§6.市原の郷土史74.川上南洞のこと

 

八幡公民館に掲げられた写真

 

・郷土の偉人「川上南洞(18611934)」:「市原人物譚」(大室晃 昭和58年 海潮社)よりカッパが抜粋して川上南洞の生涯を簡単にご紹介いたします。

 

1.南洞の生い立ち

 文久元年(1861年)12月8日、市原郡八幡に生まれる。幼名を沖五郎、後に規矩(きく)と改名し、長じて南洞と号した。父勘次郎、母ひでの次男として生まれたが長男が夭逝したため、幼い時から川上家の後継者として育てられた。勘次郎は米穀薪炭の販売業を営む傍ら、画を佐竹永海、書を大竹蔣塘に学び、風雅を解する人であった。佐竹の同門、松本楓湖や能書家の貴族院議員、巌谷一六とも親交があった。

※佐竹永海(1803~1874):会津藩御用絵師の子として会津若松に生まれる。江戸に出て谷文晁に師

 事し、山水花鳥画を得意とした。谷文晁の推薦で彦根藩の御用絵師になる。著名な弟子には松本楓湖

 がいる。

※松本楓湖(1840~1923):常陸国(茨城県稲敷市)出身。1853年に江戸に出て佐竹永海、菊池容齋

 に師事し、勤皇画家として知られた。明治15年、宮内庁から出版された「幼学綱要」の挿絵を担当

 し、名声を高める。明治31年、日本美術院の創設に参加、文展の審査員を第4回まで務めるなど画壇

 の重鎮として活躍する傍ら、自宅に画塾を開き数百人もの門下生を輩出した。

 

 南洞は漢籍を天羽南翁に学んだ。南翁は市原郡国吉村(現在、市原市東国吉)の医師天羽玄尚の四男として生まれ、七歳で日蓮宗の僧籍に入り、経学や国学を修めた後、東条一堂の門下に入り、経学を極めた。僧としては浜野の泉福寺などに身を置いたが、幕末には勤皇僧として活躍し、多くの志士を援助して幕吏からかくまった。明治に入ると姉崎妙経寺の住職となったが再び千葉郡村田村泉福寺に移り、明治16年、そこで還俗して家塾を開き、地域の子弟の教育にあたった。青年時代の南洞は南翁に大きな感化を受けたらしく、後年、自分の号に南翁の「南」を用い、師の亡き後(明治32年、81歳で没す)は泉福寺に「天羽南翁先生の碑」(大正4年建立:下写真)を建設すべく奔走している。

 

 

※東条一堂:安永七年、上総国埴生郡八幡原(現在、茂原市八幡原)に生まれた。16歳で京都に赴き、

 皆川棋園門下に。やがて江戸で亀田鵬斎(井上金蛾の弟子。折衷学派で多くの門弟を抱えたが寛政異

 学の禁で弾圧された)に師事し古学を学んだ。文政四年、神田お玉ヶ池の千葉周作道場隣に塾を開

 き、多くの門弟を育て、門人の数は三千余を数えたという。天保九年、福山藩主阿部正弘に招聘さ

 れ、以後、阿部が老中になるとたびたび建白して幕政に大きな影響を持った。門下には清河八郎、安

 積五郎、頼三樹三郎ら、著名な志士も多い。能書家としても知られる。

 

2.幅広い人脈

 明治23年に南洞が千葉県皇典講究所分所司計係を委託され、皇典講究所の講師だった帆足正久に教えを請うようになったことが契機となり、帆足正久を国学の師と仰ぎ、親しく交流することになる。

 皇典講究所分所は当初、千葉神社の社務所に置かれていたが南洞らの努力で飯香岡八幡宮社務所に移されたため、正久も八幡に通うようになり、南洞との交流は一層密になった。結局、正久は八幡に移り住むことになる。

 なお正久は落合直亮の弟子で、直亮の子、直文とは親しく、その縁で南洞と直文との間にも親交があった。また正久は肥後の士族で西南の役には西郷軍に加わり、肩を負傷している。南洞も西郷を敬愛し、16歳の血気盛んな時に西南の役が起こると家を出て九州に向かおうとしたらしい。家人が途中で連れ戻し、事無きを得たが、西郷をお互いに敬愛していたことも子弟の結びつきを強めたに違いない。正久は大正3年、南総学校の名誉講師として招かれている。

※皇典講究所:1882年、久我建通、山田顕義ら内務省高官や国文学者らが「専ら国典を講究する」こと

 を目的として設置された。1867年の大教宣布の詔で国学や神道の発展が図られたが、やがてそうした

 目論見は欧化の流れが主流になる中で軽視される傾向も生じていた。同所の設置はこの頃の神道や国

 学の不振を挽回する狙いがあった。特に神職の養成に力を入れ、3府40県に分所が置かれた。後に国

 学院大学、日本大学、近畿大学の設立に関わる。初代所長は司法大臣の山田顕義、二代目は枢密院顧

 問官の佐々木高行。久我(1900年「御影山…」)と佐々木(1891年「ちちの木の…」)の歌碑が飯

 香岡八幡宮にあるのは南洞が分所の運営に深く関わっていたことと無関係ではあるまい。久我の歌碑

 には南洞の名が賛成者名に見える。なお、藤原季満卿歌碑(1891年:下写真)は落合直亮の書であ

 り、建碑人には南洞、帆足の名がある。「君がためけふ植へそへし銀杏樹にいく世経んとも神やどる

 らん」

 

 

※南洞は明治15年、21歳で村会議員となっており、青年期は西南の役の際のエピソードに見られるごと

 く、極めて政治熱が高かったらしい。村会議員は明治38年まで務めたが、議員活動の中で学務委員を

 務めることが多かったため、次第に政治熱は冷めて教育熱が高まっていったようだ。南洞は自らの政

 治熱を断つためにも選挙活動のできない郵便局の開設を思い立ったという。

 

 南洞の書道の師は西川春洞で、通信で学んだようだが、南洞の「洞」は彼に由来する。明治35年頃、西川も南総学校で書道の特別講義をしている。南洞の書には風格があったため揮号を頼まれることが多かったが、金銭は一切受け取らず、自家製の野菜などは喜んで受け取ったという(南洞の関与した石碑は八幡宮以外では市内の岩崎稲荷神社、府中日吉神社、出津八雲神社、青柳若宮八幡、深城熊野神社などに残されている→その75で紹介)。

 剣道の師は榊原鍵吉(1830~1894:江戸の生まれ。幕府講武所指南役、直心影流。最後の剣客と謳われた)で、南洞自身も南総学校で剣道の授業を担当することがあった。身の丈六尺、36貫の巨体で常に和服を着用し、威風堂々として威厳があったという。

 南洞の交流は広く、画家では石井鼎湖と親しく、彼の死後は長男がたびたび南洞の自宅に止宿している。後に洋画家として名をなす石井柏亭である。落合直亮、直文との交流から和歌にも造詣があり、八幡で日曜歌会を結成し、落合らの参加を得て歌集「木の葉集」をまとめている。また句会も「真葛会」を結成して自ら会長となり自宅を句会の場に提供。明治35年には神職の機関紙だった「秀真(ほずま)」を引きとり、文芸誌として続刊させ、地域の文芸隆盛に大きな役割を果たした。なお八幡宮と満徳寺の境内には「天名地鎮庵(あないちあん)句碑」(下写真)がある。

 

 

※西川春洞(1847~1915):江戸生まれの書家で門弟2000人を数えたという大家。肥前唐津藩に医師

 として仕える家に生まれたが、幼少から書に専念。幕末には尊王攘夷を唱えて奔走するも明治以降は

 再び書に専念した。明治期は日下部鳴鶴と双璧をなした。

 

3.南総学校創設

 明治31年4月5日、南洞は飯香岡八幡宮社務所を校舎にして千葉県皇典講究所分所普通学部を創設。同日、南洞は千葉県皇典講究所分所理事に任命されている。南洞の自筆履歴書ではこの時点で「中等程度の南総学校の設立者兼校長」となったとあるが、当初は名前のごとく、神職養成機関としての性格が強かった。

 しかし明治33年、飯香岡普通学館、明治34年、飯香岡普通学校と改称し、神職養成機関から「中等程度の学校」への脱皮を図っている。ただし「飯香岡」を冠したのが失敗で、そこから八幡宮を連想させてしまい、神職養成機関の印象を払しょくできずにいた。

 明治41年、ついに南総学校と改名し、大正期には多くの生徒を集めるようになる。

 校舎は当初、八幡宮の社務所を利用したが、徐々に他の建物を買い取り、改築するなどして校舎を整えていった。二階建て、延べ87坪の本格的新築校舎が明治44年12月、完成し、郡長、郡視学ら170名あまりを集めて盛大な落成式がとり行われた。建築費3104円86銭5厘。

 

 

4.学校創設の目的と意義

 南洞は「校友 創刊号」(明治41年3月)で「本校設立の目的と拡張の趣旨」と題して以下のように記している。

…専ら実学を旨とし、極めて平民的主義を以て、学費を節約し、中流階級の地方青年の為めに適切なる中等教育を施し、以て国家有用の人材を養成せんとするに在る也…今や国民教育の普及により家に不学の徒なく人に文盲の族なしと雖も、国家の進運と時勢の必要とは小学教育のみにて満足する能はず、更に中等教育の普及を要求して止まず。然るに中等教育は其の設備容易ならず。本県の如き中学の設置は県立及び公私立を合して尚漸く十数校内外に過ぎず。我市原郡の如きに至っては一中学の設けだにあらず。故に中学に入らんとするの青年は、笈を負うて郷関を出で、千葉若くは東京に遊学せざるべからず。然るに子弟をして中等教育を受けしむべく他郷に遊学せしむるには其の学費少なくとも一人月十数円を要し、父兄の負担甚だ軽からず。是れ到底中産以下の地方父兄の堪ふる所に非ず。…此に於て乎、志を抱ける有為の青年も学費の乏しきものは進んで中学に入る能わず。僅に小学の課程を卒へて廃学するの止むなきに至り、俊才空しく田畝の間に埋もれんとす。而して其奮発の精神なく、思想の

堅固ならざる青春客気の徒は、動もすれば悪風に染り、放逸に流れ、余弊式は往々にして一郷の風俗を壊敗せしめんとするもの無きに非ず。蓋し地方に於て青年を教導し、奨励し、養成するの教育機関なきの結果にして文教の為めに洵に歎ずべく、青年の為めに転た慨すべき極みなり。我 飯香岡普通学校は乃ち此の欠陥を補はんが為めの微志を以て設立したるものなりとす…

 

 南洞は「虚学を避けて実学を重んじ、死智を疎んじて活識を養ひ、独立自営の中等国民を作る」目的を掲げて学校運営の為に多くの私財を投じ、安い学費を維持して向学心ある子弟のために奔走した。対象は尋常小学校卒業者ないしは高等科二学年以上を修業した男子で、中学程度の教育を3年間施した。

※大正元年の市原郡内の進学状況

 尋常小学校卒業者計161人中  中学志願者   4人

                 高等科   72人

                 実業    85人

 高等科卒業者計158人中    中学等志願者 14人

                 実業    132人 

                教員・軍隊  12人

 郡内の上級学校志願者はわずか2.4%に過ぎず。徴兵検査時の学科試験成績は毎年、県下最下位に近

 かったという。但し南総学校設立後、成績は劇的に向上したという。

 

5.大正元年の教育課程表

 次表のごとく国・漢・英・数に重点を置く授業展開となっている。

 

1年

2年

3年

国語

4単位

4

4

作文

2

2

2

漢文

4

4

4

英語

5

5

5

数学

5

5

5

理科

2

2

2

歴史

2

2

2

地理

2

2

2

倫理

1

1

1

図画

2

2

2

習字

2

2

2

体操

1

1

1

法制経済

2

合計

32

32

34

6.学校の行方

 設立当初は家塾規模だった学校も大正時代に入ると生徒数が急増し、大正5年には132人だったのが、大正12年には259人とほぼ倍増している。しかし大正14年に市原学館(→市原高校)、大正15年に私立関東中学校が開校すると次第に生徒数は減少していった。

 入学生徒数は通算2536人。一年のみの在学だが直木賞作家の立野信之(五井の平田出身)も若き頃南総学校に通った一人である。

 学校の運転資金は専ら授業料が中心だったが不足分は南洞の私財によって補填された。南洞は校長の傍ら、学校の運転資金を賄うために「川上生々堂」という薬局や八幡郵便局(明治37年に局長となる)を営み、その収入を充てたがそれでも借金が重なった。借金は息子滉の尽力で昭和7年に返済を終えている。

 なお南洞は1931年頃、郵便局長と学校長との兼務が認められなくなったことにより、校長の地位を娘の夫、根岸和一郎(学習院教授などを歴任後、定年退職の身であった)に譲り、校主に退いた。

 学校は昭和19年3月31日、太平洋戦争による教員の召集が相次ぎ、教員不足から46年の歴史に幕を下ろした。なお昭和27年、県立市原高等学校八幡分校(定時制)が旧南総学校の校舎を継承して設置された。しかし昭和40年、京葉高等学校開設に伴い、八幡分校が廃校となり、旧南総学校校舎も姿を消すこととなった。

 南洞は廃校に先立つ昭和9年1月28日、74歳で永眠。昭和11年6月、南総学校の敷地内に南総学校卒業生らが南洞の胸像を造立している。銅像は太平洋戦争でいったん供出されてしまったが、昭和25年、町長の菅野儀作が中心となって町村会の協力を得て再建され、昭和30年、南総学校の発祥の地である八幡宮の境内に移転された。