§6.市原の郷土史79.久留里街道殿様道の現在②

 

 

 

 

 

・村上の道標:当時とはやはり置かれた場所(かつては観音寺近くの路傍)が異なっているが、バイパスが館山道の下をくぐる手前の道端に立派な道標が立っている。高さ155cmで駒形四角柱。馬頭観音が正面に刻まれている。

 明和3年(1766)建造。碑文には「東左 国分寺迄半里 う志く迄三里」

  「南 たかくら迄五里 くるり迄六里半」

  「西右 ちばでら迄三里 江戸まで十三里道法」

    ※一里=約4km、一日の行程は八~十里が平均。

 

 この先は廿五里(ついへいじ)の堰付近にあった渡船場から養老川を舟で渡り、今富、立野方面へと道は続いていた。なお道標の文面から江戸期の人々にとっては有名な神社仏閣がその地理感覚においていかに重要であったかが分かる。実際、当時の旅といえば庶民においては寺社への参詣が主な目的であったのだから寺社への行程が道標に記されるのも当然ではあった。また城下町の久留里と港町として内房随一の繁栄を誇った木更津の存在感がこの辺りの人々にとって当時いかに大きかったのかも想像できよう。

※「千葉県歴史の道調査報告書15」(県教委作成:平成2年)参照

 

 

 

 

 

今回はAのaコースを歩いてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでAaコース終了。