64.西広貝塚の調査

 

 

 シリーズ「遺跡を学ぶ」080 房総の縄文大貝塚 西広貝塚(忍澤成視 新泉社 2011)よりカッパが抜粋してその内容の一部をご紹介いたします。

 

千葉県の貝塚:およそ700か所で全国一位

 

・市原市の貝塚:縄文期は約40か所…千葉市、市川市、松戸市などに次ぐ多さ

 100mを超す大規模貝塚…西広・祇園原・山倉・山倉山王など。時期的には縄文中期の終わりから後期にかけて。中期主体の貝塚がほとんど無いこと、早期、前期の貝塚もほとんど見つかっていないことが市内の特色。

 

・西広貝塚:直径最大150m、貝の堆積層の厚さ最大2mで屈指の大貝塚。1972年から国分寺台土地区画整理事業に先だって埋蔵文化財の発掘調査開始(七次まで調査が続けられた)。調査と並行して土地区画整理事業が進められ、2003年に終了。

   現在、国分寺台地区には2万5千人余りが暮らしている、市内第一の住宅地となっている。1937年に初めて早稲田大学の西村正衛らによって発掘調査され、戦後、1948年にも再び西村らによって調査されている。

 近年の調査では人骨57体、土偶が一か所からまとまって140点出土(当時日本一の出土量)。イヌ6体、タヌキ1体、ウリボウ1体の埋葬も確認された。

 

・調査手法:4m四方のグリッドを幅50㎝に分割し、貝層断面図を作成して分層し、層毎の貝層を箱詰めしていった。貝塚の遺物すべてを回収し、整理。貝だけで整理箱に約3万7千箱、土器・石器なども1500箱余りに達する前例の無い厖大な資料が集まった。悉皆調査に限りなく近いものとなり、事実上、貝塚は整理箱の中に細分され、移動されたといってよかった。

   1997年からは整理箱内の遺物の整理作業が開始された。そのうち85%は「簡易処理」の対象とされ、内容物から土を取り除くために目が5mmのフルイにかけて水洗いし、残ったものを土器、石器、骨角貝製品、骨などに分類。残りの15%は最終的に目が1mmのフルイにかけて残った遺物をすべて回収し整理する「詳細処理」が施された。こうした水洗いと遺物の抽出作業だけで5年近くも費やされた。

   動物や魚の骨などは分類の為、まずは本物の死骸を入手し骨格標本を作製して分類の参考とした。魚は購入するなどして標本を作製できるが、ウミガメやイノシシ、シカなどは寄せられた情報を基に遠出することもあった。ウミガメの場合、100㎞ほど離れた館山の海岸まで死骸を取りに行ったという。

 

・調査結果

貝類:海水、汽水、淡水それぞれに生息する貝が発見された。総個体数1235669のうち83%をイボキサゴ(径2㎝ほどの小型の巻貝で干潟の砂地を好む…当時、広大な干潟が広がっていたと推量される。今でも小櫃川河口の盤州干潟では波打ち際から1㎞ほど沖合に出ると群棲している)が占めていた。二番目はハマグリで10%ほど。これも干潟の砂地を好む。イボキサゴは身が小さいのでいちいちつまみだして食べるだけでなく、だし汁をとるのに利用した可能性がある。

 

魚類:総個体数6142、およそ30種類。イワシ類16%、マアジ15%、クロダイ12%、キス9%、スズキ・ボラが各5%ほど。沿岸部の表層を群れる小魚が多い。淡水魚も10%ほどでウナギが過半を占める。小魚が多いということは網漁が盛んだったようである。土器の破片を利用した錘が多く見つかっている。クロダイやスズキなどやや大きめの魚は刺突漁で獲ったようでかえしのない小さめのヤス(骨角器)も見つかっている。

 

動物類:哺乳類としては総個体数629、20種類。6割近くをシカが占める。二番目はイノシシで3割ほど。三番目はタヌキで3%ほどなので獲物のほとんどはシカとイノシシである。なお、4番目はニホンザルで1.5%ほど、5番目はウサギで1.2%、6番目にムササビとアナグマが並び、1.1%。珍しいものではオオヤマネコ、カワウソ、オオカミ、クジラ、イルカ、キツネ、テン、イタチなど。

 

鳥類:総個体数106。カモが2割ほど、次にキジが14%、三番目にウとカラスが7%ほどで並ぶ。目立つのはカモ、ウ、アビ、カモメ、ヒシクイ、クイナ、シギ、ミズナギドリ、カイツブリ、ガンなどの水辺に棲む鳥。広大な干潟と川辺に棲む鳥を弓矢などで捕まえたのだろう。

 

道具類

土製品総数1764点。土器等の利器1299点、耳飾り等の装飾品59点、

土偶等の祭祀用具406点。

石製品総数8725点。石鏃等の利器8251点、垂飾103点、石棒等の祭祀用具371点。玉類の素材として滑石、琥珀、ヒスイ(富山や新潟産)

骨角貝製品総数16087点。骨角製のヤス等の利器626点、貝刃(魚の鱗落としや解体、土器の器面調整などに利用…チョウセンハマグリ、アリソガイ、オオトリガイなどの大型二枚貝)などの貝製の利器1212点、骨角製の装飾品504点、貝製の装飾品3256点。装飾品としての利用の多さが注目される。骨角製の装飾品として多く利用されたのはシカの角、イノシシの牙。他にオオカミ、ツキノワグマ、アナグマ、ムササビ、サル、クジラ、イルカ、アシカ、サメ、ウミガメなど。

 

・南房総産の貝製装身具

 貝製装身具3200点余りのうちタカラガイとイモガイ類で700点ほどになり、これまでに東日本で出土した遺物総数に匹敵する数に達した。タカラガイやイモガイは温かい海域に生息し、房総半島付近が生息域の北限になるが、サンゴ礁や岩礁に棲むため、東京湾の干潟には存在しない。

   近くでは館山湾周辺に多く生息している。おそらく3500年ほど前、西広周辺の人々は舟に乗ってか、陸路で100㎞ほど隔たった館山あたりまでわざわざ貝の採集のためにやってきたのだろう。

   なお最も多く見つかった小型のタカラガイ「メダカラ」は二つに割られて「外唇部」だけを切り取った形で見つかっているが、どのような用途に用いられていたのか不明である。土器内に新生児の遺体とともに納められていたケースが確認されている。

 

・集落

 縄文中期末から後期初頭にかけて集落が営まれ、およそ1000年かけて巨大な貝塚を形成した。当初は数軒の竪穴住居が見られるのみ。後期前葉に20軒弱の住居跡が見つかり、集落が発展してきたことがうかがえる。貝塚も環状となって貝層が厚みを増してきている。

   後期中葉には10軒弱となるが貝層は外に向かって広がりを見せている。しかし後期後葉には集落が衰退していったようだ。晩期中頃には集落が消滅したと思われる。その際、多量の祭祀道具(土偶、石棒等)、獣骨が一定の場所に投棄された痕跡がある。

 集落の中央にやや大きめの住居跡(長軸10m)があり、入口から突きあたった奥に掘られた穴から横倒しの状態で土器が埋められ、新生児の骨がタカラガイの加工品とともに納められていた。

   さらに床面には赤く彩られた貝殻(ハマグリ、バカガイなど)が多く見つかった炉の脇にはイノシシの頭蓋骨が置かれていたようで、特殊な役割を持った住居であったことがうかがえる。

 石に恵まれない房総であったため、石材は南東北、北関東、信州、伊豆、伊豆諸島などからもたらされた物が多い600点近くの黒曜石の分析から神津島産のものと諏訪星ヶ台産のものが前半、後半は諏訪星ヶ台と栃木高原山甘湯沢産へ移行したことが分かった。

 15点発見された貝輪に使われたオオツタノハは当時貴重品だったようで通常、一つの遺跡からは1,2点しか発見されない。三宅島、御蔵島周辺で採れたものと思われる。

 

   石材なども含めてこの時代、西広が様々な物資の集散地の役割を果たしていたことが推察される。

 

 

 

 これだけの研究成果を上げ、全国的に注目を集めた西広貝塚だが、上の写真で確認できるように今は跡形もなく宅地化され、碑が建つのみとなっている。わずかにその周辺には貝殻の破片が見られるが、それが貝塚の跡とは市民の多くが気づかない。ましてこの貝塚調査が本として出版されるほど重要なものだったことなど、ほぼ、誰も知らない。だからここを訪れる人はほとんどいない。

 

 古墳の数でもトップクラスの市原だが、貝塚同様、その多くは既に宅地化されていて今はごく一部を除き、存在しない。もちろん、マスコミを騒がせた「王賜銘鉄剣」が発掘された古墳もとっくの昔に消滅している(古墳のレプリカがかわりにつくられたが、やはりレプリカに過ぎない)。

 

 これが市原の現状。

 

 市原ではこれまで発掘調査=遺跡の破壊と言っても過言ではなかった。あくまでも開発のための遺跡調査なのであり、開発優先の原則は揺るがなかった。

 それが高度経済成長期を通じて市原の風景を特色づける、三種の神器「工場・ゴルフ場・ゴミ捨て場(山間部での不法投棄が多い)」の情趣に欠ける残念な景観を生み出してきた。

 

 そして少子高齢化のあおりを受けた南部、養老川の上流は特に廃屋が目立ち始め、乱立したゴルフ場も社用ゴルフの激減でかつてほど繁盛しているようには見えない。おかげでイノシシ、アライグマ、ハクビシンらの進出はめざましく、海浜部の姉崎神社までイノシシが出現しているという。

 

 海浜部の工場地帯にしても石油化学コンビナート、鉄鋼業、造船業などはかつてほどの景気良さはみえない。

 

 最近、工場地帯の夜景を楽しむナイトクルーズが宣伝されているが、どうみても市原の景気を上向かせるほどのインパクトには欠ける。

 

 今更、消滅してしまった貝塚や古墳の多さを誇ることはもう出来ない。市外からも参詣客を集められるだけの寺社は元々、存在していなかった。

 

 つまり市原には小湊鉄道と養老渓谷に田淵のチバニアン、それとわずかに残された里山しか、めぼしい観光資源は見当たらない。

 

 市原の行く末はやはり厳しいようである。