48.市内の宝篋印塔について(前編)
・角柱宝塔型の宝篋印塔
隅飾りに際立った特色を持つ宝篋印塔は宋から伝来してきた仏塔で、元来はインドのアショカ王が舎利塔(スツゥーパ)から仏舎利(釈迦の遺骨)を取り出し、新たに造った8万4千基の小塔(阿育王塔)に分納し、世界中に分置して仏教の流布を図ったという故事に起源を持つという。したがって特定の形態を持つ舎利塔の一種となる。
他方でやがて宝篋印陀羅尼経を奉納した塔の功徳を説くお経が現れ、宝篋印陀羅尼経を奉納することを念頭に造られてきた塔も新たに出現してきた。こちらは納経塔の一種なので、塔がどのような形態をとるかは明記されていない。
※宝篋印陀羅尼経の一文:八幡満徳寺の宝篋印塔銘文 「経云 況有衆人 或見塔形 或聞鐸声
或聞其名 或当其影 罪障悉滅 所求如意 現世安穏 後生極楽」
「経にいわく いわんや衆人ありて あるいは塔形を見、あるいは鐸声を聞き、
あるいはその名をして後に極楽に生ずと」
純粋に形態だけで考えればこれは別石位牌型石塔、ないしは笠付角柱宝塔とされるだろう。
ここでは前者の、特定の形態を持つ舎利塔、すなわち、もっぱら供養塔として造塔されてきた方の宝篋印塔を扱う。
江戸初期の宝篋印塔は中世のものに比べて相輪部が長大化し、「ツクシ」のような外観を呈する。江戸時代前半を中心にもっぱら個人の墓石や各種の供養塔に利用された宝篋印塔で塔全体はスリムであるが相輪部が太く、結果的に全体の太さがあまり変わらず、凹凸感に欠ける、やや太めの「つくし=土筆」のような形態をとるもの。中世の宝篋印塔と比べると風格が劣るように見受けられるが、江戸時代はもっぱら僧侶や武士ら特権階級の墓石として普及したようである。便宜上、このタイプを仮に「ツクシ型」と命名しておこう。
18世紀に入ると凹凸感に関しては中世のころのような形態に戻るが、隅飾りの部分の反りが強くなり、花が開いたような形になる。これも便宜上、「開花型」と名付けておく。
一方、享保期からは隅飾りの無い、屋根状の笠石を持つ塔(角柱宝塔型)が出現しした。安藤登氏によると菊間千光院の享保7年(1722)のものが市内最古のようである。
さらに江戸時代中頃から見られるようになる高層化した造りは「高層型」とし、両方の特色を兼ね備えた複合タイプの塔を「ツクシ高層型」あるいは「開花高層型」、「角柱宝塔高層型」としておく。もっとも「高層型」に関しては造立当初からの特色なのか、後代に高層化されたものなのかは特定できない点、留意しておく必要がありりそうだ。また「高層型」か否かはあくまで相対的な観点であり、一応の境目を高さ2メートル以上なのか以下なのか、あるいは基壇部の重なり具合に置いたが、非高層型との境界はかなり曖昧である点、ご容赦願う。
角柱宝塔型の宝篋印塔は安藤登氏の指摘によると市原の真言宗寺院に多い石塔と言われる。市内最古は菊間千光院の享保7年(1722)。次いで八幡満徳寺の享保11年(1726)、上高根稱禮院の享保14年(1729)、青柳光明寺の享保15年(1730)、島野三光院と海保遍照院の享保16年(1731)、今富正光院の享保17年(1732)、今津朝山能蔵院の享保18年(1733)といった具合に市北部の真言宗寺院に相次いで造られており、このタイミングが注目される。
初期の享保年間のものは多くが2メートル程度の高さにとどまり、寸胴なスタイルでややスマートさに欠ける印象を受ける。しかし1740年代に入るとたちまち3メートル近い高さのものが出現する(蓮蔵院:1743年)。加えて塔身も細長く、かなりスマートに見えるようになる。また18世紀後半になると釈蔵院や満光院に見られるように、基礎部分を重ねていくことで全体の高さをかさ上げしていく傾向も顕著に見られるようになる(=高層化)。
市北部の角柱宝塔型を中心とする宝篋印塔年代順リスト表
|
寺院名 |
年代 |
特徴等 |
1 |
菊間千光院 |
享保7年=1722 |
享保年間のものは寸胴で背が低い、という特徴が強く見られる。門前に各種石塔と並んで建てられている。造立当初の位置とは違うかもしれない。角柱宝塔型の宝篋印塔としては市内最古。 |
2 |
八幡満徳寺 |
享保11年=1726 |
山状に集積された古い墓石の中央に建てられている。 |
3 |
上高根稱禮寺 |
享保14年=1729 |
初期のものにしては高層化しており、装飾性もある。当初からこのような姿だったのか不明。墓所とは分離。 |
4 |
島野三光院 |
享保16年=1731 |
低層ではあるが、かなり大きめで装飾性あり。ただし歴代住職の墓石の端に置かれ、シンボルタワーとしての位置にはふさわしくない立地。 |
5 |
海保遍照院 |
同年 |
やはり歴代住職の墓域に近く、目立たない場に建つ。やや高層化 |
6 |
★中高根常住寺 |
享保17年=1732 |
笠石に隅飾りあり。墓所とは分離。高層化 |
7 |
今富正光院 |
同年 |
古墳上に置かれている。高さ2mほど |
8 |
今津朝山能蔵院 |
享保18年=1733 |
初期の特色が見られる。墓所とは分離し、入口近くに建てられている。やや高層化 |
9 |
馬立龍源寺 |
同年 |
本寺は曹洞宗だが近くの廃寺から預かったものらしい。墓所の隅に置かれている。低層。石工は姉崎の八郎兵衛 |
10 |
八幡稱念寺 |
同年 |
本寺は浄土宗だが角柱宝塔型の宝篋印塔を墓石、供養塔として建てている。姉崎最頂寺と同様、市内ではレアケースである。 |
11 |
不入斗薬王寺 |
享保19年=1734 |
光明真言塔などと並び、墓所とは分離。低層。 |
12 |
高坂薬王寺 |
同年 |
フォルムは不入斗のものとよく似ており特に相輪部はそっくりだが高層化。 |
13 |
海保霊園無縁塔内 |
寛保2年=1742 |
青柳飯福寺にあったもの。ただし他の塔との寄せ集めであり、詳細不明。 |
14 |
引田蓮蔵院 |
寛保3年=1743 |
高層化している。以下、ほとんどの塔が同様に高層化。ただしこの塔は本堂横の墓所隅に建てられている。大勢の結衆によらず、地主の館野家によって造立。 |
15 |
牛久円明院 |
同上 |
近年の地震で一度、倒壊。墓所とは明確に分離して存在。高層化・装飾化が進む。 石工仁兵衛・勘右衛門 |
16 |
★大厩延命寺 |
延享2年=1745 |
笠石に隅飾り。高層化し墓所の一画。三界万霊塔、納経塔、湯殿山供養塔などを兼ねる。 石工:和泉屋久兵衛(江戸八丁堀) |
17 |
中高根秀明院 |
同年 |
墓所とは分離。やや高層化。 |
18 |
柏原持宝院 |
延享3年=1746? |
墓所とは分離。低層で大勢の交名あり。 |
19 |
五井龍善院 |
寛延2年=1749 |
墓所とは分離。装飾的。石工:和泉屋久兵衛 |
20 |
宮原明照院 |
寛延3年=1750 |
笠石に屋根瓦風の彫り。墓所に隣接。 石工:和泉屋久兵衛 |
21 |
姉崎最頂寺 |
同年 |
「三界万霊塔」として墓所にあり、浄土宗の寺院である。四仏の種字が無く、宝篋印塔としての性格を欠いているが、形態的にはほぼ角柱宝塔型宝篋印塔に属している。 |
22 |
★米沢農業協同館 |
宝暦3年=1753 |
廻国塔であることを大きく前面に出している点で個性的な塔といえよう。 |
23 |
椎津霊光寺 |
宝暦4年=1754 |
光明真言塔などと並んでいる。墓所とは分離して存在。徳川宗武が娘の寿福を願って建立。 |
24 |
糸久圓乗院 |
宝暦6年=1756 |
墓所内にあり、住職の供養塔。この時期のものでは珍しく高層化せず。 |
25 |
菊間福寿院 |
宝暦7年=1757 |
山門の傍らにあって墓所とは分離。 |
26 |
能満釈蔵院 |
宝暦8年=1758 |
様々な飾りが彫り込まれ、高層化とともに装飾化もかなり進んだ贅沢な石塔。墓所とは分離。 |
27 |
荻作満光院 |
宝暦8年=1758 |
やや表面が摩耗し、読みづらい。墓所の隅に建つ。 |
28 |
★西国吉医光寺 |
宝暦14年=1764 |
笠石に隅飾りあり。高層化し墓所と分離。 石工は木更津の高橋八郎右衛門 |
29 |
町田不動尊 |
明和4年=1767 |
墓所とは分離。 |
30 |
惣社国分寺 |
明和5年=1768 |
かつて七重塔跡に建てられていた。墓所とは分離。 石工八幡の瓜本権八。 |
31 |
分目慈眼寺 |
安永3年=1774 |
釈蔵院の末寺。墓所とは分離。 |
32 |
君塚明光院 |
安永4年=1775 |
相輪部が欠損。墓所とは分離。開演と栄寛の名が見える。3m以上の高さ。 石工は姉崎の広瀬紋治 |
33 |
★今津朝山延命院 |
安永8年=1779 |
隅飾りが小さく残る。墓所の隅に立地。形態的にはかなりユニーク。 |
34 |
馬立佛眼寺 |
天明元年=1781 |
墓所とは分離。 出羽三山、善光寺巡拝塔 |
35 |
勝間龍性院 |
寛政2年=1790 |
例外的に個人の墓石として造立。 |
36 |
村上観音寺 |
寛政9年=1797 |
市内最大級の石塔。墓所とは分離。 |
37 |
青柳正福寺 |
文政13年=1830 |
読誦塔。墓所に隣接するが分離。 |
38 |
★深城無量寿寺 |
年代判読困難 |
高層化し墓所とは分離。隅飾りあり。 18世紀後半か?石工はおそらく木更津の高橋八郎右衛門 |
39 |
★廿五里東泉寺 |
年代判読困難 |
高層化し墓所とは分離。隅飾りあり。 石工 木更津の高橋八郎右衛門 |
40 |
青柳光明寺 |
享保15年(1730) |
墓所とは分離。ただし元の場所から移動?相輪部が外れている。廻国塔を兼ねる。 |
41 |
大和田光厳寺 |
年代判読困難 |
墓所とは分離。18世紀中頃か?四仏種字の部分が欠損? |
42 |
上原光徳寺 |
年代判読困難 |
墓所の一画にある。このタイプとしては最小サイズ。高さ1メートルほど。 |
43 |
西野徳蔵寺 |
年代判読困難 |
墓所の一画にある。市内真言宗の寺院としては珍しく早川家の墓石として建てられている。高さ2メートルほど。 |
※★印は形態的には隅飾りがあり、普通の宝篋印塔に分類されるもの。ただし高層化し、特定個人の
供養墓としての役割よりも集団的な信仰の対象としての役割が強く出ていて、隅飾りのない角柱宝
塔形式のものと同じ造塔目的を有するものと考えられたため、この一覧表に掲載した。なおここに
掲載された寺院のほとんどは真言宗であるが、八幡稱念寺及び姉崎最頂寺は浄土宗で馬立龍源寺は
曹洞宗である。稱念寺や最頂寺になぜ角柱宝塔形式の宝篋印塔があるのかは不明であるが、龍源寺
のものは近くで廃寺となった寺院から預かったらしい。角柱宝塔形式に限るとカッパは現在、市内
で36基を確認。
表中に★のついたもの(今津朝山延命院、中高根常住寺や大厩延命寺、西国吉医光寺)は隅飾りがあり、基本的にはこの時期における普通の宝篋印塔といってよい形態。ただ大厩延命寺の場合、「三界万霊塔」や寒念仏、廻国供養など集団的な目的に基いて建てられている。同様に常住寺や医光寺のものは高層化し、かつ墓所から分離していて、ただの個人の墓石、供養塔ではないようである。そうした点で他の角柱宝塔型のものと同じ目的をもって建てられたと考え、一緒に取り上げてみた。
宮原明照院や五井龍善院のものは笠を瓦屋根状に彫り込み、龍善院にはさらに石灯籠にあるような連子模様がある点でかなり装飾的な造形になっている。いずれも石工は江戸八丁堀の和泉屋久兵衛である。彼の工房はとても評判が良かったのだろう。大厩延命寺の塔も造っており、18世紀中頃、市原郡内から頻繁に石造物の注文を受けていたようである。府中釈蔵院のものは明照院や龍善院の装飾的な側面を持ちつつ、高さと優美さとで突出している。当初の背が低く、寸胴で飾り気のないものから、やがて高層化し、装飾性を増してスリム化する傾向が出てきたのであろう。
実は東京周辺にも江戸中期以降に造られた、同形式の塔が数多く残されているようだ。どうやらこれは江戸中期以降、関東中心に流行した形態らしい。そしてそのフォルムの斬新さに魅了された市内真言宗の有力な僧侶(能満釈蔵院か菊間千光院の住職?)が早速、真言宗寺院のシンボルタワーとしてこれを普及させようと周辺の真言宗寺院に喧伝して回ったのではあるまいか(もちろん、市原以外の地では特定の宗派、目的に拘束されずに広く造塔されたのだろう)。
実際、競合的立場だった日蓮宗には古くから独特の書体で目立ってきた「ひげ文字」の題目塔が、さも日蓮宗寺院であることを誇らしげに示すかのように門前に建てられてきた。そして市原では寺院数で日蓮宗に肉薄していた曹洞宗もまた「禁葷酒入山門」などと刻まれた結界石が門前にあって、確実に宗派のシンボルタワーとして機能してきた。しかし日蓮宗における題目塔、曹洞宗における結界石に相当するシンボルとしての石塔が当時の真言宗寺院には無かった…新四国八十八か所の札所塔が真言宗寺院のシンボルタワーの一つとして門前に建つのは約半世紀後のことである。
日蓮宗寺院と真言宗寺院との何らかの競合が菊間で起きていた…仮にそうだとしたらシンボルタワー造塔の動きの背景の一つとして考えられるのが寺請制度の確立である。寺請制度の進展によって寺院は檀家への統制を強める必要が生じてきた。そして檀那寺としてのシンボルを寺の中央に建てて宗派内の結束を強めたいという思惑が強く働いたのではないか。特に七里法華地帯が隣接し、他宗派に対していささか批判的で団結力の強い日蓮宗の宗勢が迫る菊間あたりでは、同宗への対抗心と危機感は真言宗の僧侶の間にかなり強まっていたのではあるまいか。
従来の五輪塔や宝篋印塔では特定個人の供養塔や墓石のイメージが強過ぎてしまい、檀家全体のシンボルという集団的機能はあまり期待できない。さらにいえば従来の宝篋印塔は格式ばった、特権身分の墓石としてのイメージが強く、民衆を惹きつけるものではなかったように思える。五輪塔もシンボルタワーとしての一定の高さを保てる形態にはふさわしくない。
どうしても新しいフォルムを取り込み、多宗派との差異を強くアピールすることで民衆の間に同じ真言宗門徒として、同じ寺院に属する檀徒としての一体感を醸成したかったのではあるまいか。だからこそこの塔は多くの場合、墓域と分離した目立つ場所に高く屹立しているのではないか。また時折、光明講や念仏講などの組織で造立され、かつ三界万霊塔や読誦塔のような檀家集団全体に功徳が及ぶ集団性の強い役割を帯びていたのではあるまいか。
ただし角柱宝塔型で個人の墓石と思われる例外的な塔が勝間龍性院と西野徳蔵寺にある。個人の墓石としての宝篋印塔と集団的な性格を帯びた宝篋印塔との形態上の区別はほとんどできない。ならばほぼ同じ時期の両塔を見比べてみよう。永徳寺は曹洞宗、医光寺は真言宗であるが同じ西国吉にあって数百メートルほどしか隔たっていない。造立年も3年の差しかなく、比べるのに適していると思われる。永徳寺のものはあくまで個人の供養塔として造られた。高さも2m弱である。医光寺のものは高さ3m余りあってシンボルタワーとしての風格がある。ただし笠石の周辺は酷似していよう。隅飾りが水平方向に開いていくこの時代の傾向が両塔とも顕著に伺える。実際、見た目には高さの違いくらいしか目立たない。
このポイントから、両塔の違いは見た目の形態よりも造塔の目的にあると私は個人的に仮説を立ててみた。個人の供養塔とは違い、真言宗寺院共通のシンボルタワーとして高く屹立する方向に進化した塔…この点こそが安藤登氏の指摘した宝篋印角柱宝塔の本質的要素と捉えてみたらいかがか。とすれば高層化した隅飾りのある宝篋印塔も角柱宝塔型と同じ目的を持って造塔されたのかもしれない。