52.市内における江戸時代の石祠概観(後編)

 

 庚申塔自体が村はずれに祀られることが多い(疫病神の侵入を防ぐため)。左の写真にように藪の中の場合もあって、祠の場合、低くて小さいため、極めて見つけにくい石造物の代表格である。

 

・市内の石祠概観 

 これまでの踏査の結果を踏まえると年代が特定できるものに限定したとしても市内にはおそらく江戸期の石祠が400基前後は現存しているものと推測する。年代が特定できないもの(元号等の記されていないものや破損、摩耗して判読困難なもの)のうち、外見から江戸時代のものと推定されるものを加えればその倍近くは現存しているであろう。

 今のところ市内の石祠に対する組織的な悉皆調査は行われていないようであるが、個人の屋敷内や山林の中にもポツンと祀られることがよくあるこの石造物の全貌を掴むことは極めて難しいに違いない。まして個人的な努力では市内の石祠を調べつくすことはおよそ不可能であると思われる。以下はカッパが把握できたわずかな石祠をもとに雑駁な印象を述べたものに過ぎないことをまずはご了承願いたい。

 年代のはっきりしているものの内、17世紀の石祠はやはり数が極めて限られている。しかも三猿を刻んだ庚申祠がそのほとんどを占めているようだ。私が把握できている限りではあるが、庚申祠以外の祠が出現するのは基本的に18世紀以降である。

 

 17世紀を中心とする古い祠の場合、外観の特色としては屋根の部分に重厚感があり、母屋にあたる箇所も奥行きがかなりあることも手伝ってか全体的にドッシリとして落ち着いた印象を与える。

 18世紀後半に入ると直線的な輪郭が目立つようになり、次第に軽快、スリムでシャープな印象を持つものが出てくる。また18世紀中頃から奥行きが失われていく分、高さが増してくるような傾向も一部に見受けられる。

 

 

   ただ19世紀、化政期を過ぎる頃からは屋根部分も含めて様々な意匠が登場するなど多様化が進む一方で倒壊を恐れてか、気持ち祠全体の高さは失われてくるようである。また幕末に向けて少しばかり切妻屋根が目立ってくる印象も受ける。

 

 左の祠は「清正公大神祇」とあり、加藤清正を神格化したもので性病に効験ありとされ、日蓮宗系の石造物として市内唯一のもの。ただし、近年、見かけられなくなった。屋根部分が欠損しているので廃棄されてしまったようである。

 

 

 17世紀の祠は庚申信仰によるものが多いため、講のメンバーが集まり大勢で祀ったと考えられる。従って何れも造りが凝っていて多彩であり、それぞれにそれなりの風格がある。18世紀に入っても道祖神や天神を祀る祠、あるいは国分寺台にある根田神社の境外社のように村人全体の為に祀られる祠の場合にはやはり造りが立派な物が見られる。その一方で18世紀以降、稲荷社や疱瘡神など個人的祈願に強く関わる祠が数多く出現したためか、小さくてやや画一的なデザインの祠が目立ってくる。それらの祠のなかには当初、個人の屋敷神として祀られていてやがて神社に遷されたものも少なからずあるだろう。

 なお数の多い子安神系の祠は子安講で造られたものとは限られず、個人的な安産祈願で祀られたものも一部あると思われ、一括りにはできないように思える。

 民衆の成長が見られた江戸時代後半は他の石造物に比べて安価で持ち運びが容易な事もあって各地で石祠が大量に祀られるようになったと思われる。祀られた神々も前半と比べて明らかに多彩である。中には馬頭観音を祀る祠もある。神仏習合が進んだ江戸時代、たとえば出羽三山や富士信仰の流行によって塚上に「…菩薩」「…大権現」という神号をもつ祠が数多く造られている。

 また交通の発達がもたらした負の側面、伝染病の猛威を偲ばせる「牛頭天王」や「疱瘡神」「麻疹神」「大杉大明神」「妙正大明神」の祠も後半には多くなってくる。ただし道祖神の祠は早くから疫病除けの願いが込められて村はずれに祀られてきたせいなのだろう。江戸時代を通じてほぼコンスタントに祀られてきたことが年表から推測できる。