53.市内で最もミステリアスな神社
市内の祠の中でひときわ異彩を放つのが山倉源社の祠群ではないか。祠は小さいものが多く形態はありふれたものだが、「源重俊」「源俊政」などと謎の神名を記す以外、年号も記されない祠が立ち並ぶ。この「源~」という名の複数の人物はネットでいくら検索しても出てこない。ここには他に石製の占星盤(天台宗系か)と思しき八角形の石造物(下の写真)もあり、実に謎の多い社である。
なお「源重俊」等の神号については次のような推測もできよう。実は千葉市にあった生実藩(おゆみ)の藩主森川氏は宇多源氏六角氏の一族堀部氏の庶流にあたるという。従ってその初代藩主重俊は正式には「源重俊」と名乗ることになる。
ならば神号の「源重俊」は森川重俊の可能性があろう。生実ならば山倉から三里も隔たってはいない。
老中まで出世したにも関わらず、二代将軍秀忠に殉死した重俊の名声は市原でも高かったはずであり、彼が山倉の地でやがて神として祀られたとしてもそれほど違和感は無い。他の祠に出てくる「源俊政」も森川一族の一員なのかもしれない。
参考までに生実藩主名を順に挙げておく。重俊―重政―重信―俊胤―俊常―俊令―俊孝―俊知―俊民―俊位―俊徳―俊方。確かに「俊政」の名は見られないが、四代目以降「俊」で始まっており、この神社が生実藩との何らかの関係を持っていた可能性は無きにしもあらず、であろう。
果たして森川氏と山倉村やこの神社との関係は如何に?
天保10年(1839)の三所大権現(出羽三山の神々)碑に記された廣幡八幡は千葉県柏市にある古社だが、なぜここに記されているのか…謎。三所大権現(出羽三山の神々)碑をまつってあるので、ここが八日講の開かれた場所であることは間違いないのだが…他に垂水大明神、剱宮、方違大明神、宇佐神、鎮火(これも火防の神のことで秋葉の神と重なる)など、様々な神をそれぞれ祠にして祀ってある。それらの多くが市内では類例のない神号ばかり。
そもそもなぜこのような各種の神をこの地に集合的に祀る必要があったのか…天台宗に通じていない身としてはもはや完全にお手上げである。
占星盤といい、意味ありげでありながら意味不明の石祠群といい、これほどまでにミステリーに満ちた神社はカッパ自身、見たことが無い。
どなたか、これらの謎解きに挑戦される方、どこかにいらっしゃらないだろうか。
とりあえず探訪されたい方は以下の地図を参考にしてください。
上の地図に出てくる「千葉こどもの国キッズダム」が一番の目安。小湊鉄道の海士有木駅から徒歩で30分弱だと思います。
下の地図の中央、やや下方にある「八幡宮」が別名「源社」です。境内は狭く、駐車スペースはありません。自動車で行かれる場合は坂を上った先の春日神社手前にスペースがあるかもしれません。道が狭いので、十分に気を付けて探訪してください。