35.小林一茶と房総
以下、「一茶漂泊~房総の山河」(井上脩之介 崙書房 1982)の要旨を抜粋してご紹介いたします。
小林一茶は1763年、信濃国水内郡柏原村(長野県上水内郡信濃町柏原)の農家小林弥五兵衛の長男として生まれる。名を弥太郎といった。柏原は越後との国境に近い奥信濃の山村で一茶は故郷のことをこう記している。
「…霜月の始より白いものがちらちらすれば悪いものが降る、寒いものが降ると口々にののしり…」
小林家は田畑合わせて6石5升の持ち高で中の上の農家だった。しかし生母が3歳の時に病没し、8歳の時に継母が来た。そして弟の仙六が生まれると一茶と継母との折り合いが急速に悪くなっていった。さらにそうした一茶をかばうように支えてきた祖母が14歳の時に亡くなり、継母との対立は抜き差しならないほどに悪化してしまった。
心配した父親はとうとう両者を切り離すことにし、安永6年(1777)、15歳になった一茶を江戸に奉公に出した。その後、俳人として頭角を現すまでの十数年間、一茶の足取りは不明である。おそらく奉公先を転々と変える苦しい生活が続いていたと思われるが、次第に俳諧の道に足を踏み入れることになっていったようだ。
俳諧は芭蕉の友人であった山口素堂を祖とする其日庵(葛飾派)の流れをくむ師(二六庵竹阿、今日庵元夢)の手ほどきを受けた。
寛政3年(1791)、一茶29歳の時に江戸を発って馬橋、小金原、我孫子等を回る。以後、最後の房総への旅となる文化14年(1817)までのおよそ30年近く、一茶は頻繁に房総を訪れ、房総各地の俳人との交流を続けている。
房総における総宿泊日数は判明しているものに限っても1054日間に及ぶ。この間、延5年以上信濃に帰郷していることを考えると、何と関東滞在期間のおよそ三分の一は房総の地で過ごしていたことになる。
彼が主に交流した房総の俳人は馬橋の大川立砂、斗園、流山の秋元双樹、木更津の僧大椿、富津の僧徳阿、織本花嬌(雪中庵大島寥太の門人で、一茶が交友した唯一の女性俳人)、金谷の僧砂明(花嬌の弟)。もちろん、一茶の房総滞在はもっぱら生活のための「田舎渡らい」ではあった。
※雪中庵系の俳人飯島吐月(1727~1780)
青柳至彦氏によると吐月は野毛村の生まれ。飯島家は代々、名主を務める名家で
文人墨客が訪れる事も多かった。20歳頃には俳句の道に没頭し始め、寛延3年
(1750)に雪中庵大島寥太の門下に入る。以降、吐月と号し、寥太筆頭の弟子と
なる。
寥太は9歳年下の吐月に大きな期待を寄せるとともに飯島家の財力にも期すると
ころ大きく、自身の後継者の一人に据えていたようである。
吐月ら市原の有力な門人達(他に寿躰・其躰…武士の人、吏仙…高根村の人で
ここにも寥太は幾度か身を寄せている)が雪中庵の後援を惜しまずに行ったこと
が雪中庵の名を全国に広めることになったようである。江戸時代の後期、彼らは
「田舎宗匠」などと呼ばれ、地方における俳諧の普及に大きな役割を果たした。
残念ながら吐月は安永9年(1780)突然、病に倒れ、9月4日、不帰の客となる。
行年54歳。辞世の句「残すべき はもなき秋や 蝉のから」。寥太も「我やけふ
片手もげたる きりぎりす」の句を残した。
市原市野毛法泉寺
文化6年の1月26日、一茶は日記に「廿六日大南風 舟橋さどや勘兵衛中休五井こくや佐次郎泊」と書いた。五井の「こくや」は大千石、小千石、こみやなどが考えられるがどれも違うようである。
「七番日記」の文化11年(1814)9月30日の欄にこうある。一茶は富津の大乗寺(徳阿が住職)から浜野本行寺に行き、花嬌がかつて記した「掘り抜きの泉」を見ている。花嬌は既に文化7年(1810)、没しており、その哀惜の念からわざわざ本行寺を訪れたものと思われる。
一茶はその後、本行寺から姉崎の妙経寺へ向かっている。かれはそこで忠僕市兵衛の墓に詣でた。かつて俳人榎本其角が「起きて 聞けこのほととぎす 市兵衛記」という句を残したことにちなんで「起きて聞け 寝てきくまいぞ 市兵衛記」と詠んだというが季語もなく、稚拙な出来栄えのこの句を一茶が詠んだかどうかは怪しい。
山本鉱太郎氏(「房総の街道繁盛記」崙書房 1999)によると…
富津の大乗寺には女流俳人織本花嬌(富津の豪商で名主織本嘉右衛門の妻。富津西川の名主の家に生まれ、隣村の名主織本家に嫁いだ。名を「その」という)の墓がある。一茶は花嬌の生前に6回、死後に6回も富津を訪れている。
1810年、花嬌没する。その百日忌の追悼に「朝顔の花もきのふのきのふ哉」の句がある。三回忌には「亡き母や海見る度に見る度に」の句を残している。一茶は3歳で母を亡くしており、女弟子やパトロンとしてだけでなく、あたかも母親のように彼女を慕っていたのだろう。
「金谷村史」によると一茶は織本家に14回来遊している。江戸から海路、木更津に上陸する場合と陸路、来遊する場合があった。なお一茶は夏目成美(江戸の札差で一茶のパトロン)の紹介で房総に来遊していたため、市原の雪中庵系の俳人とは交流を持たずに素通りしている。しかし織本花嬌は雪中庵門下であるにも関わらず、一茶は足しげく通っているのである。
寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。
享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。
文化5年(1808年)末には、遺産の半分を貰うことに成功している。取り分は田4~6反、畑3反歩、山林3ヵ所、他に家屋敷半分、世帯道具一式。この財産規模は柏原では中の上ぐらいの持ち高だという。一茶は、実際に文化5年以降は柏原村の本百姓として登録され、6年からは弥太郎名義で年貢も納めている。
「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」という句を残して文化9年(1812年)11月半ばに、江戸を経ち永住すべき郷里柏原村に向かった。 文化10年(1813年)には、弟との間に取り交わした熟談書付の事にある家屋敷分譲の実行と文化4年(1807年)以前の収入と利息を払えという中味で、最後の激しい遺産争いをした。
文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。
残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語症を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。
文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。
『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と一茶自身が記している。
・「村田川渡船場跡」の看板
平成10年設置。明治20年頃まで船による渡しがあった。水戸黄門(1674年、実際には用意された舟橋を渡ったようである。また養老川(「二井川」あるいは「飯沼川」ともいった)は歩いて渡ったとのこと。
小林一茶、十返舎一九もこの渡しを利用。1456年、一族の内紛で馬加康胤が上総に落ち伸びる途中、この近くで捕まって首をはねられ、村田川の川岸にさらされたという。八幡無量寺には康胤の墓と伝える五輪塔が残されている。戊辰戦争時には旧幕府方が川に行く手を阻まれ、ここで官軍と激戦を演じた。川筋に並行して細長く延々と続く公園がかつての村田川の川筋。昔は上総と下総との国境であり、かつては「境川」と呼ばれていた。現在の市原市と千葉市との境でもある。
一茶の場合、江戸から海路、木更津に上陸する場合と陸路、来遊する場合があった。三回忌の句は海路、富津を訪れた時の印象が基になっているのだろう。
なお文化12年(1815)、小林一茶が富津の織本家を訪れた帰りに八幡の旅籠で一泊しようとしたが一人旅の者は泊められないと断られて曽我野まで歩くことになってしまった由、記されている。無宿人、渡世人の横行などで治安の悪化が目立ってきた時代の趨勢が伺える。無宿者らを取り締まる関東取り締まり出役が設置されたのはちょうど10年前の文化2年(1805)のことであった。
文政10年頃(1827)には十返舎一九が八幡を通り、「八幡、八幡宮御みやあり。このところより郡本、山田の方へゆく道あり。豆原(麻綿原か?)へも行く街道なり」と記している。