§6.市原の郷土史78.久留里街道殿様道の現在①

 

 

   久留里街道は市原から馬来田を経て久留里に到達する道と木更津から馬来田までの道(馬来田で1本の道に合流する)に大別される。市原からの道はさらに西往還(五井から椎津に向かう)、中往還(五井から平田、村上を抜ける)、東往還(八幡宿から297号沿いに牛久を経由する)の三つに分けられるが、特に中往還は久留里藩の参勤交代に利用されて「殿様道」とも言われた。大名行列の規模は延享2年(1745)の宿割り帳から総勢185人にも達しており、継場村(五井もその一つ)の負担はかなり重かったようである。参勤交代などで継ぎ立てに人馬が不足する場合には五井村の周辺(君塚、岩野見、岩崎新田、平田、村上の五か村)が定助郷村として割り振られたらしい。

 

   今回は中往還「殿様道」の現状を確認してみよう。はたして都市化が進む五井において江戸時代の道がどれほど残されているのか・・・

 

 

房総往還との分岐点に置かれた道標:ここが久留里に向かうスタート地点

 かつて五井下宿の「保健所入り口」というバス停近くにあったが道路工事により一時期、埋蔵文化財センター(市武道館と隣接)の庭に移されていた。現在はマンション(ヴェラハイツ)の裏手公園内に移設されている。

 高さ約90cmの四角柱。正面上半分は青面金剛で庚申塔となっている。文化4年(1807)建造。                

  文面は正面に「江戸道」左面に「貝流里(くるり)ミち」

     右面に「た加くら道 きさら津ミち 房州道」

※「た加くら」は木更津の高蔵観音(坂東第三十番観音霊場:真言宗)を指すと思われる。なお市内の

 庚申塔は212基ほど確認されている。 

 

 

 

 

 

小湊鉄道の踏切をこえていきます。

 

 

 

 

 

 

これは現在の道で、かつての久留里街道は右側の水田の中を通っていました。

 

耕地整理とほぼ同時期に養老川の流路が変えられたことも確認できる(下図)