47.お地蔵様について
・市内のお地蔵様について
ここでは墓石はほとんど取り上げなかった。また数え方としては独立型でも六体すべて年代が同じ六地蔵の場合は一体とみなして数えてある。今のところ元号が確認できたもののうち17世紀に造られたお地蔵様は計22体である。17世紀のものの多くは丸彫りか地蔵塔で比較的長身であることが多い。また一石六地蔵も目立つ。この時期のものは基本的に丁寧な造りで、傑作が多いといえよう。
18世紀は地蔵の最盛期で83体を確認している。18世紀の前半はおそらく江戸の石工によるものが多いようで、洗練されてはいるが顔が小顔で卵型の画一的な作風が目立つ。18世紀中頃は次第に丸顔が目立ち、首が太く肉厚の印象を受ける。おそらく丸彫りの場合、地震などで倒れた際に頭部が欠け落ちるケースが目立ってきたからであろう。
19世紀に入ると江戸期に属するものは14体となり、修験道系の石造物や祠が急増する傍ら、地蔵の作例はかなりの減少傾向が見られる。また一石六地蔵や石塔型で道標を兼ねるものが目立ってくる。単独の丸彫りは小型化し、特に北部ではほとんど姿を消していく。しかし今津朝山の田中地蔵尊や米原大通寺、山口放光寺(これらのお堂内は小さな地蔵が数多く奉納されている。どうやら願が叶うとお礼に小さなお地蔵を奉納したようである。田中地蔵尊は石造、大通寺は塑像か陶製のもの、放光寺は木造の地蔵が多い)、徳氏の「イボとり地蔵」などに見られるように特定の疾患に対する地蔵信仰は相変わらず根強かったようだ。
「石のカルテ」(川村純一 崙書房 1993)によると今津朝山の「田中のイボ地蔵」は奉納された地蔵の中には宝暦年間のものもあり、地元では古くから有名な地蔵様であった。ここでは地蔵に供えた小石を借りてきてイボを擦るとやがてイボがとれるとされ、とれれば石を倍にして地蔵に返す習わしだった。全国的には田中地蔵尊のようにイボを何らかのものを用いて擦り落とす方法がよく見られたが、蛸の吸引力にあやかって「蛸薬師」や「蛸地蔵」を祀り、蛸を禁食して蛸を描いた絵馬を奉納する風習も広く見られた。
地蔵の作例は極めて多く、墓石を除いたとしても市内で二、三百例はあると思われる。しかし残念ながら頭部の欠損だけでなく、磨滅によって文字部分が判読できないことも目立つ。市内で元号が確認できているのはカッパの調査では今のところ151体に過ぎない。
お地蔵様は寺院の境内だけでなく、墓地や村外れなど、人目の付きやすい屋外でその多くは風雨に晒されてきた。それだけ村人にとって身近な存在であり、また身近であらねばならなかったのだろう。どんなに風化し、磨滅が進んでも野ざらしのまま、よだれかけをかけられ、さらには頭巾などをかぶせられて村はずれの道端などにそっと佇んでいるのである。
・房総の六地蔵
町田茂氏によれば六地蔵は県内で1806基、市内で114基確認されている。現在で
も建立が続く、民衆になじみ深い仏である。地蔵はそもそも釈迦入滅後から弥勒が下生するまでの56億7千万年もの無仏時代、救世主として六道に遣わされ、民衆を教化する役目を負っている。
石材が地元で確保できない房総においては水運に恵まれた県北や西上総(特に君津周辺)で石仏が多く見られ、六地蔵も同様である。江戸時代前半は伊豆方面から江戸に運ばれてきた石材(安山岩)を江戸の石工が細工した完成品が五大力船に載せられてもたらされる事が多かった。
また石材を江戸から購入し、石工を江戸から呼び寄せて現地で完成させることもあったらしい。
後半になると江戸湾に面した港に石工が集まってきて、地元での加工が可能になってきた。県北は江戸湾に加えて利根川、江戸川の水運が発達し、西上総も養老川、小櫃川、小糸川の水運で内陸部までの搬入が可能となった。なお外房は運搬に難があり、石仏が少ない傾向がある。また七里法華地帯は極端に石仏が少なく、房総の中央部を挟んで文化的に有る程度の断絶が見られるという。たとえば南北では石仏の様式が多少異なり、六地蔵に関しては北総では丸彫りや舟型光背の個体型が多いのに対して南総は石幢型(西上総)や石板型の一石六地蔵(安房)が目立つらしい。
県内最古は君津市法木作の塞神社に祀られている応永9年(1402)で石幢型。市内最古は不入斗薬王寺のやはり石幢型で寛永21年(1644)。六地蔵は六観音や阿弥陀如来などと組み合わされることも多い。輪廻車(後生車、念仏車とも)との組み合わせも県内では22基、確認されている。なお西上総では道標を兼ねたものが多く、27基あるらしい。
市内の主な地蔵年代順リスト(古い順)
年代 |
所在地 |
特色・タイプ |
寛永15年(1638) |
椎津瑞安寺 |
延命地蔵 |
寛永21年(1644) |
不入斗薬王寺 |
一石六地蔵(石幢) |
明暦2年(1656) |
八幡稱念寺 |
丸彫り長身大 |
万治3年(1660) |
菊間福寿院 |
丸彫り長身大 |
寛文2年(1662)? |
中高根常住寺 |
一石六地蔵・小 |
寛文4年(1664) |
市原光善寺 |
地蔵塔中 |
寛文5年(1665) |
妙香龍本寺 |
丸彫り中 |
同年 |
椎津瑞安寺 |
丸彫り大 |
寛文10年(1670) |
西野徳蔵寺 |
地蔵塔墓石中 |
延宝元年(1673) |
大坪龍興寺 |
地蔵塔中 |
延宝4年(1676) |
五井守永寺 |
一石六地蔵大 |
延宝7年(1679) |
武士法泉寺近く |
地蔵塔(舟型) |
延宝6年(1678) |
新巻正福寺 |
地蔵塔(舟型) |
延宝8年(1680) |
椎津瑞安寺 |
地蔵塔墓石 |
天和年間 |
浅井小向墓地 |
地蔵塔・舟型光背 |
貞享2年(1685) |
飯給真高寺 |
一石六地蔵 |
貞享3年(1686) |
五所満蔵寺 |
地蔵塔大 |
貞享5年(1688) |
山田橋養福寺 |
地蔵塔小 |
元禄6年(1693) |
八幡稱念寺 |
一石六地蔵 |
同年 |
郡本多聞寺墓地 |
地蔵塔小 |
元禄7年(1694) |
武士建市神社 |
愛宕大権現(勝軍地蔵) |
同年 |
海士有木日枝神社近く |
地蔵塔中 |
元禄12年(1699) |
五井龍善院 |
一石六地蔵 |
同年 |
養老長泉寺 |
一石六地蔵 |
元禄13年(1700) |
不入斗西光院 |
丸彫り中 |
元禄15年(1702) |
姉崎最頂寺 |
北向地蔵塔 |
同年 |
皆吉白山神社脇 |
日記念仏講 |
元禄16年(1703) |
西国吉渕龍寺 |
一石六地蔵 |
宝永元年(1704) |
五井下谷墓地 |
丸彫り大 |
宝永5年(1708) |
海保遍照院 |
丸彫り中 |
同年 |
君塚明光院 |
地蔵・廻国塔 |
宝永7年(1710) |
宿長栄寺 |
地蔵塔 |
正徳4年(1714) |
山小川長泉寺 |
半跏踏下 |
同年 |
不入斗薬王寺 |
地蔵塔 |
正徳5年(1715) |
古敷谷西蓮寺 |
丸彫り中 |
同年 |
吉沢鳳来寺観音堂 |
地蔵塔 |
同年 |
朝生原宝林寺 |
独立型六地蔵大 |
正徳6年(1716) |
畑木医王寺 |
丸彫り中 |
享保2年(1717) |
石神路傍(中) |
丸彫り中 |
享保3年(1718) |
新生祐巌寺 |
地蔵塔 |
同年 |
小谷田墓地 |
丸彫り中 |
享保4年(1719) |
久保墓地 |
丸彫り中 |
同年 |
椎津瑞安寺 |
丸彫り中 |
享保5年(1720) |
小田部宝泉寺 |
丸彫り小 |
同年 |
藤井霊園 |
丸彫り中 |
同年 |
原田交差点近く(左端) |
丸彫り小 |
同年 |
寺谷玉泉寺 |
丸彫り小 |
同年 |
上高根馬場台墓地 |
丸彫り中 |
享保6年(1721) |
安須正壽院 |
丸彫り中 |
同年 |
松﨑神照寺 |
一石六地蔵 |
同年 |
馬立沢辺墓地 |
基礎部分 |
同年 |
堀越路傍 |
一石六地蔵大 |
享保7年(1722) |
向原共同墓地 |
丸彫り |
同年 |
不入斗薬王寺 |
地蔵塔小 |
享保8年(1723) |
不入斗路傍 |
丸彫り中 |
同年 |
新巻正福寺 |
丸彫り中 |
同年 |
葉木共同墓地 |
独立型六地蔵 |
同年 |
石塚墓地 |
丸彫り中 |
享保9年(1724) |
養老南原集会所 |
丸彫り大 |
同年 |
皆吉公民館 |
丸彫り中 |
同年 |
山口薬師堂 |
舟型光背・廻国塔 |
享保11年(1726) |
高坂路傍 |
丸彫り大 |
同年 |
朝生原渓谷橋付近 |
丸彫り大・廻国塔 |
享保12年(1727?) |
戸面夕木熊野神社 |
六地蔵石幢 |
享保13年(1728) |
椎津新田路傍 |
丸彫り中 |
同年 |
浅井小向墓地 |
丸彫り中 |
同年 |
武士法泉寺近く |
地蔵塔(舟型・寒念仏) |
享保18年(1733) |
山口薬師堂 |
櫛型・廻国塔 |
同年 |
今津朝山一丁目公民館傍 |
基礎 |
享保19年(1734) |
西野徳蔵寺 |
丸彫り小 |
享保20年(1735) |
上高根薬師堂 |
丸彫り中 |
同年 |
佐是光福寺 |
一石六地蔵(道標) |
元文元年(1736) |
高坂路傍(林中) |
丸彫り中 |
元文2年(1737) |
大厩十二天神社脇 |
地蔵塔 |
同年 |
姉崎最頂寺 |
丸彫り半跏踏下 |
同年 |
上高根行屋 |
地蔵塔 |
元文3年(1738) |
廿五里宇佐八幡 |
道標 |
同年 |
海保中谷公民館 |
地蔵塔(舟型) |
同年 |
妙香第二公民館 |
地蔵(座像) |
元文4年(1739) |
若宮墓地 |
地蔵塔墓石小 |
寛保元年(1741) |
村上白幡神社脇墓地 |
丸彫り大 |
延享元年(1744) |
八幡無量寺 |
廻国塔・地蔵塔 |
同年 |
郡本正光院 |
地蔵塔大 |
延享2年(1745) |
二日市場大光院 |
丸彫り中 |
同年 |
馬立沢辺墓地 |
地蔵塔 |
同年 |
海保大入神社近く墓地 |
丸彫り小 |
延享3年(1746) |
八幡満徳寺 |
一石六地蔵 |
同年 |
皆吉台裏墓地 |
一石六地蔵 |
宝暦3年(1753) |
皆吉橘禅寺 |
丸彫り六地蔵 |
宝暦4年(1754) |
皆吉墓地 |
丸彫り中 |
同年 |
不入斗大高谷路傍 |
廻国塔 |
宝暦6年(1756) |
君塚明光院 |
道標 |
宝暦7年(1757) |
姉崎正坊山 |
丸彫り中 |
同年 |
中高根墓地 |
丸彫り小 |
宝暦8年(1758) |
山田橋養福寺 |
地蔵塔小 |
同年 |
島野墓地 |
頭部欠損 |
宝暦9年(1759) |
中高根寺之下路傍 |
丸彫り小 |
宝暦11年(1761) |
西広西廣院 |
地蔵塔小 |
明和3年(1766) |
椎津金剛寺 |
丸彫り中 |
同年 |
郡本多聞寺墓地 |
丸彫り中 |
明和4年(1767) |
松ヶ島涼風庵 |
一石六地蔵・道標 |
同年 |
今富路傍 |
道標 |
明和5年(1768) |
牛久会館 |
丸彫 |
明和6年(1769) |
上高根宝生寺 |
丸彫り中 |
明和7年(1770) |
引田路傍 |
一石六地蔵・道標 |
明和8年(1771) |
椎津山谷路傍(左) |
丸彫り中 |
安永2年(1773) |
古敷谷湯原観音堂 |
道標 |
安永5年(1776) |
海士有木日枝神社近く |
地蔵塔小 |
安永8年(1779) |
門前路傍 |
地蔵塔小 |
安永10年(1781) |
岩長善寺 |
一石六地蔵 |
天明7年(1787) |
本郷地蔵堂 |
丸彫り中 |
寛政元年(1789) |
田淵会館 |
丸彫り大 |
寛政4年(1792) |
皆吉観音寺 |
丸彫り中 |
同年 |
西国吉八坂神社脇墓地 |
丸彫り中 |
寛政9年(1797) |
海保森巌寺 |
地蔵塔小 |
同年 |
深城久留里街道沿い |
丸彫り中、頭部欠損 |
享和3年(1803) |
上高根馬場台墓地 |
丸彫り小 |
文化2年(1805) |
椎津山谷路傍(右端) |
道標 |
文化4年(1807) |
外部田薬師 |
一石六地蔵 |
同年 |
柿木台入口路傍 |
丸彫り中 |
同年 |
椎津瑞安寺 |
丸彫り中、寒念仏、道標 |
文化6年(1809) |
門前路傍297号沿い |
一石六地蔵石幢・廻国塔 |
文化7年(1810) |
海保庚申堂 |
地蔵塔 |
文化11年(1814) |
玉前阿弥陀堂墓地 |
地蔵塔 |
同年 |
万田野自治会館 |
丸彫 |
文政7年(1824) |
岩崎大御堂墓地 |
一石六地蔵 |
文政10年(1827) |
廿五里東泉寺 |
一石六地蔵 |
文政13年(1830) |
万田野自治会館 |
丸彫・頭部欠損 |
天保4年(1833) |
大戸公民館(右) |
丸彫り中 |
天保6年(1835) |
大戸公民館(左) |
丸彫り中 |
天保10年(1839) |
田淵耕昌寺 |
一石六地蔵 |
天保11年(1840) |
石神路傍(左) |
丸彫り小 |
天保12年(1841) |
中高根常住寺 |
一石六地蔵 |
同年 |
吉沢墓地 |
六地蔵・舟型 |
嘉永2年(1844) |
五井波淵枡型 |
六地蔵石幢 |
安政6年(1859) |
松ヶ島墓地(永井家) |
一石六地蔵 |