65.市原の戊辰戦争⑦

 

「ふさのそ(ぞ)よめき」上総戊辰戦争見聞録(筆者未詳の新発見史料)君塚斎藤

 操家文書より(「市原市史資料集近世編4」所収)

 

慶応4年(1868)4月11日より閏4月21日までの記録

 ※多少読みやすくするためにカッパが句読点、読み仮名、送り仮名等を補っている。

 慶応四戊辰四月十一日巳之刻過ぎ(午前10時すぎ)、江都(=江戸)より脱走方凡そ二百人ばかり、五井浦へ着船。そのほか椎津、笠上、木更津あたり所々へ着船、上陸。引き続き海陸より毎日、通行あり。重兵隊、撒兵、砲兵義軍、あるいは㋣等の合符等を書き記し、およそ三千人ばかり、木更津、真里谷はじめ、そのほか数か所へ屯集、房総の列藩を応接連合して威勢壮大なり。これにより日々、四方へ往返間断なし。しかるところ、辰四月初めより下総あたりまで軍発向。既に市川、八幡(市川の)、船橋あたりにおいて戦争これある由、相聞こえければ閏四月四日、義軍隊およそ二百人ばかり繰り出しに相なりそうらえども八幡よりただちに引き返しに相なりければ、近日官軍当地の発向、戦争も相なりそうろう様子につき、村中おおいに騒動し、家財、雑具、あるいは畳、建具等にいたるまで片付け、老幼婦女は近里、隣郷へ逃げまどい、今にも合戦に相なるべきやと一同、肝を冷やしけり。

 かくて義軍方隊長福田八郎右衛門、増田直八郎、同差図役池田繁佐郎(ママ)、渡辺新十郎、荒川徳十郎等をはじめとしておよそ百人ほど五井へ出陣し、姉崎に出張。諸方馳せ廻り、見張り所数か所立て、僧俗男女、非人にいたるまで厳しく穿鑿いたしけるところ、同六日夕べ、七つ時(午後4時)、医体一人、俗一人通りかかりけるを北五井において池田氏、これを討ちとり、首級は隊長へ送りけり。右は官軍方間諜菊地道安、豊次郎と申す者のよし。亡骸は五井地内へ埋めさせおき候ところ、一両日過ぎ、掘り返しに相なり、八幡村日蓮宗円頓寺へ改葬し、厚く弔いけるとや。いんぬる程に官軍方、今暁にわたり、八幡、浜ノ村、曽我郷まで押来たり、宿陣のよしたしかに聞こえければ、さらば用意せよと出口出口に塁を築き、砲戦の手当てなく(手当成し?)、村人大勢諸方を見廻り、その備え厳重なり。

 かかるところ、その夜五つ時頃(午後8時頃)、商人体のもの三人通りかかりそうろうにつき、人足共これを咎めしところ、寒川村より岩崎新田へ鮮魚買い出しにまいるよし、答えける。いかにも怪しき体ゆえ、押し捕え、すぐさま見張所へ引き連れ行き、糾明しければ、一人は長藩の卒のよし。ほか二人は五反保の漁夫なりしか。案内者に頼まれ、金二百疋もらいうけまいり候よし答う。右は当村放火のために入り込み、その火の手を合図に海陸二道より官軍一同攻め入る候はからい等のよし白状す。すなわち懐中衣服等改め見るに単物の襟、火薬、付け木等縫い込みこれあるゆえ、火付けに相違なしとて三人をからめおき、用心益々厳密なり。ほどなく右の者を姉ヶ崎へ引き連れ行き、同村海辺で斬首なしける。五反保の漁夫二人は追い放ちけり、命は助かりしとなん。誠に危うかりし次第なり。

 あくれば七日曇天、北風烈しく吹ける。未明に義軍方、池田氏を魁として屈強の兵十余人、八幡村へ襲撃。接戦なしがたく引き取りければ、追々官軍繰り出し来たり。君塚村にて砲戦始まり、同村にて童子二人一砲丸に貫かれ死す。それより納屋原という所にて戦争時を移す。かくて夜は明けわたりける時、海辺に当たりて大砲一声響く。間もなく官軍大勢上陸押し寄せ来たり。五井村をめがけ大砲二、三打ち出しけれども玉は田の中に落ち、人家ともにつつがなし。そのとき藤井、郡本あたりにてラッパ、太鼓の音喧しく聞こえ、四方八面より薩州、長州、備前、大村等の軍勢、紅地に白の菊のご紋の旗を真っ先に押し立て、頭には思い思いの笠をかぶり、筒袖、羽織、細袴を着し、肩には錦の短冊ならびに家々の合符の小旗を差し、剣付き鉄砲を携え、各異人風体にてその勢およそ三千人ほど巍々整々として進み来る。そのうち東兵、池田氏をはじめ、ほか三人まで銃丸を受ければ、大勢に当たりがたく、右往左往に散乱す。当地にて東兵討ち死に三人。官兵手負い数知れず。

 ここに哀れなりしは当村に香具を生業とせし喜三郎というものあり。宵より人足に出、今朝帰宿せしところ、義軍鈴木何某、砲丸を受け、彼宅へ逃げ入り候ところ、官兵追いかけ来たり、即時に鈴木を討ち取りける。喜三郎、大いに驚き、逃げんとするところ、透かす両手を切り、即時に倒れ死す。まことに無惨なる事、それなり。それより寄せ手の軍勢、出津村へ進撃す。養老川の渡船場に東兵、およそ三十人ほど固め居りたりしが、川を隔てて砲戦す。官兵大勢、故事ともせず。川を渡り越し、接戦す。義軍方石川某、踏みとどまり、大勢の中へ切りて入り、奮激突戦目を驚かす働き。敵十余人に手を負わせ、その身も眉間に疵を被り、血眼に入りて働き事叶わず。ここにおいて出津村まで漸々引き取り、見事に切腹なしたりとぞ。残兵、これまでなりと無二無三に切り入り、ここにて十七人、松ヶ島にて十一人討ち死になり。

 官兵討ち死に、手負い若干なりしが、皆々戸板、あるいは駕籠に乗せ、引き取りけるゆえ、その数を知らず。ここにまた、当国鶴牧の領主一万五千石水野肥前侯、最初は朝臣になりたまいしが、先達てより脱走方に説得せられ、連合して兵糧ども少しは貢ぎ、城下あたりも屯集せられしが、今九つ時分(12時頃)、官軍方大勢押し寄せ、大砲打ち掛け、新屋敷という所、焼失す。これによりて肥前侯は何地かへ脱走し、家老共、防戦すべなく、ついに降参す。官兵、城を受け取り、金銀はもちろん、資材・雑具にいたるまで我先にと略奪す。誠に兇暴至極いう計無し。

 また一手の官兵、椎津、笠上あたりまで進撃、このあたりにても戦争これあり。東兵あるいは討たれ、または落ち失せける。さて五井より在方へ向かいし官兵、まづ平田村へ押し寄せ、潜伏の徒これあるやと四方より捜□を放発しけれども、一人も出あわねば、同村にて暫時、休息、昼食等いたしける。これ備前侯の軍勢や、それより村上の方へ押し行ける。しかるに同村地内廿日崎という所に義軍方、七、八人ばかり見張りおりしが、根田、惣社、村上より官軍大勢来るを見て砲声一発響かせしかば、すわここにも敵ありと大勢蟻の如く群れ来り。砲戦し東兵二人戦死、残兵は何地ともなく逃げ落ちける。

 引き続き村上村へ押し寄せ、同村に真言宗にて観音寺という寺あり。脱走兵屯集の沙汰ありければ彼寺を穿鑿せしかども一人も居合わさず。ここにおいて未の刻頃(午後1時頃)、観音寺を放火し、深更に灰燼になる。それより宮原へ進み行き、途中、柳原渡し場にも東兵少々居たりしかば、戦争なし。ただちに宮原村を放火なし、三軒焼失なす。ここに同村前原源兵衛という者あり。この近辺に隠れなく富家なりしが、脱走方屯集せしよし先達てより聞こえありければ彼が宅へ押し寄せ、穿鑿なしけれど居合わさず、これによりて暫時休息し、兵糧等を遣れとせしかども、それ亭主留守のよしにて老婆挨拶ぶり取扱等、すべてよろしからず。よりて四方より発火。本宅、土蔵等ことごとく焦土となりぬ

 また真里谷村に禅宗にて真如寺という大寺あり。ここにも去頃より脱走兵大勢屯集ありければ、今夕、官軍方押し寄せけれども器械等沢山うち捨ておく。はや何処かへ落ち去りけん。一人も居合わさず。これによりて鶏鳴のころ放火し、一宇も残らず灰燼となる。官兵、分捕り若干にしてこれにて漸々鎮静しける。脱走方始め三千人余もありと聞きしが、速やかに何地へか脱走し、今日の戦争にここに八人、彼のところ二十人位にてはかばかしき戦いもなし。せめて勇兵五、六百もあらば勇々しき大合戦にもなるべし。さすれば勝敗いずれにかあらんと思わる。

 同夜、伊州侯の軍勢一千人ほど五井村宿営に相なり、同家の総督籐堂仁右衛門は光明山(千光寺)に宿す。その他大宮山(龍善院)ならびに町家残らず宿営に相なる。しかれども今朝の戦争に村民ことごとく散走し、かつ空き家のみにて一人も居ず。同夜、伊州の手に東兵二人生け捕られ、白山というところにて斬首せられ、首は路傍にありて骸は田中に横たわり、嗚呼感ずべし

 義軍隊わずかの微勢をもって官軍の隊兵に対して闘戦なす事、実に目を驚かす働き勇猛の次第なり。惜しいかな、内に一員の督将なく、外には一方の援兵なくして寡は固より衆し敵すべからず。ついに敗走戦死して骸は田野にさらすとも武名は総場の間にとどめけり。今、七日戦争の場、十余箇所、放火五箇所や、諸方にて東兵の討没都合七十七員なりとぞ。そのうち五井にて五人、いわゆる渡辺喜右衛門、同彦太郎、河合豊吉、鈴木藤原光盛、今一人名前知らず。官兵の闘没、手負い若干にしてその数をしらずと云々。

 

一.木更津に大河内縫之丞という人あり。染物を生業となし、家富み栄えけるが、先代より中村一心斎の門に入り、富士心流の撃剣に熟練しけるが、当代の縫之丞も父の流儀を受け継ぎ、同家大河内何三郎、同舎弟何某三人共武術に長じ、殊に義勇逞しき丈夫にて今般、脱走方に与力し、処々周旋すという。その門人数百人、皆これ義勇を磨き、里人これを称して誠忠隊という。弟何某は七日戦争に討ち死にしたりという風説あり。未詳。二人は北村へ落ちたりという。これまた未詳。

 

一.松波権之丞という人は前将軍家の時より武総房鎮撫使を命ぜられ、右三カ国を巡村せしが、今般の動揺につき脱走してそのところ十四人なり。去る船橋の戦争に官軍方へ回り、忠なし。船橋宿砲撃、放火は松波が所為なりという。しかるに同四日、五井泊まりて義軍隊へ加入のことを乞われしに、隊長福田肯いて入隊させおく。それより姉ヶ崎へ同伴なし、ここにて船橋戦争のあり様、その意を得ずと談判せしが、松波答話に詰まりしところ、福田氏、即座に斬首せしとぞ。この松波氏は元薩藩なりしが、十カ年以前より幕府に奉仕して登用せられしが、今、古主へ回り、忠なせしとも、又元来薩の間諜なりともいう。これ未だ知らざるにあらず。

 

一.当国小田喜城主松平豊前侯、二万石。朝敵たるにより御勅使柳原卿、御発向にて官軍大勢打ち寄せたりしが、防戦かなわずついに虜となりたまい、佐倉侯へ御預けに相なり候よし。家士は京都へ御供せし輩はそのところの寺地へ御預け、国備えは町宅にて恭順のよし承る。

 御勅使柳原卿は房総残らず御発向と聞きしかども、閏四月廿一日、潤井戸御旅泊にて浜ノ村より御乗船、横浜へ御着船ありしとぞ。

 

 以上、五井戦争に関わる新発見の資料をご紹介いたしました。かなり徳川義軍に肩入れした立場からの記述が目立ちますが、他の資料では登場しない人名やエピソードもあって、非常に興味深い内容です。