§6.市原の郷土史その73.天羽南翁のこと

 

千葉市村田町神明神社南翁碑

 

総限北以一水日境川其注海之処民戸数十倚岸成邑名日村田村青松白沙岸芷汀蘭有塵外之趣云有隠君子生焉日天羽楽園先生名譲字大我通称日譲父日玄尚南総市原郡国吉村人業医有四子先生其季也玄尚素信仏夙有以先生為僧之意文政八年(1825)先生甫7歳入武射郡妙本寺就主僧日志受経従善勝寺主某学浮屠術(注:漢の時代、仏教を浮屠術と言っていた)旁修漢学(注:鈴木一堂の門下となる)天保三年(1832)日志移于浜野村本行寺先生随焉六年日志為京都妙満寺主先生復随焉越年而帰其在京也與柏原正克交正克通国学先生就而学之多所得一四年(1843)聘為村田泉福寺主旁下惟授徒当是時勤王之説漸興先生亦盛唱之志士触忌諱而逃匿者必訪先生先生皆優待之士為免逮捕多安積武負亦匿于先生家去慶応中江戸浅草慶印寺新営伽藍成僧徒聚而落之因奏楽而舞童蓋率旧章也俄有幕命停之僧徒錯愕夫措先生適在江戸為牒執政事得寝僧徒大悦贈金謝之二年転姉崎妙経寺主明治三年(1870)各宗派僧徒胥謀建学舎卑辞聘先生為学監先生慨然応之入京寓于𣴎経寺既而僧徒因事相争先生乃辞帰十六年(1883)先生有所大感蓄髪還俗専授生徒従游者漸衆先生於芸莫不究琴棋書画至詩歌俳諧皆極其玅然無定師性恬たん不膠物真率自勝與大沼枕山嶺田楓江大竹石舟大槻磐渓市川湫村等親善三十二年(1899)十一月二十三日以疾歿於家距生文化巳卯(1818)十二月二十三日享年八十有一葬泉福寺娶三須氏生一男一女男日皐(こう)承後有遺稿若干巻今茲甲辰(1936)二月門人相謀欲樹碑以表先生徳持状而来請余文師在世之日生等屡請建寿蔵碑師不可日如余頑愚何以銘墓為叩其経歴輙答不知是以今不可知其詳唯誌先生所記則足矣顧余之未見先生也先生別文推奨不措既相識之後視余猶子可不謂知己乎而今此謂不可以不文辞也先生仏谷愛雨之號晩年自称南翁村田之民至今仰其徳云銘日

 

 偉歟南翁 仏名儒行 歯徳倶高 人莫不敬 

 身雖亡矣 遺風永存 長松亭々 流水湲々

     江南 藤崎由之助 撰

     嗣子     皐 書

  昭和11年春建之

 

現代語訳(…「天羽南翁がこと」佐倉東雄…平成23年度歴史散歩資料…を基にカッパ

 が多少、意訳を加えている)

 

「南総の北は川で区切られ、川は境川(=村田川)と呼ばれていた。その境川が海にそそぐ地に民家数十軒が集まり、村をなしていた。名を「村田村」という。岸辺は白砂青松の美しき地であり、この俗塵を離れた地には素晴らしい君子がひっそりと暮らしていた。天羽楽園先生その人である。本名は譲、字は大我、通称を日譲といった。父は玄尚といい、南総市原郡国吉村の医者で4人の子があった。先生はその末っ子だった。父の玄尚は仏教への信心厚く、早くから先生を僧侶にさせるつもりだった。

 文政8年(1825)、先生は7才にして武射郡妙本寺に入り、その住職日志について経文を習い、善勝寺住職某より漢学を教わった。

 天保6年(1835)、日志が京都妙満寺貫主になると先生もこれに随って京都に行き、翌年、帰郷した。在京中は柏原正克と付き合い、彼から国学について学ぶことが多かった。

 天保14年=1843年、村田泉福寺の住職となり、仏事に励む傍ら塾を開いて生徒に教えた。勤王思想が勃興すると先生もまたこれを唱え、幕吏に追われた志士をよく匿った。安積武貞も先生の家に匿われた一人である。慶応年中、江戸浅草の慶印寺の新築伽藍が完成し、僧侶や信徒達を集めて落慶法要した際に、古式を採用したところ、突然、幕命によって法要の中止を迫られた。多くのものがこれに慌てふためいたが先生は老中に文書を送り、法要の再開にこぎつけた。僧侶や信徒たちは大いに喜び、これに感謝した。

 明治2年(1868)、姉崎妙経寺住職となった。

 明治3年(1869)、各宗派の僧達は相談して学舎を建て、先生を学監に招いた。先生は快く応じて京都に行き、承教寺に寓居した。しかしやがて僧たちが事あるごとに対立したため、先生は学監を辞めて帰郷した。

 明治16年(1882)、先生は大いに感ずる所あって髪を伸ばし、還俗して塾に専念することとなった。生徒は次第に増えていった。

 先生は六芸六事(六芸:礼・楽・射・御・書・数。周代に士以上の者にとって必須の学芸。六事:慈・倹・勤・慎・誠・明という六つの徳)すべてに通じ、琴棋書画、詩歌俳諧にいたるまであらゆることを極めていた。しかし 師匠を定めず、こだわりの無い性格で、私欲がなく、真面目だった。他人とは隔たりを設けず、率直に語るため、多くの人と交際した。大沼枕山、嶺田楓江、大竹石舟、大槻磐渓、市川湫村などとは特に親しかった。

 明治32年(1899)、11月23日、病を得て自宅で死去した。文政2年(1819)12月23日に生まれて享年81歳の生涯であった。泉福寺に葬られる。三須氏の娘を娶り、一男一女をもうけた。長男は皐といった。後で聞いたが遺稿が若干巻あるという。

 今、明治37年(1904)2月、門人たちが相談して先生の徳を表したい旨の書状を持って余(藤崎由之助)に撰文を書いてほしいとの要請があった。南翁存命中は生徒達の「寿歳碑」(師の存命中に建てる碑のこと)建立の願いは通らずにきた。師は自分のような頑愚に建碑はふさわしくないと固辞してきたからである。未だに碑は建てられていない。

 余は先生と面識が無かった時に先生が余の文章を読み、推奨して下さった。後に余を我が子の如く面倒を見てくださった。そうして今、先生の碑の撰文を任されることになった次第である。先生には別に「仏谷愛雨」の号があり、晩年は南翁と号した。村田村民は今に至るまでその徳を仰いで碑に銘記する。

 

 南翁は偉大なり。僧でありつつ、行いは儒者であった。徳高く尊敬しない者はいな

 い。身はたとえ滅びたといえども遺風は末永く残るだろう。松の枝が伸び続け、水

 が谷川に注ぎ続けるように…

 

村田町泉福寺墓石・天羽南翁先生碑

          天羽南翁の墓石:明治32年(1899)11月23日没

 

      天羽南翁先生碑:ここでは明治32年(1899)12月26日没となっている

 

・天羽南翁門人

 門人 イロハ順

 飯豊 利一              

 初芝 弁蔵

 西田 増次郎                    

 加藤 庄司

 川上 ??

 加藤 兼吉

 加藤 久太郎

 川上 規矩(川上南洞)

 米澤 喜三郎

 田村 栄次郎

 永嶋 善五郎

 中嶋 清太郎…源建通歌碑

 宇田川 卯之松

 奥田 守中

 大久保 平吉

 大久保 与七郎

 草田 勘五郎

 山越 弥惣吉

 山本 日悟

 鎗田 孫吉

 山本 荘三郎

 松山 由次郎

 丸木 平九郎

 近藤 弥四郎

 明石 三吉

 安藤 常太郎

 天羽 圓如

 臼井 禎次郎

 鹿野 市右衛門

 鹿野 八五郎

 鹿野 省三

 鹿野 三之助

 鈴木 威一

 増田 啓蔵

 丸山 福松

 初芝音次郎

 

  以上38名

 

 

 天羽南翁は還俗後、村田町の泉福寺で私塾を開き、地域の若者たちに漢詩文を中心とした学問を授けた。門人の一人川上南洞(その74で詳述)もまた八幡で南総学校を開き、地域の若者に中等教育に相当する教育を授けている。戦後、直木賞を受賞した作家の立野信之は中退してしまうが、一時期、南総学校で学んでいた。

 碑に刻まれた38人の門人たちはみな、川上のようにそれぞれ地元の発展に貢献していく有為な若者たちであった。

 

 

 

旧市役所八幡支所碑(市原市八幡):明治18年(1885)

飯香岡八幡と道を挟んで隣接する白山神社の向かいにある市原商工会議所に右手奥にポツンと碑が建っている。

 

 

・天羽南翁撰文概要

「維新巳来(いらい)、道路・橋梁の構造、官舎・学校の建築、日に進み、月に興こり、商估(しょうこ)の利、農産の殖、ことごとく挙がらざるなし。嗚呼何ぞそれ盛んなるや。この時にあたりて本村、猶、邨衙(そんが)の設を有する能ず。十七年五月六日、建議する者一たび始めてこれを村会に付す。唱すれば衆皆饗応す。企図の急、及ばざるを恐るるがごとし。戸長五十嵐親氏、心をおきて事に当たり、桔据(きっきょ)奔走し、またよくその任を尽くし、相い与に規席し、すなわち村の共有金と有志者の二損をもって、もってその費に充つ。また投票し、董(とう)工委員を選挙せる中、その選ばれたる者は川上親三郎、萩原昇吉川上冲五郎(規矩のこと)たり。この時に際し、町村連合区画変更の事有り。ゆえをもって果たさず。こえて十八年三月、事を起こし、五月に至りて成るを告ぐ。またなんぞそれ速やかなるや。乃者(ないしや)委員某等来たるに、記をもってし、余に嘱みて曰く。「願わくはこれを石にきざみ、もって後の人に示さん」と。余、聖沢の泊所(およぶところ)、衆庶よく公事に勤労するに感じ、書きてもって付す。」

 建碑発起者:八幡宿総代人 寺嶋久次郎 宮吉長二郎