49.市内の宝篋印塔について(後編)
永徳寺と同様、個人の供養のために建てられたと思われる同時期の宝篋印塔が近くに二基あるので紹介しておこう(南蔵寺と玉泉寺)。二つとも2メートルに満たない高さでひっそりと建っている。逆に医光寺などのものと同様、隅飾りがあるが3メートルほどに高層化し、角柱宝塔型と同じ性格を持つと推量される塔で年代不明のものが二基(東泉寺と無量寿寺)ある。見比べてみると一目瞭然だろう。先の墓塔よりも後者がシンボルタワーとしてより高層化し、その存在をアピールしているのが分かる。最後に形態上よく似た宝塔が大和田光厳寺(年代不明)にある。さらには浄土宗の八幡稱念寺と姉崎最頂寺には供養塔として宝篋印角柱宝塔が用いられている。これらも参考までに。
ご覧のように光厳寺のものは形態からみても陀羅尼経を納めた文言(宝篋印陀羅尼経を書写して塔に納め、一香一草を供えて供養すれば罪禍を消滅し、死後は必ず極楽へ往生できるという功徳が説かれている)からも角柱宝塔型の宝篋印塔と考えてよいだろう。四仏種字の部分が欠損、紛失してしまったものと推察している。だとすれば寸胴な印象から享保期のものであろうか。
最頂寺のものは「三界万霊塔」と住職などの供養塔を兼ねている。八幡稱念寺も基本的には墓石、供養塔として建てられている。形態上は宝篋印角柱宝塔であるがいずれも笠石の下に来るはずの四仏種字が見られない点にも市内の真言宗寺院とは異なった造塔目的が伺われよう。およそ市内では真言宗寺院が独占していたこのタイプの塔を浄土宗寺院が敢えて採用したいきさつが知りたい。きわめて興味深い事例である。
なお隣接する袖ケ浦市には真言宗寺院が多く、江戸時代の宝篋印塔も数多く存在する。しかし市原市内のような角柱宝塔型の宝篋印塔は少ないようで加来氏のデータを調べると三黒西福寺の三界万霊塔(文化13年=1816)や久保田薬蔵寺のもの(享保4年=1719)などしか見当たらない。ただ隅飾りのあるタイプで若干高層化しているものは他に幾つか見られる。シンボルタワー的な利用が目立つ市原の影響の一部がもっぱら従来の宝篋印塔の高層化という形で袖ケ浦に波及していったのかもしれない。
・角柱宝塔型宝篋印塔に関する私的推論
市内で角柱宝塔型の宝篋印塔が初めて出現するのは、現在確認されている限りでは1722年(享保7年)のことである。菊間千光院にあるこの塔は高さ1.9メートルほどで、基壇の正面に若宮光明講の文字があり、光明講が中心となって造立されたようである。
能満の釈蔵院と菊間の千光院は18世紀後半になって新四国八十八か所の札所を市原郡内に導入する上で中心的な役割を果たしたと思われるが、そうした試みの大きなきっかけとなったのが空海の950回忌(1784年)であった。それはやがて来るべき千回忌(1834年)にむけての準備を兼ね、市原郡内真言宗寺院総力を挙げての大掛かりな企画となるはずであったと考えられる。
実際、これに先立つ900回忌(1734年)の際にも千光院は無縫塔を建てて法要を行い、900回忌を祈念している。千回忌に向けての助走は既に千光院を先頭に始まっていたと推量できる。開祖空海の千回忌という、千年に一度の重要な節目に向けて徐々に宗門を盛り上げ、中心となってこれに備えるべく様々な企画を次々に立ち上げてい
たのはやはり能満釈蔵院と菊間千光院のようである。特に七里法華地帯に隣接する菊間千光院では法華宗の動向に常時、脅威を感じ続けていたに違いあるまい。
現在の数値ではあるが市内の寺院数は約200。内、真言宗が90を占めて市内最大勢力となっている。2位は日蓮宗で40。3位は曹洞宗で37となる。残りは天台宗が24。この四つの宗派が市内では主流派といえよう。維新期に廃仏毀釈で多くの寺院が破却されて消えていったというが、だとしても江戸時代においてその構成比には大差なかろう。
真言宗が市原ではダントツの一位とはいえ、七里法華地帯が通る千葉市では一位と二位が逆転する。千葉に隣接する八幡、菊間の真言宗寺院は当時も法華宗の隆盛ぶりに常時、脅かされていたはずである。
開祖日蓮の450回忌は1731年であり、空海の900回忌のわずか3年前。そのとき郡内の日蓮宗寺院では次々と日蓮の供養塔を建てて盛大な法要を行っていた(特に姉崎妙経寺の日蓮供養塔は高さ4メートル近くの威容を誇る。この年は他に有木泰安寺、東国吉妙照寺、潤井戸泰行寺が日蓮供養塔、根田根立寺が題目塔を建てている)。
元来、法華宗寺院は門前に題目塔という法華宗独自のシンボルタワーともいうべき塔を既に持っていた。そこにさらに日蓮の巨大な供養塔が建っていく…この法華宗の動きに真言宗寺院として対抗しないわけにはいくまい。三位の曹洞宗もまた多くの場合「禁葷酒入山門」などと刻まれた結界石が門前に立ち、禅宗寺院のシンボルとしての役割を分かりやすく果たしている。これにたいして我が寺院にそうした意味での分かりやすいシンボルはあるのか…
もしかして焦りすら覚えた千光院の住職がまず江戸周辺で享保年間に流行し始めた角柱宝塔型の宝篋印塔を郡内でいち早く導入し、真言宗門徒のシンボルタワーとしてこれを郡内真言宗寺院に広めたのではあるまいか。それは空海900回忌(1734年)を目前に控えた1722年。千光院は率先してこの塔を建て、周辺の真言宗寺院にも造塔を勧めて結縁の機会を設けた上でさらなる宗門の結束を図ろうとしたのでは…と個人的には考える。
真言宗で郡内最有力の能満釈蔵院がこのタイプの塔を建てたのはやや遅れて1758年である。たしかに有力な寺院らしく非常に手の込んだ美麗な塔ではあるが、造塔のタイミングとしては空海900回忌に間に合っていない。もしかしたら菊間千光院の「独断専行」気味の企画に対して釈蔵院側に多少のためらいがあったのかもしれない。何はともあれ釈蔵院が遅れてしまった事情は不明であるが、30基以上が遅くとも空海千年忌までには市内各地の真言宗寺院で造塔されたようである(中には角柱宝塔型ではないものもあるが、6基ともシンボルタワーにふさわしく高層化している点で造塔の趣旨は同じものと見なせるのではあるまいか)。塔の分布を見ると郡の枠を多少とも超えつつ、徐々に釈蔵院や千光院の影響力が周辺各地に及んでいったと思われる。
またそれにやや遅れて郡内には1782年以降、新四国八十八か所の札所塔も建てられていき、両塔あいまって宗門隆盛が祈念されていったと考えられる。実際、宝篋印塔だけでは真言宗の独自色を打ち出す点で物足りなさがあったのだろう。塔は高層化した上、値段が高価なことも手伝って門外に晒しておくことができなかったようだ。塔のほとんどは境内に建てられている。このため、遠くからでも目立つべきシンボルタワーとしてはかえって役不足にも見える。
一方、「南無大師遍照金剛」などと刻まれた新四国八十八か所の札所塔の方が、ズバリ、真言宗らしさが出ていて、門前に建てるのにも都合が良い。安価で塔が低くても門近くにあって目立つ点では宝篋印塔よりもシンボルタワーにふさわしいのが札所塔であった。このため宝篋印塔の欠点を補うかのように札所塔は郡内の多くの寺院に建立されていったのではあるまいか(現在51基確認)。
なお新四国八十八か所の導入に先立つ1781年は日蓮の500回忌にあたり、瀬又正蓮寺、古市場妙長寺、下矢田法円寺、永吉永久寺で題目塔、山木妙栄寺等で日蓮供養塔が建てられている(その50を参照のこと)。ここでもライバルの動きが郡内の真言宗寺院を刺激して新しい企画をもたらしているようなのだ。さらに天明の大飢饉のインパクトが加わり、荒廃した人心の救済を図る手段としても新四国八十八か所の「お遍路」が推奨されたのだろう。
ただし空海千回忌は東国においては折悪しく天保の大飢饉の惨状(被害のピークは1733~34)の中で迎えることとなった。900回忌、950回忌と徐々に盛り上げてきた釈蔵院と千光院を先頭とする真言宗活性化の試みは、どうやら大飢饉の窮乏に襲われて千回忌という肝心要の段階では尻すぼみの状況に追い込まれてしまったようだ。
実際、折角、シンボルタワーを建ててさらに新四国八十八か所の札所巡りを始めたにも関わらず、北総に比べると市原郡内の「お遍路」はその後もイマイチ盛り上がりに欠けていたという。また日蓮宗側も日蓮550回忌を迎えた1831年は根田根立寺で題目塔と日蓮供養塔が建てられているのみであり、ややさびしい印象は免れない。真言宗、日蓮宗ともに大飢饉の影響で高価な石塔を建てられるだけの余裕を失っていたように思える。
失速の原因は天保の大飢饉だけとは限らないのかもしれない。19世紀に入ると富士講が各地に作られ、富士信仰は市原において一大ブームを巻き起こしていた。出羽三山への信仰も力強く継続していた。密教を一つの源流とする山岳信仰が江戸後期の旅行ブームに乗って民衆の心を強くとらえ始めていたのだ。皮肉にも身内の信仰から生まれた修験道を基盤の一つとするとする山岳信仰は人々の目を霊山の存在しない平坦な市原からはるか遠くの険しい山岳地帯へと向けさせていった…
さらに伊勢参りの流行も加わって遠方への物見遊山自体が庶民にも身近な存在となり、泊まりがけの遠出が人々の憧れの的となっていた。とすればそれほど遠出とは言えず、山岳地帯でもない平地ばかりの市原郡内の「お遍路」はもはや郡内の民衆にとって、宗教的にも行楽的にもその魅力を失ってきていたのだろう。造塔に対する飢饉による影響が天明の時にはほとんど見られなかったことも加味すれば、山岳信仰の隆盛こそが19世紀前半における真言宗寺院の宗勢拡大策失速の真因ではあるまいか?
以上、憶測に憶測を重ねた駄文でありますので、あまり真に受けないで下さい。
でも、ここまで読まれた方、ありがとうございました。
そしてお疲れさまでした。
これにめげず、今後とももよろしくお願いいたします。