50.市内の題目塔及び日蓮・日什・日泰供養塔

 

 

市内の題目塔及び日蓮・日什・日泰供養塔一覧

 

所在地

年代

人物

その他

1

八幡妙長寺日蓮像

寛文4年=1664

日蓮

 

2

久々津本照寺題目塔

享保3年=1718

 

 

3

瀬又正連寺題目塔

享保6年=1721

 

 

4

有木泰安寺題目塔

享保13年=1728

 

門右

5

有木泰安寺供養塔

同上

日什

読誦塔

6

神崎真浄寺題目塔

享保14年=1729

 

法界(三界)万霊

7

滝口本妙寺題目塔

同上

 

 

8

永吉永久寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

9

根田根立寺題目塔

享保16年=1731

日蓮

日蓮450遠忌

10

有木泰安寺供養塔

同上

日蓮

450遠忌

11

姉崎妙経寺供養塔

同上

日蓮

450遠忌

12

東国吉妙照寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

13

潤井戸泰行寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

14

中野光徳寺題目塔

同上

日蓮

 

15

新堀法光寺題目塔

享保17年=1732

 

 

16

天羽田安誠寺日蓮像

享保20年=1735

日蓮

 

17

姉崎妙経寺題目塔

同上

 

門左・自我偈読誦塔

18

福増本念寺題目塔

元文元年=1736

 

 

19

滝口本妙寺供養塔

元文2年=1737

日蓮・日什

 

20

姉崎妙経寺供養塔

元文6年=1741

日什

250回忌

21

八幡円頓寺供養塔

同上

日什

 

22

天羽田安誠寺題目塔

延享2年=1745

 

 

23

山木妙栄寺題目塔

延享3年=1746

 

 

24

山田佛蔵寺題目塔

寛延3年=1750

 

 

25

原田本傳寺題目塔

宝暦3年=1753

 

 

26

喜多寿福寺供養塔

宝暦4年=1754

日蓮・日什

 

27

下野本泰寺題目塔

宝暦6年=1756

 

2基

28

姉崎妙経寺題目塔

同上

 

墓地・法界万霊

29

草刈行光寺題目塔

宝暦8年=1758

 

 

30

有木泰安寺題目塔

宝暦11年=1761

 

門左

31

下野本泰寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

32

下野本泰寺題目塔

同上

日什

供養塔

33

加茂長栄寺題目塔

宝暦13年=1763

 

 

34

犬成安立寺供養塔

明和3年=1766

日蓮

 

35

島野善龍寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

36

八幡円頓寺供養塔

明和4年=1767

日泰

八幡の権八

37

永吉永久寺題目塔

明和9年=1772

日蓮

供養塔

38

久々津本照寺供養塔

安永2年=1773

日什・日泰

法界万霊

39

潤井戸青年館題目塔

安永7年=1778

 

 

40

中野光徳寺五輪塔

安永8年=1779

日蓮

日蓮500遠忌

41

櫃挾東泉寺題目塔

同上

 

写経塔

42

野毛法泉寺宗祖開山塔

安永9年=1780

日蓮・日什

 

43

八幡妙長寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

44

瀬又正蓮寺題目塔

安永10年=1781

 

 

45

古市場妙長寺題目塔

同上

日蓮

500遠忌

46

下矢田法円寺題目塔

同上

 

 

47

番場墓地題目塔

同上

日蓮

左・500遠忌

48

山木妙栄寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

49

皆吉妙蔵寺題目塔

同上

 

 

50

永吉永久寺題目塔

天明元年=1781

 

門左

51

潤井戸光福寺題目塔

同上

日蓮

供養塔

52

古都辺行福寺供養塔

同上

日蓮・日什

500遠忌

53

天羽田安誠寺供養塔

同上

日蓮・日什

 

54

姉崎長遠寺供養塔

同上

日蓮

500遠忌

55

八幡胴埋塚題目塔

天明2年=1782

 

法界万霊

56

畑木墓地題目塔

天明6年=1786

 

 

57

姉崎圓能寺供養塔

天明8年=1788

日蓮・日什

 

58

姉崎真如堂供養塔

寛政4年=1792

日蓮

 

59

島野善龍寺題目塔

寛政6年=1794

酒巻氏

写経塔・供養塔

60

野毛法泉寺題目塔

寛政9年=1797

 

写経塔

61

喜多寿福寺題目塔

寛政11年=1799

 

 

62

加茂長栄寺題目塔

享和2年=1802

 

法界万霊

63

東国吉妙照寺題目塔

享和3年=1803

 

 

64

金剛地本宮寺題目塔

文化元年=1804

 

法界万霊

65

姉崎真如堂題目塔

文化5年=1808

 

 

66

松崎圓成寺題目塔

文化8年=1811

 

 

67

海士有木墓地題目塔

同上

 

日枝神社側

68

八幡妙長寺題目塔

文化12年=1815

 

 

69

八幡円頓寺題目塔

文化13年=1816

 

安藤佐平治

70

潤井戸泰行寺題目塔

文化年間

 

年号判読困難

71

中野光徳寺題目塔

文政2年=1819

 

 

72

有木泰安寺題目塔

同上

 

経典塔

73

東国吉妙照寺供養塔

文政5年=1822

日什・日泰

 

74

下野本泰寺題目塔

文政10年=1827

 

 

75

本郷西光寺題目塔

同上

 

 

76

山木妙栄寺題目塔

文政11年=1828

日蓮

経典・供養塔

77

永吉永久寺題目塔

文政12年=1829

 

門右

78

潤井戸光福寺題目塔

文政13年=1830

日蓮

供養塔

79

古市場妙長寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

80

番場墓地題目塔

同上

 

81

中野光徳寺題目塔

同上

日蓮550遠忌

供養塔

82

根田根立寺題目塔

天保2年=1831

 

 

83

根田根立寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

84

瀬又正連寺題目塔

同上

日蓮

奥・550遠忌

85

中野光徳寺供養塔

同上

日蓮

550遠忌

86

久々津本照寺供養塔

天保3年=1832

日蓮

 

87

下野本泰寺題目塔

天保5年=1834

日蓮

供養塔

88

久々津本照寺供養塔

天保12年=1841

日什

 

89

奈良本泉寺題目塔

弘化5年=1848

日什

安藤佐平治

90

大作法行寺供養塔

安政2年=1855

日蓮・日什

 

 ※他に年代等が判読困難なものとして題目塔では姉崎圓能寺、椎津行傳寺のものが挙げられる。また

  山田佛蔵寺の日蓮供養塔、山木妙栄寺の日蓮像、新堀法光寺の日蓮供養塔も年代不明。

 

 宗教法人名簿によると寺院数で40か寺、市内2位の数を誇る日蓮宗の寺院には他の宗派に祀られているような石造物が極めて少なく、石造物のレパートリーが相当限られていることで知られる。特に千葉市と隣接する市域は「七里法華」地帯に属するため、八幡や菊間といった一部の地域を除くと日蓮宗寺院が圧倒的に多く、多様な石造物には恵まれているとは言いがたいゾーンである。このため筆者としてはかねて苦手意識を感じてきた領域であるが、ようやくにして日蓮宗系石造物のデータがそれなりにたまってきた。そろそろ整理して考察を加えるべき時期に来たようである。

 日蓮宗寺院独特の石造物として特筆すべきものは題目塔と日蓮等の供養塔の二種であろう。それらの市内における石造物をひとまず年代順に整理したのが上記の一覧表である。

 日蓮宗寺院は開祖日蓮(1222~1282)の450回忌(1731年)、500回忌(1781年)、550回忌(1831年)を祈念した供養塔(顕本法華宗・妙満寺派の場合には日什や日泰の供養塔も)を年忌法要の前後に建てている。そのことが一覧表からも確認できる。特に市内の日蓮宗寺院の中で大きな影響力を持っていた中野光徳寺はそれぞれの御遠忌に題目塔や供養塔を必ず建立している。なお姉崎妙経寺の日什250回忌の供養塔一基を例外とすると日什や日泰の供養塔に関してはさほど「・・・回忌」というタイミングは考慮されていないようである。開祖日蓮の突出した立場がここからも窺える。

 日什(1314~1392)は南北朝期、様々な門流に分裂してしまった教団の状況を憂えて法華経及び日蓮の著作のみを奉ずる立場をとり、京都に妙満寺を創建した。この日什門流から妙満寺派や顕本法華宗が生じ、市内には姉崎の妙経寺など有力な顕本法華宗寺院が存在している。日什の供養塔が祀られている寺院は基本的には顕本法華宗に属すると考えて良い。

 日泰(1432~1506)は妙満寺派に属し、武蔵国品川を拠点にして江戸湾沿岸部への布教に努めていた。伝説ではある日、土気城主酒井定隆が安房の里見氏を訪れるために品川から乗船したところ沖合で暴風雨に見舞われ、乗り合わせた日泰の祈祷で無事、浜野に到達できたことで日泰に深く帰依するようになったという。

 日泰は文明元年(1469)、浜野に本行寺を創建、文明5年には品川に本光寺を再興するなど、江戸湾の海上交通を利用して当時盛んに布教活動を行っていたようである。酒井定隆を弟子にした日泰はさらに教線の拡大をはかるため、酒井に働きかけて「改宗令」を出させたようだ。そうしたこともあってか長享2年(1488)、千葉から土気、東金にかけて支配を拡大した酒井定隆は領内一円に日蓮宗を強制する「改宗令」を出したという。これに反対する寺院は破却されるか、移転を余儀なくされた(菊間の千光院等)とも言われる。

 以後、約100年間、酒井氏五代に渡って日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)が領内に浸透し、現在でも山武の南部から市原北部と千葉までのおよそ七里四方は日蓮宗寺院280か寺を数える(上総七里法華)。特に茂原、東金、大網に密度が濃い。「改宗令」の真偽はともかく、日蓮宗寺院がこれだけ密集して存在するのは全国的にも珍しいという。市原市でも八幡円頓寺は日泰が老後を過ごした寺であり、顕本法華宗の勢力は七里法華にかかる市の北部を中心に円頓寺をはじめとして姉崎妙経寺など市内の各地にも及んでいる。

 日泰が創建した浜野の本行寺は江戸時代になって御禁制の不受不施派に共鳴する住職が続いたため、本行寺の影響が強かった七里法華の地域の僧侶や信者が幾度か幕府に厳しく弾圧されていた。

 不受不施派は豊臣秀吉が1595年に方広寺供養のために諸宗派の僧を呼び集めた際、日蓮宗の中から日蓮宗を信仰しない者の施しを受けることや施しをすることを潔しとせず、一切の招きにも応じない反骨の姿勢を貫く立場をとる者(日奥)が出たことをきっかけに成立したもの。江戸時代になってその反権力的な姿勢が幕府からにらまれたためキリシタン同様、弾圧の対象とされた。 

 ※同様の動きは備前、備中でも見られたようだ。

 たとえば寛永12年(1635)、日浄と四人の信者が野田(千葉市緑区誉田町)で斬首され、万治元年(1660)には本行寺の日逞が伊豆大島に流罪となっている。日逞は流罪後も島から手紙を信者に送るなどして布教を続けた。処刑を恐れた信者の一部はそれでも信仰を守ろうとして表向きは他宗の寺院に属しながらも、「納戸題目」「内證題目」などと称し、隠れ部屋などで密かにお経を唱え続けたという。

 さて一覧表を見たときに気づくのは日蓮宗系石造物が18世紀以降になってから目立ってくることである。17世紀のものは八幡妙長寺の日蓮像のみ。しかもこれは墓地内から再発見されたものという。幕府による不受不施派への過酷な弾圧は日蓮宗寺院全体をも萎縮させていたのだろうか?七里法華地帯を有する市原地区への幕府の、17世紀における警戒感は相当強かったに違いない。記念すべき日蓮の400遠忌は1681年にあたる。しかし筆者は400遠忌の供養塔を市内では一基も確認できていない。17世紀後半、既に市内各地で石造物が盛んに祀られてきた時代なのに・・・である。

 筆者が確認した限りでは市内2位の数を誇る日蓮宗寺院の17世紀における石造物は墓石を除くと草刈行光寺の石灯籠(寛文5年=1665)なども合わせてわずか5基に過ぎない。しかも内2基は筆子塚である。17世紀の市内石造物(筆子塚以外の墓石を除く)の総数は筆者が確認したものだけでも157基にのぼる。この数にはたとえ神道系の石造物が含まれているとしても日蓮宗系の石造物はあまりにも少なすぎ・・・の印象が否めない。

 但し日蓮宗寺院のトレードマークとも言える題目塔が年代不明の物を含めると日蓮宗の総寺院数をはるかに上回る63基を数えるのはさすがといえばさすがであろう。なお題目塔は日蓮独特の強烈な書体、いわゆる「ヒゲ文字」で正面に大きく「南無妙法蓮華経」と記された石塔であるが、塔の側面にも様々な内容が記されている。多くは法華経の一節を繰り返し写経したり、自我偈を何万回も読誦したりした記念や、日蓮等の供養塔を兼ねて造塔されているのである。この点では真言宗寺院に見られる宝筐印塔と同じで、滅多に造ることができなかった大きくて高価な石塔には様々な願いが込められていたのだろう。また造塔の際、時には村を越えて大勢の協力で造られたことも窺える。造塔を通じて門徒の結束力を高めようとの狙いが宗門側にあったことは疑えまい。

 なお表中の「その他」の欄は題目塔に余り関心の無かった時に側面を見ないままで済ましていた事が多くあったため、十分な調査結果とはなっていない。間違いや見落としが相当あると思われる。是非、ご教示、ご指摘願いたい。