§6.市原の郷土史72.海辺の争い(後編)
Q.「海岸院」という院号は一体、何を意味しているのでしょう?
「松ヶ島漁業史」(昭和51年 落合忠一)によりますと松ヶ島村は江戸時代の初め、寛永5年(1628)段階では17軒ほどの寒村でしたが徐々に新田開発が進み、元禄元年(1688)には45軒ほどとなっています。とはいえ肥料用の草刈り場に事欠き、沿岸で採取されていた「きさご」が耕作のために重要度を増していました。北青柳村が海浜部に長く伸びていて浜辺の狭い松ヶ島村は肥料確保に苦戦していたのです。
きさごの採取などをめぐる浜辺のトラブルは既に八幡村と浜野村が元禄年間に「浦出入り」で訴訟沙汰に発展、享保2年(1717)には今津村と青柳村でも「浦出入り」が生じてしまい、度々負傷者が出る事態に発展していました。
新田開発の進展にともなう人口増の裏で湾岸部の村々は肥料獲得を巡る熾烈な争いに否応なく巻き込まれていったのです。なお嘉永3年(1850)段階ですが、五井浦の幅は2,585間、青柳浦は約1200間、今津浦は550間に対して松ヶ島浦はわずか100間に過ぎません。
松ヶ島村と隣接する青柳村との因縁の対決は享保8年(1723)の「浦出入り」から本格化します。争いは松ヶ島村が浦境を越えてきさごを採取したことがきっかけでした。幕府の裁定に持ち込まれ、「磯は村前、沖は入会」とされて松ヶ島の敗訴に終わります。
二年後の享保10年(1725)、またもや浦境を巡って青柳村と紛争が起こり、松ヶ島が幕府に訴え出ました。このときは幕府によって両村の境界が引かれ、浜辺においては不利な立場に置かれてきた松ヶ島にとって一定の成果を上げる結果になりました。しかしその二年後、今度は五井村と浦境を巡る争いが生じます。境界に置かれた棒杭が腐り、境があやふやになっていたのが原因と見なされた結果、領主有馬氏の命令で新しい杭が建てられることになりました。
青柳村との争いが再び激化したのは元文5年(1740)のこと。この前の年、松ヶ島側は悪水堀を青柳村側に掘りまげて自村の海岸部を拡張していました。その報復とばかりにきさご採取中の松ヶ島村民が青柳村民に襲われて負傷し、きさご札や採取道具を奪われた挙句に入会漁の差し止めを申し渡されたのです。
再び幕府に訴え出た結果、以下のような示談が成立しています。
青柳村はきさご札と道具を松ヶ島村に返却。
松ヶ島村は堀を元に戻す。
悪水堀に御定杭を建てる。
ただし延享4年(1747)、養老川が川欠けし、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村を抜けて青柳との境あたり字塩場(現在のメガドンキの裏手)で海にそそぐことになります。このため御定杭の設置は遅れに遅れてようやく1751年、四番杭まで建てられました。その一方で養老川の流れが変わったことで次第に悪水堀の北側、字塩場地先に寄り洲が形成されていったのです(図参照:「松ヶ島漁業史」より)。
天明2年(1782)、名主吉兵衛と組頭七郎左衛門は村の発展を支えるべく幕府に寄り洲などの開発を願い出ました。しかしこれまで対立を重ねてきた青柳村と松ヶ島の関係がまたこじれてしまうことを懸念した幕府は開発の願い出を却下します。
天明4年(1784)、浜が無理なら沖を確保しようと考えた吉兵衛は悪水堀の沖方の塩浜開発を願い出ました。幕府はうやむやな姿勢をとり続けましたがやがて村請地(村の共有地)とすることで許可しました。吉兵衛らは早速、潮除け堤を築いて開発に乗り出しましたが高波によって幾度も堤が決壊してしまいます。
天明9年(1788)、吉兵衛は防潮堤を官費で修築するよう幕府に訴え出て許可されます。開発された土地は村人に公平に割り当てられたため、村人の開墾も急ピッチで進められ、耕地は急速に拡大し、「新地」と呼ばれました。
実は松ヶ島はしばらくの間「一給地」であり、天領として代官が支配していました。これに対して青柳は当時「二給地」であり、佐貫藩(富津)阿部因幡守の領分と旗本鈴木氏の領分に分かれていました。吉兵衛はこの点を利用し、私領に過ぎない青柳に比べて公儀の「御領」である松ヶ島は公儀がより重視すべき村であり、松ヶ島の権益拡大が幕府の収入増大にもつながると主張したようです。
こうした主張が取り入れられ、沖方の塩浜開発や防潮堤修築の公費負担が実現したのだろうと落合忠一氏は推察しています。天明6年(1786)、松ヶ島も二給地となり、榊原氏の領地と代官地とに二分されましたが、それでも代官地、すなわち公儀の「御領」は一部存続していました。訴訟沙汰になったとき、松ヶ島の強みはそこにあったようです。
吉兵衛や七郎左衛門(このとき彼も名主となっている)らの尽力によって寛政元年(1789)、「新地」の高入れが実現し、松ヶ島はさらなる発展の土台を築きます。この成果は「西の高入れ」と称されて松ヶ島の古文書に繰り返し取り上げられたといいます。
検地の結果、「新地」の面積は3町6反余り、石高3石4斗近くに達しました。こうして村高が増えることは「小村」として隣村から格下扱いされてきた松ヶ島の成長ぶりを周囲に見せつけ、今までのように見下されなくなるとともに悲願であった海面権の拡大にもつながったようです。確かに海岸幅は埋め立て前が106間に過ぎなかったのに、埋め立て後は一時にすぎませんが195間に拡大しています。
これは村民にとって快挙と言えたでしょう。実際、寛政10年(1798)には松ヶ島の村高は131石余りに達し、56軒、村人は269人を数えました(ただし新地そのものは相次ぐ暴風雨による高波で次第に縮小していき、最終的には三分の二程度になっていく。また海岸幅も100間程度に戻ってしまう)。
しかし青柳村はこれを黙ってみてはいませんでした。「青柳は漁師で暮らし、松ヶ島は海岸がないので百姓で暮らす」という従来の考えから、海岸への進出を繰り返す松ヶ島への敵対心を募らせていたのです。
享和2年(1802)5月、青柳村は五井村と共謀して松ヶ島浦として公認された場所に大木の杭を建てて松ヶ島の発展を阻止しようと企みました。いわゆる「棒杭事件」が幕を開けたのです。松ヶ島村民は激怒し、裁判費用は百姓らで賄うからと村役人に迫りました。
吉兵衛と利右衛門(榊原領分の名主)らは早速、幕府に提訴します。吉兵衛はこのため6月に江戸に出て約70日間滞在し、心身共に激しく消耗してしまいました。8月には病のため評定所に赴くことができなくなり、しかもこれまでの再三にわたる裁判で家産はすっかり傾いていたのです。たとえ裁判費用を一般百姓が請け負うとなっていても有力百姓である名主や組頭はメンツにかけても自腹を切らないわけにはいかなかったのでしょう。また吉兵衛の治療費も相当かさんでいったようです。
一方、青柳側も裁判は不利になるとの判断から病気を理由にお白洲を欠席。五井村は証拠の書類を提出できず、おとがめを受けるなど裁判の行方は混とんとしてきました。結局、奉行所は享保10年の裁許(大岡越前が関与)が既にあることを盾にとり、今更裁定の必要なしとして内済(示談)で解決せよとのお達し。
示談の結果、11月に青柳が建てた棒杭は引き抜かれることになりました。以後、しばらく青柳村との対立は影を潜めていきます。落合氏は吉兵衛家の持ち高を10石前後と推定していますが、度重なった訴訟沙汰で持ちこたえられず、その後、家はすっかり没落してしまったと伝えます。