§6.市原の郷土史82.久留里街道殿様道の現在⑤

 

 前回で養老川をはさんで分岐していたと思われるA、B、C各コースの散策を終えました。今回はAとBのコースとが一本に収れんする、通常の「殿様道」地点から始めて今富までいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§6.市原の郷土史81.久留里街道殿様道の現在④

 

 今回はAのcコースを歩いてみたいと思います。

 なお写真左上の[c 34」の赤字の番号は久留里街道の写真全体の通し番号であり、各コース別の番号ではありませんのでお間違えの無いように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§6.市原の郷土史80.久留里街道殿様道の現在③

 

 今回はAのbコースをご紹介いたします。

 なお写真左上の[A…24」の赤字の番号は久留里街道の写真全体の通し番号であり、各コース別の番号ではありませんのでご了承ください。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§6.市原の郷土史79.久留里街道殿様道の現在②

 

 

 

 

 

・村上の道標:当時とはやはり置かれた場所(かつては観音寺近くの路傍)が異なっているが、バイパスが館山道の下をくぐる手前の道端に立派な道標が立っている。高さ155cmで駒形四角柱。馬頭観音が正面に刻まれている。

 明和3年(1766)建造。碑文には「東左 国分寺迄半里 う志く迄三里」

  「南 たかくら迄五里 くるり迄六里半」

  「西右 ちばでら迄三里 江戸まで十三里道法」

    ※一里=約4km、一日の行程は八~十里が平均。

 

 この先は廿五里(ついへいじ)の堰付近にあった渡船場から養老川を舟で渡り、今富、立野方面へと道は続いていた。なお道標の文面から江戸期の人々にとっては有名な神社仏閣がその地理感覚においていかに重要であったかが分かる。実際、当時の旅といえば庶民においては寺社への参詣が主な目的であったのだから寺社への行程が道標に記されるのも当然ではあった。また城下町の久留里と港町として内房随一の繁栄を誇った木更津の存在感がこの辺りの人々にとって当時いかに大きかったのかも想像できよう。

※「千葉県歴史の道調査報告書15」(県教委作成:平成2年)参照

 

 

 

 

 

今回はAのaコースを歩いてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでAaコース終了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§6.市原の郷土史78.久留里街道殿様道の現在①

 

 

   久留里街道は市原から馬来田を経て久留里に到達する道と木更津から馬来田までの道(馬来田で1本の道に合流する)に大別される。市原からの道はさらに西往還(五井から椎津に向かう)、中往還(五井から平田、村上を抜ける)、東往還(八幡宿から297号沿いに牛久を経由する)の三つに分けられるが、特に中往還は久留里藩の参勤交代に利用されて「殿様道」とも言われた。大名行列の規模は延享2年(1745)の宿割り帳から総勢185人にも達しており、継場村(五井もその一つ)の負担はかなり重かったようである。参勤交代などで継ぎ立てに人馬が不足する場合には五井村の周辺(君塚、岩野見、岩崎新田、平田、村上の五か村)が定助郷村として割り振られたらしい。

 

   今回は中往還「殿様道」の現状を確認してみよう。はたして都市化が進む五井において江戸時代の道がどれほど残されているのか・・・

 

 

房総往還との分岐点に置かれた道標:ここが久留里に向かうスタート地点

 かつて五井下宿の「保健所入り口」というバス停近くにあったが道路工事により一時期、埋蔵文化財センター(市武道館と隣接)の庭に移されていた。現在はマンション(ヴェラハイツ)の裏手公園内に移設されている。

 高さ約90cmの四角柱。正面上半分は青面金剛で庚申塔となっている。文化4年(1807)建造。                

  文面は正面に「江戸道」左面に「貝流里(くるり)ミち」

     右面に「た加くら道 きさら津ミち 房州道」

※「た加くら」は木更津の高蔵観音(坂東第三十番観音霊場:真言宗)を指すと思われる。なお市内の

 庚申塔は212基ほど確認されている。 

 

 

 

 

 

小湊鉄道の踏切をこえていきます。

 

 

 

 

 

 

これは現在の道で、かつての久留里街道は右側の水田の中を通っていました。

 

耕地整理とほぼ同時期に養老川の流路が変えられたことも確認できる(下図)

 

 

 

 

§6.市原の郷土史77.立野信之のこと(後編)

 

小林多喜二の遺体を前に

交友のあった作家、芸術家、演劇関係者:前列右から原泉(女優)、田辺耕一郎、上野壮史、立野信之(中央やや左の眼鏡の男)、山田清三郎(ピンボケ気味)、鹿地亘、千田是也、中央左手奥の眼鏡をか

けた女性は窪川稲子(佐多稲子)。

 

 昭和9年、傷心の信之は転向後初の作品となる「友情」を中央公論に発表した。この作品の中で小沼三郎として登場するのが小林多喜二である。小沼の遺体を前にした小沼の母親の様子がこう記されている。

 

・・・彼女は髪をふり乱して息子の「死骸」にとりすがり手首を、胸を、首を、額を、所きらわず両手で撫でまわし、オロオロ声をしぼって叫び続けた。「おお・・・もう一度息を吹き返せ・・・もう一度息を・・・!」

   誰も、母親を止めなかった。親戚の者がみかねて起っていき、母親を死骸からひきはがそうとしたが・・・彼女は離れなかった。

「皆さん。」と母親は叫んだ。「わたしは決して気は狂いません。・・・ただこんな・・・、残念でなりません・・・!」

 そして母親は、また息子の手首をもみほぐすように動かし、とがった顔をゆすぶっ 

て「・・・もう一度息を吹き返せ!」と叫びつづけるのであった。

 

 精神的な危機に追い詰められた立野は「友情」における登場人物の一人、健介の言葉におのれの気持ちを託した。

 

  …畜生め!この打撃を、苦しみを、仕事のうえに生かさないで、何を生かそう!

そうだ、おれは、久本や小沼の後が継げなかったからって、いたずらに嘆く必要はないのだ…忍耐づよく、この歴史の苦しみに堪えてゆくこと、それがいま、おれにとって肝心なことだ!その中にこそ、久本や小沼の友情が生かされるのではあるまいか・・・

   ※作中の久本は山田清三郎をモデルにしていると思われる。

 

 昭和10年に執筆を始めた自伝的小説「流れ」(昭和12年、第一部のみ三笠書房から刊行)にはこの頃のうっ屈した信之の心情が伺われるという。

 

 仕事に倦むと、私は釣竿や投網を抱えて、近くの養老川や海に出かけた。秋、投網もそろそろ終わりになる頃、たまたま網にかかった落鮎を箸の先で突っつきながら、独り酒をのむ時の、あの哀愁にみちた孤独感は未だに忘れ難い。落鮎は一時に何尾もは獲れない。たまに一尾位ひっかかるのである。その姿は、上流で若さと美を競った頃とちがい、もはや生活にも恋愛にも疲れて、尾羽打ち枯れた感じである。それが自分の都落ちして、田舎家に孤影悄然としている自分の姿に相通ずるように思われ、一層哀切感をそそられたのであろう。

 

 彼は「流れ」のあとがきで執筆の動機についてこう書いている。

 

 作者には一つの感懐がある。作者はその前々年の暮に思想的な躓きにあい、加うるに身辺に不快な事柄が多く、孤独と失意のドン底に喘いでいた。筆をへし折ろうか、と思ったことが何度かあった。しかし結局書くよりほかに自分を生かす道がないと思い立ち、手探りで書き始めた。・・・これは謂はば作者の思想的な人間的な苦痛の書である。従って作品が幾分暗い相貌を呈しているのは、また止むを得ないことだと考えている。作者の念願とする所は、むしろ暗さを通して一つの明るさに―言い換えれば、絶望を貫いて一つの大きな希望に到達したいのが、この作品の持つ唯一の野心である。

 

 昭和12年、日中戦争が本格化すると彼は改造社の特派員として中国に渡り、北京を中心に従軍して国策協力的な小品を次々と発表している。しかし「転向」と小林多喜二の死は彼の心に深い傷跡を残していた。

 昭和16年、「日本評論」に掲載された随筆「帰郷有感」で数年ぶりに五井に帰郷した時の心情を彼は次のように記している。

 

 十年まえ、私は国法を犯したかどで検挙された。支那ならば銃殺の刑に処せられたであろうが、日本という国に生を受けたおかげで懲役二年執行猶予五年という寛大な判決を受けた。これは日本という国の有難さ、広大無辺の慈愛に基づくものだ、と今は感泣している。だが正直なところ、そこに気付くには相当な時間を要したことを告白しなければならない。思えばそれは長いジグザグな道程であった。執行猶予の判決を受けると同時に、私の思想的スランプの状態が歴然として始まり、私は当時まだ残存していた文化団体から脱落して、悄然と郷里の家に帰った。全く悄然と帰ったという感じである。そこには誰も思想に傷ついた私を温かくいたわってくれる者はいなかった。

 

 敗戦を機に圧迫から解放された彼は日本がなぜ負けたのか、歴史を題材にした大作の中で問い続けた。特に昭和27年の下半期直木賞を受賞した「叛乱」は2.26事件を扱い、翌年、東宝によって映画化されるなど大きな反響を呼んだ。

 「転向」による心の傷が多少癒えてきた戦後、彼の創作意欲は再び旺盛となり、多くの作品を世に問うたのである。また昭和29年には日本ペンクラブ幹事長となり、昭和41年には同副会長となって会長の川端康成を補佐するなど、文壇の地位向上にも尽くしている。しかし激務がたたったのか、昭和46年(1971)10月25日、動脈硬化による胃・十二指腸動脈血栓症のため享年69歳で急死した。その死は川端をはじめとする多くの文士に惜しまれた。

 

参考文献

・須田 茂「房総諸藩録」崙書房 1985 

・川名登編「房総と江戸湾」吉川弘文官館 2003

・山本光正「幕末農民生活誌」同成社江戸時代叢書9 2000年   

・中谷順子「房総を描いた作家たち」暁印書館 1998年

・大室 晃「市原人物譚」海潮社 1983年

・坂本哲郎「房総の文学風土」中谷順子 笠間選書 1980年

 

§6.市原の郷土史76.立野信之のこと(前編)

 

 かつて「就職氷河期」という言葉が流行し、若者の就職難が取りざたされるようになったとき、小林多喜二の「蟹工船」という小説が50万部近くも売れるという現象がありました。世界がリーマンショックに揺れた2008年頃のことです。

 「蟹工船」自体は1929年に出版されているので何と世に出てから80年近く経ての大ヒットということで当時の話題になりました。

 この小林多喜二と一時期、親友のような存在だった小説家が知る人ぞ知る市原出身の立野信之です。彼の生家は五井駅東口から歩いて10分もしないうちにたどり着ける平田という集落にありました。その家の母屋はしばらくは幼稚園の園舎として残っていましたが今は幼稚園も閉鎖されてかつての面影を見出すことが難くなっています。立野は小林だけでなく、小説家の川端康成や佐多稲子、女優の原泉、劇作家の千田是也ら当代一流の文化人とも交流のあった人物でした。

 

 立野信之は明治36年(1903年)10月17日、父与(あとう)、母多喜(た幾)の長男として市原郡五井町平田の旧家に生まれました。戦前まで平田では一番の広い屋敷で屋号は「堀の内」、田畑合わせて二町五反歩ほどの小地主でした。

 戊辰戦争の時に五井でも戦いがあり、徳川義軍の敗残兵が立野の家を訪れて野良着を貰い受け、農民に成りすまして家を出ていったという逸話が残る古い家柄です。祖父与三郎は町の収入役を歴任した人物、父与も岩崎分校の校長を務めたことがある、教育熱心な家でした。

 明治42年(1909)、五井尋常小学校に入学。母は信之が7歳のときに協議離婚し、日本橋蠣殻町で「和洋裁縫研究所」という塾を開きます。関東大震災で塾が焼失した後、巣鴨に移転し、「和洋女子職業学校」という和裁、洋裁に若干の技芸を加味した学校に発展。そこが手狭となると滝野川の府立学校の校地と校舎を払い受けて「稲毛学園」に改名、同時に「桜丘女子商業学校」を創設し、校長となりました。

 父は多喜と離婚後、明治43年(1910年)よねと再婚して大正2年(1913)に弟信次が生まれますが、よねはその三ヶ月後に亡くなってしまいます。尋常小学校での信之の成績は優秀で、修身を除けば全科目が「甲」であったといいます。

 五井尋常高等小学校を卒業した13歳の時に父与も亡くなり、以後は祖父と祖母に育てられました(ちなみに信之の一・二年下には映画監督としても名高いタレント北野武の母、小宮さきが五井尋常高等小学校にいたはずです)。成績の良かった信之は旧制千葉中学校をひそかに受験して合格しましたが祖父の猛反対にあって進学を断念したといいます。千葉医科専門学校を出て軍医になることが当時の彼の夢であったようです。とはいえ勉学への情熱断ちきれず、結局、八幡にあった私立南総学校(川上南洞創設)に通っています。

※南総学校への汽車通学のかたわら、信之は飯香岡八幡の境内を良く散策しました。その頃のことを題

 材にした小説が「初恋」や自伝的小説「流れ」です。その一節を記した文学碑が信之の死後(昭和52

 年=1977年)、宮司の市川教生(立野信之の研究者でもある)や菅野儀作らの尽力によって八幡宮境

 内に建立されています。除幕式には佐多稲子、川端康成夫人、尾崎秀樹らが出席しました。なお文学

 碑の前には信之の初恋の相手と思われる青木ふじ三姉妹(八幡町の魚屋の娘という)によって建てら

 れた「立野信之先生之文学碑」の石柱があります。彼の初恋は小説通りに悲恋に終わったようで、ふ

 じは後に東京築地へ嫁いだようです。

 

 祖父が収入役の現職のまま大正9年(1920)4月に脳溢血で倒れると信之は18歳で家督を相続しています。しかし農業のかたわら、彼は精力的に小説を書き始めました。弟の回想では夕方になると酒好きの信之が絣の着物に木綿の袴で身だしなみを整えては街に出て飲み歩いていたといいます。そして午前様となって帰ってきては気の強い祖母に叱られていたようです。

 しかし信之はこれに懲りず、現金収入の少ないなかで散財を繰り返し、祖母を困らせていました。また養老川や海に出て釣りをし、趣味でバイオリンにも手を出していたようです。この年の12月には五井で親しかった三枝實、立野隆三(若山牧水に師事していた)、永岡五郎らと短歌雑誌「曠野」を創刊し、当時18歳だった信之が編集兼発行人となっています。同人は他に山田清三郎(東京で「秀才文壇」の投稿仲間)、積田キヨ、原田琴子、伊藤ハナらがいました。活版刷り20頁ほどで百部印刷の小さな同人誌で大正11年(1922)7月の16号まで続けられました。

※平田の大宮神社には大正9年(1920)に建てられた鳥居建設記念碑の裏側に寄付者として立野信之の名があります。この年、信之が5年前に(大正4年)父を亡くして以降、戸主として立野家を仕切っていた祖父が4月に急死していました。信之はまだ18歳で立野家の家督を継いだばかり。おそらくなりたてホヤホヤの戸主として彼はここに名を連ねることになったのでしょう。

 

 

 資金難などで「曠野」が廃刊された後、しばらく悶々としていた信之は憂さ晴らしでよく五井周辺の料理屋に繰り出していたようです。飲み歩くうちに偶然遠縁(実母多喜のいとこにあたる)で村上の地主だった文学好きの伊藤忞(つとむ)と出会ったことで伊藤と急速に親しくなりました。そして立野隆三、積田キヨ、山田清三郎らを誘い、大正11年(1922)1月、19歳の時、短歌の同人誌「簇生(そうせい)」を五井で創刊しました。

 編集兼発行人は伊藤忞(つとむ)で、顧問には歌人の半田良平を迎えました。信之はここに小説、詩、戯曲、短歌などを発表するなど精力的に活動しましたがこの年の8月には資金難でやはり廃刊。一方で信之は千葉の寒川に伊藤と家を借りて住み、6月に千葉文学社を設立して青年向け文芸雑誌「千葉文化」を創刊しました。が、伊藤との交流を心配した祖母の反対でいったん呼び戻され、信之は五井町役場の書記となっています。ただし伊藤、山田らと大正11年(1922)11月には無産派雑誌「新興文学」を創刊しており、文学への情熱が消えることはなかったようです。

※「新興文学」は翌年8月に9巻で終刊しましたが、小川未明や高橋新吉、小林多喜二、秋田雨雀、尾崎

 士郎、壺井繁治、平沢計七ら錚々たる作家も寄稿しており、同い年の小林多喜二(明治36年10月13 

 日生まれでわずか4日違い。当時は小樽高商に在学中)との親交もそこから始まるといいます。なお村

 上諏訪神社には伊藤忞の名が残る石碑がいくつかあります。

 

 

 大正12年(1923)には関東大震災がありましたが、信之の実家は無事でした。このとき彼は朝鮮人と社会主義者が結託して暴動が発生しているとのデマを聞き、革命到来の予感に胸をとどろかせたといいます。しかし何事も起こらず、信之は大正13年(1924年)、22歳で佐倉歩兵第57連隊に入隊しています。2年間の軍隊生活で彼は創作上、多くの題材を得ました。ただし大男で体力のあった彼にとって軍隊生活はさほど辛いものではなかったようです。むしろ脚気気味なのを利用して一カ月入院し、その後中隊の事務を任せられるなど要領よく振る舞い、あまりひどい目に遭わずに済んでいたようです。

 除隊後、五井町役場を辞めた信之はしばらくブラブラしていましたが、山田に軍隊での体験を基にした小説を書くように勧められて「標的になった彼奴」を書きあげました。この作品は信之の文壇デビュー作となります。昭和3年(1928年)4月終刊号「前衛」(前衛芸術家同盟の機関誌)に発表され、まずまずの好評を博しました。これに自信を得た信之は上京し、いわゆる作家生活に入ります。

 軍隊での経験と農民としての体験をふまえて彼は20代中ごろから精力的に執筆し、ナップ(全日本無産者芸術連盟:1928年の3.15事件以後、日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合体して成立)の機関誌「戦旗」に「軍隊病」「赤い空」「豪雨」「小作人」「少年隊」など次々と作品を発表しています。特に「軍隊病」は反戦、反軍国主義小説として大きな反響を呼び、プロレタリア作家としての名声を上げました。また「豪雨」は新感覚派の横光利一にも激賞されました。信之は昭和4年(1929)、「戦旗」の編集長になり、翌年にはナップの書記長になるなどプロレタリア作家の中で重要な地位に就いています。

 しかし有名になった分、官憲の追及を厳しく受けるようになり、昭和5年(1930)6月、同居していた小林多喜二とともに収監され、信之は日本共産党への資金提供容疑で検挙されて豊多摩刑務所に服役することになりました。彼は翌年2月に保釈され、出所しましたが獄中で転向を表明していました。転向とは社会主義的な思想を捨てて今後は国家の方針に逆らわないことを公に宣言すること。

 当時、特別高等警察による拷問で共産党員を中心に獄死するものが相次いでいました。組織も壊滅状態に陥る中で転向を表明した人は立野以外にも多数にのぼり、周辺では山田清三郎や窪川稲子(佐多稲子)も事実上、転向したとみなされております。

 立野は転向表明後、懲役2年、執行猶予5年の判決を受けています。一方、転向を拒んだ小林は昭和8年(1933)2月、再度捕まり、築地署で逮捕されたその日のうちに特別高等警察による激しい拷問の末、死亡してしまいました。

 山本宣治の甥にあたる安田徳太郎博士の所見によると下腹部から大腿部にかけて赤黒く内出血し、大腿部には錐のようなもので十数か所刺された跡があるとのこと。しかし警察の発表では心臓麻痺による病死とされていました。

 

参考文献

・須田 茂「房総諸藩録」崙書房 1985 

・川名登編「房総と江戸湾」吉川弘文官館 2003

・山本光正「幕末農民生活誌」同成社江戸時代叢書9 2000年   

・中谷順子「房総を描いた作家たち」暁印書館 1998年

・大室 晃「市原人物譚」海潮社 1983年

・坂本哲郎「房総の文学風土」中谷順子 笠間選書 1980年

§6.市原の郷土史74.川上南洞のこと

 

八幡公民館に掲げられた写真

 

・郷土の偉人「川上南洞(18611934)」:「市原人物譚」(大室晃 昭和58年 海潮社)よりカッパが抜粋して川上南洞の生涯を簡単にご紹介いたします。

 

1.南洞の生い立ち

 文久元年(1861年)12月8日、市原郡八幡に生まれる。幼名を沖五郎、後に規矩(きく)と改名し、長じて南洞と号した。父勘次郎、母ひでの次男として生まれたが長男が夭逝したため、幼い時から川上家の後継者として育てられた。勘次郎は米穀薪炭の販売業を営む傍ら、画を佐竹永海、書を大竹蔣塘に学び、風雅を解する人であった。佐竹の同門、松本楓湖や能書家の貴族院議員、巌谷一六とも親交があった。

※佐竹永海(1803~1874):会津藩御用絵師の子として会津若松に生まれる。江戸に出て谷文晁に師

 事し、山水花鳥画を得意とした。谷文晁の推薦で彦根藩の御用絵師になる。著名な弟子には松本楓湖

 がいる。

※松本楓湖(1840~1923):常陸国(茨城県稲敷市)出身。1853年に江戸に出て佐竹永海、菊池容齋

 に師事し、勤皇画家として知られた。明治15年、宮内庁から出版された「幼学綱要」の挿絵を担当

 し、名声を高める。明治31年、日本美術院の創設に参加、文展の審査員を第4回まで務めるなど画壇

 の重鎮として活躍する傍ら、自宅に画塾を開き数百人もの門下生を輩出した。

 

 南洞は漢籍を天羽南翁に学んだ。南翁は市原郡国吉村(現在、市原市東国吉)の医師天羽玄尚の四男として生まれ、七歳で日蓮宗の僧籍に入り、経学や国学を修めた後、東条一堂の門下に入り、経学を極めた。僧としては浜野の泉福寺などに身を置いたが、幕末には勤皇僧として活躍し、多くの志士を援助して幕吏からかくまった。明治に入ると姉崎妙経寺の住職となったが再び千葉郡村田村泉福寺に移り、明治16年、そこで還俗して家塾を開き、地域の子弟の教育にあたった。青年時代の南洞は南翁に大きな感化を受けたらしく、後年、自分の号に南翁の「南」を用い、師の亡き後(明治32年、81歳で没す)は泉福寺に「天羽南翁先生の碑」(大正4年建立:下写真)を建設すべく奔走している。

 

 

※東条一堂:安永七年、上総国埴生郡八幡原(現在、茂原市八幡原)に生まれた。16歳で京都に赴き、

 皆川棋園門下に。やがて江戸で亀田鵬斎(井上金蛾の弟子。折衷学派で多くの門弟を抱えたが寛政異

 学の禁で弾圧された)に師事し古学を学んだ。文政四年、神田お玉ヶ池の千葉周作道場隣に塾を開

 き、多くの門弟を育て、門人の数は三千余を数えたという。天保九年、福山藩主阿部正弘に招聘さ

 れ、以後、阿部が老中になるとたびたび建白して幕政に大きな影響を持った。門下には清河八郎、安

 積五郎、頼三樹三郎ら、著名な志士も多い。能書家としても知られる。

 

2.幅広い人脈

 明治23年に南洞が千葉県皇典講究所分所司計係を委託され、皇典講究所の講師だった帆足正久に教えを請うようになったことが契機となり、帆足正久を国学の師と仰ぎ、親しく交流することになる。

 皇典講究所分所は当初、千葉神社の社務所に置かれていたが南洞らの努力で飯香岡八幡宮社務所に移されたため、正久も八幡に通うようになり、南洞との交流は一層密になった。結局、正久は八幡に移り住むことになる。

 なお正久は落合直亮の弟子で、直亮の子、直文とは親しく、その縁で南洞と直文との間にも親交があった。また正久は肥後の士族で西南の役には西郷軍に加わり、肩を負傷している。南洞も西郷を敬愛し、16歳の血気盛んな時に西南の役が起こると家を出て九州に向かおうとしたらしい。家人が途中で連れ戻し、事無きを得たが、西郷をお互いに敬愛していたことも子弟の結びつきを強めたに違いない。正久は大正3年、南総学校の名誉講師として招かれている。

※皇典講究所:1882年、久我建通、山田顕義ら内務省高官や国文学者らが「専ら国典を講究する」こと

 を目的として設置された。1867年の大教宣布の詔で国学や神道の発展が図られたが、やがてそうした

 目論見は欧化の流れが主流になる中で軽視される傾向も生じていた。同所の設置はこの頃の神道や国

 学の不振を挽回する狙いがあった。特に神職の養成に力を入れ、3府40県に分所が置かれた。後に国

 学院大学、日本大学、近畿大学の設立に関わる。初代所長は司法大臣の山田顕義、二代目は枢密院顧

 問官の佐々木高行。久我(1900年「御影山…」)と佐々木(1891年「ちちの木の…」)の歌碑が飯

 香岡八幡宮にあるのは南洞が分所の運営に深く関わっていたことと無関係ではあるまい。久我の歌碑

 には南洞の名が賛成者名に見える。なお、藤原季満卿歌碑(1891年:下写真)は落合直亮の書であ

 り、建碑人には南洞、帆足の名がある。「君がためけふ植へそへし銀杏樹にいく世経んとも神やどる

 らん」

 

 

※南洞は明治15年、21歳で村会議員となっており、青年期は西南の役の際のエピソードに見られるごと

 く、極めて政治熱が高かったらしい。村会議員は明治38年まで務めたが、議員活動の中で学務委員を

 務めることが多かったため、次第に政治熱は冷めて教育熱が高まっていったようだ。南洞は自らの政

 治熱を断つためにも選挙活動のできない郵便局の開設を思い立ったという。

 

 南洞の書道の師は西川春洞で、通信で学んだようだが、南洞の「洞」は彼に由来する。明治35年頃、西川も南総学校で書道の特別講義をしている。南洞の書には風格があったため揮号を頼まれることが多かったが、金銭は一切受け取らず、自家製の野菜などは喜んで受け取ったという(南洞の関与した石碑は八幡宮以外では市内の岩崎稲荷神社、府中日吉神社、出津八雲神社、青柳若宮八幡、深城熊野神社などに残されている→その75で紹介)。

 剣道の師は榊原鍵吉(1830~1894:江戸の生まれ。幕府講武所指南役、直心影流。最後の剣客と謳われた)で、南洞自身も南総学校で剣道の授業を担当することがあった。身の丈六尺、36貫の巨体で常に和服を着用し、威風堂々として威厳があったという。

 南洞の交流は広く、画家では石井鼎湖と親しく、彼の死後は長男がたびたび南洞の自宅に止宿している。後に洋画家として名をなす石井柏亭である。落合直亮、直文との交流から和歌にも造詣があり、八幡で日曜歌会を結成し、落合らの参加を得て歌集「木の葉集」をまとめている。また句会も「真葛会」を結成して自ら会長となり自宅を句会の場に提供。明治35年には神職の機関紙だった「秀真(ほずま)」を引きとり、文芸誌として続刊させ、地域の文芸隆盛に大きな役割を果たした。なお八幡宮と満徳寺の境内には「天名地鎮庵(あないちあん)句碑」(下写真)がある。

 

 

※西川春洞(1847~1915):江戸生まれの書家で門弟2000人を数えたという大家。肥前唐津藩に医師

 として仕える家に生まれたが、幼少から書に専念。幕末には尊王攘夷を唱えて奔走するも明治以降は

 再び書に専念した。明治期は日下部鳴鶴と双璧をなした。

 

3.南総学校創設

 明治31年4月5日、南洞は飯香岡八幡宮社務所を校舎にして千葉県皇典講究所分所普通学部を創設。同日、南洞は千葉県皇典講究所分所理事に任命されている。南洞の自筆履歴書ではこの時点で「中等程度の南総学校の設立者兼校長」となったとあるが、当初は名前のごとく、神職養成機関としての性格が強かった。

 しかし明治33年、飯香岡普通学館、明治34年、飯香岡普通学校と改称し、神職養成機関から「中等程度の学校」への脱皮を図っている。ただし「飯香岡」を冠したのが失敗で、そこから八幡宮を連想させてしまい、神職養成機関の印象を払しょくできずにいた。

 明治41年、ついに南総学校と改名し、大正期には多くの生徒を集めるようになる。

 校舎は当初、八幡宮の社務所を利用したが、徐々に他の建物を買い取り、改築するなどして校舎を整えていった。二階建て、延べ87坪の本格的新築校舎が明治44年12月、完成し、郡長、郡視学ら170名あまりを集めて盛大な落成式がとり行われた。建築費3104円86銭5厘。

 

 

4.学校創設の目的と意義

 南洞は「校友 創刊号」(明治41年3月)で「本校設立の目的と拡張の趣旨」と題して以下のように記している。

…専ら実学を旨とし、極めて平民的主義を以て、学費を節約し、中流階級の地方青年の為めに適切なる中等教育を施し、以て国家有用の人材を養成せんとするに在る也…今や国民教育の普及により家に不学の徒なく人に文盲の族なしと雖も、国家の進運と時勢の必要とは小学教育のみにて満足する能はず、更に中等教育の普及を要求して止まず。然るに中等教育は其の設備容易ならず。本県の如き中学の設置は県立及び公私立を合して尚漸く十数校内外に過ぎず。我市原郡の如きに至っては一中学の設けだにあらず。故に中学に入らんとするの青年は、笈を負うて郷関を出で、千葉若くは東京に遊学せざるべからず。然るに子弟をして中等教育を受けしむべく他郷に遊学せしむるには其の学費少なくとも一人月十数円を要し、父兄の負担甚だ軽からず。是れ到底中産以下の地方父兄の堪ふる所に非ず。…此に於て乎、志を抱ける有為の青年も学費の乏しきものは進んで中学に入る能わず。僅に小学の課程を卒へて廃学するの止むなきに至り、俊才空しく田畝の間に埋もれんとす。而して其奮発の精神なく、思想の

堅固ならざる青春客気の徒は、動もすれば悪風に染り、放逸に流れ、余弊式は往々にして一郷の風俗を壊敗せしめんとするもの無きに非ず。蓋し地方に於て青年を教導し、奨励し、養成するの教育機関なきの結果にして文教の為めに洵に歎ずべく、青年の為めに転た慨すべき極みなり。我 飯香岡普通学校は乃ち此の欠陥を補はんが為めの微志を以て設立したるものなりとす…

 

 南洞は「虚学を避けて実学を重んじ、死智を疎んじて活識を養ひ、独立自営の中等国民を作る」目的を掲げて学校運営の為に多くの私財を投じ、安い学費を維持して向学心ある子弟のために奔走した。対象は尋常小学校卒業者ないしは高等科二学年以上を修業した男子で、中学程度の教育を3年間施した。

※大正元年の市原郡内の進学状況

 尋常小学校卒業者計161人中  中学志願者   4人

                 高等科   72人

                 実業    85人

 高等科卒業者計158人中    中学等志願者 14人

                 実業    132人 

                教員・軍隊  12人

 郡内の上級学校志願者はわずか2.4%に過ぎず。徴兵検査時の学科試験成績は毎年、県下最下位に近

 かったという。但し南総学校設立後、成績は劇的に向上したという。

 

5.大正元年の教育課程表

 次表のごとく国・漢・英・数に重点を置く授業展開となっている。

 

1年

2年

3年

国語

4単位

4

4

作文

2

2

2

漢文

4

4

4

英語

5

5

5

数学

5

5

5

理科

2

2

2

歴史

2

2

2

地理

2

2

2

倫理

1

1

1

図画

2

2

2

習字

2

2

2

体操

1

1

1

法制経済

2

合計

32

32

34

6.学校の行方

 設立当初は家塾規模だった学校も大正時代に入ると生徒数が急増し、大正5年には132人だったのが、大正12年には259人とほぼ倍増している。しかし大正14年に市原学館(→市原高校)、大正15年に私立関東中学校が開校すると次第に生徒数は減少していった。

 入学生徒数は通算2536人。一年のみの在学だが直木賞作家の立野信之(五井の平田出身)も若き頃南総学校に通った一人である。

 学校の運転資金は専ら授業料が中心だったが不足分は南洞の私財によって補填された。南洞は校長の傍ら、学校の運転資金を賄うために「川上生々堂」という薬局や八幡郵便局(明治37年に局長となる)を営み、その収入を充てたがそれでも借金が重なった。借金は息子滉の尽力で昭和7年に返済を終えている。

 なお南洞は1931年頃、郵便局長と学校長との兼務が認められなくなったことにより、校長の地位を娘の夫、根岸和一郎(学習院教授などを歴任後、定年退職の身であった)に譲り、校主に退いた。

 学校は昭和19年3月31日、太平洋戦争による教員の召集が相次ぎ、教員不足から46年の歴史に幕を下ろした。なお昭和27年、県立市原高等学校八幡分校(定時制)が旧南総学校の校舎を継承して設置された。しかし昭和40年、京葉高等学校開設に伴い、八幡分校が廃校となり、旧南総学校校舎も姿を消すこととなった。

 南洞は廃校に先立つ昭和9年1月28日、74歳で永眠。昭和11年6月、南総学校の敷地内に南総学校卒業生らが南洞の胸像を造立している。銅像は太平洋戦争でいったん供出されてしまったが、昭和25年、町長の菅野儀作が中心となって町村会の協力を得て再建され、昭和30年、南総学校の発祥の地である八幡宮の境内に移転された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

§6.市原の郷土史その73.天羽南翁のこと

 

千葉市村田町神明神社南翁碑

 

総限北以一水日境川其注海之処民戸数十倚岸成邑名日村田村青松白沙岸芷汀蘭有塵外之趣云有隠君子生焉日天羽楽園先生名譲字大我通称日譲父日玄尚南総市原郡国吉村人業医有四子先生其季也玄尚素信仏夙有以先生為僧之意文政八年(1825)先生甫7歳入武射郡妙本寺就主僧日志受経従善勝寺主某学浮屠術(注:漢の時代、仏教を浮屠術と言っていた)旁修漢学(注:鈴木一堂の門下となる)天保三年(1832)日志移于浜野村本行寺先生随焉六年日志為京都妙満寺主先生復随焉越年而帰其在京也與柏原正克交正克通国学先生就而学之多所得一四年(1843)聘為村田泉福寺主旁下惟授徒当是時勤王之説漸興先生亦盛唱之志士触忌諱而逃匿者必訪先生先生皆優待之士為免逮捕多安積武負亦匿于先生家去慶応中江戸浅草慶印寺新営伽藍成僧徒聚而落之因奏楽而舞童蓋率旧章也俄有幕命停之僧徒錯愕夫措先生適在江戸為牒執政事得寝僧徒大悦贈金謝之二年転姉崎妙経寺主明治三年(1870)各宗派僧徒胥謀建学舎卑辞聘先生為学監先生慨然応之入京寓于𣴎経寺既而僧徒因事相争先生乃辞帰十六年(1883)先生有所大感蓄髪還俗専授生徒従游者漸衆先生於芸莫不究琴棋書画至詩歌俳諧皆極其玅然無定師性恬たん不膠物真率自勝與大沼枕山嶺田楓江大竹石舟大槻磐渓市川湫村等親善三十二年(1899)十一月二十三日以疾歿於家距生文化巳卯(1818)十二月二十三日享年八十有一葬泉福寺娶三須氏生一男一女男日皐(こう)承後有遺稿若干巻今茲甲辰(1936)二月門人相謀欲樹碑以表先生徳持状而来請余文師在世之日生等屡請建寿蔵碑師不可日如余頑愚何以銘墓為叩其経歴輙答不知是以今不可知其詳唯誌先生所記則足矣顧余之未見先生也先生別文推奨不措既相識之後視余猶子可不謂知己乎而今此謂不可以不文辞也先生仏谷愛雨之號晩年自称南翁村田之民至今仰其徳云銘日

 

 偉歟南翁 仏名儒行 歯徳倶高 人莫不敬 

 身雖亡矣 遺風永存 長松亭々 流水湲々

     江南 藤崎由之助 撰

     嗣子     皐 書

  昭和11年春建之

 

現代語訳(…「天羽南翁がこと」佐倉東雄…平成23年度歴史散歩資料…を基にカッパ

 が多少、意訳を加えている)

 

「南総の北は川で区切られ、川は境川(=村田川)と呼ばれていた。その境川が海にそそぐ地に民家数十軒が集まり、村をなしていた。名を「村田村」という。岸辺は白砂青松の美しき地であり、この俗塵を離れた地には素晴らしい君子がひっそりと暮らしていた。天羽楽園先生その人である。本名は譲、字は大我、通称を日譲といった。父は玄尚といい、南総市原郡国吉村の医者で4人の子があった。先生はその末っ子だった。父の玄尚は仏教への信心厚く、早くから先生を僧侶にさせるつもりだった。

 文政8年(1825)、先生は7才にして武射郡妙本寺に入り、その住職日志について経文を習い、善勝寺住職某より漢学を教わった。

 天保6年(1835)、日志が京都妙満寺貫主になると先生もこれに随って京都に行き、翌年、帰郷した。在京中は柏原正克と付き合い、彼から国学について学ぶことが多かった。

 天保14年=1843年、村田泉福寺の住職となり、仏事に励む傍ら塾を開いて生徒に教えた。勤王思想が勃興すると先生もまたこれを唱え、幕吏に追われた志士をよく匿った。安積武貞も先生の家に匿われた一人である。慶応年中、江戸浅草の慶印寺の新築伽藍が完成し、僧侶や信徒達を集めて落慶法要した際に、古式を採用したところ、突然、幕命によって法要の中止を迫られた。多くのものがこれに慌てふためいたが先生は老中に文書を送り、法要の再開にこぎつけた。僧侶や信徒たちは大いに喜び、これに感謝した。

 明治2年(1868)、姉崎妙経寺住職となった。

 明治3年(1869)、各宗派の僧達は相談して学舎を建て、先生を学監に招いた。先生は快く応じて京都に行き、承教寺に寓居した。しかしやがて僧たちが事あるごとに対立したため、先生は学監を辞めて帰郷した。

 明治16年(1882)、先生は大いに感ずる所あって髪を伸ばし、還俗して塾に専念することとなった。生徒は次第に増えていった。

 先生は六芸六事(六芸:礼・楽・射・御・書・数。周代に士以上の者にとって必須の学芸。六事:慈・倹・勤・慎・誠・明という六つの徳)すべてに通じ、琴棋書画、詩歌俳諧にいたるまであらゆることを極めていた。しかし 師匠を定めず、こだわりの無い性格で、私欲がなく、真面目だった。他人とは隔たりを設けず、率直に語るため、多くの人と交際した。大沼枕山、嶺田楓江、大竹石舟、大槻磐渓、市川湫村などとは特に親しかった。

 明治32年(1899)、11月23日、病を得て自宅で死去した。文政2年(1819)12月23日に生まれて享年81歳の生涯であった。泉福寺に葬られる。三須氏の娘を娶り、一男一女をもうけた。長男は皐といった。後で聞いたが遺稿が若干巻あるという。

 今、明治37年(1904)2月、門人たちが相談して先生の徳を表したい旨の書状を持って余(藤崎由之助)に撰文を書いてほしいとの要請があった。南翁存命中は生徒達の「寿歳碑」(師の存命中に建てる碑のこと)建立の願いは通らずにきた。師は自分のような頑愚に建碑はふさわしくないと固辞してきたからである。未だに碑は建てられていない。

 余は先生と面識が無かった時に先生が余の文章を読み、推奨して下さった。後に余を我が子の如く面倒を見てくださった。そうして今、先生の碑の撰文を任されることになった次第である。先生には別に「仏谷愛雨」の号があり、晩年は南翁と号した。村田村民は今に至るまでその徳を仰いで碑に銘記する。

 

 南翁は偉大なり。僧でありつつ、行いは儒者であった。徳高く尊敬しない者はいな

 い。身はたとえ滅びたといえども遺風は末永く残るだろう。松の枝が伸び続け、水

 が谷川に注ぎ続けるように…

 

村田町泉福寺墓石・天羽南翁先生碑

          天羽南翁の墓石:明治32年(1899)11月23日没

 

      天羽南翁先生碑:ここでは明治32年(1899)12月26日没となっている

 

・天羽南翁門人

 門人 イロハ順

 飯豊 利一              

 初芝 弁蔵

 西田 増次郎                    

 加藤 庄司

 川上 ??

 加藤 兼吉

 加藤 久太郎

 川上 規矩(川上南洞)

 米澤 喜三郎

 田村 栄次郎

 永嶋 善五郎

 中嶋 清太郎…源建通歌碑

 宇田川 卯之松

 奥田 守中

 大久保 平吉

 大久保 与七郎

 草田 勘五郎

 山越 弥惣吉

 山本 日悟

 鎗田 孫吉

 山本 荘三郎

 松山 由次郎

 丸木 平九郎

 近藤 弥四郎

 明石 三吉

 安藤 常太郎

 天羽 圓如

 臼井 禎次郎

 鹿野 市右衛門

 鹿野 八五郎

 鹿野 省三

 鹿野 三之助

 鈴木 威一

 増田 啓蔵

 丸山 福松

 初芝音次郎

 

  以上38名

 

 

 天羽南翁は還俗後、村田町の泉福寺で私塾を開き、地域の若者たちに漢詩文を中心とした学問を授けた。門人の一人川上南洞(その74で詳述)もまた八幡で南総学校を開き、地域の若者に中等教育に相当する教育を授けている。戦後、直木賞を受賞した作家の立野信之は中退してしまうが、一時期、南総学校で学んでいた。

 碑に刻まれた38人の門人たちはみな、川上のようにそれぞれ地元の発展に貢献していく有為な若者たちであった。

 

 

 

旧市役所八幡支所碑(市原市八幡):明治18年(1885)

飯香岡八幡と道を挟んで隣接する白山神社の向かいにある市原商工会議所に右手奥にポツンと碑が建っている。

 

 

・天羽南翁撰文概要

「維新巳来(いらい)、道路・橋梁の構造、官舎・学校の建築、日に進み、月に興こり、商估(しょうこ)の利、農産の殖、ことごとく挙がらざるなし。嗚呼何ぞそれ盛んなるや。この時にあたりて本村、猶、邨衙(そんが)の設を有する能ず。十七年五月六日、建議する者一たび始めてこれを村会に付す。唱すれば衆皆饗応す。企図の急、及ばざるを恐るるがごとし。戸長五十嵐親氏、心をおきて事に当たり、桔据(きっきょ)奔走し、またよくその任を尽くし、相い与に規席し、すなわち村の共有金と有志者の二損をもって、もってその費に充つ。また投票し、董(とう)工委員を選挙せる中、その選ばれたる者は川上親三郎、萩原昇吉川上冲五郎(規矩のこと)たり。この時に際し、町村連合区画変更の事有り。ゆえをもって果たさず。こえて十八年三月、事を起こし、五月に至りて成るを告ぐ。またなんぞそれ速やかなるや。乃者(ないしや)委員某等来たるに、記をもってし、余に嘱みて曰く。「願わくはこれを石にきざみ、もって後の人に示さん」と。余、聖沢の泊所(およぶところ)、衆庶よく公事に勤労するに感じ、書きてもって付す。」

 建碑発起者:八幡宿総代人 寺嶋久次郎 宮吉長二郎