36.イチオシの石造物入門書

 

 「墓石が語る江戸時代~大名・庶民の墓事情~」(歴史文化ライブラリー464 関根達人 吉川弘文館 2018)より、要旨を抜粋してご紹介いたします。

 「墓石」というと嫌悪感すら抱く人もいらっしゃるでしょうが、読んでみるとまさに「目からうろこ」の傑作で、石造物愛好者にとってはバイブルと言っても過言ではありません。

 

 石造物研究は美術史から出発していて、歴史が新しく、美術的評価が低い近世石造物はこれまでほとんど学術的な研究対象にならなかった。歴史を解明するための資料としても古文書に比べて文字数が少なく、情報量が乏しいとされ、低い価値しか与えられてこなかった。

 しかし石造物には以下のような古文書と違う特色が見られる。

文字数が少ない分、慎重に選ばれた語句には重要なメッセージが込められている。

不特定多数の目に触れられる目的を持ち、後世に永く残すべく、造られている

大きさ、形態、材質等、文字以外の多様な属性を持つ。

紀年名のあるものが多い。

原位置性が高く、設置場所そのものにも意味がある。

地域性が反映され、地域間の比較が出来る。

多くは野外にあるため、調査が簡単。特別な機材を要せず、古文書よりも判読しや

 すいものが多い。

 

 以上の特性があるので近世を解明するための資料として最も身近で豊富に存在しており、積極的に活用すべきである。

・墓石の歴史

 墓石は平安末期に登場し、12世紀末に中尊寺などで高僧の供養塔として五輪塔が出現する。鎌倉時代には五輪塔に加えて宝筐印塔が登場。宋から伊行末らが渡来し、近畿地方で花崗岩を用いた大型の石塔が造られるようになる。13世紀後半、忍性が鎌倉を拠点に活動するようになると、伊の流れを引く大蔵派が関東に下向し、関東の各地に石塔を残した。また禅宗の伝来により、位牌が日本にも伝わり、これに石造物も影響されて板碑の造立が始まった。板碑は追善供養や逆修供養を目的とする供養塔が多い。

 かつて貴族達は死穢を恐れて墓地に近づく自体を避けていたが、武士の時代になると墓地は一族結束のシンボルとして神聖な礼拝の対象となっていく。墓地を管理し、先祖の菩提を弔うために菩提寺が建立されるようにもなる。命懸けで戦場を駆け巡る武士達にとって元々、死や墓地への忌避感は少なかった。むしろ「一所懸命の地」を象徴する墓地と菩提寺は彼らにとっては神聖な場所と化していった。武家社会の成立、発展はこうして全国に武家一門の墓地と菩提寺を造り出し、各種の供養塔を流布させていった。

 戦国時代になると近畿北陸を中心に小型の五輪塔や石仏が大量に出現してくる。産業の発達により、裕福となった一部の民衆もまた武士を真似て供養塔を祀るようになったのである。重要の急増に応えるために石工は民衆向けの安価な既製品としての供養塔を生産、販売するようになる。従って民衆の小型供養塔にはほとんど戒名や没年等は刻まれていない。もしかすると既製品として六歳市などで売られていた石塔をまず購入した後、墨で記されていたのかも知れない。

・現代墓事情

 2010年、和型の墓石が全体の50%を割り、家族墓も減少。これらの墓は時間が経てばそのほとんどが無縁墓になるだろう。今もおそらく4割近くが既に無縁墓と化している。1999年の法改正で無縁墓は1年後には撤去処分の対象とされることになった。墓石は廃棄物として粉砕処理される必要があるが、それなりの経費がかかるため、淡路島のように山林に墓石が不法投棄されるケースも出現。最近では墓石を設けず、納骨堂を選ぶ遺族が増えてきている。また墓仕舞いや樹木葬、散骨などにするケースも増えてきている。

・墓石調査の基本

 七つ道具:「墓マイラー」の事を昔は掃苔家といい、江戸時代から登場。石造物調査

の七つ道具として現在、重宝されているのは「調査票、ナイロン製ブラシ、巻き尺、カメラ、筆記具、高照度の懐中電灯(300ルーメン以上)、片栗粉」。

 ※片栗粉を用いた判読法はカッパもオススメ。どうしても判読できなかった石造物の年代がこれでい

  くつか判明している。環境にもやさしく、きわめてお手軽な方法。

 

  文字資料としての注目ポイントはまず「戒名」で上から順に「院号、法号、道号、尊称・性称(位号:居士、信士等)」。本来は寺院の過去帳と照らし合わせる必要があるが、2005年の個人情報保護法によって研究者ですら過去帳の閲覧は厳しくな

っている。

 戒名の上に「頭書」(南無阿弥陀仏、妙法、為・・・など)、戒名の下に「下置字」(~位、~霊位、菩提、不退位など)が記されることも多い。

 19世紀には人々の半数以上(6割以上)が墓石を持つようになったと推計される。

 院殿号は上級武士層に限定され、院殿と大居士がセットとなる。日蓮宗は院号を多

用し、浄土真宗は院号をほとんど使用せず。

 位号は男の場合、大居士(女は清大姉)、居士、大禅定門、禅定門、信士。18世紀

以降、禅定門(女は禅定尼)はほとんど使用されない。浄土真宗は位号を用いず、男は釈、女は釈尼が付く。幕末に近づくにつれて院号が増える傾向に。

 なお民衆が墓石に苗字を刻むことはほぼ黙認されていた。

・形態による分類

  塔系墓石:五輪塔、宝筐印塔、無縫塔

  碑系墓石:板碑形(関西式、関東式=尖頂式舟形墓標※)、舟形、位牌形(一石

   位牌型と別石位牌型)、櫛形、駒形など  

   ※関東では寛文から宝永年間まで主流となる形式

  方柱墓石:笠塔婆、丘状頭角柱(香箱型角柱※)尖頭角柱(山伏型角柱)

   ※東日本では19世紀、丘状頭角柱や尖頭角柱が多く、西日本では櫛形が多い

・子供の墓石:江戸中期以降、出現。有像舟形や台付丸彫形が多い。子供の位号は18

 世紀まで真言宗豊山派で童子、童女。19世紀になると3~4才は孩子、孩女、1~2才

 は嬰子、嬰女。水子の墓石は日蓮宗にほぼ限定(←鬼子母神)。

・俗名を記す墓石が出現するのは18世紀末で、供養だけでなく故人の顕彰という目的

 が付与されるように。と同時に享年を刻むことが一般化。墓誌を記すのは9世紀以

 降、途絶えていたが、儒教の影響で江戸時代に復活。辞世を記したものも江戸中期

 以降、登場する。武家、僧侶、医師などの知識人に多い。

大名の墓:国元、江戸、高野山の三箇所に設けられる。高野山奥之院は泉州石工や

 摂州石工の高い技術力を全国に示す墓石の展示場としての役割を果たしていた。

 「和泉屋」は石材店の屋号として全国的に普及

・石材の運搬:伊豆石や小松石などは江戸霊岸島に集積地があった。18世紀半ばまで

 は関東の墓石の半数以上を伊豆、相模産の石材が占めていた。

・江戸期墓石普及の理由

 直系家族からなる世帯の形成←小農の自立

 儒教思想の普及⇒祖先崇拝、先祖供養の普及

 寺檀制度確立

 読み書き普及

 海上輸送の整備

 石工の地方移住