§6.市原の郷土史77.立野信之のこと(後編)
小林多喜二の遺体を前に
交友のあった作家、芸術家、演劇関係者:前列右から原泉(女優)、田辺耕一郎、上野壮史、立野信之(中央やや左の眼鏡の男)、山田清三郎(ピンボケ気味)、鹿地亘、千田是也、中央左手奥の眼鏡をか
けた女性は窪川稲子(佐多稲子)。
昭和9年、傷心の信之は転向後初の作品となる「友情」を中央公論に発表した。この作品の中で小沼三郎として登場するのが小林多喜二である。小沼の遺体を前にした小沼の母親の様子がこう記されている。
・・・彼女は髪をふり乱して息子の「死骸」にとりすがり手首を、胸を、首を、額を、所きらわず両手で撫でまわし、オロオロ声をしぼって叫び続けた。「おお・・・もう一度息を吹き返せ・・・もう一度息を・・・!」
誰も、母親を止めなかった。親戚の者がみかねて起っていき、母親を死骸からひきはがそうとしたが・・・彼女は離れなかった。
「皆さん。」と母親は叫んだ。「わたしは決して気は狂いません。・・・ただこんな・・・、残念でなりません・・・!」
そして母親は、また息子の手首をもみほぐすように動かし、とがった顔をゆすぶっ
て「・・・もう一度息を吹き返せ!」と叫びつづけるのであった。
精神的な危機に追い詰められた立野は「友情」における登場人物の一人、健介の言葉におのれの気持ちを託した。
…畜生め!この打撃を、苦しみを、仕事のうえに生かさないで、何を生かそう!
そうだ、おれは、久本や小沼の後が継げなかったからって、いたずらに嘆く必要はないのだ…忍耐づよく、この歴史の苦しみに堪えてゆくこと、それがいま、おれにとって肝心なことだ!その中にこそ、久本や小沼の友情が生かされるのではあるまいか・・・
※作中の久本は山田清三郎をモデルにしていると思われる。
昭和10年に執筆を始めた自伝的小説「流れ」(昭和12年、第一部のみ三笠書房から刊行)にはこの頃のうっ屈した信之の心情が伺われるという。
仕事に倦むと、私は釣竿や投網を抱えて、近くの養老川や海に出かけた。秋、投網もそろそろ終わりになる頃、たまたま網にかかった落鮎を箸の先で突っつきながら、独り酒をのむ時の、あの哀愁にみちた孤独感は未だに忘れ難い。落鮎は一時に何尾もは獲れない。たまに一尾位ひっかかるのである。その姿は、上流で若さと美を競った頃とちがい、もはや生活にも恋愛にも疲れて、尾羽打ち枯れた感じである。それが自分の都落ちして、田舎家に孤影悄然としている自分の姿に相通ずるように思われ、一層哀切感をそそられたのであろう。
彼は「流れ」のあとがきで執筆の動機についてこう書いている。
作者には一つの感懐がある。作者はその前々年の暮に思想的な躓きにあい、加うるに身辺に不快な事柄が多く、孤独と失意のドン底に喘いでいた。筆をへし折ろうか、と思ったことが何度かあった。しかし結局書くよりほかに自分を生かす道がないと思い立ち、手探りで書き始めた。・・・これは謂はば作者の思想的な人間的な苦痛の書である。従って作品が幾分暗い相貌を呈しているのは、また止むを得ないことだと考えている。作者の念願とする所は、むしろ暗さを通して一つの明るさに―言い換えれば、絶望を貫いて一つの大きな希望に到達したいのが、この作品の持つ唯一の野心である。
昭和12年、日中戦争が本格化すると彼は改造社の特派員として中国に渡り、北京を中心に従軍して国策協力的な小品を次々と発表している。しかし「転向」と小林多喜二の死は彼の心に深い傷跡を残していた。
昭和16年、「日本評論」に掲載された随筆「帰郷有感」で数年ぶりに五井に帰郷した時の心情を彼は次のように記している。
十年まえ、私は国法を犯したかどで検挙された。支那ならば銃殺の刑に処せられたであろうが、日本という国に生を受けたおかげで懲役二年執行猶予五年という寛大な判決を受けた。これは日本という国の有難さ、広大無辺の慈愛に基づくものだ、と今は感泣している。だが正直なところ、そこに気付くには相当な時間を要したことを告白しなければならない。思えばそれは長いジグザグな道程であった。執行猶予の判決を受けると同時に、私の思想的スランプの状態が歴然として始まり、私は当時まだ残存していた文化団体から脱落して、悄然と郷里の家に帰った。全く悄然と帰ったという感じである。そこには誰も思想に傷ついた私を温かくいたわってくれる者はいなかった。
敗戦を機に圧迫から解放された彼は日本がなぜ負けたのか、歴史を題材にした大作の中で問い続けた。特に昭和27年の下半期直木賞を受賞した「叛乱」は2.26事件を扱い、翌年、東宝によって映画化されるなど大きな反響を呼んだ。
「転向」による心の傷が多少癒えてきた戦後、彼の創作意欲は再び旺盛となり、多くの作品を世に問うたのである。また昭和29年には日本ペンクラブ幹事長となり、昭和41年には同副会長となって会長の川端康成を補佐するなど、文壇の地位向上にも尽くしている。しかし激務がたたったのか、昭和46年(1971)10月25日、動脈硬化による胃・十二指腸動脈血栓症のため享年69歳で急死した。その死は川端をはじめとする多くの文士に惜しまれた。
参考文献
・須田 茂「房総諸藩録」崙書房 1985
・川名登編「房総と江戸湾」吉川弘文官館 2003
・山本光正「幕末農民生活誌」同成社江戸時代叢書9 2000年
・中谷順子「房総を描いた作家たち」暁印書館 1998年
・大室 晃「市原人物譚」海潮社 1983年
・坂本哲郎「房総の文学風土」中谷順子 笠間選書 1980年