれない。

  なお刑部(市原市)の場所は外房に流れ出る一宮川の源流部にあたり、稲荷台か

 ら10km弱の所である。稲荷台古墳群は養老川と村田川に挟まれた台地上に位置し

 て東京湾に臨む見晴らしのよい位置にある。水運を考えてみれば東京湾へは二つの

 川が注ぎ、わずか10km移動すれば外房にも出られる川にたどり着くという。

  まさに稲荷台の立地は前之園氏が指摘するように房総支配における要ともいって

 よいほど重要ポイントだったのかもしれない。一宮川の流域には伊甚屯倉(いじみ

 のみやけ)が設置されていること、東国では稀な海部(あまべ)郷(→海士有木)

 が養老川中流域に設置されていることを考え合わせると一宮川と養老川を結ぶライ

 ンは大和政権側にきっちりと押さえられているようでもある。

  が、何はともあれ以上の点から前之園氏は稲荷台1号墳の被葬者(2人)が武人と

 して皇后の住む忍坂宮の警備に当たった人物ではないかと推察できるという。

 

 

上海上国造と海上潟・海部郷について:前之園亮一(平成17年度歴史散歩資料「市原市五井姉崎地区の遺跡と文化財」所収)より

 

 

 養老川から姉崎にかけての地域は古代、海上(うなかみ)と称されていた。4世紀の海上は姉崎古墳群に見られるように県内では突出した重要な地位を占めていた。4世紀においては天神山古墳(130m)が県内最大で、今富塚山古墳(110m)が2位、釈迦山古墳が5位となる。上海上国造は大和政権と密接な関係を保ちつつ、古墳時代前半、房総の地に君臨していたようである。

 海上が房総の中心的役割を担えた背景に養老川流域の高い農業生産力や海部(あまべ)を擁して水上交通を掌握していた点、中央との太いつながり…などが考えられる。万葉集巻14の東歌筆頭に挙げられた「夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり」(3348)は港として海上潟が関東では夙に有名であったことを裏付けよう。

 5世紀前半に築かれた二子塚古墳(後円部の高さは10m近く)は海上潟の港の位置の目安ともなって洋上の船を導いていたようである。また海上潟に入港すると船上の人々は台地上(標高28m)の天神山古墳(後円部の高さ14m。4世紀中頃)を見上げて上海上国造の勢威に一層目を見張ったのだろう。

 上海上国造の祖先は古事記や国造本紀では天皇家と同様、天照大神の子孫であり、武蔵国造と同様の先祖という。実際、天皇家の信任篤く、「舎人(とねり)」と呼ばれる天皇の親衛隊的な職務に就くことも多かったようだ。「続日本紀」に檜前(ひのくま)舎人直建麻呂という人物が出てくる。檜前は明日香村の地名で530年頃に宣化天皇の宮を警護した舎人に対し、「檜前舎人(ひのくまのとねり)」という名称がついた。

 宮を守る舎人となることは地方豪族にとって大変名誉なことであったので「檜前舎人」を氏名としたのだろう。同じ名前は遠江、駿河、武蔵にしか存在しない。関東では上海上国造と武蔵国造だけであり、4世紀から5世紀にかけて関東では名門中の名門豪族であったと考えられる

 檜前姓は白潟郷(台東区浅草周辺)と海上郷に存在しており、双方を行き来する水上交通路があったと考えられる。実際、房州石は後期古墳時代、埼玉県行田市の将軍山古墳、東京都赤羽古墳群3号墳、葛飾区柴又八幡神社古墳、市川市法皇塚古墳に用いられている

 さらに海部郷は駿河以東の東海道、関東では市原郡のみに存在(海士有木周辺と推定)している。遠江以西では海部郷が合わせて17カ郷も存在することを考えると大和政権において海上の地域は極めて重要な地域であったことが伺える。なお現在の海士有木は養老川河口から7㎞も上流に位置するが、これは上海上国造が河川交通にも関与したせいであろうか。

 とすれば3世紀に遡る神門古墳群の被葬者も上海上国造一族と関係が深かったのかもしれない。神門古墳群からは東海近畿系の土器が出土しており、海、川の水上交通路を通じてもたらされたと考えられるからである。さらに神門古墳群近くの国史現在社である前廣神社は海部郷に属していた可能性がある。

 しかし上海上国造の海部郷と養老川の支配権は5世紀末から6世紀初頭にかけて大和政権に奪われてしまったようである。伊甚屯倉の設置と時を同じくして姉崎古墳群に築かれる古墳の規模は縮小していく。5世紀前半の二子塚古墳を最後に100m級の古墳は築かれなくなった

上海上国造一族と同祖の国造は「古事記」によると出雲、武蔵、下海上、伊甚(現

 在の夷隅)、遠江。「国造本紀」によると菊間、武蔵、相模などとなる。