40. 市原の道標
・千葉県の道標
「千葉県の道標」(加来利一 2011年4月改訂)より抜粋して内容をご紹介いたします。
※故金田英二氏の「房総の道標 資料」を参考にしてデータ総数2346基(内、江戸時
代のもの1136基)から
①.市町村別基数でトップ10は…
1 位:市原市 計171基(江戸期88基・明治以降83基)
2 位:香取市 計169基(江戸期72基・明治以降95基)
3 位:印西市 計164基(江戸期74基・明治以降90基)
4 位:野田市 計152基(江戸期104基・明治以降48基)
5 位:千葉市 計137基(江戸期62基・明治以降85基)
6 位:成田市 計117基(江戸期73基・明治以降44基)
7 位:八千代市 計105基(江戸期28基・明治以降77基)
8 位:佐倉市 計91基 (江戸期27基・明治以降64基)
9 位:木更津市 計81基 (江戸期57基・明治以降24基)
10 位:白井市 計68基 (江戸期13基・明治以降55基)
市域が広い上に様々な街道が交差し、枝分かれする市原市が1位となった。2位の香取市は香取・鹿島神宮参拝のための街道に加え、内陸部から利根川の水運の拠点である佐原に向かう街道が交差していたためであろう。印西市や野田市は利根川の水運と水戸街道や木下街道など北関東や江戸へ向かう陸上交通路の要衝だったことが主な原因と考えられる。千葉市の場合、明治以降、県都として急速に都市部が拡大していったため、明治以降の道標が比較的多い。6位の成田市は成田山新勝寺への参詣が江戸期に流行したため、多くの街道が整備されたことが大きな原因。
八千代市、佐倉市、白井市において明治以降の道標が多いのは明治以降の開拓によって新しく道が整備されたからであろう。内房随一の港町木更津は江戸との航路が中心であったせいか、さほど道標が多くない。久留里や高蔵観音に向かう道と房総往還以外に重要な陸路が無かったせいか?
②.最古の道標
・全国では宝治元年(1247)に建てられた大阪府箕面市の勝尾寺町石(チョウイシ、チョウセキ)。県内では延宝6年(1678)の東庄町諏訪神社境内にある供養塔、2位は延宝8年(1680)の木更津市吾妻神社庚申塔。
③.塔種別
千葉市以北では庚申塔を兼ねるものが最も多く27%を占め、次に道標(17%)、3位に巡拝塔(11%)。
一方、市原市以南では地蔵と道標が同率(21%)で1位、次に馬頭観音が16%を占める。
・市原市の江戸期における主な道標
加来氏の調査では市内で確認された道標は171基にのぼり、県内最多を誇る。県内の総数は2346基で内、江戸時代のものが1136基確認されている。市内では171基中88基が江戸時代のものである。江戸期のものは庚申塔や地蔵、馬頭観音を兼ねることが多い。また「若者中」で道標が造られる事も多い。これは近代になってからも見られる傾向(青年団…)である。
市北部で方角を示すために用いられる地名や寺社名で目立つのは地名の場合、浜野、八幡、五井、姉崎(以上は房州往還の継ぎ立て場)や牛久、高滝、大多喜、茂原、久留里、木更津、寺社名では国分寺、笠森観音、高蔵観音、千葉寺などである。
町田茂(「市原の道標」平成24年度歴史散歩資料)氏によれば国内最古は三重県伊勢市の寛永3年(1626)。基本的に江戸初期は民衆の行動範囲が狭く、道標が建立されていない。元禄以降、物見遊山を兼ねた巡礼が流行し、道標も急増する。県内最古は東庄町の諏訪神社にある延宝6年(1678)。「此方ちやうしみち」とあり、坂東三十三番観音霊場の二十七番札所飯沼観音への道案内と考えられる。市内最古は西国吉の正徳6年(1716)。六十六部供養塔を兼ねたもので「東 かさ毛り道 三里 国吉村 壱里半 川有」「西 たかくら道 三里 川有」と記される。
町田氏によると県内の道標は今のところ2575基確認されており、市町村別では市原市の173基が最多。道案内の中身は方角や地名、寺社名(市内では坂東三十三番観音霊場の内、二十九番千葉寺、三十番高蔵寺、三十一番笠森寺を示す道標が多い)だけでなく、西国吉の道標のように「川有」や「渡船場」など、行く手に川があることを予告するものもある(橋の無い川が多いため、旅人は川を渡るための準備が必要だった)。また「作場道」(この先は田畑)や「山道」(この先は山の中)といったように「行き止まり」を示す道標もある。
道標は単に道案内を目的とするものと、供養塔などを兼ねたものとに大別される。前者の場合(全体の3割を占めている)、多くは四角柱の四面に方角と地名など行き先の案内が記されている。大正末から昭和初期にかけて地元の青年団がこのタイプの道標を各地で設けている。後者の場合(全体の6割以上を占めている)には庚申塔、馬頭観音、地蔵を兼ねるものが多い。市内では特に馬頭観音の道標が目立っている。
珍しいものとしては子どもの戒名を記した引田の六地蔵の道標(明和7年=1770)がある。それには「江戸みち ちばでらみち」以外に「~童子」という複数の子どもの戒名が刻まれている。幼くして亡くなり、中々成仏しがたい子どもたちに道案内の功徳を積ませて成仏させようとの計らいによるものであろう。なおこの道標には二両一分を要したことも記されている。
市内の道標に出てくる地名一覧(カッパ確認の65基)
江戸が上位なのは当然として、政治や経済の面で重要度の高かった牛久、姉崎、久留里、八幡といった地名の存在感が江戸時代の市原に住む人々や市原を通る旅人にとっていかに大きかったかが分かる。また千葉寺、笠森観音、高蔵観音、清水寺、鹿野山神野寺といった坂東三十三箇所の観音霊場や国分寺は寺院参詣者、巡礼者の多い時代、道標として欠かせぬ名であったろう。同様に武士は建市神社、能満は釈蔵院や日枝神社、笠上は笠上観音、加茂は高滝神社(江戸期は加茂大明神と呼ばれていた)、小湊や清澄は誕生寺と清澄寺への案内が大きな役割であったに違いない。
内房の枢要な港町であった浜野、木更津もそれなりの存在感を持っていたようである。もちろん「久留里」は久留里街道が走る市原において頻出の地名となるのは当然であるが、内陸部の大多喜、茂原、加茂、真里谷、久留里、長南などは方角が分かりにくく道に迷いやすい山間部においていずれも方向を示す重要な目安だったはず。
一の宮、清水などは外房に出るための目安にもなったであろう。概して市南部の道標は地名が方角ごとに複数挙げられていて北部のものと比べ道案内としての記述がより丁寧な印象を受ける。見通しの悪い山間部ではこうした道標が道行く人をさぞ安心させたことだろう。
カッパの実地調査はまだ65基にとどまるが、意外なことに江戸時代後半には市原郡内最大の人口を擁していた五井の登場回数がやや少ない印象を受ける。確かに海上や河川交通なら五井の占める地位は高いが、陸上交通となると五井は数ある継場の一つに過ぎず、巡礼者にとっても通過点の一つに過ぎなかった(そもそも船に乗る人にとって陸上の道標は意味をなさない)のだろう。街道を歩く旅人にとって五井は多くの場合、到達目標とはなりえず、方角を示す数あるポイントの一つでしかなかったようである。
※なお松浦清氏はやはり「行き先別」で道標の数を整理している(「南総郷土文化研
究誌 第16号」南総郷土史文化研究会 平成20年所収「市原市の道標を調べる」よ
り)。彼のデータを江戸時代の道標に限定して多い順に整理すると以下のようにな
る。
笠森(27) 江戸(22) 牛久(22) 高蔵と久留里(18) 木更津(16) 八幡と姉崎(13) 加茂(11) 千葉と国分寺(10) 清澄(8) 大多喜と長南(7) 鹿野山(6) 一の宮(5) 茂原と五井(5) 武士(3)・・・ |
松浦氏が把握している道標の総数は鎗田をかなり上回っており、より信頼性が高いデータである。ただし五井の出現頻度が鎗田は「6」としているのに対して松浦氏は「5」としていることなどから鎗田のデータがひどく市の北部に偏っているのに対して松浦氏のデータは市の全域に及んではいるもののやや南部に比重を置く偏りが見られるようである。
とはいえ全体的な傾向に関しては松浦氏の指摘と鎗田の捉えたものとはほとんど差が無いとみなしてよいだろう。