§6.市原の郷土史76.立野信之のこと(前編)
かつて「就職氷河期」という言葉が流行し、若者の就職難が取りざたされるようになったとき、小林多喜二の「蟹工船」という小説が50万部近くも売れるという現象がありました。世界がリーマンショックに揺れた2008年頃のことです。
「蟹工船」自体は1929年に出版されているので何と世に出てから80年近く経ての大ヒットということで当時の話題になりました。
この小林多喜二と一時期、親友のような存在だった小説家が知る人ぞ知る市原出身の立野信之です。彼の生家は五井駅東口から歩いて10分もしないうちにたどり着ける平田という集落にありました。その家の母屋はしばらくは幼稚園の園舎として残っていましたが今は幼稚園も閉鎖されてかつての面影を見出すことが難くなっています。立野は小林だけでなく、小説家の川端康成や佐多稲子、女優の原泉、劇作家の千田是也ら当代一流の文化人とも交流のあった人物でした。
立野信之は明治36年(1903年)10月17日、父与(あとう)、母多喜(た幾)の長男として市原郡五井町平田の旧家に生まれました。戦前まで平田では一番の広い屋敷で屋号は「堀の内」、田畑合わせて二町五反歩ほどの小地主でした。
戊辰戦争の時に五井でも戦いがあり、徳川義軍の敗残兵が立野の家を訪れて野良着を貰い受け、農民に成りすまして家を出ていったという逸話が残る古い家柄です。祖父与三郎は町の収入役を歴任した人物、父与も岩崎分校の校長を務めたことがある、教育熱心な家でした。
明治42年(1909)、五井尋常小学校に入学。母は信之が7歳のときに協議離婚し、日本橋蠣殻町で「和洋裁縫研究所」という塾を開きます。関東大震災で塾が焼失した後、巣鴨に移転し、「和洋女子職業学校」という和裁、洋裁に若干の技芸を加味した学校に発展。そこが手狭となると滝野川の府立学校の校地と校舎を払い受けて「稲毛学園」に改名、同時に「桜丘女子商業学校」を創設し、校長となりました。
父は多喜と離婚後、明治43年(1910年)よねと再婚して大正2年(1913)に弟信次が生まれますが、よねはその三ヶ月後に亡くなってしまいます。尋常小学校での信之の成績は優秀で、修身を除けば全科目が「甲」であったといいます。
五井尋常高等小学校を卒業した13歳の時に父与も亡くなり、以後は祖父と祖母に育てられました(ちなみに信之の一・二年下には映画監督としても名高いタレント北野武の母、小宮さきが五井尋常高等小学校にいたはずです)。成績の良かった信之は旧制千葉中学校をひそかに受験して合格しましたが祖父の猛反対にあって進学を断念したといいます。千葉医科専門学校を出て軍医になることが当時の彼の夢であったようです。とはいえ勉学への情熱断ちきれず、結局、八幡にあった私立南総学校(川上南洞創設)に通っています。
※南総学校への汽車通学のかたわら、信之は飯香岡八幡の境内を良く散策しました。その頃のことを題
材にした小説が「初恋」や自伝的小説「流れ」です。その一節を記した文学碑が信之の死後(昭和52
年=1977年)、宮司の市川教生(立野信之の研究者でもある)や菅野儀作らの尽力によって八幡宮境
内に建立されています。除幕式には佐多稲子、川端康成夫人、尾崎秀樹らが出席しました。なお文学
碑の前には信之の初恋の相手と思われる青木ふじ三姉妹(八幡町の魚屋の娘という)によって建てら
れた「立野信之先生之文学碑」の石柱があります。彼の初恋は小説通りに悲恋に終わったようで、ふ
じは後に東京築地へ嫁いだようです。
祖父が収入役の現職のまま大正9年(1920)4月に脳溢血で倒れると信之は18歳で家督を相続しています。しかし農業のかたわら、彼は精力的に小説を書き始めました。弟の回想では夕方になると酒好きの信之が絣の着物に木綿の袴で身だしなみを整えては街に出て飲み歩いていたといいます。そして午前様となって帰ってきては気の強い祖母に叱られていたようです。
しかし信之はこれに懲りず、現金収入の少ないなかで散財を繰り返し、祖母を困らせていました。また養老川や海に出て釣りをし、趣味でバイオリンにも手を出していたようです。この年の12月には五井で親しかった三枝實、立野隆三(若山牧水に師事していた)、永岡五郎らと短歌雑誌「曠野」を創刊し、当時18歳だった信之が編集兼発行人となっています。同人は他に山田清三郎(東京で「秀才文壇」の投稿仲間)、積田キヨ、原田琴子、伊藤ハナらがいました。活版刷り20頁ほどで百部印刷の小さな同人誌で大正11年(1922)7月の16号まで続けられました。
※平田の大宮神社には大正9年(1920)に建てられた鳥居建設記念碑の裏側に寄付者として立野信之の名があります。この年、信之が5年前に(大正4年)父を亡くして以降、戸主として立野家を仕切っていた祖父が4月に急死していました。信之はまだ18歳で立野家の家督を継いだばかり。おそらくなりたてホヤホヤの戸主として彼はここに名を連ねることになったのでしょう。
資金難などで「曠野」が廃刊された後、しばらく悶々としていた信之は憂さ晴らしでよく五井周辺の料理屋に繰り出していたようです。飲み歩くうちに偶然遠縁(実母多喜のいとこにあたる)で村上の地主だった文学好きの伊藤忞(つとむ)と出会ったことで伊藤と急速に親しくなりました。そして立野隆三、積田キヨ、山田清三郎らを誘い、大正11年(1922)1月、19歳の時、短歌の同人誌「簇生(そうせい)」を五井で創刊しました。
編集兼発行人は伊藤忞(つとむ)で、顧問には歌人の半田良平を迎えました。信之はここに小説、詩、戯曲、短歌などを発表するなど精力的に活動しましたがこの年の8月には資金難でやはり廃刊。一方で信之は千葉の寒川に伊藤と家を借りて住み、6月に千葉文学社を設立して青年向け文芸雑誌「千葉文化」を創刊しました。が、伊藤との交流を心配した祖母の反対でいったん呼び戻され、信之は五井町役場の書記となっています。ただし伊藤、山田らと大正11年(1922)11月には無産派雑誌「新興文学」を創刊しており、文学への情熱が消えることはなかったようです。
※「新興文学」は翌年8月に9巻で終刊しましたが、小川未明や高橋新吉、小林多喜二、秋田雨雀、尾崎
士郎、壺井繁治、平沢計七ら錚々たる作家も寄稿しており、同い年の小林多喜二(明治36年10月13
日生まれでわずか4日違い。当時は小樽高商に在学中)との親交もそこから始まるといいます。なお村
上諏訪神社には伊藤忞の名が残る石碑がいくつかあります。
大正12年(1923)には関東大震災がありましたが、信之の実家は無事でした。このとき彼は朝鮮人と社会主義者が結託して暴動が発生しているとのデマを聞き、革命到来の予感に胸をとどろかせたといいます。しかし何事も起こらず、信之は大正13年(1924年)、22歳で佐倉歩兵第57連隊に入隊しています。2年間の軍隊生活で彼は創作上、多くの題材を得ました。ただし大男で体力のあった彼にとって軍隊生活はさほど辛いものではなかったようです。むしろ脚気気味なのを利用して一カ月入院し、その後中隊の事務を任せられるなど要領よく振る舞い、あまりひどい目に遭わずに済んでいたようです。
除隊後、五井町役場を辞めた信之はしばらくブラブラしていましたが、山田に軍隊での体験を基にした小説を書くように勧められて「標的になった彼奴」を書きあげました。この作品は信之の文壇デビュー作となります。昭和3年(1928年)4月終刊号「前衛」(前衛芸術家同盟の機関誌)に発表され、まずまずの好評を博しました。これに自信を得た信之は上京し、いわゆる作家生活に入ります。
軍隊での経験と農民としての体験をふまえて彼は20代中ごろから精力的に執筆し、ナップ(全日本無産者芸術連盟:1928年の3.15事件以後、日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合体して成立)の機関誌「戦旗」に「軍隊病」「赤い空」「豪雨」「小作人」「少年隊」など次々と作品を発表しています。特に「軍隊病」は反戦、反軍国主義小説として大きな反響を呼び、プロレタリア作家としての名声を上げました。また「豪雨」は新感覚派の横光利一にも激賞されました。信之は昭和4年(1929)、「戦旗」の編集長になり、翌年にはナップの書記長になるなどプロレタリア作家の中で重要な地位に就いています。
しかし有名になった分、官憲の追及を厳しく受けるようになり、昭和5年(1930)6月、同居していた小林多喜二とともに収監され、信之は日本共産党への資金提供容疑で検挙されて豊多摩刑務所に服役することになりました。彼は翌年2月に保釈され、出所しましたが獄中で転向を表明していました。転向とは社会主義的な思想を捨てて今後は国家の方針に逆らわないことを公に宣言すること。
当時、特別高等警察による拷問で共産党員を中心に獄死するものが相次いでいました。組織も壊滅状態に陥る中で転向を表明した人は立野以外にも多数にのぼり、周辺では山田清三郎や窪川稲子(佐多稲子)も事実上、転向したとみなされております。
立野は転向表明後、懲役2年、執行猶予5年の判決を受けています。一方、転向を拒んだ小林は昭和8年(1933)2月、再度捕まり、築地署で逮捕されたその日のうちに特別高等警察による激しい拷問の末、死亡してしまいました。
山本宣治の甥にあたる安田徳太郎博士の所見によると下腹部から大腿部にかけて赤黒く内出血し、大腿部には錐のようなもので十数か所刺された跡があるとのこと。しかし警察の発表では心臓麻痺による病死とされていました。
参考文献
・須田 茂「房総諸藩録」崙書房 1985
・川名登編「房総と江戸湾」吉川弘文官館 2003
・山本光正「幕末農民生活誌」同成社江戸時代叢書9 2000年
・中谷順子「房総を描いた作家たち」暁印書館 1998年
・大室 晃「市原人物譚」海潮社 1983年
・坂本哲郎「房総の文学風土」中谷順子 笠間選書 1980年